秋の運動会が予定される時期になっているが、台風18号が接近している。土日の天気にやきもきしている人も多いだろう。さらに週明けには台風17号の接近・上陸も予定されている。
私の家族も明日29日には墓参りを計画している。そして週明けには北アルプスの西穂高・焼岳をねらっていた。明日は何とかなりそうな気もするが、週明けの山は、週の半ば過ぎに延期せざるを得ないだろう。
さて先ほど「(運動会の天気に)やきもきしている人も多いだろう」と書いたが、当の私は「天気が悪くなり中止になってほしい」といつも思っていた。幼稚園・小学校の時は何しろかけっこで最下位か良くて最下位から二番目以外になったことがない。それだけで済むなら一時の我慢なのだが、仲間内からも担任の教師にも「まただね」といわれ、赤(白)が負けたのはお前の所為だと非難されたり、家に帰ってからも「私は早かったよ、誰に似たんだろうね」といわれ、とても傷ついていた。
それでも小学校1年から3年のときは担任の教師はかばってくれたので良かったのだが‥。小学校6年のとき突然のように走るのが速くなった。それは5年の二学期から川崎から横浜に転居したとき、横浜では急激な人口増加のため学校建設が間に合わず電車通学になり、転校した学校へ毎日20分近く駅まで走って通学した。さらに次の駅から学校まで5分以上の急な坂をやはり走ってのぼった。何しろ毎日どうしても余裕をもって家を出ることができない。最終電車ギリギリに家を出ていた。その効果が出たと今では思っているが‥。
6年のとき初めて徒競走でその組の2着になりリレーの選手としても出場したのが、とてもうれしかった反面、隣のクラスの教師に「走り方がなってない」とか何とか具体的な指導ではなく、けち着けのような、そして冷たい言い方の批評を聞いて、また嫌な世界が待ち受けていることに気づかされ、うんざりしたことを覚えている。
そして走ること以外の運動会の種目も嫌であった。まず低学年でやるあの紅白の玉入れがきらいだった。他人の投げた玉が空から降ってきて顔に当たり、あの嫌な白い粉が目に入るので、練習のとき目をつぶって投げて教師の笑いものになった。本番ではやむを得ず遠くから投げたが籠に届かない。それを親にさらに嘲笑された。
学年全体でやるダンスや集団の体操。これも大体他人とはあわない。特にダンスは「次に何をするか」がどうやっても覚えられないのだ。いきおい他人を見ながら演技するからどうしてもワンテンポ遅くなり、それが嘲笑の対象となり、教師の怒り・蔑みにさらされ、さらに一層緊張して覚えられない。この悪循環であった。
運動会にない種目である鉄棒などの器械体操もからっきしだめであったので、何しろ体育の授業はどうしようもなく苦痛であった。
私は小学校の学校体育にはどうしてもなじめなかった。教師とクラスの仲間にも親の反応にも、絶望と怒り・嫌悪感しか感じなかった。親からも決して具体的な指導をされずに、ただ「運動神経の悪いのは誰に似たんでしょう」という言葉を繰り返し言われた。親を恨んでもしょうがないが、「がっかりする」と他人や親族に言いふらしているのがとても嫌であった。学校で、今はどのような集団教育を実践しているのか不明だが、それほど進歩しているとは思えない。
このまま公立の中学・高校に進めば、この体育の授業がそのまま延長になること、器械体操の比重が多くなることなどを教えられ、どうしても公立中学には行きたくなかった。通うようになったら地獄を見そうな気がした。ある私立中学・高校の案内パンフに「体育はバレーボール・バスケットボール・サッカーをそれぞれ中学・高校で1年続ける」とだけあったので、それを内心では受験動機として、その学校を希望した。その動機は親にも小学校の担任にもクラスの仲間にも打ち明けたことはない。しかしかなりの高いハードルだったので子供ながらに一生懸命勉強したことは記憶に残っている。
志望の学校に入ったが、やはり体育の授業を行う教師には残念ながらとてもがっかりした。クラスの仲間に関しては、私のドンくさい運動を見て笑う者がいなかったのがとてもうれしく幸せであったし感謝しているが、教師は露骨に面倒くさそうな舌打ちをされた。それでも最初はいろいろ指導はしてくれた。しかしその指導も繰り返し同じことをやれというだけで、具体的にどこをどう改善するのか、は私には理解できなかった。私の身体的な特徴に沿った指導はなかった。そんなことは当時は指導の対象外であったのかもしれない。そして次第にさじを投げられたようだ。
