Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

俳句誌4月号投句

2013年01月22日 11時03分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 俳句誌4月号投句
★十二月八日歪んだ飛行雲
★梵鐘の青き一点深雪晴
★餅搗きの〆にあかるき若夫婦
★境内に夢も揃えて年の市
★光りある大きな蛇行冬の川
★風花や豊かなる夢見下ろして
★耳だけで生きている猫松過ぎぬ
★負け独楽のたちまち色の別れゆく
★勝ち独楽のまだ寄せ付けぬ余力かな
★凧揚げて空の一隅定まりぬ

ベトナムの印象(その5)

2013年01月21日 20時42分20秒 | 山行・旅行・散策
 友人からベトナム旅行の印象についていくつか質問をもらった。その質問と私なりの印象というか、回答をしたためたのでここに転載してみることにした。回答する能力のない質問、あるいは回答になっていない回答もあるかもしれないが、それはそれでご容赦願いたい。なお実際にメールで回答したものをベースに若干の補足や手直しをしてある。


(質問)バスはどうでしたか?

(私なりの回答・感想)バスはバイクが大量のため運行がとても不規則になっているそうです。バス自体はボンネットではないものの小さ目で、ほとんどが韓国資本のメーカーの車に見えました。
 型も古く、手入れが悪い印象。乗っている人もラッシュ時に眺めましが、少なめです。これで判断する限り公共交通の主流ではないですね。公共交通に頼るよりもバイクに乗るようです。
 ハノイからホーチミンまでは鉄道がありますが、36時間とも40時間ともいってました。ほとんどの人がこの鉄道かバス、少数が飛行機を利用してこの南北の二つの都市の行き来をしているようです。中部の諸都市に行くにもやはり同じように鉄道かバス、少数が飛行機のようです。

(質問)人々の生活ぶりは、どうでしたか?物売りの「おじさん・おばさん」の様子や子供等の「物乞い」風景は見られたでしょうか?

(私なりの回答・感想)決して豊かには見えませんでしたが、衣食が足りているようで、あくせくと働く風には見えませんでした。
 少数の品物(非規格品のバイクヘルメット、りんご・トウモロコシなどの農産物等)を路上で売ったり、自転車で売ったりしていますが、それほど貧困には見えませんでした。
 子供の物乞いはまったく見られませんでした。
 日本の外務省のホームページではベトナムはドイモイ政策で貧富の差が拡大して問題になっているように記載されています。私の見る限りその差を実感するような場面はありませんでした。確かにあのような市場開放を行っているとそのような状況かもしれません。もっとじっくりと都市の周辺も含めた観察が必要かもしれません。

(質問)「塹壕トンネル」跡の見学はなかったのですか?

(私なりの回答・感想)ツアーもたくさんあるようですが、今回私は行きませんでした。たやすくツアーを申し込むことは出来ます。

(質問)自由行動時のあなたたちの「食事」は、どの様にしていたのですか?

(私なりの回答・感想)基本は外国人向けのレストランか、コーヒーのチェーン店で食べました。ガイドからはきつく路上の食事厳禁を申し渡されていましたので、妻が同行しているため冒険はしませんでした。ツアーを企画した旅行会社にしてみれば、食事によるトラブル発生は避けたいでしょうからそのようになっているのだと思います。
 2大都市以外ならば食事場所も限られていますので、挑戦せざるを得なかったと思いますが‥。
 路上でプラスチック製の風呂用の椅子に座り込んでのコーヒー、自家製ビール、フォーなどの朝食や、茹で鶏・チマキなど飲食にはことかきません。なかなか種類も量も豊富です。ちなみにベトナムではビールの製造とその販売は個人営業の店での提供も含めて許されているようです。
 食については北は野菜・香草が多いですが、南は肉が多いですね。これは歴史的にフランス・アメリカの影響が長かったからかと思います。ベトナム料理、なかなか奥が深いようです。
 北の朝鮮半島、南のベトナム‥長く中国の影響かで独立を保ったプライドのある文化と思いました。今は、韓国に政治的にも経済的にも遅れをとっていますが、いづれは急成長する国にも見えます。
 ただしやはり「社会主義国」の影を引きずっています。国家が市民から遠い存在のようにも見えました。ここら辺はもっと観察しに訪れないとわかりませんが、ドイモイ、市場開放政策で市民生活は潤って成功しているとは思うものの、政府はやはり威圧的みたい。その影はただの観光をしていたのでは見難いですね。
 私が経験したことの中では、飛行場での荷物検査や出入国管理での係官の威圧的・高圧的な態度がありました。これが軍人なのか公務員なのか、あるいはその担当者の個人的な癖なのかはわかりませんが、並び方やクレームに対する受け答えなどちょっと私たちにはカチンと来る態度がありました。

 (総じて)今回2大都市の中心部だけを二人だけでめぐりましたが、中部のフエなどの歴史的な都市や激戦地を見たいとは思いました。特にチャンパ帝国の遺跡などは興味があります。どうも歴史遺産はハノイ、ホーチミンではずいぶん破壊されてしまったようですね。

 実はこれらのことは、その4で記載しようと思っていたんですが、疲れてうまくかけませんでした。しばらくしてから、その5としてまとめようとも思っていたんですが、現時点ではうまくまとまらなくてそのままになっていました。
 自分のベトナムとのかかわりから書き始めなければいけないような気もして、構想がまとまっていないんです。


 以上が質問とそれに対する私の考えを示してみた。何かの参考になればうれしい。

さとうてるえさんの作品

2013年01月20日 20時13分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 このブログで以前に紹介させてもらっている福島市在住の「さとうてるえ」さんの切り絵が動画となった。「福島市の中心街区をさらに面白く活性化させていく事を目的に運営されてる」インターネット放送局のウェプサイトで紹介されている。

 「ぶらっとWeb福島→福島の観光→ふくしま切り絵のある風景」で検索、または「http://blattotv.com/mt/」にてたどり着く。

この「ふくしま切り絵のある風景」では、「光のしずくイルミネーション」「吾妻スカイライン」「連山車」の3作品がアップされている。いづれも製作過程と作品が、実景と較べながら掲載された。ご本人は指先だけの出演だが、製作現場がのぞけるようになっている。

