Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ベトナムの印象(その2)

2013年01月12日 13時14分42秒 | 山行・旅行・散策
・ハノイ市で訪れたところ(順不同)

 着いた日はまだベトナムに慣れていないので、オプションツアーを申し込んでいたので、ガイドに連れられていくつかを巡った。
 その後、着いた日の夜からは自由行動ということで、夜と翌日は自由散策。

★ホーチミン廟
 埴谷雄高がレーニンの遺体の永久保存を社会主義国の堕落の象徴として糾弾したことはあまりに有名だが、ホーチミンもその意志をまったく無視されこのような状態になって、そして常時大勢の軍人に守られて「眠っている」。
 このような場所の見学は本当は好みではないのだが、最初の日ということもあり、事前に半日のオプションツアーを頼んだのだが、そのコースに含まれていた。
 無料の見学だが、カバンやカメラは持ち込み禁止、入ってはいけない区域など規制は厳しい。日曜日ということで、小学生や中学生の一団が見学に来ていた。こういうところは学校では日曜日に参観となるらしい。また欧米の観光客が大勢来ていた。
 軍人が要所要所に立ちものものしい警備の中、建物にはいり遺体の周りを無言で一周して外に出る。私語は建物の哉では厳禁ということだった。
 この廟のすぐ傍にホーチミン博物館・ホーチミンの家・共産党本部・建設中の国会議事堂などがあるが、どちらかというとこれらの方を見学したかったがやむをえず諦めた。
 あとから考えても、街の活気ある喧騒とはまったく異質の空間である。ホーチミンとしてもこんな異質な空間に閉じ込められるよりは、その遺志どおりに国土に散骨された方がよかったはずだ。まぁ死んでしまえばどう祀られようと、死んだ人の遺志とは無関係に扱われるのが当たり前といえば当たり前だが。

      

★一柱寺
 ホーチミン廟の傍にある1049年建立のちょっとかわった作りの寺。小さな池の中に太い1本の柱を立て、その上に観音堂を載せている。
 フランス植民地時代にこの柱は破壊されたそうだが、後にコンクリートの柱で復元されたとのこと。フランスの植民地時代も古い遺跡などが次々に破壊されていたようだ。そしてアメリカ軍の爆撃など、多くの文化遺産が破壊され、復元できなくなっているようだ。
 タリバンーンが、また過激なイスラム原理主義が他の宗教や文化を偶像崇拝としてその支配下にある文化遺産を破壊していると欧米は非難を強くしている。この非難は確かにそのとおりだが、しかし欧米人が大航海時代以来破壊した文化遺産はその何千倍、何万倍もの規模、地球的規模になっている。これは多言を要しない事実である。これを棚上げにした議論・復元の努力への努力に言及しない議論は実にナンセンスであろうと思うがどうだろうか。

      

★文(ムン)廟
 孔子廟である。赤い屋根瓦の美しい建物である。ベトナムの学問を司るシンボルのようなところかと感じた。日本で言えば天満宮なのかもしれない。
 境内に左右に亀の台座にのった大きな石碑があり1484年から約300年の科挙に相当する官吏登用試験の合格者の名が彫られている。これも多くがフランスの植民地時代に破壊されたらしく、残っているのは少数らしい。亀の頭がなでられてピカピカに光っているのはなかなかほほえましかった。
 孔子像やその弟子の像、孟子像も巨大で仰ぎ見るにふさわしいものだ。ベトナムでは卒業は9月とのことだが、卒業を控えた学生が多く訪れるのだという。9月にはまだずいぶん間があるのだが、多分9月に卒業となるらしい若い女性たちが青ザイを着て多数訪れていた。
 ここはもう少しゆっくりと写真を撮りたかったが、ガイドにせかされてしまった。

      

★旧市街
 旧市街は、36通りともよばれ多くの通りごとに専門店が並んで人々の活気のある往来がある。ほとんどが車からの見学だけで終わってしまったのが残念であった。歩くだけでも結構緊張しつつもワクワクする感じがある。一巡りした後、バチャン焼といわれる陶器の専門店の並ぶ一角に案内され、買い物ということになった。多分のこれがガイドと店とのもたれあいの構造ではあろうが、そこはまぁ黙って品物を探してみた。 特にいい品物があったわけではないが、私はお猪口になる小さな湯のみを二つ、妻は名物のフォーの器とお皿と蓮華を購入した。
 店だけでなく路上で、ちょっとした店先でもすぐに何かを売る。トウモロコシを20本ほどもった老婆が無煙炭の七輪のような持ち運べる小さな炉で焼いて売っていた。その他1ダースくらいのペプシコーラなどのソフトドリンクを小さな棚に並べて商売をしている。なかなかたくました。
 きっと終戦直後の日本の都会の中心部でも同じような光景があったはずだが、日本ではもう見ることはない。

         

★昼間のホアンキエム湖
 ホアンキエム湖はハノイの中心にあるとのこと。湖の中にある玉山祠にかよう橋、棲旭橋の赤がとても印象深い。湖の周囲が夜にライトアップされるというので、夜に再訪することで早めに切り上げた。

