昨晩日付の変わる直前のテレビを見ていたら、大竹しのぶが長谷川きよしと「死んだ男の残したものは」を歌っていた。
1965年に谷川俊太郎の作詞、武満徹の作曲でベトナム戦争への反戦歌として歌われた曲である。ちょうど50年前に作られた曲である。半世紀も前になってしまった。たぶん私が聞いたのはその3~4年後位だと思う。歌い手は残念ながら記憶していない。
大竹しのぶの歌い方もよかった。ネットで検索したところ彼女のものは見つからなかった。石川セリのものもあったが残念ながら音が出ない。倍賞千恵子の歌ったものがあった。
https://www.youtube.com/watch?v=dqUDgn06v9Y
死んだ男の残したものは
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない
戦争が、国と国との緊張関係から起こる事態から、70年前の戦後もたらされた秩序が崩壊するような傾向を見せながら、非国家と国家による戦争が私たちの前に現われてきている。内戦という形をとりながら、あるいは国境線をいともたやすく飛び越えて飛び火のように、再び戦争が身近なものとして世界規模のうねりのように押し寄せてきている。私たちの立ち位置をぐらつかせ始めている。
こんな時、私たちはもう一度過去の再出発の原点を再確認したいものである。
戦争に対するに、国家意志や民族意志などというものを対置するのは愚の骨頂である。国家意志としての戦争の発動は、決して平和をもたらすものではない。力の均衡は平和ではない。対話の努力の背景に必要なのは武力ではなく、戦争をしない強烈な意志である。「善か悪か、敵か味方か」という単純な論理で世界で起きている事態を両断してはならない。交渉の相手を単純な論理で裁断することは戦争への最短距離でしかない。
人間の知性はそんな単純なものでは無いと信じたいのだが、現実の政治に携わる者、その彼らを支える者にはその知性に対する信頼は無いのだろうか。
ヒトラーもスターリンも、戦争にのめり込んだ日本の政治かも軍部も、そして冷戦時のアメリカも、究極のところ「ユダヤ人か、そうでないか」「共産主義か、そうでないか」‥「お前は敵か、味方か」「善か、悪か」の二者択一でしかものを見なかった。
戦争を決断すること、戦争を煽ること、戦争しかないと発信すること、武力を背景に交渉すること、これらはもっとも安直な政治である。戦争を発動してはならない、という大前提・強烈な意志を掲げてさまざまな方策を駆使することが、もっとも困難ではあるが、最も実り多きことである。
戦争を始めた者は一時的な功名を残すが、歴史に永遠なる悪名を残す。戦争を回避した者は一時的な功名を残すことは稀だが、平和をもたらす。人の価値は平和によって測られる。