 このブログをのぞかれている皆さんには、「是非このWebをのぞいてほしい。そして福島市の観光に出向いてほしい。」との彼女からの伝言をお伝えしたい。

 参考までに、
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ZiByWQemUv8#t=0s

寒中見舞い投函

2013年01月20日 13時48分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 本日は大寒、投函が少々遅くなってしまったが、昨晩記載したように本日は朝から寒中見舞いのハガキを作成・印刷。どうやら出来上がった。
 出来上がりはどうであろうか。写真の梵鐘の青の色が控えめすぎるようだ。実際はもっと緑青の色が目立ったのだが、ちょっと残念な気がする。

 昨日は、神奈川大学の公開講座で「日本文化を流れるもの」の第4回目「山頭火の少欲知足の生き方」と題した作家村上護氏の講演。1941年生まれというからちょうど私の10歳年長になる。
 山頭火という俳人、名前はよく知っており句もいくつか知っているが詳しいことはほとんど知らない。句集も読んだことがない。まずは入門からということで講座を受講してみた。復本一郎氏が井上井月の句集を岩波文庫から出版したが、山頭火はこの井上井月のお墓を詣でようとしていた。死の直前にその思いをかなえたらしいが、「捨てる」生き方に共通性があるのであろう。
 村上氏のお話は朴訥とした喋りで決して巧みではないのだが、山頭火が好きでたまらないという思いが実によく伝わってきた。
 「捨てきれない荷物の重さまえうしろ」の句を頼りに少欲知足の考え方、そして放浪・漂白ということを手がかりに日本文化の流れの中に山頭火を位置づける試みなど、おもしろいと思った。が提起だけの時間しかなかったと思う。
 もうひとつ面白いと思ったのは、金子兜太氏と村上氏との対談の中で、小林一茶は「漂白」者であり、帰る場所があったが、種田山頭火は「放浪」者であり、すべてを捨て去り帰る場所も捨てていた、との話が出たとのこと。面白い指摘だと感じた。

寒中見舞い

2013年01月19日 22時55分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年は喪中ということで、世間一般の慣例に従い欠礼のハガキを12月に出した。といってもごく限られた人にだけ出した。
 私の思いは、「こちらから年賀状を出すのは控えますが、それはあくまで私の事情によるもの。皆様方には私の事情にこだわることなく、皆様の新年の寿ぎは例のごとくに行いください」ということであって、皆様からの年賀状まで断る意味ではないのではないかと考えている。
 だから年賀状をいただくことにはまったく抵抗感はない。現に幾枚かは賀状をいただいた。心のこもった年賀状はうれしいものである。そして近況を簡単にでもしたためていただくことほどうれしいことはない。ということで、寒中見舞いという形式で、いつも年賀状をやりとりしている方には、喪中であるということ以外のことを記した近況報告を出そうかと考えた。
 明日にでもその準備をしようと思う。少々出すのが遅くなってしまったが、まだおかしくはないと思う。

人前でのスピーチ

2013年01月19日 17時36分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昨日、出身の労働組合の支部の新年会兼退職予定者感謝のつどいに参加した。退職予定者へ退職者会加入の勧誘のため。11名もの退職予定者に私の簡単な挨拶状と、退職者会の会報、加入届けと会費の振込み用紙を同封した。久しぶりに40名ほどの参加者を前にあいさつをした。人前で話すのは基本的に得意ではないが、どういうわけか学生時代から40数年間、人前で話すことを続けてきた。

 本当は、私はとても恥ずかしがり屋である。人と1対1、あるいは2~3人での会話というのがとても苦手だ。ほぼいつも聞き役にまわってしまう。本当に気心のしれた相手なら別だが、普段あまり会話をしない相手、共通の話題が見つけにくい場合、体験が共有できていない相手、特に初対面などの場合、言葉を選んでいるうちに消え入るそうな声になってしまう。しかし、10数人を相手になると腹をくくって、不思議に挨拶やスピーチや、そして共通の話題のない相手でもそれを探りながら話をすることは、割と平然とやってしまう。

 学生時代のアジテーション的なしゃべりは一方的な自己満足の世界に近かったから、これはほとんど経験の蓄積にはならなかったと思う。しかし労働組合の話では、駅頭での市民向け宣伝行動から、朝の出勤時のビラ配り、各種大会での発言・あいさつ、そして10人から40人規模での職場での話し合い、そして使用者側を相手にした挨拶までいろいろな場面を経験してきた。これらは一方向のあいさつではない。必ず次の対話を前提としたコミュニケーションの一環としてのしゃべりだから、話をすることが自分の考え方の豊富化につながり、勉強になる。たとえ駅頭での宣伝行動でもそれが終了した後の組合員との対話・反省会の材料を自分なりに用意をしながらしゃべる必要がある。
 しかしいづれもうまく言いたいことが伝えられたと満足したことはない。いつもしゃべり終わってから、ああいえばよかった、こういうしゃべりはまずかった、といまでも反省ばかりをしている。紙にメモを書いていても、はやり言い残したこと、言い回しの失敗などがある。
 一昨日も話の順序がまちがった。新年のあいさつが後回しで、退職者会への加入のお願いを最初にするという基本的な間違いをした。しまったと思ってもそれを顔に出さずに図々しくしゃべることが、「慣れている」証なのだそうだ。不特定多数を相手ではなく、よく見知った顔ばかりだからしゃべりやすかったのが、うれしい。
 人の眼を見て話すのがいい、と一般的に云われている。私は30人相手でも100人相手でも、どんな場合も会場をバランスよく3つのブロックに分け、そのブロックから1人ずつ、あわせて3人ほどに注目し、順繰りにその人の顔を見ながら話すことが多い。そうすると全体に視線をめぐらせながら、自分の話がうまく伝わっているのか、この場はこのような話し方でいいのか、などを考えながら話すことが出来る。
 そして仲のいい3人と話をしていると思うことで、大勢と話をしているという緊張・圧迫感から逃れることも出来る。多分これは学校の先生では通用しない話し方なのかな、とおもう。学校の先生は生徒一人一人の反応を見ながら話さざるを得ないだろうから、こんな風に勝手に幾人かを抽出してしまってはまずいはずだ。
 この程度のテクニックが身について、あとは図々しさと度胸で話をするだけだ。だから人前で話をする基本的な技術、そして話術を身につけたわけではないので、いつまでたっても素人然とした話方しができていないと思う。でも限られた相手であったり、芸としての喋りではないので、これで押し通してきた。大勢を前にしたしゃべりも次の組合員とのコミュニケーションのための前提とするとしゃべりやすくなるし、話の幅を広げることができる。
 さらに云えば、自分の考えや組織としての考え方をしゃべって相手に伝えながら、必ずこのしゃべり方でよかったか、この考えの欠点は何か、本当にこの考えが伝わったか、などを考えながらしゃべることも覚えた。完全にとは云わないが、しゃべっているときはしゃべっている内容よりも、このようなことを思っているほうがエネルギー消費の度合いは高い。
 多分あがってしまってうまく伝えられないというのは、しゃべる内容ばかりにエネルギーを費やしてしまっているのではないだろうか。客観的に自分の置かれている状況が把握できていない場合や、自分の考えを伝えることにのみ集中してしまっている場合、周囲が見えなくなってしまう。それがあがってしまっているということになるのではないだろうか。

