Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

突然の雷と停電

2012年09月11日 22時42分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 1時間ほど前から、私の住む団地の周辺は突然のように雨が降り出し、強い雷が鳴り出した。一瞬私の住む号棟が停電になった。
 降り始めのときは、ちょうど夜のウォーキングに出て10分くらいの時であった。気象情報のメールでかなりの雨が降るとの警告が来ていたがそれを無視して出かけた。当然傘もなく、その上途中で銭湯&サウナに方針変更するには、お金もたまたま持たずに出たため、家に引き返した。あと少しで家にもどるという頃に雷が鳴り始め、家に入って5分くらいで、強烈な雷鳴と共に停電となった。
 照明もテレビもクーラーも突如止まり、びっくりした。2~3分後、懐中電灯をつけたころに電気が点いたが、ウォーキングを無理に継続していたらどうなっていたかと思い、身震いした。
 雨はそれほどでもないが、携帯電話の気象情報の雨雲レーダの画面では鶴見区の海沿いという狭い範囲でかなりひどい雨のようだ。今もまだ遠くで雷鳴がしている。
 電化された室内では、停電が起こるとビデオの時計表示、風呂の着火表示の時計、電話機など再設定の必要が生じて面倒である。パソコンはたまたま電源を落としていて助かった。

 ということで、本日はウォーキングは中止。このところ体重が1キロほど増加のままなので、早くこれを落としたいのだが、まだお尻の痛みでジョギングできない上にこのような突然の中止で、戸惑ってしまう。

松本竣介展(in仙台) 4

2012年09月11日 08時39分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
Y市の橋 1946


「Y市の橋」もう一枚は、空襲で破壊されたものを戦後に描いたものだ。終戦間際になると、橋と跨線橋そのものへの構成的な興味は失われるのか、無残な都市の景色として描かれている。筆致は激しく、破壊の爪跡を荒々しく描き、色も豊穣になっている。
 画家は「星空を、頭の上で機体を照空燈に反射させながら、几帳面に次々と旋回してゆくB29印象的な姿。何ら遅疑するところなく、奔流のやうに家々をなめつくしてゆく巨大な焔、猛火に一掃された跡の、カーツとした真っ赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのは、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ること梨には口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払つてしまつた直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによつて描き出された風景である。」と戦後すぐに書いている。
 戦争は、はじめ軍部ファシズムの野蛮な圧力として画家に大きな圧力をかけた。そして戦争は最後に無差別爆撃という形で画家に生命の危険をもたらした。戦争が画家の画業に直接もたらした変容の第2が戦争末期の爆撃であったのではないか。

 戦争画を描かなかったら絵の具やキャンパスなどの画材が手に入らないような状況の中で、どのように生活者として、画家として身を処していたのだろうか。難聴ということもあり、妻が生活を支え、自身も理化学研究所(ここは戦争遂行のための宣伝映画を製作させられていた会社)の職員として、細々とした収入をかろうじて得ていたようだ。妻子を疎開させ、画家は東京に残り危険の中で絵を描いていたことになる。
 画家がこだわった東京という都市が、ことに1945年3月11日の東京大空襲、5月29日の横浜空襲などによってことごとく破壊されたのである。この風景を1946年から48年頃にかけて画家は、限られた画材である褐色と黒を主とした色調で、特徴ある作品を描いている。だが、そこには人の姿はもはや現れない。焼け残された建物が、画家の喪失感のような気分を反映して描かれているように感ずる。
 私はこの都市の破壊こそが、画家に残した最大の戦争の爪あと、大きな影響であったように思う。画家にとっては生活の基盤や絵という表現の寄って立つ世界全体の破壊・崩壊ではなかったろうか。その衝撃は大きかった。しかしその風景の中に、画家の絵を描く視線の中には、そこに住んでいた人びと、無残に焼け出された人びと、疲労した都市生活者の群れは現れることはない。私はこのことについてはどうしてもわからない。このことについて画家の直接の言葉を聞いてみたかった。