   

 オプショナルツアーはこれで終了。昼食後、二人でハノイを散策した。

★タンロン遺跡(世界遺産)
 このタンロン遺跡、ベトナムの人々で訪れる人はたくさんいる。どうも新婚さんが訪れるようだ。私たちが訪れたときも、結婚式を終えたばかりらしい団体と、新婚カップルがいた。なかなか明るくてあでやかな青ザイに身をつつんだ女性達と黒い上着とネクタイ姿の若い男たちがたくさん集っていた。
 案内書によると唐の時代に「安南都護府」が置かれ、そこには阿部仲麻呂も赴任していたことになっている。発掘現場自体は見学できなかったが、バーディン広場と城壁、そして国旗掲揚台が見学できた。
 この遺跡、世界遺産として登録して若い人もたくさん訪れるのだが、ホテルのタクシーに「タンロン遺跡」が通じなかったようで、すぐ近くのホーチミン廟で降ろされた。そこの兵士に聞いてもわからないという。数人目にようやく教えてもらったが、どうもベトナムではメジャーな観光地ではないようだ。欧米人も、日本人も、韓国人も、中国人も見かけなかった。
 入口こそ大きな看板は立っていたが、パンフレットも何も置いていない。市内のツアーコースにも入っているものはない。まだまだ観光場所としては未整備ということらしい。これはもったいないことである。

   

★ベトナム国立美術博物館
 古代からベトナム戦争の終わる1975年までの美術品を集めている。
 残念ながら展示品自体が丁寧に扱われていない。これもベトナムの現在をよくあらわしている。文化遺産保存、展示のためのインフラ整備が遅れているのだろう。
 古代の文物や仏像なども私たちの目からは「ただ並べてある」状態に近い。収納・展示の仕方も学校の陳列ケースのようなものでしかない。 そしてフランス植民地以降がいわゆる近代絵画の出発点になるのであろうが、私などが見て心を動かされるような作品はなかった。ベトナムの絵画史自体が貧相だったとは思えない。豊かな表現がたぶんに存在したと思われるのだが‥。そして日本の占領、再度のフランス支配、ベトナム戦争と抵抗と戦争を余儀なくされた絵画の歴史は、残念ながら政治的スローガン、プロパガンダの手段としての絵画という地位を押し付けられてきた歴史でもあるようだ。
 ここは写真は撮影禁止のため、目を惹いた作品は撮影できなかった。またカタログも存在しないようだった。
 首都にある、国立の美術博物館、これは日本で言えば上野の国立博物館と、国立近代美術館をあわせもつことに相当する博物館である。ホーチミン博物館、ベトナム軍事歴史博物館、革命博物館など、フランス植民地時代以降の軍事や政治の博物館はあるのだが‥。

 なお、民族学博物館というものもある。ここは街外れにあり今回は訪れることが出来なかった。これは残念だった。ベトナムの54の少数民族の文化を紹介する博物館ということだ。
 戦争の深刻な後遺症がここに現れている。

         

★夜のホアンキエム湖
 ここはホテルからタクシーで出向いた。湖の周囲の岸から湖を青系統のライトで照らし、周囲の樹木には丸い電飾がかざってあり、美しい。あまりきらびやかなくどいライトアップではなく、落ち着いて散策できる。ここでもトウモロコシや飲み物など少数の品物で店を広げている人々がいるが、決してしつこく声をかけてくることもなく、ひたすらじっと客が来るのをまっているような気配だ。
 玉山祠にむかう赤い橋がライトアップされとても引き立つ。美しい光景だ。多くのカップルがベンチに腰掛け、ジョギングをする人の姿も多かった。考えてみれば、あの喧騒の街中の道路を昼間にジョギングで走るのは極めて危険だし、健康上もよくない。この夜の公園はジョギングをする人には恰好の場所である。

         

★ハノイ駅舎
「1902年のフランス植民地時代に設立されたルネッサンス様式の駅舎。1972年にアメリカ軍の北爆により破壊され、現在は爆撃を免れた駅両側の部分が当時の面影をしのばせる。南北線を始め4支線の列車が発着する」。
 ネットの説明ではということだ。夜の7時過ぎに歩いて訪れたが、古い映画のシーンでも見るような雰囲気の駅舎である。人も閑散として、チケット売り場の女性が編み物をしていた。売店では土産品・ソフトドリンクなどがさびしげに並んでいた。駅西側部分、チケット売り場の道路に面したところに入っているロッテリアが場違いな感じで開店していたが、誰も利用していなかった。
 実は「ハノイB駅」というのがあり、上記の駅をA駅ともいうそうだ。B駅には行きそこなったが、A駅から歩いて15分位とのこと。これもフランス植民地時代のルネッサンス様式の建物ということだ。

   