 ただしこの程度のスキルを手にしていても、はじめに触れたように、2~3人あるいは1対1の対話はまったく自身がない。よく言われるように「相手の目をみて話す」なんていうことがまったく出来ない。そんなこと恥ずかしくてとてもできない。相手の目を見て1対1の会話、恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら逃げ込んでしまいたいのだ。私は数人で話すときはいつもうつむいてぼそぼそと話をしてしまう。おどおどしてまう。
 大勢の前で話すということと、ごく基本的な1対1のコミュニケーション力とは、場の構成の仕方も基本的なノウハウもまったく違うと思う。まったく違ったスキル、そしてとてつもない気力が必要だといつも感じる。
 私のごく近しい人はこの落差に気がついて、「二重人格のようだ」ともいう。私もそう思う。初対面の人や、ごく限られた経験の範囲を超えてしまう相手にはとてもぶっきらぼうになってしまう。相手に失礼になった場面は数知れずだと思う。初対面の人ととてもなれなれしく会話をする人と会うと、逃げたしたくなる。だんまりになってしまう。退職して地域の方や、同じ講座を受講している方たちとは話をしなくてはいけない場面が結構あるが、なかなか打ち解けられない。これはどうしたら解消できるのであろうか。

 久しぶりに人前で話をしたら、こんなことを考えていた。


 さい、一昨日の会場では、奇遇としかいいようがないのだが、隣の宴会が隣の都市の同じような支部の退職者会の会合であった。実に何年がぶりにあいさつを交わした。毎年数回各都市持ち回りで組合の交流のための場を持っていて、私などは支部の方針づくりや職場実態の交流を通して大変勉強させてもらった方たちだ。とても恩義のある先輩たちに合うことができ、かつてのお礼をあらためてした。いろいろな懐かしい会に参加しているとこういう奇遇のような場面に出くわすことで、また新たな集まりに誘われることもある。不思議なものである。

本日の褒美ならざる褒美

2013年01月16日 23時00分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 本日アップした、ベトナムの印象(その4)。あまりにその出来が悪いのでご褒美は無しと思ったが、気分をあらためることを目的に冷蔵庫にしまっていたご褒美を出してきた。理由は何とでもなる。
 福岡県うきは市浮羽町の「礒乃澤」。純米吟醸のうすにごりとなっている。つまみは友人からもらった蟹入りの松前漬け。そして急遽もらった豚の耳。豚の耳は日本酒よりは焼酎のほうが合うなぁと思いつつ、食べ終わってしまった。しかし松前漬け、久しぶりにおいしくいただいた。幸せである。この4合瓶がなくなったら今度は焼酎を買いに行こうと思う。
 ベトナムの印象(その4)はあまりに不出来なので、もう一度書き直したいが、そのエネルギーは今のところ残っていないm(__)m
 読むに耐えないと思われた方は、そのまま無視をしていただくとうれしいです。

ベトナムの印象(その4)

2013年01月16日 21時48分21秒 | 山行・旅行・散策
 ベトナムに行って街を巡りながら、私なりにいろいろ思ったことをももとまりはないが思いつくまま書いてみる。

 まず私は旅行に行くとそこの博物館や美術館をまず訪れてみる。国内旅行でもその自治体や地域で管理している博物館を訪れて、その地域の歴史や成り立ちの概観を見る。事前の調査どおりの場合もあるが、その地域独特の雰囲気も肌で感ずることがある。
 今回も博物館や美術館をたくさん訪れたが、国立の博物館・美術館のどこもが古い建物の中で、博物館としてこんな仕方でいいのかなという
展示ばかりが目に付いた。
 ベトナム戦争からの復興、しかし都市基盤整備もまだまだという段階で博物館・美術館まで予算が回らないのは理解できなくもないが、それでも国家を形作るアイデンティティとしても重要なものではなかろうかと思うのだが‥。また遺跡の発掘や発掘品の収集展示にも手が回っていないようだった。
 美術館というものもベトナムという地域の文化がどのように現在発信されているのかを見る重要なものであると思っている。確かに「社会主義」国家の国立の美術館に収まるような美術は、評価が定まったり、国家による評価を経ないといけないのかもしれないが。それでも1975年以降の新しい美術の萌芽くらいは感じられるかもしれないと思ったのは間違いだったろうか。ちょっとさびしい見学であった。かえって日系の資本のホテルなどに目をひく現代美術作品などが飾ってあり、これからが新しい文化が発信されるのかなという感想をもった。これだけの人口を持ち、これだけの経済活動のある社会である。人々を感動させる文化が私の目に触れないところで開花しているはずである。それが見たかった。

