Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

いか大根ほか

2012年09月15日 00時30分29秒 | 料理関連&お酒
 昨日の夕方、ちょうど一ヶ月ぶりに夕食を作った。退職後3回目の夕食調理。妻からすれば、少しは夫も料理で鍛えておかねば、多少でも調理が出来なければ、将来的に何らかの事情で自分が調理できなくなった場合のことを考えて鍛えておきたいという気持ちがあるのだろう。私からすれば、学生時代の自炊していたから調理は大丈夫との自負があり、たまに調理するのは楽しみでもあるし、どんなもんだいと妻に自慢げに振舞う快感もある。しかし総体的に見れば妻の手の内で踊っている範囲かもしれない。まぁ双方の思いは別にして、月2回の夕食調理はそれなりにいい刺激にはなっている。

 昨日の献立は、簡略にをもっとうに2品。
1.いか大根
 材料:やり烏賊を1パイ。大根2センチの輪切りを5切れ。
    煮汁として醤油・砂糖・日本酒・生姜の薄切り・水各適量。
 大根を米一つまみを入れて下茹でし、一旦取り出して水洗いする。
 やり烏賊は内臓をとり、皮付きのまま適当な大きさに輪切り、ゲソも適当に切り分ける。
 大根とやり烏賊と煮汁を一緒にして、大根が柔らかくなるまでアクを取りながら煮詰める。

2.長芋の納豆添え
 材料:長芋(今回は大和芋を使用)。納豆2パックと葱みじん切り。
    メカブとろろ1パック
 フライパンに少々の油をひき、長芋の輪切りを両面を軽く焦げ目がつく程度に焼く。
 焼きあがった長芋に、納豆と葱を醤油を少々たらして混ぜたものを乗せる。
 さらにその上にめかぶとろろをのせる。
 冷蔵庫でしばらく冷やす。

 前回は量的にも作りすぎたので今回は少なめに作った。いか大根は大根が柔らかくなるまで1時間近くごく弱火で煮詰めた。烏賊が今回は小さめだったので少々さびしかった。特にゲソが極めて小さかったのが計算外だった。
 長芋の納豆添え、適当に私の思いつき料理だ。長いもの輪切りが調理しやすいと思ったが、スーパーでは1本が大きすぎたので大和芋とした。輪切りにしづらかったので長芋の方が特段に利用しやすかったと思う。火を通した長芋の食感と納豆・めかぶの食感の不思議な取り合わせをねらってみたが、好みは分かれそう。

 おかずとしてはちょっとさびしいので、胡瓜と茄子の浅漬けを買ってきて食卓に添えた。
 量的には烏賊が少なかったのが残念だったが、まあ腹8分目ということでちょうど良い量であったということにしよう。

鎌倉吟行

2012年09月13日 18時08分56秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は、北鎌倉の浄智寺に出かけて吟行。吟行後、大船駅の傍にての句会に参加した。ウィキペディアでは「浄智寺(じょうちじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金峰山(きんぽうざん)と称する。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されている」との紹介がされている。
 北鎌倉駅から陽射しの強い道を約5分ほど、参道と参道に入ってからすぐの山門に到ると、もう木陰で涼しくなった。拝観に200円を払い、山門をくぐるとすぐに咲いたばかりの赤紫の萩の花が出迎えてくれた。さらに額紫陽花の残り花があり、ちょっと不思議な感じがした。
 曇華殿の三世仏(阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来)を拝観し、元気になるという江ノ島鎌倉七福神の布袋像の腹もなでてきた。

吟行で作った句と句会で投句した5句
★残暑かな仏は御身をはだけおり
★飛蝗飛ぶ後ろの日だまりゆれしまま
★病葉の落ちて時間の動き出す
★萩の花そこだけ風の見えていて
★くちなはの身を正しうす古都の川
☆秋暑し行き交う人の眉間皺
☆捩花は光をねじり風ねじる