★ティエンクアン湖
 ホテルのすぐ傍にこの湖があり、散策の行き帰りによくここを通った。大きな野外ステージがあり、ホーチミン廟完成40周年ということらしいが、さかんに音楽の演奏が行われていた。ちょっと騒々しいくらいにポップ長の音楽なのだった。不思議なのは、観客席が道路にしつらえてあり、そこだけ道路が広くなっているものの車道との区別がつかない。それほど人が集まっているわけでもなく、何故か音量の割にはさびしい感じがした。

★水上人形劇場
 ハノイの水上人形劇は1969年というからベトナム戦争ももっとも苛烈な時期から行われたようだ。ベトナムでのこの水上人形劇は1000年の歴史を有する芸能らしい。
 日本では「日本人は農耕民族」という誤解と、そして思いあがりがない交ぜになってさまざまな問題を引き起こしているが、ベトナムでは「漁労と農耕、そして山岳での採集文化」という3本立てでの理解があるようだ。それが政治的な側面とあいまって、ベトナム人というアイデンティティを醸し出しているといえようか。そんなことをこの人形劇の内容は表現している。
 もっともそんなことを考えなくとも人形のもつ不思議なとぼけた笑いを誘う表情はなかなか面白い。

               

ベトナムの印象(その1)

2013年01月11日 20時24分07秒 | 山行・旅行・散策
夜明け前のホーチミン市




 ベトナムは初めて訪れた。外国旅行自体が、韓国についで2国目でしかない。実に貧弱な外国体験である。

 ネットや案内書で調べたところ、ハノイ市は15から18度位、ホーチミン市は30度位が最高気温ということであった。それで東京・横浜よりは温かいと判断し、長袖とTシャツとメッシュのベスト、そしてごく薄いダウンの上着、半ズボンと薄手の長ズボンを用意した。成田空港までは多少薄手でも我慢できるとふんでいた。
 ところがハノイ空港についてびっくり、気温は10度で霧雨。出発した成田とほぼ同じ気温。薄いダウンの下にはせめて薄いセーターを1枚持ってきた方がよかった。

 車で空港から街中に入ってまずびっくりするのが膨大なバイクの群れ。東南アジアの各都市は皆、バイクが道路上に氾濫しているとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。みんながマスクをしている。50㏄のバイクに2人、時には3人・4人が乗っていて、自動車の横や前後をお構い無しにすり抜けていく。とても怖ろしい光景である。

 ここで旅行会社のガイドから次の3点の注意があった。

ア、バイクは50㏄は無免許でも乗れる。2人まで乗れるが、守る人は少ない。道を歩いて横断するときは十分注意をすること。反対車線・歩道も区別なく走り回るので危険。また排気ガス対策としてマスクを着用すること。
イ、歩道上の店は、市民の多くが利用しており、観光客もなれた人は利用するが、初めての人は衛生上の問題があり絶対に避けること。食器も満足に洗ってはいないし、ミネラルウォーターの瓶に入っている水も水道水を充たしたものが多い。消化器系の感染症の恐れが大。
ウ、水道水は手洗いやうがいまでは利用できるが、絶対に飲用しないこと。

 このバイクの群れはとてもすごい。車の後部座席に座っていてもとても緊張する。警笛が鳴らされ続けている。直進優先などもまったく守られていない。右折にしろ左折にしろ隙間があればどんどん入ってくる。車はその間をどんどん突っ切っていく。車と車の間に挟まれるのではないかと心配してしまうほどである。しかもほとんどバックミラーがついていない。
 信号の無視は当たり前。横断歩道を青で渡っていても、人の前方をバイクが走り抜けるし、警笛をならして人を止めて走っていく。
 日本の交通事情が当たり前で世界スタンダードだと考えているととんでもないことになる。
 その上、警察官の車両や救急車が平然と歩道の上に乗り上げて停車している。

 道路のインフラ整備も遅れている。側溝は大きく深く削られようやく水が流れている。路面はいたるところかめのこ状になっており、歩道はほとんど敷石だが、大きくえぐられたり大きな段差は当たり前である。
 また街路樹が異状に大きく成長しており、歩くスペースが街路樹に占められている。信号も少ないし、低い位置で小さいので見にくい。

 説明では、
・ベトナムでは地下鉄や鉄道などの都市の中での公共交通が整備されていないし、バスも限られている。まずバイクをつかう。
・政府は、ハノイもホーチミンも軟弱地盤で地下鉄が作れない、といっている。
 (確かにハノイとは「河の中」の意味で紅(ホン)河のデルタにある。ホーチミンもメコンデルタ地帯に出来た都市である。)
・それにベトナムの人は200~300メートルでも歩くのを嫌いバイクを使う。
といわれた。

 ホテルにも警笛やバイクの走行音が聞こえるが、早朝日の出前から深夜までひっきりなしにバイクが走っている。
 その上、電気・通信線も手の届く低い位置にあり、何本もの線が一抱えもありそうな束になって電柱にかかっている。電柱などもとても古いものが使われ続けている。
 この都市のインフラ、特に交通網や道路についての未整備はベトナム戦争の傷跡がいかに大きいものであったか、というのがよくわかる。見聞は出来なかったが、水道・下水道・通信・電力等々いづれのハードな面のインフラ整備は大変遅れているように見えた。