 博物館・美術館のさらなる充実はこれからのベトナムにとって重要課題と思うがいかがだろうか。

 ドイモイ政策の成果なのかどうかはわからないものの、街は市場に限らず小さな商店に商品があふれるようにたくさん出回っている。日用品全般にわたり豊富であると感じた。
 しかしそれが活発に流通し、回転しているのかはわからない。私の見た限り、山のような商品に囲まれてじっと店番をしている人々もかなりの数にのぼっていたように思う。
 人の往来は極めて活発だ。現地のガイドさんに言わせると、「ベトナム人は会社勤めや工場勤務など時間に縛られるのを嫌うので、勤めより店を出したがる」「オートバイは朝早くから夜遅くまで走り回っているが何を目的に走り回っているかベトナム人自身も不明なところが多い」という言葉がとても気になっている。
 活発な人の動きが経済活動へどのように寄与しているのか、計り知れないものがあるように感じた。

 もうひとつ気がついたことがある。ハノイでもホーチミンでも、ガイドの案内コースには、ベトナム戦争に関係のあるホーチミン廟・戦争証跡博物館・統一会堂を除いて、政府関係・党関係の施設について語りたがらなかった。聞いても無視されたり、曖昧な答えがかえってきたりしたことが印象に残っている。
 どうも現在のベトナムを支配する党や政府とは距離を置いた対応のようだった。市民生活に党や政府があまり関与出来ていないということなのか、評価できるだけの情報はない。党や政府が、人々にとって触れたくもない存在、批判されるべき存在なのか、それもわからなかった。
 「社会主義国」のイメージとして党や政府による報道の統制、日常生活への過剰な関与などがあるが、今回の旅行に関してはそのような事象は目に付かなかった。少なくとも人々の街中の往来や物の流通などについて規制はなかったように感じた。かえって良好な交通・安全な交通のためにはもっと交通警察の規制があってしかるべきだとさえ感じたくらいだ。
 南北間の差は、はやりあると感じた。打倒された南ベトナムだが、ホーチミン市の都市基盤整備についてはハノイよりも良好だし、食もホーチミン市の方が豊かであると感じた。それは美術館の在り様にも感じたことは、その3で触れたと思う。ホーチミン市が経済でベトナムを牽引しているということは、文化面でもホーチミン市が、政治都市ハノイをリードしているということなのであろう。

 私はベトナムの文化の発信力について素人だし、どのような先端的な芸術が生れているか知らない。しかし私の目に触れるほどにもっともっとベトナムという文化の力の発信力が豊かになるよう願っている。フランスやアメリカという超大国を向こうに回して近代国家を作り上げてきたベトナムという国のおしつぶされない力、特に文化的な発信力。それが40年前にベトナム戦争というものに日本の片隅で関わったものとしての切なる願いである。

 あまりにまとまりのない記事にしかならなかったが、とりあえずこれでベトナム旅行の感想は終了する。

サボってしまった雪掻き

2013年01月15日 22時29分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の雪、白隠展に出かける前はひどい降りだったので雪掻きをしても意味はないのでしなかった。そして帰宅が遅かったので雪掻きは結局しなかった。
 そして本日は朝から雪掻き日和だったものの、ブログの記事を作成していることを理由付けにして雪掻きはしなかった。すると13時頃から団地の私の階段のある方がスコップを持って雪掻きを始めた。内心私もしなくてはいけないのに申し訳ないな、と思いつつパソコンと格闘を続けた。
 そして15時過ぎにひと段落がおわり、今度は組合の会館に行かなくては行けないので、そのまま雪掻きをせずに会館に出かけた。夕方帰宅してみると私の家の階段の前はきれいに雪掻きが済んでいた。きっと昼過ぎから頑張っていた方が全部やってくれたみたいだ。

 自称雪掻きのプロの私としては大変心苦しかったが、今回の雪については雪掻きをしないまま雪が融けてしまったことになる。いやはや申し訳なかったと思っている。
 私の団地も他の団地と同様高齢化が進み、団地内の雪掻きもままならなくなってきている。雪掻きに出てくることが出来る若い方は仕事に忙殺され、それどころではない。雪掻きが地域の共同の仕事、手のあるものはしなくてはならないもの、という了解がますます希薄になっている上に、この高齢化である。豪雪地帯の雪掻き同様、都市部も雪掻きの人出が足りないのだ。

 最近は団地の近くの1キロメートル以上ある商店街も高齢化とシャッター化が進んで、どの店でも雪掻きが満足に出来ていない。一方通行の車道を挟んで両側に歩道があるのだが、雪掻きをしている店は本の少し。それも自分の店の前の雪掻きが精一杯の様子。都会の商店街、どこも同じような状況なのかもしれない。
 商店にとっては自分の店の前の雪掻きは、客に来てもらったりする上でどうしてもしなくてはならないばかりか、商店街全体の面子もあり、私の小さい頃は、皆競うように店の前をきれいにしたものである。
 最近は、その地域と関係の薄い雇われオーナーのチェーン店が店先の雪掻きをしない例が増えて、どこの商店街も困っているという話をよく聞く。

 昨晩、渋谷駅からBunkamuraに行く道と、道玄坂を歩いたがほとんど雪かきはしていなかった。わずかに某家電量販店だけが店員が出て歩道の雪かきを実施していた。若者の街といわれているが、客は大切にされていない町に感じた。

 たかが雪掻き、されど雪掻き、雪掻きに日本の社会の縮図が透けて見える。


白隠展

2013年01月15日 14時16分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 昨晩、関東地方は大雪・暴風雪警報が出ている中、渋谷に「白隠展-禅画に込めたメッセージ-」を見に出かけた。見に行くだけなら別の日にした方がいいのだが、「白隠禅画を読み解く」という講演会が19時半から行われたため無理をして参加した。内心では中止になることを願っていたが、主催者もなかなか「強情」である。

 さて白隠の禅画は当然禅という私たちにはとても難解なメッセージを込めて描かれているのでなかなかなじみがない。白隠の描く絵もそこに添えられた「賛」をまず読み、当時の風俗からその意味を解き明かさなくてはならない。
 しかしそんなことをしていたらわれわれのような「禅」の世界からも遠く、当時の風俗も理解できていないものには永遠に理解できないもので終わってしまう。私も解説書を読んでみたがよく理解できないでいる。