走ることだけは、毎朝のギリギリ通学のおかげで自信はあったものの、高校のときあれよあれよという間にどんどん体重が増加し、高校1年の後半のときからは肥満児といわれ、何をやるにしろ体が動かない。走ることだけはその割には早かったが、それでも体をゆすりながら走る姿はとても格好の悪いものであったと思う。
肥満体型は大学の1年半でほぼ解消できたが、すぐに増加する体重に常に悩まされ、太めの体型の劣等感は20代の半ばまで続いた。球技や器械体操への劣等感は現在までも続いている。
小学校時代、確かに他の生徒からワンテンポ動作の遅れる私を目の当たりにして、さらに体育授業の基本が身についていないような私に出会って多くの教師は面食らったと思う。そこは私も申し訳ないとは思うが、私の人格に対する蔑みにまで到っていた教師のあり様、体育授業のあり方には今も多大な違和感を抱いている。そしてそれが子ども同士のイジメに直結していたことも忘れようがない。「運動神経がない」(この言葉自体がおかしいのだが)と教師からも親からも蔑まれ続けたわたしでも、この年でジョギングやウォーキングや山登りをそれなりに、人並み以上にこなすことができるのは、私にはとても幸せな現状であるとともに、一方で学校体育への違和感はますます強くなる。
あの時分、特に小学生のとき、わたしがクラスの中や教師に対し、あるいは親に対し、このことで暴力的な振る舞いに至らなかったことが奇跡であったように思い出すことが今でもたびたびある。
私が少年期に教わった学校教育としての体育への違和感、そのうち、これをきちんと文章化してみたいと思う。しかしこのことを考え始めると感情が高ぶり、恨みつらみの感情から抜け出せなくなるのも事実だ。なかなか具体的な批判にはなりきれない。そしてそのまま子供を学校に通わせることになった時は、私のようにならないか大変心配した。しかし親の心配とは関係なく子供は学校によくなじんでいたようでホッとしたことを覚えている。
補足
私が高校の1年の後半か2年の前半のとき、突然体育の教師がグランドに一周100メートルのトラックを描き、肥満体型のものが放課後に急遽呼び集められた。対象は中1から高校2年までの約1000名の中の「肥満児」という言葉で侮蔑的に名指しされたもの10数名。そして体操着に着替えさせられ何の予告も無しにいきなり「10週走れ」といわれ、タイムを計らされた。
私はたまたま4分をきるタイムで2着で滑り込んだものの、どうも釈然としなかった。1着のものと2着の私は「早い」とほめられたが、大変嫌なことをさせられたと思った。当時は走り始めた段階では、いつもの遅刻ギリギリの小走りが実を結んでいるかな、俺も結構走れるな、という満足感があったことはあったが、それでもみんなの前にさらし者にされるという嫌な思いが先にたった。当然のことである。
さらに教師のこの褒め言葉の背後には、とんでもない嫌味と悪意が込められていた。嫌味は1年余り後、悪意は10数年後に私に明らかになったが、これはここでは記さない。とても嫌な話である。
直後に聞いたうわさ話では肥満が教育委員会あたりで問題になっていたらしい。しかし突然に「肥満」を抱えている生徒を対象に全力で1000メートルを走らせる、などというのは今なら極めて危険な強要である。それこそ事故がなくてよかったと思っている。タイムを計られれば誰でも無理をしても完走しようと思ってしまうし、それを実行する。「肥満」とならないために、あるいは「肥満」を解消するための地道な生活指導、食事指導、運動指導ではなく、こんな無茶なことがまかりとおる時代だったのか、あるいは教師の無理解だったのか、今となってはわからない。そして一定以上のタイムで走れば「肥満」についての指導はしないということだったのだろうか。肥満についてそれ以上学校で何か言われたことはなかった。