生麦事件 その他

2012年09月12日 07時35分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日は、横浜開港資料館「生麦事件 激震、幕末日本」と横浜市歴史博物館「生麦事件と横浜の村々」を見学した。1862年9月14日(文久2年8月14日)から150年を記念した、同時開催の企画展である。
 生麦事件の場所はほぼ現在の国道15号線と旧東海道の分岐に当たる地点で、私は幾度もウォーキングで歩いたことがあり、事件の記念碑やその説明を幾度も見る機会があった。
 事件の概要は、当時の薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、馬に乗って行列に紛れ込んだ4人の外国人が警護の薩摩藩士に切りかかられ、英国商人リチャードソン(29)が殺され、2人の英国人が重症を負った事件。この殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えた。
 当時2人の英国人の治療に当たったのが、日本語のローマ字表記で有名なヘボンがあたった。横浜の居留外国人の間では、事件後保土ヶ谷宿に滞在していた島津久光一行への攻撃なども主張されたり、賠償問題の拗れから開港した港の「鎖港」も論議されるなどのことがあり、薩英戦争に至り、譲位から開国への大きな転換点ともなった事件である。
 明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立。現在でも地元顕彰会が毎年8月21日に記念祭を行っているという。

 開港資料館の展示は、日本全体の歴史の流れでの位置づけを主眼として、内容は大人向け。歴史博物館は周辺の村々への事件後のさまざまな波及(江戸・横浜近郊での英仏艦隊による砲撃のうわさなど)などにも言及し、中学生も対象としたような内容。
 犠牲者のリチャードソンの経歴や、事件現場で犠牲者の追悼を行ってきた地元の動きなど私には始めての知見も多くあった。特にびっくりしたのは、薩英戦争でイギリス艦隊にもかなりの人的被害があったことや、艦隊が鹿児島市街地を砲撃し焼き払った行為に対し、イギリス国内で「一般市民を対象にした砲撃」として非難の声がパンフレットとして発行されていた、などの資料が展示してあったこと。これにはびっくりした。
 横浜市歴史博物館  9.23まで 300円。
 開港資料館    10.21まで 200円。
 この入場料金でこれだけの資料展示はなかなか見ごたえがある。




 さらにもうひとつ、横浜ユーラシア文化館にて、「モンゴル~シベリアを歩く-鳥居・江上の大陸探検-」展が開かれていたので、開港記念館のすぐ近くのため立ち寄ってきた。
 鳥居龍蔵、江上波夫、共に名前だけは聞いているが、詳細はしらない。江上波夫は「騎馬民族征服王朝説」を提唱した人であることは知っている。その批判についてはいろいろな本で接しているが、江上波夫自身の著作やその学説を読んだことはない。
 展示自体の解説も、展示された収集遺物の解説もいまひとつ私の頭にはインパクトはなかったが、それでも遼時代の美しい緑色の陶器などには心惹かれた。
 横浜ユーラシア文化館  9.23まで 300円。


 この横浜ユーラシア文化館と同じ建物にある、日本新聞博物館で10月6日~12月16日までの会期で「世界遺産 高句麗壁画古墳報道写真展」が開催されるとチラシがあった。これはちょっと惹かれる。2010年と2011年に共同通信社が平壌周辺の古墳を取材撮影したものの展示とのことである。


突然の雷と停電

2012年09月11日 22時42分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 1時間ほど前から、私の住む団地の周辺は突然のように雨が降り出し、強い雷が鳴り出した。一瞬私の住む号棟が停電になった。
 降り始めのときは、ちょうど夜のウォーキングに出て10分くらいの時であった。気象情報のメールでかなりの雨が降るとの警告が来ていたがそれを無視して出かけた。当然傘もなく、その上途中で銭湯&サウナに方針変更するには、お金もたまたま持たずに出たため、家に引き返した。あと少しで家にもどるという頃に雷が鳴り始め、家に入って5分くらいで、強烈な雷鳴と共に停電となった。
 照明もテレビもクーラーも突如止まり、びっくりした。2~3分後、懐中電灯をつけたころに電気が点いたが、ウォーキングを無理に継続していたらどうなっていたかと思い、身震いした。
 雨はそれほどでもないが、携帯電話の気象情報の雨雲レーダの画面では鶴見区の海沿いという狭い範囲でかなりひどい雨のようだ。今もまだ遠くで雷鳴がしている。
 電化された室内では、停電が起こるとビデオの時計表示、風呂の着火表示の時計、電話機など再設定の必要が生じて面倒である。パソコンはたまたま電源を落としていて助かった。

 ということで、本日はウォーキングは中止。このところ体重が1キロほど増加のままなので、早くこれを落としたいのだが、まだお尻の痛みでジョギングできない上にこのような突然の中止で、戸惑ってしまう。