 しかしこの白隠の描く絵、なかなか迫力がある。ぐいっと目の中に飛び込んできて心を揺さぶるものがある。いわゆる巧みな絵ではない。絵の修練をした感じなどもとよりない。賛の字もとても上手の字とはいえない。しかも私などには読めない。それでもどうしても読んでみたくなる文章であったり、絵とつかず離れずの意味合いのある賛であることがわかる字体のような気がする。

 そんなわけで今回は当日の展覧会で私が心惹かれた絵をあげてみよう。



 まず会場に入ってすぐに掲げられている絵である。図録に「ぬうっ、とあらわれた、異様なほど頭でっかちの達磨。絵を見るこちらに何か言いたそううだが、目が合いそうで合わない。なぜなら、左右の瞳の位置が著しくずれているから。しかしそれがかえって、異様な迫力をもたらしている。」
 確かに頭でっかちで、額から私の方に突っ込んできて何か挑んでくるような図々しさがある。ただ瞳の位置のズレは私にはわからなかった。私の方を鋭く見て迫ってくるように感じたのだが‥。ちょっとからかわれているようでもあり、「どうだこの片方の履の意味がわかるか?」と謎解きを迫られているようでもあり、しかし決して嫌味のない瞳だと感じた。
 達磨に託した自画像だと思っている。かなり自由闊達な雰囲気があり、最晩年の作というのは頷ける。



 この作品、白隠の作品ではもっとも有名な作とのこと。縦2メートルのこの絵を見上げると確かに圧倒される。賛には「直指人心、見性成仏」という達磨絵に定番の賛のようだ。解説では「まっすぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、すでに仏であることに気づきなさい」ということらしい。やはり最晩年の作とのこと。
 これも達磨に託した自画像だと思う。これも瞳が上を向いていてちょっと見は髭を蓄えた人の良さそうな西洋人の風貌にも見える。
 でもこの瞳、まっすぐに自分を見据えて来た人の意志の強さ、人生の深みを感ずる。賛の解釈と少し矛盾するような感じがする。あるいは自虐的な反語なのだろうか。



 これは面白い構図と大胆な線が気に入った。横向きの達磨の半身像とのこと。やはり自画像だろう。衣はだった二本のたっぷりと墨を含んだ線で表現されている。賛は「どふ見ても」と書いてあるとのこと。「どう見ても」と上目遣いで空を見ているのか、斜に構えて心はそっぽを向いているのか。「自分は不同意だよ」、「お前なんか信じられないよ」といっているのかなと思ったが、解説をみるとそうではないらしい。
「どう見ても、達磨だろ」「どう見ても、いいだろ」と続くかもしれない、と記載されている。そうかな‥とおもいつつ、「そんなことに関わらずに見てくれればいいよ」とでもいわれたような気がする。



 この達磨の絵、42歳の若書きらしい。30歳代後半からの絵が残り、83歳でなくなるまで描いたそうで、40歳代前半は若書きのうちだそうだ。「衣の線はおずおずと臆病に引かれ、眉、髭、体毛を表すために、極めて神経質な細線を重ねる。なんとも卑屈な視線は、どこを見ているのか。賛のか細い書体も、晩年のふのたっぷりした書体とは、まったく異質だ。一昔前なら、偽作と退けられいてもおかしくない。‥迷える若き白隠の真作」と解説にある。
 「賛は『焼芋の残りを糊にして、紙の破れを繕うだけ』と自虐的な文言が記される。この達磨、実は自分の絵をちっともいいと思っていないころの卑屈な自画像」とも解説がある。
 さて、このやぶにらみの、人生に対して斜に構える、どこかいじけたような表情、私はとても気に入った。むろん自画像として解釈しての思いだが、42歳で大悟して自分が何物で、何をしたいのか、ようやくわかりかけてきた人間が、これから人々を救済する道に踏み入れようとする瞬間の、逡巡や迷いや恐れを大胆に表現したのではないか、とても親しみのある表現に私には見えた。そういった意味では確かに、「若書き」であるが、それは同時にもっとも白隠と言う人の思いが詰まった一瞬を捉えているように感ずる。好感の持てる表情ではないだろうか。私はとても好きな表情だ。



 解説では「新出の巨幅。布袋が煙管を手にし、深く吸い込んだ紫煙を吹き出している。その煙は隣の軸に移って16歳のお福になっている。煙草を吸う布袋はあり得ない。つまり、この布袋は愛煙家である白隠の化身」。賛意味は「善導大師が念仏を唱えると、阿弥陀様になったそうだが、この布袋は煙草の煙からお多福美人を吹きだす。阿弥陀様を吹き出すのは念仏の功徳だが、さてこのお福さんを吹き出せるのはいかなる功徳によるのか」ということらしい。
 この福福しい布袋が、「何ものにもとらわれず、縛られず、執着することなく、ありのままの自然の姿を受け入れ、あるがままに自由に生きる。無念無想、無心の悟りの境地を求め」禅の境地とどのようにつながるのかは私などには到底理解できないのだが、市井の人々の生き様・あり様の中に身を置いてものを考えようとする白隠の思想は感ずることは出来る。しかしどちらかというと禅画というよりは、戯画に近い戯れの絵であろうが、味がある。宗教家がこんな肯定的に生活を享受している、どうもあまりに現代的な様相である。ここら辺は、白隠の思想を追いかける楽しみがあるのかもしれない。



 鍾軌は、中国では悪鬼を払ってくれると言うので魔よけのために描かれるらしい。白隠も鍾軌を好んで描いたらしいが、魔よけの護符として、修行における煩悩を払う意味を込めたとのこと。他人にこれを与えて煩悩を払う護符とさせたということは、この強い眼差しを持つ鍾軌は、修行の手助けをしている白隠でもある。やはり白隠の自画像と理解できる。
 白隠の描く人物は面白い。顔の造作や髭などは細い割と薄い墨を使うものが多いが、衣や刀などは太い線で実に単純化して描く。それでいてとても力強い。顔の輪郭線と衣の輪郭線の対照の妙というか、線の太さに関わらずバランスが取れた質感がとてもユニークだ。
 賛は「謡曲『鍾軌』の一節」とのことなので、今晩この謡曲を読んでみようと思う。
 この目が実にいい。これでは煩悩なども引っ込んでしまいそうな気がするから不思議である。