 ホーチミンでのガイドも「ベトナムの人は会社勤めや工場での勤務を極端に嫌う傾向がある。時間に縛られて勤めるよりも、店を出して商売をするほうを選ぶ。またバイクは終日走っているが、ベトナム人自身なんでそんなに走るまわる必要があるのか、何を目的に走っているのか理解できないでいる」と自嘲的に話していた。

 ハノイに比べ、ホーチミン市の方が交通事情は多少はよいが、バイクの量はハノイよりも多い。信号も多くあり、信号無視はそれほどでもない。バイクのミラーは大体が装着はしている。それでも一家3人、4人がまとまって乗っている。
 歩道にはホーチミン市も店が多く出ているが、歩くスペースは残っている。

 しかし私はこのバイクの膨大な群れに巨大な、とぐろを巻いているエネルギーも同時に感じた。ある種無秩序で混沌とした世界だ。型にはまってなどいない。それでいて何となく全体としては秩序が保たれている。
 そして次に人の群れを見て感じたことは、若い世代が多いということだ。少子高齢化社会の歪にあえぎ、見通しの聞かない日本社会に較べれば、数倍の活気がある。その活気はまだ方向の定まらない何物なのかでしかないような混沌とした状態といえる。
 歩道上の、日本で言えばプラスチック製の風呂用の椅子に座って食事をしているベトナムの人々、しかし決して大声を出したり、とめどなく多弁ということではない。もくもくと食事をしている人、向き合ってぼそぼそと話し合っている二人、夜のライトアップされたホアンキエム湖の周囲のベンチのカップルも多弁ではない。そこには私も惹かれた。なにものか知れないが、巨大なエネルギーを蔵して、その発露・はけ口をじっと探し続けるなにものかを感じた。

 なお、写真については失敗したと思っている。初めてのことでもあり、観光地としても日本ではマイナーであることを考慮すれば、各訪問施設の全体像をまずとってから、私の印象としての写真を並べればよかったのだが、全体像がわかる写真が少なかった。というより撮影しなかったのが多少悔やまれる。一部案内書などを利用したものもある。

寝たきり三日目

2013年01月11日 13時39分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から咳と痰が多く、何もする気力がわかない。昼過ぎからはクシャミが続けざまに出て、そのたびに喉が鋭く切られたように痛む。

 そして首と腰と太ももの筋肉が痛む。特に首の裏側の筋肉が痛い。後ろを向いたり、首を後ろに傾けるのがつらい。インフルエンザならばこの様なときには熱が出る前兆だと思うが、その気配はない。

 本日も寝たきり、読書も、音楽を聴く気力もない。むかし急性肝炎にかかったときの脱力感、しんどさとはまた違う感じなので、肝臓の疾患とは別のような気がする。
 喉と鼻腔の炎症にともなう頭の重さに起因しているだけなら特に問題はないのだが‥。

 そして本日は妻も水っ洟が出始めたという。これはどうも私の風邪がうつったらしい。


 処方され、服用している薬は
1.メイアクトMS錠
 (感染症の治療に用いるセフェム系の抗生物質で、細菌細胞壁の合成を阻害し、細菌を殺す働きがあります。通常、皮膚感染症、呼吸器感染症、泌尿器感染症、婦人科感染症、眼科感染症、耳鼻科感染症、歯科感染症など広い範囲の感染症の治療に用いられます)
2.トランサミンカプセル250ミリグラム
 (種々の出血症状などに関与するプラスミンの働きをおさえ、抗出血・抗炎症作用を示します。通常、全身性線溶亢進が関与すると考えられる出血傾向、局所線溶亢進が関与すると考えられる異常出血、湿疹・じん麻疹・薬疹・中毒疹における紅斑・腫脹・そう痒などの症状、扁桃炎・咽喉頭炎における咽喉痛・発赤・充血・腫脹などの症状、口内炎における口内痛および口内粘膜アフターの治療に用いられます)
3.ピーエイ配合剤
 (鎮痛・解熱作用、抗ヒスタミン作用、鎮痛補助作用などをもつ成分の配合により、かぜの諸症状を改善します。通常、感冒もしくは上気道炎に伴う症状(鼻汁、鼻閉、咽・喉頭痛、頭痛、関節痛、筋肉痛、発熱)の改善および緩和に用いられます)
4.ぺリアクチン錠4ミリグラム
 (アレルギーを引き起こす物質の働きを抑えます。通常、皮膚疾患に伴うかゆみやじんましん、アレルギー性鼻炎、かぜに伴うくしゃみ、鼻水、咳の改善に用いられます)
5.アズノールうがい液4パーセント
 (口やのどの粘膜の炎症組織に直接作用して炎症を抑え創傷治癒を早めます。通常、のどの炎症、扁桃炎、口内炎、急性歯肉炎、舌炎、口の中の傷の治療に用いられます)