松本竣介展(in仙台) 4

2012年09月11日 08時39分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
Y市の橋 1946


「Y市の橋」もう一枚は、空襲で破壊されたものを戦後に描いたものだ。終戦間際になると、橋と跨線橋そのものへの構成的な興味は失われるのか、無残な都市の景色として描かれている。筆致は激しく、破壊の爪跡を荒々しく描き、色も豊穣になっている。
 画家は「星空を、頭の上で機体を照空燈に反射させながら、几帳面に次々と旋回してゆくB29印象的な姿。何ら遅疑するところなく、奔流のやうに家々をなめつくしてゆく巨大な焔、猛火に一掃された跡の、カーツとした真っ赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのは、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ること梨には口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払つてしまつた直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによつて描き出された風景である。」と戦後すぐに書いている。
 戦争は、はじめ軍部ファシズムの野蛮な圧力として画家に大きな圧力をかけた。そして戦争は最後に無差別爆撃という形で画家に生命の危険をもたらした。戦争が画家の画業に直接もたらした変容の第2が戦争末期の爆撃であったのではないか。

 戦争画を描かなかったら絵の具やキャンパスなどの画材が手に入らないような状況の中で、どのように生活者として、画家として身を処していたのだろうか。難聴ということもあり、妻が生活を支え、自身も理化学研究所(ここは戦争遂行のための宣伝映画を製作させられていた会社)の職員として、細々とした収入をかろうじて得ていたようだ。妻子を疎開させ、画家は東京に残り危険の中で絵を描いていたことになる。
 画家がこだわった東京という都市が、ことに1945年3月11日の東京大空襲、5月29日の横浜空襲などによってことごとく破壊されたのである。この風景を1946年から48年頃にかけて画家は、限られた画材である褐色と黒を主とした色調で、特徴ある作品を描いている。だが、そこには人の姿はもはや現れない。焼け残された建物が、画家の喪失感のような気分を反映して描かれているように感ずる。
 私はこの都市の破壊こそが、画家に残した最大の戦争の爪あと、大きな影響であったように思う。画家にとっては生活の基盤や絵という表現の寄って立つ世界全体の破壊・崩壊ではなかったろうか。その衝撃は大きかった。しかしその風景の中に、画家の絵を描く視線の中には、そこに住んでいた人びと、無残に焼け出された人びと、疲労した都市生活者の群れは現れることはない。私はこのことについてはどうしてもわからない。このことについて画家の直接の言葉を聞いてみたかった。

 戦後の松本竣介の画業について、モディリアーニ風の女性像と建物が主として現れるが、これが画家が生きていたらどのように展開していったかは想像すら出来ない。
 ただ、松本竣介は聖戦画を描いた画家に対し「藤田、鶴田両先生は、軍国主義者ではないといふことをしきりに弁解して居られるが、‥、僕なんかは日本の芸術家はカメレオンの変種なのではないかと思はれることが何よりも淋しい。戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか、アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争絵画をつくることだ。」と批判するとともに、「『芸術至上主義の孤塁を守って‥』といふ言葉もおかしい、‥それらの人々が、若し通俗的説明画を書く再送を持つてゐたならばやはり戦争画家仲間入りをしてゐたのではあるまいか、真の芸術支障主義的な作家は、こうした世界には顔を出さず孤独な中で仕事を続けてゐたであらうから。」という言葉を続けて書いている。
なお、松本竣介のいわゆる戦争画として「航空兵群」(1941年)がある。この絵は所在不明であるらしいが、写真が残っている。10人ほどの出陣間近のような緊張した面持ちの兵隊が座って並んでいる。
 これは戦意高揚のための絵でもなく、戦争の記録画でもなく、想像の絵らしいが、とてもギスギスした人間の表情とは思えない絵である。戦争そのものが人間の表情を奪っているのだが、画家はこの種の通俗的な人物表現に耐えられなかったし、自分の絵画の方向性も見出せなかったということではないだろうか。