 他にも幾つも面白い、興味を引いた作品があったが、とりあえずこの辺で切り上げることにした。またいづれ機会があれば取り上げてみたい。

 ただ展示について一言。このような企画は始めてのようなことであったので、これは貴重な企画をしていただいたと思う。だが、展示や解説について改善の余地があるように感じた。それは白隠の絵は賛がとても重要な役割を果たしており、解読できていないもの、あるいは解読できでも意味が不明なもの、時代背景や当時の風俗が理解できていないと理解不能なものなどがあるとのこと。これも十分に理解できる現状である。だからこそなのだが、解説や図録にはこの「賛」をキチンと今の字体で表記してほしかった。その上でその賛の解釈を並べ、さらに時代や絵との関係を記載してほしかった。今回の展示ではその賛について記載がないものや意訳ばかりが書いてあるものなど統一性もない。ここら辺は統一性をもって、そして忠実な賛の復元を解説していただきたかった。
 これは高校生むけの解説書を作るようで面倒な作業かもしれないが、見学者の理解、ひいては白隠が大きく話題となるためにどうしても必要なことではないだろうか。


「紡ぎ合う日韓の古典芸能」 

2013年01月14日 15時00分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨晩、横浜能楽堂で「紡ぎ合う日韓の古典芸能」という催し物があり、チケットがたまたま手に入ったので出かけた。能楽堂は以前に何回か能や狂言を見に出かけた。能はその舞台を見ながら文学として味わうのが好みだ。狂言はその生き生きとした所作というか舞台を見るのが特に楽しい。この横浜能楽堂はとてもいい音響と木の温もりを感ずる施設で気に入っている。最近は能も狂言も見に行く機会がなくて足が遠ざかっていたので、懐かしい気持ちも湧いてきた。
 会場に入ると、10数年前は舞台をつくる木の肌がずいぶん茶色くなったなぁと感じた。その頃はまだ真新しい木の肌がすがすがしかった。木のつくりは時の流れが見えるものでもあるのだ。

 演目は前半が韓国の古典芸能ということで、ビリという縦笛・牙箏(アジェン)・鉄弦琴(チョルヒョングム)・伽倻琴(カヤグム)・鉦(チン)などの楽器と舞踊の演奏。後半は日本の箏・三味線・笛と踊り。最後に両者の合奏というかコラボレーションのための作品。
 いづれも18世紀から20世紀になって作曲された曲を中心に演奏があったのだが、私は最初に演奏された、ビリという縦笛の音に大変心を惹かれた。小さなリード付きの縦笛で、中音域の豊かな音量と、深みのある朗々と響く音質が心の扉を広げてくれるようだ。初めて聞く笛の音であるし、初めて聞く曲だが、とても懐かしい感じがした。
 さらに伽倻琴(カヤグム)の演奏も興味深く聞いた。これはちょっと音がこもるような感じの楽器だが、かえってそれが深みのある音、古い土俗の臭いがするようで好ましく思われた。

 舞踊は韓国の舞踊の方が私には楽しい。日本の舞踊として歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」の一部が演じられたが、私はどうにもこの日本舞踊が苦手でさっぱりわからない。表情がなく動きも何もまったく理解不能だ。韓国の舞踊は動きがきびきびとしていて顔の表情も普段の人間の表情がそのまま出ている。動きも自然な動きだ。見ていても何を表現しようとしているかはっきり理解できて楽しい。
 ついでに言えば、最後に演奏された両者の合奏曲では、能で使われる小太鼓と韓国の杖鼓(チャング)も加わったのだが、小太鼓の打ち方はあまりに様式化しすぎていて、打つ動作が自然な体の動きとはとても思えなかった。韓国の杖鼓の方が打つ動作としてはごく自然な体の動きを基にした打ち方となっていると思われた。この半島と列島での所作の違いは面白い比較になると感じた。

 演目として考えれば私は日本を代表する舞踊に歌舞伎の要素を持ってきたのがどうもピンとこなかった。私の好みで言えば能や狂言の所作を持ってきてほしかったが、18世紀から20世紀のものの比較ということになると致し方ないのかもしれない。
 日本の琴の曲として、朝鮮半島に住んでいた14歳の宮城道雄が最初に作曲した曲が演奏されたが、びっくりした。宮城道雄という作曲家、ものすごい人だったのかなと感心した。琴のテクニックも独創的だという解説がされていた。私などが聞いてもリズムが自然に体になじんでいるような、そしてとても懐かしいような感覚に襲われる。小学生のころ習った「春の海」しか知らないのだが、もっとこの人を知りたいと感じた。

 半島と列島の古典芸能、同時代のものを平行して演奏すること、コラボレーションの曲を合同で演奏すること、交流の意義はあると思うし面白い。少しずつ時代を遡りつつ同時代の曲の聞き較べも面白いかもしれない。そしてさらに何かが生み出せるきっかけになるもっと刺激的で面白い企画が関係者の努力で出てくることを強く希望したい。


雪の朝

2013年01月14日 10時51分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 まだ暗いうちに5時前だったと思うが雨の音で目が覚めた。8時過ぎに布団から這い出して、遅い朝食を食べている最中に、妻がふと顔を上げて「雪だ!」と風邪ですっかりかすれてしまった声で叫んだ。
 確かに雪が降っていた。大粒のボタン雪だ。大粒なので地面に落ちてから融けるまでの熱容量が大きそうなので、ひょっとしたら積もる哉と考えているうちにどんどん芝生が白くなってきた。北側のアスファルトの道路面も白くなってきた。
 本日はゴミの回収日、それでも収集車はいつもと変わらない時間にやって来てくれている。すべるので収集しづらそうだが、手際よくやっている。昔の職場の仲間も多分朝暗いうちから休日出勤で路面の雪掻きや融雪剤散布におおわらわなのであろう。
 私も娘が小さい頃、雪が降ると遊んでもらいたいのに私はいつも災害動員で家にいなかった。うらまれたものである。現役で働いている仲間も子供に恨まれながらも仕事に駆けつけていると思うと頭が下がる。どんな仕事でもそのようなつらさは付き物であるのは当然なのだが、都市災害があるたびにそんな職場実態を思い出す。