 1と2、3と4は多くの場合併用して使う薬のようだ。1と4ははこれまでも、歯の治療のときにかかり付けの歯医者で処方された。2は4年ほど前に鼻血が頻繁に大量に出たときに耳鼻咽喉科で処方されたことがある。
 3は初めての薬と思う。5は最近よく処方されるうがい薬のようだ。

夕べからダウン(その2)

2013年01月10日 20時06分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昼前に内科の病院にやっと起きあがって行った。
 診察の結果、
・インフルエンザならもう熱が出ているはずだが出ていないのでインフルエンザではないだろう
・下痢もしていないので感染性の胃腸炎でもない
・喉がかなり炎症を起こしている
・気管支は炎症を起こしていない
ということで、通常の風邪の処方で、症状の緩和をはかり、様子をみよう、ということであった。

 午後の会議は欠席の旨を連絡。昼から服薬したら、かなり楽になった。以前ある医師が「患者の大半は症状が一番ひどくなってから病院にやってくる。だから薬を処方しなくても翌日からは楽になってくる。それも医者の手柄になることがある」といってニヤット笑っていたことがある。私の今回の症状も明日から大いに改善することを期待しよう。

 頭が重っ苦しいので読書は気力がわかない。テレビはもともと見る気はしない。ラジオもCDも聴く気力が出てこない。妻との会話以外、時々こうしてブログを見てコメントしたり、メールチェックが唯一の世の中との接点だ。

 体がユックリ寝ていろと命令をしているのだろう。おとなしくしたがうしかなさそうだ。

夕べからダウン

2013年01月10日 09時20分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
昨日からの鼻水とのどの痛み、頻繁に嗽と鼻孔内の消毒をくり返したが、その時はよくなるものの、全体としては悪化の一途。とうとう21時過ぎからはくしゃみが激しくなってきた。寝ている間も喉が痛くて3度もうがいに起きた。朝にはくしゃみが止まらなくなり往生した。
 旅行の感想・報告を記載するどころではない。今のところ熱は出てないけど、頭がかなり重い。起きあがると鼻水がとめどなく流れてくる。涙も多い。顔全体が腫れっぽい感じがする。下痢などの消化器系の症状は無い。
 
 退職者会の新年会の実行委員会も遠慮させてもらうことにしよう。午後少しでも暖かくなったら、近くの医者に行かざるを得ないようだ。

 明日の昼からの大事な約束も延期をお願いした。とても残念だ。





無事事故もなく成田着

2013年01月09日 13時21分08秒 | 山行・旅行・散策
 朝7時45分に成田に着き、成田エクスプレスで横浜に10時半前に戻ることができた。
 ホーチミン市に比べて20度以上低い気温、寒さが身にしみている。深夜の飛行機の中は寒く、鼻水と喉の痛みが少々。片付けが終わり、一段落ついたので、風邪とならないよう用心して、これから昼寝。
 旅行の報告は次回の予定。

寒くても気分はユッタリの一日

2013年01月04日 19時07分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はちょっとあわてた。

 (その1) この頃朝のジョギングをさぼっていて久しぶりに7キロほどのジョギングを行った。途中歩道の民地側の雍壁の水抜きから水が歩道上にいつも流れている箇所があるのだが、そこが光っていた。何かなと思って立ち止まったのがよかった。今朝の寒さで厚く氷っていた。そのまま足を乗せるとすべって転倒-怪我という事態になっていたかもしれない。夜に走っていてもわからずにやはり怪我をしていたかもしれない。
 ゆっくり走っていて助かった。一跨ぎでは越えられない幅で、しかも3か所ある。行き帰りでこの場所を通ったが、日が当たっているにもかかわらずまったく融けていなかった。
 考えて見れば、冬場の関東でも道が凍るのは当たり前の時代があった。最近はそのようなことがあまりないので、私も含めついつい人は無警戒・無防備になってしまう。これは自己責任で気をつけなければならないことのように思う。

(その2) 明日はベトナム行きなので、飛行場まで成田エクスプレスを利用しなければならないのだが、指定席の予約をしていなかったというのに気づいた。ジョギングから帰って妻があわてていた。昼食後あわてて予約をしに横浜駅にいったらさいわいにも席は空いていた。気がつかなければ朝一番の電車だったので予約が間に合わなかったかもしれなかった。これもセーフということで助かった。

 午後からは、先日会えなかった学生時代の友人と久しぶりに会い、この間の同窓会の進捗状況を説明がてら、なつかしい話や最近の世の中の動き、そして家族のことなどについていろいろと語り合った。コーヒー一杯で3時間ほどの時間があっという間に流れて、とても充実した時間を過ごすことが出来た。
 そして何よりものうれしいことが、函館のお土産ということで、蟹入りの松前漬けをいただいたことだ。私も妻もこれは大好物。百貨店の地下で買えないことはないが、そうではない。やはりこれは地元で購入したものが一番いい。ただし明日から旅行なのでオアズケ。旅行から帰ってから日本酒のお供にゆっくりと味わうことにした。今から楽しみである。