 戦後の戦争責任論の議論のなかで、いつの間にか、それこそ図らずもと推察するが、「抵抗の画家」なる烙印を押され、プロパガンダ画家の端くれにされてしまった感がある。未だにある政党はそのように評価しているらしい。
 戦前の「戦争の旗振り」と同じく、戦後は「民主主義の旗振り」と、政治の芸術に対する優位性という点では、同じ穴の狢に落とし込められてしまった画家という悲劇の画家になってしまう。松本竣介という画家はこんな評価で語られる程度の画家ではないような気がする。
 戦後多くの画家が、「解放」や「民主主義」を旗印として態度表明をしたり、それに沿った絵画を描いた。しかし松本俊介は一環して独自の都市の心象風景を描き続けたのではないだろうか。独自の構図的な執着や、独自に身につけた技法をよりどころとして、画家自身のもつ都市のイメージにこだわり続けたのないか。
 戦争一色の1940年代前半の都市風景を、ゴーストタウンとなってしまったような心象風景として描き、他の画家仲間が招集されたりするなかで孤独感を募らその感情を投影したような黒い影のような点景の人物だけを登場させて描き続けた画家は、戦後の復興する都市をどのように描いていこうとしたのだろうか。
 そこには戦前の最後の都市の華やかないろどりを添えた人々を無国籍な表情で描いた画家が、どのような人々を配そうとしたか、あるいは描こうとしないかったのか、とても興味がある。

 さて、松本竣介の書いたものの中に私の気に入っている文章がある。
 「僕達は自己を愛してゐる。多くの人を愛してゐる。更に人間の生活を愛してゐる。僕達の無形の尻尾はこの巨大な地帯に結ばれてゐるのだ。この縛られてゐる状態そのまヽを肯定する態度や、或は尻尾を切断し得たと信じる一人よがりは、人間の感覚を欺く政治であつて芸術とは完全に対立してゐるものと僕は考へてゐる。無限大な人間の生活態に結ばれたまヽ飛躍できるまで芸術的機能を練磨しなければならない。前衛の意味はこの飛躍しようとする意志の中に見たらいヽのだ。それは決して、頭脳的な仮構の中に設定された飛躍であつてはならぬことだ。」
 画家の独特の言葉使いでなかなか意は汲み取りにくいが、おおよその意はわかるような気がする。


 とりあえず、松本竣介の回顧展の感想を尻切れトンボのようだが、これで終了とする。

折角の日曜だが‥

2012年09月09日 13時26分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は2日の間隔を空けて、ウォーキングを再開。約10キロメートル余のいつものコースを10時から2時間かけて歩いた。
 まだまだ左の臀部の打撲のあとが痛みが残るのでジョギングは止めたほうが良さそうだし、右の腰の方も少々痛みがある。これは打撲のあとではないので、左の臀部の痛みをかばっているからなるものなのか、はっきりしない。
 しかし久しぶりに汗をたっぷりかいて気持ちが良かった。体重は先月より1キロ増のまま推移。

 本日の午後はこれから団地の理事会の諮問機関の会議に出なくてはならない。自分で委員になることを承諾したので文句は言えないが、でも気が思いというか、出来れば解放されたいといつも逃げ腰だ。折角の日曜日なのに、とブツブツいっても、平日も土日も区別のない身が何を勝手をいうかと批判されそうだ。職を辞しているならと、理事会のポストがまわってきそうな気配をなんとか回避したいのだが・・。

正座と胡坐

2012年09月07日 18時34分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕べ少々飲みすぎたようで、本日はそれを口実に休養日とした。というか、こんな暑さの中ずっとウォーキング&ジョギングを続けてきたのだが、いくらなんでも休養日を定期的に設けないといけないはずなので、ちょうどいい折だと感じたからだ。
 こうも残暑が厳しいと、体が悲鳴を上げて夏疲れが涼しくなった頃どっと出てもこまるので、定期的にきちんと休養日を設けないといけないと思う。「通りがかり人」氏の言うとおりだと思う。

 しかし1日中家にいるとこれまた頭痛がしてくるので、午後ゆっくりとあるいて近くのターミナル駅まで往復した。電気製品の量販店でニッパー型爪切りと鼻毛切りの値段を調査。ニッパー型爪切りはドラッグストアで見ても東急ハンズで見ても2000円くらいもする。この量販店でも同じような値段。思っていた以上に(私の認識不足だが)高いのでびっくり。鼻毛切りはこの量販店では670円から3600円までいろいろ。この店で後日購入することとした。