クラスメートの幾人かは、何であんなことさせられたんだろう、といたわってくれたのをよく覚えている。最初は面白そうに各教室から顔を出してやんやの喝采を送っていた他の生徒も、最後の方の「肥満児」が必死にゴールする頃にはだれもはやし立てるようなことはしなかった。ただ最後のゴール者に各教室の窓から静かな拍手があったのは、私も息を切らしながら聞いていたのを覚えている。今の時点で考えると、生徒の質はとてもいい学校に在学していたものだと思う。生徒自身が「何かおかしい」と思ったのが、あの全体の態度の変化に微妙に反映していた、と思うのは過剰な思い入れだろうか。
その後、やはり高校2年のときだったと記憶しているが、文化祭の実行委員会か何かの打ち合わせのあと幾人かと取り留めのない話をしているとき、ある友人が「小学校のときのろまといわれ随分嫌な思いをした」とふと漏らした。「僕も体育がだめで、先生と友達にやられた」と私が答えたところさらに幾人かが「足が短いと‥」「体の特徴を‥」「音痴と‥」「成績が良いからと‥」とその場の過半のものが同調した。その話の結末で「だから今は他人の不得意や嫌と思われることはいわない」という話がでた。当時は「いじめ」という言葉はまだなかったと思うが、嫌な思いをしていた生徒がずいぶんと居たんだなぁ、と思うと同時に、「教師より生徒の方がよっぽど繊細で人として信頼できるんだ」と思った。「受験校」「エリート校」といわれた学校だったが、心に傷を負った生徒が多く集まっていたのかもしれない。
就職して職場単位での野球やテニス、バレーボール、駅伝が盛んだったが、野球の場合を除いて、そのスポーツのリーダーには職場のチームをいかに和気藹々と楽しくそして長く続けるかということについてとても皆敏感だったと思う。得意な人もそうでない人も混じってそのスポーツを楽しみながら続けるには、参加者に失敗があったり、調子の悪いときでも笑いあって、傷を後々まで引きずらない場の作り方が大切であることを学んだ。
学校での体育と職場でのスポーツ、当然場面の設定は違うが、学校のクラブではなくクラス全員を対象にした授業からみると、この職場でのスポーツの体験はとても異質であり、そして好ましいものに私は思えた。
「通りがかり人」様の指摘のとおり「笑われちまったほうが早い」という楽しい集団をきちんと作ることの大切さを、高校生の仲間うちの話や職場での体験から思い出した。
私の家族も明日29日には墓参りを計画している。そして週明けには北アルプスの西穂高・焼岳をねらっていた。明日は何とかなりそうな気もするが、週明けの山は、週の半ば過ぎに延期せざるを得ないだろう。
さて先ほど「(運動会の天気に)やきもきしている人も多いだろう」と書いたが、当の私は「天気が悪くなり中止になってほしい」といつも思っていた。幼稚園・小学校の時は何しろかけっこで最下位か良くて最下位から二番目以外になったことがない。それだけで済むなら一時の我慢なのだが、仲間内からも担任の教師にも「まただね」といわれ、赤(白)が負けたのはお前の所為だと非難されたり、家に帰ってからも「私は早かったよ、誰に似たんだろうね」といわれ、とても傷ついていた。
それでも小学校1年から3年のときは担任の教師はかばってくれたので良かったのだが‥。小学校6年のとき突然のように走るのが速くなった。それは5年の二学期から川崎から横浜に転居したとき、横浜では急激な人口増加のため学校建設が間に合わず電車通学になり、転校した学校へ毎日20分近く駅まで走って通学した。さらに次の駅から学校まで5分以上の急な坂をやはり走ってのぼった。何しろ毎日どうしても余裕をもって家を出ることができない。最終電車ギリギリに家を出ていた。その効果が出たと今では思っているが‥。
6年のとき初めて徒競走でその組の2着になりリレーの選手としても出場したのが、とてもうれしかった反面、隣のクラスの教師に「走り方がなってない」とか何とか具体的な指導ではなく、けち着けのような、そして冷たい言い方の批評を聞いて、また嫌な世界が待ち受けていることに気づかされ、うんざりしたことを覚えている。
そして走ること以外の運動会の種目も嫌であった。まず低学年でやるあの紅白の玉入れがきらいだった。他人の投げた玉が空から降ってきて顔に当たり、あの嫌な白い粉が目に入るので、練習のとき目をつぶって投げて教師の笑いものになった。本番ではやむを得ず遠くから投げたが籠に届かない。それを親にさらに嘲笑された。