 ということで、10日過ぎまでブログの更新はお休みです。ベトナムでのお土産話が記事にできるか否か、心もとありませんがそれまでこのブログのことは忘れないでいてくださいm(__)m

「恩賜」公園

2013年01月04日 11時41分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 葦原の山姥様のコメントに刺激を受けて、恩賜公園をネットで検索してみた。すると、

恩賜公園(おんしこうえん)は、第二次世界大戦前に宮内省が御料地として所有していた土地が、公に下賜(恩賜)され、整備された公園である。なお、同様に庭園が下賜された場合には、恩賜庭園と呼ばれる。
恩賜公園
•上野恩賜公園(東京都台東区)
•井の頭恩賜公園(東京都武蔵野市・三鷹市)
•猿江恩賜公園(東京都江東区)
•有栖川宮記念公園(東京都港区)
•恩賜箱根公園(神奈川県箱根町)
恩賜庭園
•浜離宮恩賜庭園(東京都中央区、有料)
•旧芝離宮恩賜庭園(東京都港区、有料)

という説明が出てきた。

 箱根を除いて、4公園・2庭園が東京都の管理公園になっている。有料が庭園の2ヶ所ということだ。
 この中で、私は旧芝離宮と有栖川公園、猿江公園には足を踏み入れたことはない。
 しかしこれだけの説明しかない。「恩賜」という名前をつけなければならない法律的根拠は示されていない。都市公園法に「恩賜公園」という用語はなかったと思う。ちなみに「都市公園法 恩賜公園」でネット検索したがわからなかった。
 1945年以降、どのような経緯で「恩賜」なんていう言葉を使ってしまったのだろう。今となってはこれを調べるのは大変な労力と時間が必要となってしまったのだろうか。

 その他、「恩賜林」という言葉もあるし聞いたことがある。それは

恩賜林(おんしりん)とは、明治末期に山梨県に下賜された山梨県内の元御料林の通称。現在は県有林で、管理の一部を恩賜県有財産保護組合(通称 恩賜林組合)などが行っている。
恩賜林の誕生と明治40年の大水害 [編集]明治維新以降にそれまでの入会山は官民有地区分により官有林(国有林)となり、1889年(明治22年)には自由民権運動をうけた国家予算の国会承認導入を嫌った岩倉具視による国有財産の皇室財産化政策により御料林となる。

と言う説明が出てきた。

 国有財産が国民の目に触れたり、監査されたりするのを防ぐために、皇室財産として衣を変えてきた経緯が垣間見える。
 そんな歴史が問われないまま今もうやむやのうちに継続している歴史はとても気になる。

箱根駅伝と旅行準備

2013年01月03日 17時15分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 正月の恒例行事となっている箱根駅伝、横浜駅東口を通過する。一昨年は品川宿のあたりを妻と散策している途中に駅伝走者の通過に遭遇して、大半の走者が通過するのを見学させてもらった。昨年は横浜駅東口傍の旧東海道に隣接した沿道で観戦した。
 今年も同じ場所で、先頭走者から最後の走者の通過まで、観戦した。駅伝の観戦はさっと選手が通過してしまえばそれでおしまいなので、観戦としてはあっけないものである。先頭から最終走者まで、わずか20分あまりであった。それでも沿道にはいっぱいの応援者が途切れることなく集まり、熱心に声援をおくっている。
 走るという競技、人間のごく基本的な運動であり、また継続しやすい運動でもあり、愛好者・競技人口は多い。また観戦ファンも多い。

 観戦後は、今度は横浜駅にあるアジアンテイストの店で、ベトナム料理のランチで、二度目の下慣らし。生野菜が多く供されるのがベトナム料理の特徴かとも思える。
 その後はあさって出発のベトナム行きの荷物の用意に振り回された。ハノイの天気予報は15度から18度で雨が連続している。ホーチミン市は連日30度で晴れの予想。あさっての朝6時に家を出るが、着る物の選択がなかなか難しい。雨具、長袖と半袖、長ズボンと半ズボン、夏・冬・春の服を取り混ぜてリュックに詰め込んだ。


浜離宮と大森の鹿嶋神社

2013年01月02日 22時36分20秒 | 山行・旅行・散策
                     

 本日は親族から放鷹術の実演が行われるのを見学しようというのに誘われて浜離宮を訪れた。この公園、正式には「浜離宮恩賜庭園」という。私はこの「恩賜」という言葉がどうしても許せなくてこれまでも行こうかどうか悩んでいつも遠慮していた。
 この「恩賜」ということば、あまりに恩着せがましいというか、押ししつけがましいというか、どうしても私にはなじめない言葉である。もとは、徳川家の鷹狩場、別邸から明治維新後皇室の離宮となり、敗戦を機に都に「下賜」されたのが1945(S20)年11月。1952年11月には国の特別名勝・特別史跡に指定された。

  