 途中ではソーダ味の「ガリガリ君」を頬張りながら歩いた。このガリガリ君、なかなか気に入っている。ウォーキングの途中でも水分補給の一環として、コンビニで時たま購入している。始めは「C1000」、小さなペットボトルの水、レトルトパックの緑茶ないしウーロン茶ばかりだったが、8月中旬以降にこのねガリガリ君もレパートリーに取り入れた。体を冷やすには手ごろだ。ちょっと恥ずかしいが。

 さて、本日の本題。
 昨日の記事にコメントをいただき、私のお返事でも触れたが、私は小さい頃から正座や胡坐が出来ない。正座をすると極端に座高が高くなる。もともと高い座高が一層高くなる。足がうまく折りたためないのだ。踵とお尻がくっつかない。お尻が宙に浮いている感じだ。胡坐をかこうとすると足を組む以前に後ろにひっくり返ってしまう。江戸時代そして戦前に生れなくて良かったと思っている。
 この体質というか体型は父から受け継いだようだ。父も苦手だった。父は大正年間の生まれだったから、学生時代・軍隊時代と、このことでは多分随分と苦労というか、嫌な経験をしたのではなかろうか。晩年になって座禅を組むことに苦労しながら挑戦していたが、こういう嫌な経験を晩年になっても克服したかったのかと推察している。
 私は中学・高校で柔道を習ったが、正座がとてもつらかった。3分もしないうちに痺れてしまう。正座から立ちあがってよく捻挫や骨折に到らなかったと不思議な思いだ。
そしてその柔道の教師はこのことについてまったく無理解というか、無関心というか、「正座に慣れろ」としかいわなかったし、「罰」としての正座を強要されたことも多々あった。血がかよわなく変色した足先を見ていつもぞっとしたことを鮮明に覚えている。まして父の時代の学生時代は、それが教師によるひどいいじめに発展していなかったか、と推察している。
 いまでも座敷で食事が出されたりするが、正座が出来ないので座布団を3枚くらい重ねたり、旅館などでは座椅子をお願いしたり、壁に寄りかかって足を投げ出させてもらう。それでも腰がとてもつらい。時々店の人から「今の若い人は正座は無理なのかね。」といわれて腹が立つこともある。体質的に無理な人、腰を痛めて座れない人はいっぱいいる。正座が「日本人の正しい座り方」なんぞはたかだか江戸時代だけのしきたりだったはずだ。
 最近ではようやく設備にお金はかかるが、旅館でも畳での食事も椅子・テーブルになったり、座敷でも掘りごたつ式の居酒屋が多数派になっている。お寺でも正座させられるところは減ってきている。正座できる人にとっても、骨格的にけっして楽な、そしていい形ではないという。かえって悪い影響を与えると教わったこともある。
 お寺も、古い伝来当初もそして、禅宗の渡来の頃も、僧侶は椅子に座っていたということを聞いたことがある。武道もこの正座の「罪」について考慮してもらいたいものだ。特に学校体育に武道が取り入れられるということを聞いて、私はまたこの正座で嫌な思いをする生徒が特段に増えることを危惧している。

足先にだいぶ負担が‥

2012年09月06日 10時15分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日ブログに、「明日は環状2号線を三枚町から鶴見区始点までウォーキングしたい」と記載したが、朝になって足の筋肉痛が‥。ということで、このコースを歩くのはまたの機会にして、本日はおとなしくすることとした。
 本日は夕方から雨の予想。雨のたびに夏が去り、秋らしくなってくる。

 さて決して美しい話ではないので、嫌な方は、以下読まないでください。

 連日のジョギング&ウォーキングで、足の爪が変形したり、足の裏や指にマメができたり、いろいろと影響が出ている。
 先日の山行で左足第5趾の爪が死に、一昨日はがれた。右足の第5趾の爪も少し厚く盛り上がっている。
 左右共に第3・4趾にマメが出来て痛い。皮を破るとリンパ液が大量に出てくる。ここの皮膚が厚く膨らみ普段も少々痛い。さらに左右共に第2趾の爪が半分赤くなり膨らんでいる。医師に言わせると第2趾が親指よりも出ているので内出血しているとこのこと。
 そしてやはり左右の第1趾の内側と付け根あたりの皮が以上に厚くなっている。この皮は爪きりで時たま切り取っているが、なかなかきれいにはとれない。そこでニッパー式の爪切りを購入してきれいにしてみようと思ったが、ニッパー式の爪切りは高くて2000円くらいもするのがわかり、現在はまだ購入できていない。
 しかも現在左の第1趾の爪は銭湯で指先をぶつけて、赤黒く変色している。まもなくはがれて取れそうである。左の第1趾の爪は現在再生途中である。
 つまり満足な爪は左右共第3・4趾の4本だけである。ここも爪の裏側の皮が厚くなり少々痛いので、ジョギング・ウォーキングの時は包帯で巻く様にして保護しようと昨日粘着包帯を購入してきた。これで少しでも楽になればうれしい。

