昨晩は退職者会の幹事会終了後、横浜駅の2軒で飲んだ。あわせて1人3000円程だったから随分と安い飲み代だったと思う。
1軒目で私が注文したのはホッピー1杯と日本酒1合、つまみは枝豆と鮭のハラス焼。あわせて2000円に少し欠ける値段だった。これで2時間位居たろうか。随分と安く上げた。店には迷惑だったかも。
2軒目も横浜駅で、私は豚足と焼酎1合。あわせて1000円チョイ。これで1時間半ほど。これも時間を考慮しても随分と安い飲み代。これも店には迷惑な客だったろう。
私にとってはこれだけ飲めば十分過ぎるアルコール量である。話も十分弾んだし、お互いに言いたいことは言った。ただしはじめから言いたいことがあって飲んだのではないので、ほとんど話の中身に記憶はない。酒飲み話はそんな程度でいい。それでなければ酒を飲む楽しみなどなくなってしまう。深刻な話はしらふでしなければ意味はない。
よく勘違いしているのが、酒を飲みながら深刻な話をしている輩。そういう輩に限って酒を飲んだ石で絡むし、話が長いしくどい。さらにしらふでは真剣な話が出来ないし、と人の迷惑などお構いなしの傾向があるようだ。
お酒を飲んでの会話ほど短く要領よく、そして笑いあえなくてはならない。普段の会話より難しいのかもしれない。コミュニケーションの技術がいるのかもしれない。そういった意味では昨晩は楽しく飲むことが出来た。歳をとって、現役を離れた時こそこのコミュニケーション力が大事なのだろうと思う。
しかし昨晩の居酒屋でも隣の席では、声高に勤め先の同僚や上司の悪口、人の噂話を「真剣・深刻」にしゃべり続けていたグループがあった。2軒共。これほど端で聞き苦しいものはない。酒飲み話で不満解消なのか、あるいはその場は職場でのコミュニケーションの延長なのか、酒場で職場のあり方が決められるのか、単純なガス抜きなのか、聞いている限りひどい職場に勤めているのだなぁとあきれてしまう。結構名のとおった企業の社員らしかった。自分の職場や会社の「不適合」な側面を社外に公表しているようなもの、あるいはその人の人格の程度の低さを自ら表明しているようなものである。
そしてこのような話の中身で共通しているのが、社内・職場のギスギスした言い合いが必ず、個人対個人のやりあいであることだ。決して集団としての自己解決能力を発揮するような雰囲気ではない。究極の解決策は批判の相手を批判する個人の力で相手を追い出すか、その上の上司を説得して当の批判される人を職場から追い出すか、辞めさせるかしない限り解決の道はないような勢いである。職場の共同性や集団の意志として、集団内部での自己完結的な解決策がそもそも提示されることのない、出口のない批判である。職場・企業内での集団性自体にもはや自己解決力は無いのであろう。
いつごろから酒場談義がこんな風になったのだろうか。私は同一年齢同一賃金の原則が大きく崩れ、直属の上司による部下の査定が賃金に大きく反映するようになり、成果主義が当然のようになった時期と重なるように思っている。企業や職場の中での共同性や連帯意識の解体と期を一にしていると思っている。1970年代前半がその画期のような気はする。
こんな不満を隣の会話に対して持ちつつ、私たちはおだやかに、記憶にある限りでは、趣味や歳の取り方や地域活動や家族のことをゆっくりと話をした。無論かつての職場での問題も話したとは思う。会話は、具体的に覚えていなくとも、何かの折にふと記憶の底から表面に浮かんできて、思い出すくらいがいい会話、いい酒なのではないか。
そんなことを思いながら、40分ほどかけて徒歩で帰ってきた。
1軒目で私が注文したのはホッピー1杯と日本酒1合、つまみは枝豆と鮭のハラス焼。あわせて2000円に少し欠ける値段だった。これで2時間位居たろうか。随分と安く上げた。店には迷惑だったかも。
2軒目も横浜駅で、私は豚足と焼酎1合。あわせて1000円チョイ。これで1時間半ほど。これも時間を考慮しても随分と安い飲み代。これも店には迷惑な客だったろう。
私にとってはこれだけ飲めば十分過ぎるアルコール量である。話も十分弾んだし、お互いに言いたいことは言った。ただしはじめから言いたいことがあって飲んだのではないので、ほとんど話の中身に記憶はない。酒飲み話はそんな程度でいい。それでなければ酒を飲む楽しみなどなくなってしまう。深刻な話はしらふでしなければ意味はない。
よく勘違いしているのが、酒を飲みながら深刻な話をしている輩。そういう輩に限って酒を飲んだ石で絡むし、話が長いしくどい。さらにしらふでは真剣な話が出来ないし、と人の迷惑などお構いなしの傾向があるようだ。
お酒を飲んでの会話ほど短く要領よく、そして笑いあえなくてはならない。普段の会話より難しいのかもしれない。コミュニケーションの技術がいるのかもしれない。そういった意味では昨晩は楽しく飲むことが出来た。歳をとって、現役を離れた時こそこのコミュニケーション力が大事なのだろうと思う。
しかし昨晩の居酒屋でも隣の席では、声高に勤め先の同僚や上司の悪口、人の噂話を「真剣・深刻」にしゃべり続けていたグループがあった。2軒共。これほど端で聞き苦しいものはない。酒飲み話で不満解消なのか、あるいはその場は職場でのコミュニケーションの延長なのか、酒場で職場のあり方が決められるのか、単純なガス抜きなのか、聞いている限りひどい職場に勤めているのだなぁとあきれてしまう。結構名のとおった企業の社員らしかった。自分の職場や会社の「不適合」な側面を社外に公表しているようなもの、あるいはその人の人格の程度の低さを自ら表明しているようなものである。
そしてこのような話の中身で共通しているのが、社内・職場のギスギスした言い合いが必ず、個人対個人のやりあいであることだ。決して集団としての自己解決能力を発揮するような雰囲気ではない。究極の解決策は批判の相手を批判する個人の力で相手を追い出すか、その上の上司を説得して当の批判される人を職場から追い出すか、辞めさせるかしない限り解決の道はないような勢いである。職場の共同性や集団の意志として、集団内部での自己完結的な解決策がそもそも提示されることのない、出口のない批判である。職場・企業内での集団性自体にもはや自己解決力は無いのであろう。
いつごろから酒場談義がこんな風になったのだろうか。私は同一年齢同一賃金の原則が大きく崩れ、直属の上司による部下の査定が賃金に大きく反映するようになり、成果主義が当然のようになった時期と重なるように思っている。企業や職場の中での共同性や連帯意識の解体と期を一にしていると思っている。1970年代前半がその画期のような気はする。
こんな不満を隣の会話に対して持ちつつ、私たちはおだやかに、記憶にある限りでは、趣味や歳の取り方や地域活動や家族のことをゆっくりと話をした。無論かつての職場での問題も話したとは思う。会話は、具体的に覚えていなくとも、何かの折にふと記憶の底から表面に浮かんできて、思い出すくらいがいい会話、いい酒なのではないか。
そんなことを思いながら、40分ほどかけて徒歩で帰ってきた。