 まあ「恩賜」という言葉にこだわって見に行かないというのも依怙地過ぎるし、庭園として見てみたい気持ちはあったので、今回の誘いにとりあえず乗ってみた。
 ただし放鷹術の実演の方は、参加者が多いのと、大量の鴉がすぐ近くに群れを成して舞っていたためであろうか、鷹が高木に止まって警戒して動かなかった。実演者には気の毒であったが、鷹のご機嫌はなおらず、訓練の成果の披露にはあまりならなかったようだ。私も多くの人の頭ごなしではほとんど実演者も見ることもできず、早々にその場を離れて庭園を散策した。
 すべての庭園の見所を見学は出来なかったが、池の中にある「中島の御茶屋」で抹茶と練切を注文して、それなりに満足した。高層ビルに囲まれ強風が舞う中でも静かな空間は確かにとても好ましく、貴重なものである。いい雰囲気だ。そして貴重な庭園美を維持管理する労力は、金も人手もかかる。今の自治体を巡る状況は厳しく、その上首長の動向はこういう労力を切り離そう、切り捨てようとしている。貴重なオアシスは大切に維持管理してもらいたいものだ。

               

 16時過ぎには日がかげり寒くなったので、大森にある親族の家で恒例の新年会を開いた。大森には鹿嶋神社があり、この干支の置物も妻は楽しみにしている。新年会の前にちょっとあわただしかったがここを訪れて置物を購入した。ここの神社、元日や2日の昼間は初詣で長蛇の列が出来る。さいわい日が蔭ってから行ったので3分ほど並んだら参拝できたようだ。
 新年会、お酒は持参しなくてはいけないので大森駅のスーパーのお酒コーナーで調達した。昨日記載した宮城の浦霞を販売していたのが目に付いたのだが、4合も1人では飲みきれない。ちょうどその横に八海山の発泡にごり酒という2合瓶が置いてあった。14.5度のアルコール度で2合というのはちょうどいいのでこちらを購入した。八海山はよく購入する日本酒で大変おいしいとの評判であるとのことだ。

   

 本日はこのお酒でご満悦。ただし発泡酒、日本酒の自然発泡といわれる微発泡ではなく、人工的に炭酸を加えたもので、このアルコール度は強いのかなと感じた。アルコール度を下げるか、炭酸を弱くするか、どちらかにした方がいいように感じた。

今年のおせち料理

2013年01月02日 07時22分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 例年は妻と私の母親がおせち料理を分担して作っている。例年ならば、煮しめ、田作り、なます、栗きんとん、数の子、煮豚、スモークサーモンの酢漬け、ニシン昆布巻き、伊達巻、蒲鉾などが並ぶ。もっともすべてが手作りではなく、昆布巻き、伊達巻、蒲鉾は買ってくる。そして鳥ガラスープの雑煮が出てくる。
 いづれも私の父親存命の時以来基本的に変化はない。味も変化がないと思われる。
 私はいつもかなり薄味なので、これを踏襲している味はありがたい。これまでおせち料理はいつもこのように手作りが基本だった。しかし母親も歳をとり、娘夫婦も今年は海外旅行ということで、今年は思い切っておせち料理を注文してみようかということになった。
 さいわいに割引で購入出来るということで、3人分で1万5千円少々のものを始めて注文してみた。味付けなど妻も私も不安が先立ってはいたが、楽をすることの誘惑には勝てなかった。ただし煮しめとサーモンの酢漬け、煮豚、黒豆、そして雑煮は妻と母親でこれまでどおり分担してこしらえた。
 29日に冷凍で届き、31日朝から冷蔵庫で徐々に解凍を初め、元旦の朝には食べられる状態になっていた。この購入したおせち料理の3段が差ねのお重、恐る恐るといっては作った方に申し訳ないが、味見をしてみるとかなり薄味に仕立ててあり、助かった。
 「おしながき」にもあるように40品目がずらっと並んでいて、こじんまりとしている割には量も豊富のようだ。初めて口にするような料理もあるが、特に違和感のあるものはなかった。心配した甘すぎる味、濃すぎる味ではなく、満足のいくものであった。
 おせち料理といっても昔の人は毎年正月にこんなにたくさんの種類を食べていたわけではなさそう。テレビでの情報ということだが、江戸の町民それも長屋住まいの庶民は、雑煮のほかは3品くらいが普通だったようだ。お酒がついたか否かは不明らしい。庶民がこんなに多くの種類のおせち料理を口にするようになったのは、昭和に入ってからという話もあるようだ。
 おせち料理を作る料理人の立場からはいろいろなこじつけも含めて種類を稼いだほうが一般受けもいいということで、セットの種類はこれからも膨化するばかりなのだろうが、それがはたして本当の日本料理の原点からみてどうなのかという議論はありそうだ。手が込んだからといって食文化が進化したことにはならない。
 逆に家庭でつくるおせち料理の息の長い存続のほうが文化的な厚みが増すようにも思える。ここら辺はプロの思い、腕の発揮の仕方と実際の家庭での料理の在り様との鬩ぎ合いなのかもしれない。