ウォーキング再開3日目

2012年09月05日 19時58分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の午前中は2時間のウォーキング。昨日よりは少々ゆっくりと15000歩ほど歩いたが、結果として腰の痛みも左の臀部の筋肉痛もなかった。少しずつ快方に向かっているとの実感が湧いている。
 しかし時々左臀部の筋肉痛がひどいときがあるので本日は前回かかった整形外科に赴き、痛み止めの薬を再処方してもらった。この薬を服用することはないかもしれないが、とりあえず用心ということだ。
 左の臀部のあざは手のひらよりもひと回り大きいまま推移している。また一昨日気づいたのだが、左の膝の後ろ側が大きく黒く変色している。これも山での打ち身のあとのようだ。こうやって見るとかなり広範囲の打ち身だったことがあらためてわかる。情けない話だ。

 さて本日は足の指やその爪の部位が、ジョギングやウォーキング、そして山行の影響で肉刺が出来たり、爪が死んだりしているのでそこを保護するために、包帯や指サックを購入してきた。うまくこれで処置が出来ればいいのだが、自信はない。

 明日の目標としては、昨日環状2号線を三枚町から磯子駅まで歩いたので、次は三枚町から鶴見区の始点まで歩いてみようと考えている。このコースは過去に3度歩いているので、特に心配になるようなところは無いと思う。


横浜の環状2号線を歩く

2012年09月04日 20時44分20秒 | 山行・旅行・散策
 本日は自宅から環状2号線の三枚町の交差点に出て、環状2号線を終点の磯子まで歩いた。午前10時30分に家を出て、途中1時間の昼食休憩を挟んで3時に磯子駅についた。実質3時間30分で20キロ余、30000歩近くを歩いた。
 幸い腰の痛みも出なかったし、臀部の筋肉痛が悪化することもなかった。明日はこんなには無理をしない程度にウォーキングを楽しもうと思う。
 環状2号線、神奈川区-保土ヶ谷区-旭区-戸塚区-港南区を経て磯子区に到る横浜市内のもっとも主要な環状線と位置づけられている。しかしその沿線の状況は区によって随分様相が違う。か
 始点の鶴見区内は初期の頃の整備で緑化もなく、沿線は古い町並みが続いている。港北区内からは新しい町並みの中を新しく緑化に留意しつつ整備され、神奈川区内までは沿線にコンビニをはじめ商店なども張り付いている。しかし保土ヶ谷・旭・戸塚区内になると沿線に商店が張り付いておらず、ウォーキングの途中水分の補給や休息の場所もなく、歩行者にとっては不便だ。
 戸塚区内では境木交差点が唯一の補給場所だが、2軒あったコンビニの内1軒がつぶれ、少々不便となった。
 港南区に入ると新しいこの環状2号線に沿って街が形成された敬意もあり、それなりに商店も張り付き歩行者には便利な街路になっている。しかし今回は東戸塚駅傍でうどんの昼食をとってしまったので、便利な港南区もとおり過ぎるばかりであった。といっても港南区内の沿線はラーメン街道といわれるほどでラーメン店ばかり。私は残念ながら苦手だ。その上東戸塚駅あたりが時間的にも我慢の限界だった。
 環状2号線の緑化はなかなかのものであるものの、旭区・戸塚区内の歩道はそれでもかんかん照りで随分とつらかった。
 うれしかったのは、港南区内で昔の職場の仲間が、磯子区との境あたりの沿線で作業をしているのに出くわし、信号待ちの間、親しく声を交わすことが出来たことだ。みんなとても元気で明るく作業をしていた。こんな偶然はそうあるものではない。とてもうれしかった。