学年全体でやるダンスや集団の体操。これも大体他人とはあわない。特にダンスは「次に何をするか」がどうやっても覚えられないのだ。いきおい他人を見ながら演技するからどうしてもワンテンポ遅くなり、それが嘲笑の対象となり、教師の怒り・蔑みにさらされ、さらに一層緊張して覚えられない。この悪循環であった。
運動会にない種目である鉄棒などの器械体操もからっきしだめであったので、何しろ体育の授業はどうしようもなく苦痛であった。
私は小学校の学校体育にはどうしてもなじめなかった。教師とクラスの仲間にも親の反応にも、絶望と怒り・嫌悪感しか感じなかった。親からも決して具体的な指導をされずに、ただ「運動神経の悪いのは誰に似たんでしょう」という言葉を繰り返し言われた。親を恨んでもしょうがないが、「がっかりする」と他人や親族に言いふらしているのがとても嫌であった。学校で、今はどのような集団教育を実践しているのか不明だが、それほど進歩しているとは思えない。
このまま公立の中学・高校に進めば、この体育の授業がそのまま延長になること、器械体操の比重が多くなることなどを教えられ、どうしても公立中学には行きたくなかった。通うようになったら地獄を見そうな気がした。ある私立中学・高校の案内パンフに「体育はバレーボール・バスケットボール・サッカーをそれぞれ中学・高校で1年続ける」とだけあったので、それを内心では受験動機として、その学校を希望した。その動機は親にも小学校の担任にもクラスの仲間にも打ち明けたことはない。しかしかなりの高いハードルだったので子供ながらに一生懸命勉強したことは記憶に残っている。
志望の学校に入ったが、やはり体育の授業を行う教師には残念ながらとてもがっかりした。クラスの仲間に関しては、私のドンくさい運動を見て笑う者がいなかったのがとてもうれしく幸せであったし感謝しているが、教師は露骨に面倒くさそうな舌打ちをされた。それでも最初はいろいろ指導はしてくれた。しかしその指導も繰り返し同じことをやれというだけで、具体的にどこをどう改善するのか、は私には理解できなかった。私の身体的な特徴に沿った指導はなかった。そんなことは当時は指導の対象外であったのかもしれない。そして次第にさじを投げられたようだ。
走ることだけは、毎朝のギリギリ通学のおかげで自信はあったものの、高校のときあれよあれよという間にどんどん体重が増加し、高校1年の後半のときからは肥満児といわれ、何をやるにしろ体が動かない。走ることだけはその割には早かったが、それでも体をゆすりながら走る姿はとても格好の悪いものであったと思う。
肥満体型は大学の1年半でほぼ解消できたが、すぐに増加する体重に常に悩まされ、太めの体型の劣等感は20代の半ばまで続いた。球技や器械体操への劣等感は現在までも続いている。
小学校時代、確かに他の生徒からワンテンポ動作の遅れる私を目の当たりにして、さらに体育授業の基本が身についていないような私に出会って多くの教師は面食らったと思う。そこは私も申し訳ないとは思うが、私の人格に対する蔑みにまで到っていた教師のあり様、体育授業のあり方には今も多大な違和感を抱いている。そしてそれが子ども同士のイジメに直結していたことも忘れようがない。「運動神経がない」(この言葉自体がおかしいのだが)と教師からも親からも蔑まれ続けたわたしでも、この年でジョギングやウォーキングや山登りをそれなりに、人並み以上にこなすことができるのは、私にはとても幸せな現状であるとともに、一方で学校体育への違和感はますます強くなる。
あの時分、特に小学生のとき、わたしがクラスの中や教師に対し、あるいは親に対し、このことで暴力的な振る舞いに至らなかったことが奇跡であったように思い出すことが今でもたびたびある。
私が少年期に教わった学校教育としての体育への違和感、そのうち、これをきちんと文章化してみたいと思う。しかしこのことを考え始めると感情が高ぶり、恨みつらみの感情から抜け出せなくなるのも事実だ。なかなか具体的な批判にはなりきれない。そしてそのまま子供を学校に通わせることになった時は、私のようにならないか大変心配した。しかし親の心配とは関係なく子供は学校によくなじんでいたようでホッとしたことを覚えている。
補足
