日曜日からのオンライン講座のテキストである「美術の物語」(ゴンブリッチ)の第8章「るつぼの中の西洋美術 ヨーロッパ 6世紀-11世紀」を読む。同時に講座の資料24ページを打ち出し、目をとおす。
ゴンブリッチの叙述は唐突に一般化した言葉がポンと出てくることが多い。それが当っているなぁと感心する場合も多いのだが、そこまで断定してしまっていいいのかな?と疑問符をつけて保留したくなるところも多い。
前回読んだ第7章では、「(中国では)絵に求めるのは、本物らしさではなく、筆の跡にみてとれる画家の精神の高揚である。(画家が)雄峰を前にして感じた畏怖のようなものを追体験しようとすれば、中国人が美術のどんなところを重視していたか、感じ取れるであろう」。
さらに「(中国では)単純な主題でも画家が忍耐強い観察を重ねていることが感じられるし、いざ筆をとると自由自在に主題を扱っている。ここにもまた、優美な曲線を好む中国の画家たちの傾向が見てとれ、運動感を出すのに曲線が効果的に使われている‥。明確な対称性はどこにもないし、ペルシャの写本彩飾のような均等な配置もない。それなのに全体のバランスについては、作者は絶大な自信をもっている。」と言葉を慎重に選びながら述べている。
非対称性、稠密な書き込みの否定はよく言われるが、「曲線」への着目は覚えておきたい指摘だと思った。
しかし今回の第8章では、「エジプト人はおもに「知っている」ことを描いた。ギリシャ人は「見えている」ものを描いた。だが、中世の画家は「感じている」ことをも表現できるようになったのである。」という指摘に、たじろいでしまった。
確かにこれまで読んできた流れでは、全面的な同意は保留するものの、エジプト・ギリシャについてわかる。しかしはたして5世紀から11世紀、中世前期までのヨーロッパの美術の総括として「感じていることをも表現できるようになった」ということでひとくくりできるのか、ととっさに思った。
むろん全くの素人なので、否定はできないが、この指摘は記憶して検証したいと思わせてくれた指摘である。