 帰途は磯子駅から横浜駅まで京浜東北線に乗り、横浜からはまた徒歩で銭湯&サウナに立ち寄り自宅まで。銭湯ではぬるいジャグジーの湯にゆったり浸かり、サウナで再び汗をたっぷりと流すことが出来た。
 結局、朝から総計35000歩、23キロあまりの行程となった。

ウォーキング再開

2012年09月03日 21時10分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今日からウォーキングに限って再開した。ジョギングはまだ左臀部の筋肉痛が続いているので無理なようだ。木曜日から軽い散歩は再開してみて、歩く分には支障はなかった。それよりもウォーキングもしていなかったら体重が1キログラム確実に増加した。
 本日は2時間約10キロメートルを恐る恐るだがウォーキングの速度で歩いた。少し涼しくなり、気持ちよく歩くことが出来た。腰への違和感もなく、臀部の痛みもわずかであった。しかし信号が変わりそうになり10メートルくらい走ってみたら残念ながら臀部の筋肉痛があったので、やはりまだ走るのは無理のようだ。
 明日は速度は遅くした上で少々長く歩いて様子を見てみよう。


公開講座

2012年09月02日 17時28分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日が確か十五夜であった。昨日はその月を見るゆとりはなかったが、一昨日18時半ころに付近の家の屋根の上に白い大きな月を見て、「そういえば秋の月の季節だ」とあらためて感じた。
 夏よりも冬に高い満月(厳密に満月と十五夜の月とは違うのだが)、冬は小さく、夏は低すぎて鑑賞しにくいので、秋の月が鑑賞の対象になったとは随分昔に教わったような気がする。低い月のほうが鑑賞にはいいような気がするが、奈良や京都のような盆地では山にさえぎられてあまりよく見ることができなかったのだろうか。いや中国や朝鮮半島ではいつが月の鑑賞に適したきせつなのだろうか、私にはわからないが‥。
 その月の光が、雲の白さも空の背景の色も、日の入後の様子には見えないほど明るかった。しばらく立ち止まって月を見上げていた。
 そんな心のゆとりがあるのはとてもうれしい。

 昨日はフィリピンの地震にともなう津波注意報が出て、びっくりしたが、何事もなく解除となり一段落。
 そして昨日と本日は局地的な豪雨、特に本日の夜はすさまじい雷がいろどりを添えた雨となった。久しぶりの雷光と雷鳴の競演に、ちょっと息をひそめた。関東地方の水不足の恐れがこれで解消されたとは思わないが、雨の後の気温降下はうれしいものである。

 怪我をした右の上腕部のかさぶたがきれいに取れたのだが、そこがとても痒い。今はまだ傷跡だけが線状に周囲より白いのだが、そこから少しずつ皮膚が剥けてそれが広がっているのだ。

 さて、本日は近くの神奈川大学の公開講座のいくつかと、NHK文化センターの講座を、それぞれ2012年度の下期の分をインターネットで申し込んだ。上期はどこの講座にも申し込んでいなかったが、後期から通うことに決めた。

神奈川大学KUポートスクエア申し込んだ講座
・連続講演会 日本文化を流れるもの(枡野浩一ほか)
・神奈川の自由民権運動(安在邦夫)
・ヨーロッパの芸術を旅する(伊坂青司)
・芭蕉『去来抄』<修行教>を読む その1(復本一郎)
・俳句実践講座・古典に親しみつつ俳句を楽しむ(復本一郎)
 とりあえず5つを同時に申し込んだ。1日からの申込み開始で、先着順である。受付は終わったものの、はたして全部受講可能となるかはまだ不明。5講座分の受講料は合計56500円。

NHK文化センター
・日本式の世界と古代史を考える~壬申の乱を中心に~(鈴木靖民)
 講師の鈴木靖民氏は横浜市歴史博物館館長とのこと。10回の講義で受講料は27300円。これは申込と同時にクレジットカード払い済みなので、受講決定のはず。

 受講料で判断する限り、神奈川大学の講座の受講料が大変安価であることがわかる。まだ講座自体を聴講したことはないが、講座の内容も充実しているようだ。
 神奈川大学の講座案内を見て、もっと申し込みたかったが、時間と金銭の関係からは残念ながらそう一度に受講はできない。また来年の機会に、と断念したものがいくつもある。