私が高校の1年の後半か2年の前半のとき、突然体育の教師がグランドに一周100メートルのトラックを描き、肥満体型のものが放課後に急遽呼び集められた。対象は中1から高校2年までの約1000名の中の「肥満児」という言葉で侮蔑的に名指しされたもの10数名。そして体操着に着替えさせられ何の予告も無しにいきなり「10週走れ」といわれ、タイムを計らされた。
私はたまたま4分をきるタイムで2着で滑り込んだものの、どうも釈然としなかった。1着のものと2着の私は「早い」とほめられたが、大変嫌なことをさせられたと思った。当時は走り始めた段階では、いつもの遅刻ギリギリの小走りが実を結んでいるかな、俺も結構走れるな、という満足感があったことはあったが、それでもみんなの前にさらし者にされるという嫌な思いが先にたった。当然のことである。
さらに教師のこの褒め言葉の背後には、とんでもない嫌味と悪意が込められていた。嫌味は1年余り後、悪意は10数年後に私に明らかになったが、これはここでは記さない。とても嫌な話である。
直後に聞いたうわさ話では肥満が教育委員会あたりで問題になっていたらしい。しかし突然に「肥満」を抱えている生徒を対象に全力で1000メートルを走らせる、などというのは今なら極めて危険な強要である。それこそ事故がなくてよかったと思っている。タイムを計られれば誰でも無理をしても完走しようと思ってしまうし、それを実行する。「肥満」とならないために、あるいは「肥満」を解消するための地道な生活指導、食事指導、運動指導ではなく、こんな無茶なことがまかりとおる時代だったのか、あるいは教師の無理解だったのか、今となってはわからない。そして一定以上のタイムで走れば「肥満」についての指導はしないということだったのだろうか。肥満についてそれ以上学校で何か言われたことはなかった。
クラスメートの幾人かは、何であんなことさせられたんだろう、といたわってくれたのをよく覚えている。最初は面白そうに各教室から顔を出してやんやの喝采を送っていた他の生徒も、最後の方の「肥満児」が必死にゴールする頃にはだれもはやし立てるようなことはしなかった。ただ最後のゴール者に各教室の窓から静かな拍手があったのは、私も息を切らしながら聞いていたのを覚えている。今の時点で考えると、生徒の質はとてもいい学校に在学していたものだと思う。生徒自身が「何かおかしい」と思ったのが、あの全体の態度の変化に微妙に反映していた、と思うのは過剰な思い入れだろうか。
その後、やはり高校2年のときだったと記憶しているが、文化祭の実行委員会か何かの打ち合わせのあと幾人かと取り留めのない話をしているとき、ある友人が「小学校のときのろまといわれ随分嫌な思いをした」とふと漏らした。「僕も体育がだめで、先生と友達にやられた」と私が答えたところさらに幾人かが「足が短いと‥」「体の特徴を‥」「音痴と‥」「成績が良いからと‥」とその場の過半のものが同調した。その話の結末で「だから今は他人の不得意や嫌と思われることはいわない」という話がでた。当時は「いじめ」という言葉はまだなかったと思うが、嫌な思いをしていた生徒がずいぶんと居たんだなぁ、と思うと同時に、「教師より生徒の方がよっぽど繊細で人として信頼できるんだ」と思った。「受験校」「エリート校」といわれた学校だったが、心に傷を負った生徒が多く集まっていたのかもしれない。
就職して職場単位での野球やテニス、バレーボール、駅伝が盛んだったが、野球の場合を除いて、そのスポーツのリーダーには職場のチームをいかに和気藹々と楽しくそして長く続けるかということについてとても皆敏感だったと思う。得意な人もそうでない人も混じってそのスポーツを楽しみながら続けるには、参加者に失敗があったり、調子の悪いときでも笑いあって、傷を後々まで引きずらない場の作り方が大切であることを学んだ。
学校での体育と職場でのスポーツ、当然場面の設定は違うが、学校のクラブではなくクラス全員を対象にした授業からみると、この職場でのスポーツの体験はとても異質であり、そして好ましいものに私は思えた。
「通りがかり人」様の指摘のとおり「笑われちまったほうが早い」という楽しい集団をきちんと作ることの大切さを、高校生の仲間うちの話や職場での体験から思い出した。