本日は1月17日、阪神淡路大震災から26年目である。あの日の朝のテレビの放送は今も忘れられない。その日、たまたま政令指定都市の建設関係職場の支部の会議があり、朝7時に横浜を出て、仙台に行き、午後には松島のホテルに入った。しかし神戸・大阪・京都からの参加予定者が到着しない。うすうす大きな地震で、こちらまでは来られないだろうとは思っていたが、あそこまでひどいとは想像ができなかった。
4都市の方々には携帯電話で連絡を取ろうとしても取れずに、やきもきしている間に少しずつテレビ放送が惨状を伝え始めた。翌朝、名古屋以東の政令市の仲間での支援カンパの取り組みを決め、具体的な支援についてそれぞれの単組を通じて最大限取り組もうということを決めて、早々に解散した。
翌々日からさまざまな情報を集めながら、生まれたての小さな労働組合の支部であっても、全力で取り組む算段をあれこれを考えたことを思い出す。
私の立ち上げた支部は、道路管理・下水道管理の職場ということで、大雨・大雪・強風・地震など常に災害配備と背中合わせの職場であった。通常業務と災害時の業務は不即不離の関係であったが、あのような大災害を想定まではしていなかった。
政令指定都市の職員としてどのような支援ができるのか、行政支援と労働組合としての支援の区分け、実際の組合員の派遣に付随する問題などをひとつひとつ限られた時間の中で精力的に交渉で解決したことは忘れられない。
同時にその経験を日常業務にどのように生かすか、あの災害対応から何を教訓化して、実際の日常業務にどのように生かすか、真剣に喧々諤々と当局と交渉を続けてきた。その経験は東日本大震災などにも生かすことができた。
しかしそれが若い組合員や、私が定年退職した以降に、きちんと伝わったかというと自信はない。
災害というのは、「対策や経験を継承した」とその時は思っても、実際に起きてみるとあたふたするものである。災害時の教訓を日業業務のこなし方に繰り込んでいくことも大切なことなのだが、「なぜこうしたか」が伝わらないといつの間にか忘却してしまう。若い人々が意識的にいつも「災害」を念頭に仕事をこなす「癖」を継続してもらいたいと思う。
それは私どものような日常的に災害と背中合わせの職場でなくとても、いろいろな職場・地域で必要なことだと思う。
あの阪神淡路の震災で犠牲になられた方のご冥福をあらためて祈念するとともに、あの災害によって、多くの体験と経験を積むことができたことは私の組合活動の大きな転換点であったことをあらためてここに記載して、記憶の一端としたい。