 この雪、かなり積もりそうな気配だが、本日は午後に渋谷まででかけて「白隠」展を見て、夕刻からの講演会に出席する予定だ。電車が止まってしまうと困るのだが、折角手に入れた機会なので是非参加したい。東京は最高気温10度で雨の予報。横浜は最高気温9度で雪が予報どおり的中してしまった。交通混乱がないよう祈るしかない。

 6日目となった風邪の状態はすこぶるよい。透明で粘り気のある鼻汁が出るが、鼻や喉の痛みはほぼなくなった。痰も出るには出るが切れがいい。嗽と鼻腔の洗浄は続けているが、服薬は昨晩から止めた。薬は出来るだけ控えたい。
 妻は多分、昨日・本日がヤマなのではなかろうか。声がすっかりかすれている。症状は私とほぼ同じで、昨晩は体が痛んだらしい。それでも熱は出ていない。私が処方してもらった薬の一部を何回か服用したようだ。


<追記>
 昨晩の横浜能楽堂での催しの記事を作り、ひと段落して外を見てさらにびっくり。ずいぶんと積もっている。広い芝生が5センチほどの雪にうずまっている。子供たちが休みなので大勢出て早速雪達磨をつくったりしておおはしゃぎである。でも子供たち集団での遊び方というか、加減を知らない。すぐに喧嘩となる。大人がついていないといたずらがどこまでも昂進してしまうようだ。「人が嫌がることはほどほどで止める」という加減がわからないのだろう。まだ嫌がるほうも過剰に嫌がるようで、頭に雪がぶつかっただけで、怒って怒鳴り散らして雪合戦を止めてしまう。これはなかなか大変である。

 能楽堂の報告は15時以降にアップするようセットした。

風邪5日目

2013年01月13日 22時22分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 どうやら風邪は峠を越したようだ。朝痰がたくさん出たが、喉に詰まることもなくスムーズに排出できた。何よりも頭の重いのが劇的に改善された。治り始めると急激によくなることはこれまでも経験済みだが、あらためびっくりした。
 いろいろとご心配していただいた方、お見舞いありがとうございました。

 昨日までは外に出て歩くなんていうことはまったく考えもしなかった。今日は朝から体も軽く感じられたので、横浜駅までゆっくり歩き、コーヒーを飲んでから再び歩いて帰ってきた。往復1時間余の歩行、特に支障はなかった。
 そのまま団地の管理組合の会議に出席、その後、たまたま手に入ったチケットがあり横浜能楽堂で開催された「紡ぎ合う日韓の古典芸能」という催しに出向いた。内容と感想は後日。
 明日は渋谷の文化村で「白隠」を見て、その後講演会に出席するつもりだ。この感想も書かなくてはならない。ベトナム旅行の感想・印象も「その4」を書く予定。
 宿題が3つもたまってしまったが、忘れないように早めに片付けてしまわないといけない。本日は早めに体を休めることにしたい。


ベトナムの印象(その3)

2013年01月13日 07時30分24秒 | 山行・旅行・散策
・ホーチミン市(1月7日昼~8日深夜)で訪れたところ(順不同)

★統一会堂
 ホーチミン市にある統一会堂、多くの人は知らないと思う。しかしこれが旧南ベトナム時代の大統領官邸のこと、と聞くと私より年上の方は下の写真を思い浮かべるのではないだろうか。
 現に私も旅行案内書を見るまではわからなかったが、旧大統領府とわかり、下の写真を思い浮かべた。



 1975年4月30日に解放軍の戦車がこの旧大統領府に突入したことにより、アメリカの後押しでようやく成り立っていた南ベトナムの政権は崩壊、ベトナム全土での戦闘が終幕を迎えた。
 この突入したという戦車2台がこの統一会堂の門のすぐ右脇に陳列されている。
 この写真、もしくは更に下の黄色のパンフレットに掲載されている写真と当時、世界中の新聞の一面トップを飾ったものである。そして多くの人々がいろいろな思いを駆け巡らせたものである。
 私もまたこのベトナム反戦運動には関わったが、やはり1972年の相模原補給廠からのベトナム向け戦車輸送の阻止闘争が記憶に鮮烈だ。当時は夏休みで帰省して横浜におり、村雨橋で戦車の下に座り込んでいた。そんなこともあり、あの日の新聞を見て快哉を心の中で叫んでいた。ただし当時就職したばかりで、この興奮を伝える人は周囲にはおらず、努めて静かに事態を見つめた。
 しかし同時にとてつもない人命と国土の破壊をもたらす「革命戦争」「解放闘争」と何か、という疑念も1975年当時は少しずつ芽生えていた。
 私としては自分の持ち場である職場での労働運動にこだわりたいという気持ちを新たにしてくれた瞬間でもあった。

 だからこの会堂は是非とも見てみたかった。そして会堂に入って大変びっくりした。
 これは大統領府というのだろうか、ひょっとしたら王宮とも呼ぶべきものではなかったのかということだ。1962年から1966年まで足掛け5年もかけて、贅の限りをつくして築造されたようだ。何しろ調度品があまりに豪華絢爛としている。当時はベトナム国民は続く戦争で大変な困難と犠牲を強いられていたはずだ。にもかかわらず国内の巨大な工芸品をあちらこちらに飾り、夫人の居住空間は後宮・大奥とも呼ぶべき広大な広さを持っている。当時のベトナム民衆は大変貧困な状況に置かれていたと聞いている。これでは民衆から支持されることなどありえないような、贅沢なしつらえであった。
 そして地下はそれこそ旧日本軍が作ったような厚み60センチのコンクリートの壁で覆われた地下要塞となっていた。ものすごい建物である。この建物の屋上からは陳列してある突入した戦車がよく見える。最後の大統領はわずか任期3日で体制が崩壊したわけだが、大統領府に詰めた当時の政府高官はどんな気持ちであの戦車突入を見つめただあろうか。
 屋上には解放戦線側の砲撃のあとも残っている。