 まあこんなことを記載しても当の私はお屠蘇を飲みすぎて半分寝ている3が日なのである。


初詣

2013年01月01日 18時38分15秒 | 山行・旅行・散策
元旦の横浜中心部



 まったく信心無き者が初詣というのもあまりに変ではあるが、家族で毎年初詣には出かける。ただし、私はどうしても神社・仏閣その他信仰の対象物に「拝む」という行為はどうしても出来ない。でも他人が拝礼しているものを否定も出来ないし、尊重は大いにする。それでいつも境内の入口で頭を下げてから中に入る。申し訳ないが、神殿や仏壇の前で「拝礼」することはすべて遠慮させてもらっている。妻はお賽銭や拝礼をしている。
 拝礼の拒否は特にこだわりというのではないが、もう45年間それで通してきた。そう中学3年の時からだろうか。当時通っていたミッションスクールでは特に拝礼などは強制されることもなかったが、やはり自分は信じるというところにはとても遠い存在だと自覚したのを記憶している。それ以来だ。

大綱金毘羅宮
   

 まず妻は大綱金毘羅宮で毎年売られている干支の置物が気に入っている。大きさも部屋に飾るには手ごろの上、表情がいつも好みに合うそうだ。今年もなかなかかわいげのある表情の巳年の巳となっている。ここは参拝者は少ないのだが、如何せんあまりに狭い境内に、金毘羅宮と稲荷社、そして弁財天の三つが祀ってあり、人とすれ違うのにちょっとした混雑を味わう。それでも何かゆったりとしたものを感じる。
 旧東海道の神奈川宿の端っこに位置していた。歴史は平安時代からといわれているらしく、飯綱社であったらしい。すぐ傍に江戸日本橋からの7つ目の一里塚があった。

洲崎神社
   

 次に訪れたのは、この神奈川宿のすぐ江戸寄りにある洲崎神社。洲崎大神と称して、源頼朝以来ということになっている。金毘羅宮とは東海道線を挟んだ商店街の終点に位置している。昔は海に直接面していて、旧東海道がすぐ海辺を通っていたことになる。
 今でもかなり広範囲にこの神社の祭礼がさかんに行われている。神奈川区の南半分が参加しているような感じもする。特に地域の商店街では盛んなようだ。
 ということで境内もそれなりに広く、人が境内からあふれて並ぶこともある。ここは周囲の建物は低いのだが、境内は大木が並び、雰囲気は暗い。それが厳粛な雰囲気を醸し出していて、なかなかいい感じだ。海まで丘が迫っていた昔の景観が十分に読み取れる。
 住んでいるところから30分近く歩くので、高齢者には結構遠いのだが、私の団地の方にもお会いすることがある。残念ながらここの干支の置物は妻には気に入らないらしい。

穴守稲荷

            

 三番目は、近くの京急線の神奈川の駅から乗車して、羽田空港の手前の穴守稲荷を訪れた。ここは少々遠く初めて訪れた。洲崎神社よりもひと回り広い境内に、洲崎神社の数倍の参拝客が並んでいた。露店も6軒ほどならび、明るい雰囲気である。
 社殿の羽田側(多分東側)には高層マンションがならびその反対の西側らしき変には今年はとても高いクレーンがいくつも立っていた。こちらもまた高層のビルが建つのだろうか。その割には日当たりがよく、洲崎神社とは違って明るい境内である。樹木がそれほど高くなく、これはこれで悪くない。稲荷社特有の朱の鳥居が連続していて、それが日を受けてより明るく感じる。
 由緒謂れは、案内によると江戸時代に、海に突き出た新田を守るための堤防の安泰を願って作られたようだ。この付近には稲荷社がずいぶんあるようだが、京急線の駅名となって、ずいぶんとここが有名になったようだ。いかにも下町らしい、古い感じのする商店街が駅に張り付いていて活気がありそうな町並みである。

今年もよろしく

2013年01月01日 10時09分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


ご訪問者の今年一年のご健康とご活躍を祈念いたします。

 今年は、というよりも今年もというべきか、団地の東南の隅から横浜港から顔を出す初日の出を見なかった。数年前までは初日の出を浴びて、元旦らしい気分を味わってから屠蘇で軽く酔い、おせち料理と雑煮を食べていたのだが‥。さぼり癖がついてしまった。

 年末・新年のあいさつについて、昔からよく理解できないところがあった。
 「よいお正月を」「よいお年でありますように」というように「正月」特に松の内を意識したあいさつと、来年一年間の尺度でのあいさつが交じり合っている。
 一方で元旦を迎えて交わすあいさつのほとんどは「新年おめでとう」「今年もよろしく」というのが主で、新らしい年一年間を射程に入れたあいさつだ。しかし職場での初出勤では「よいお正月でしたか」などのあいさつが交わされる。
 ここら辺のことが昔はよく理解できなかった。正月三が日、あるいは松の内を平穏に何事もなく過ごすことが出来ることが一年の予祝にもつながるということが理解できていなかったためだと思う。
 最近は人生61年、さすがにあいさつの使い分けは出来るようになったが、それでもなかなかとっさには難しいもので、口ごもることが度々ある。出来るだけスムーズにあいさつを交わしたいものである。