 戦後の松本竣介の画業について、モディリアーニ風の女性像と建物が主として現れるが、これが画家が生きていたらどのように展開していったかは想像すら出来ない。
 ただ、松本竣介は聖戦画を描いた画家に対し「藤田、鶴田両先生は、軍国主義者ではないといふことをしきりに弁解して居られるが、‥、僕なんかは日本の芸術家はカメレオンの変種なのではないかと思はれることが何よりも淋しい。戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか、アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争絵画をつくることだ。」と批判するとともに、「『芸術至上主義の孤塁を守って‥』といふ言葉もおかしい、‥それらの人々が、若し通俗的説明画を書く再送を持つてゐたならばやはり戦争画家仲間入りをしてゐたのではあるまいか、真の芸術支障主義的な作家は、こうした世界には顔を出さず孤独な中で仕事を続けてゐたであらうから。」という言葉を続けて書いている。
なお、松本竣介のいわゆる戦争画として「航空兵群」(1941年)がある。この絵は所在不明であるらしいが、写真が残っている。10人ほどの出陣間近のような緊張した面持ちの兵隊が座って並んでいる。
 これは戦意高揚のための絵でもなく、戦争の記録画でもなく、想像の絵らしいが、とてもギスギスした人間の表情とは思えない絵である。戦争そのものが人間の表情を奪っているのだが、画家はこの種の通俗的な人物表現に耐えられなかったし、自分の絵画の方向性も見出せなかったということではないだろうか。

 戦後の戦争責任論の議論のなかで、いつの間にか、それこそ図らずもと推察するが、「抵抗の画家」なる烙印を押され、プロパガンダ画家の端くれにされてしまった感がある。未だにある政党はそのように評価しているらしい。
 戦前の「戦争の旗振り」と同じく、戦後は「民主主義の旗振り」と、政治の芸術に対する優位性という点では、同じ穴の狢に落とし込められてしまった画家という悲劇の画家になってしまう。松本竣介という画家はこんな評価で語られる程度の画家ではないような気がする。
 戦後多くの画家が、「解放」や「民主主義」を旗印として態度表明をしたり、それに沿った絵画を描いた。しかし松本俊介は一環して独自の都市の心象風景を描き続けたのではないだろうか。独自の構図的な執着や、独自に身につけた技法をよりどころとして、画家自身のもつ都市のイメージにこだわり続けたのないか。
 戦争一色の1940年代前半の都市風景を、ゴーストタウンとなってしまったような心象風景として描き、他の画家仲間が招集されたりするなかで孤独感を募らその感情を投影したような黒い影のような点景の人物だけを登場させて描き続けた画家は、戦後の復興する都市をどのように描いていこうとしたのだろうか。
 そこには戦前の最後の都市の華やかないろどりを添えた人々を無国籍な表情で描いた画家が、どのような人々を配そうとしたか、あるいは描こうとしないかったのか、とても興味がある。

 さて、松本竣介の書いたものの中に私の気に入っている文章がある。
 「僕達は自己を愛してゐる。多くの人を愛してゐる。更に人間の生活を愛してゐる。僕達の無形の尻尾はこの巨大な地帯に結ばれてゐるのだ。この縛られてゐる状態そのまヽを肯定する態度や、或は尻尾を切断し得たと信じる一人よがりは、人間の感覚を欺く政治であつて芸術とは完全に対立してゐるものと僕は考へてゐる。無限大な人間の生活態に結ばれたまヽ飛躍できるまで芸術的機能を練磨しなければならない。前衛の意味はこの飛躍しようとする意志の中に見たらいヽのだ。それは決して、頭脳的な仮構の中に設定された飛躍であつてはならぬことだ。」
 画家の独特の言葉使いでなかなか意は汲み取りにくいが、おおよその意はわかるような気がする。


 とりあえず、松本竣介の回顧展の感想を尻切れトンボのようだが、これで終了とする。