 解放闘争とはいえそれは何といおうと戦争である。そのことに間違いはない。これ以上はまだここで表現できないが‥。

                   

★中央郵便局
 この建物はフランスの植民地時代の建物である。とてつもなく大きな威容である。つくりも凝っていて、何よりも下から見上げる天井の曲線が美しい。黄色と濃い茶色、そして漆喰の白の色の配合がとても心地よい空間を作り出しているように感ずる。
 フランスは伝統の破壊の上にこれらの建築群を建てたのだろうが、今となっては残してほしい建物ではなかろうか。

         

★聖母マリア教会
 この建物は中央郵便局のすぐ脇にある、やはり巨大な教会である。これもフランスによって建てられたもの。概観はロマネスク様式、内部はゴシック様式とのことだ。ここも天井を下から眺めるととても美しいのだが、写真がうまく撮れなかった。残念である。二つの尖塔がどっしりとした、そして安定感のある雰囲気を醸し出している。

      

★戦争証跡博物館
 戦車や砲などが屋外に展示され、屋内ではベトナム戦争に関する膨大な報道資料などが展示されている。道端や草叢に転がされている無残な帰省者の写真、それを誇らしげに見せる米軍兵士、戦意高揚のポスター、枯葉作戦の惨状などなど。私なども日本の新聞などを通してみたことのある写真が多数ある。そしてカメラマンごとの写真をまとめたコーナーには、私も知っている沢田教一や石川文洋などの写真が展示されていた。
 多くの欧米の観光客が食い入るように見つめ、写真を撮っていた。これでもかこれでもかと米軍の残虐行為の展示が続いたあと、米軍関係者も含めての追悼のためのコーナーもある。
 残念ながら、当時世界中で広がった反戦活動の様子は本の一部のパネルだけ、それもいわゆる社会主義国家でのデモや運動などが中心であったのはさびしかった。
 原爆体験の広島や長崎でもそうだが、世界的な包囲、世論の喚起なくしては反戦運動は進まない。ベトナム反戦運動とは一体なんだったのか、それを問わないといけない。ここをキチンと触れない展示はもう一工夫必要なのではないか。そのベトナム反戦運動の大きな渦中の中に、チッポケといえ身を置いたものとして、あえて言わせてもらいたい。
 確かにいろいろ考えさせられる展示館である。是非多くの人に見てもらいたいものである。

            

 ここまでは現地のガイドを頼んで7日の午後。以下は8日にタクシーを乗り継いでまわった。

★ティエンハウ廟
 ベトナムの中華街とも言われる地区、チョロンにあるベトナム最古の道教寺院。天井から巨大な渦巻の線香が吊るされていて、不思議な感じがする祈りの場である。航海安全の守り神ティエンハウ(天后聖母)が祀られている。
 途中タクシーからは関羽廟も見えたが、おりてみることは出来なかった。いかにも中国らしい廟だということらしい。

      

★ヤックラム寺
 少々町の中心部からは離れており、外国人が訪れることは少ないらしい。1744年の建立ということらしく、比較的新しい。しかし街中の喧騒とは違う静かな雰囲気を味わうことが出来た。広い境内や鐘楼など日本の仏教寺院にも通じるような雰囲気がある。

                  

★歴史博物館
 ベトナム南部の歴史的な出土品・美術品の展示かあり、1930年までの歴史を見渡すことが出来る。後半は少数民族の民俗や文化を紹介している。
 ハノイ市の美術館と同じく、国立の博物館としてはやはり整備が遅れているな、という印象だ。
 ただしもう少し私が英語を理解できたらもっと勉強になったかもしれない。
 初めてパンフレットらしいものを配布してもらった気がする。南伝仏教の影響が強く認められる石造や木造の仏像は、とても生き生きとした表情や仕草をしている。ほとんどがシャカムニ仏と観音菩薩像で、この二体に対するあつい信仰をうかがわせてもらった。

         

★美術博物館
 ベトナムで最後に訪れたここがもっとも博物館らしい博物館、秘術間らしい美術館に思えた。
 展示も丁寧にきれいに整理され、一点ごとにキチンと説明書きがなされている。ベトナム語は知らなくても英語の表記があり、わかり易い。
 南部の古代から現代アートまで収蔵されており、量も内容も抱負だ。特に陶磁器は量も質も圧倒される。じっくり見てまわれば1日以上かかると思う。お勧めの美術館である。
 現代絵画、特に1975年以降に興味があったが、ここでも心惹かれる作品にはお目にかかれなかった。現代アート、なかなか評価が定まらないなかで、国立のこういう博物館で収集するというのも難しいものがあるかもしれない。同時にやはり「社会主義」国というレッテルを貼らざるを得ないのかとの思いも過ぎった。
 ここはあまり人も寄らないようで、タクシーの運転手も最初首を傾げていたが、案内書の住所を指し示してやっとわかってもらった。しかしとても広大な建物で、フランス植民地時代の華僑の邸宅だったらしい。建物全体を撮影することが出来ずに残念であった。華僑という人々のもつ力の大きさに驚きの念をもった。

      

風邪4日目

2013年01月12日 15時40分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ようやく起き上がる気力が出てきて、頭の重いのもずいぶん楽になったが、それでもまだ家の外に出向く気力はない。鼻も喉もまだつらい。朝からクシャミがよく出るのだが、そのたびに喉がとても痛い。喉に切り裂かれるような鋭い痛みが走る。声もかすれてほとんど出ない。
 こんな状態なので、本日の横浜で行われる句会も欠席とさせてもらった。

 ただし、起き上がることは出来たので、先ほどベトナム紀行(その2)をアップした。結構時間と手間がかかる。

 うつしてしまったらしい風邪、妻も鼻がずいぶん出るようになった。夫婦二人でダウンとは困ったものである。

 東急文化村での白隠展にむけての予習をかねて2冊の本を購入したがまだ読みきっていない。14日に講座があり、それまでに読み終えたいものだ。なかなか気が急いてしまう。皆に言われるように落ち着いて構えなければならないのだが‥。