Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日はここまで

2015年03月08日 20時55分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日に続いて本日も寒い日であった。午前中は昨日の登戸研究所と明大の資料館訪問の内容と感想を綴った。午後にずれ込んでしまい、「旧朝鮮北部の神社跡地を尋ねて」という報告会に遅れそうになってしまった。何とか間に合って14時から17時45分まで参加させてもらった。
 この報告会感想は本日中にはアップできそうもない。本日は資料をスキャナーで取り込むのが精一杯かもしれない。明日以降に掲載したいと思っている。



 この報告会と同じ時刻に同じ建物で、神奈川大学法学研究所主催で「神奈川の基地問題を考える-司法・自治体行政・住民運動の役割-」というワークショップが開催されていた。こちらは事前には知らなかったので、本日は資料だけをもらってきた。
 沖縄に次ぐ基地を抱える神奈川県ならではの課題である。私の住む団地の上を厚木基地由来の軍用機が昼間大きな音をたてて飛んで行く。退職後楽しみにしていた音楽を日理も聴いていると、爆音で中断されることがある。基地から遠く離れた横浜駅の傍でもこのありさまである。この騒音がいつの間にか当たり前になってしまうことは避けなければならないと思う。基地の撤去については神奈川県・横浜市共に自治体としても最重要課題である。


明治大学平和教育登戸研究所資料館見学の感想

2015年03月08日 19時39分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 戦争というものは、どんなに「小規模」で「限定的」という言葉を使おうが、国内の資源をフルに活用し、それを支えるには極めて多くの財力と人間の力をシステムとして使い、そして人間の心に深い傷を負わせる。一人の人間が戦場で戦うとするとそれに何千倍をはるかに超える人の労力と深い傷が存在して初めて可能になるのである。これは以前から当然のように云われていることである。このことは風化して忘れられてはいけないことである。
 風化、とても残念なことにとらえられる。だがしかし、「風化」には二種類ある。
 時間の経過とともに人々の記憶の名から堆積し、沈澱していくもの。自然過程でもある。しかしこの自然過程は決して忘却ではない。いつかふと記憶の表層に浮かび上がって、過去を思い出させる。昇華するとも表現される。辛いこと、嫌なこととしてだけでなく将来へ繋がる何ものとして存在する。それは伝承という形で、口から口へ、世代を超えて伝えられる可能性をおおいに秘めているのではないか。体験は目に見えない形でも人々の中に生きていくということは、信じていいのではないか。
 もうひとつは忘却あるいは免責として人為的に強制的に「醜いこと、嫌なこと、都合の悪かったこと」として「はなかったもの」にしてしまうものである。そしてそれが別の価値、為政者の恣意的な別の理念への飛躍のためのものである可能性がとても高い。
 イラクに派遣された1000名を超すの自衛隊員では実に28名の方が残念ながら現在時点で自ら命を絶っているという。これはとても大きな数字である。どのような経緯なのかは私の手元には資料が無いし公表もされていないようだが、これとても個人の琴として忘却されてはいけないことである。
 日吉台地下壕の時も、本土決戦に備えた特攻兵器として考えたというものがとても人間の思考から生まれたものとは信じられないものである。この陸軍の研究所の内容も人のしてのあり様からは許されるものではない。
 これらのことは忘却してはならないことである。人為的な忘却並びに免責は許されることではない。

 今の政府のあり様は私はとても容認できないと思っているが、同時にそのような姿勢は各種組織の中で今でも平然と行われている。
 昨年私がこのブログ(2014.8.26付)で記した東北大学もその典型であると思う。まずは魯迅記念展示室での展示内容に私は意義を挟んだ。
 周樹人=魯迅が医学の道を断念して文学の道に導いたいわゆる「幻燈事件」。「藤野先生」という魯迅が敬愛した実在で実名の藤野厳九郎博士との交流を描いた作品の中で「(映写された幻燈に)ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現れた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて銃殺される場面であった。取り囲んで見物している群衆も中国人であり、教室の中には、まだひとり、私もいた。」という有名な場面がある。吶喊自序では銃殺が日本軍に首を斬られる」という風に変容されている。
 幻灯があったことは確認できるが敢えて「この話には文芸作品としてのある種の創作が含まれていると思われるが‥」と記述する姿勢はいったい何なのだろう。当時中国人をおくれた民族として差別する日本国内の世論の中で周樹人=魯迅はどこかでこの種の体験をしたか、見聞きしたのであろうことは想像に難くない。
 仙台という地も、医学専門学校の構内も決してこのような風潮とは無縁ではなかったはずだ。せめて展示では、そのような風潮に当時の大学そのものが無自覚であったことに反省するなりの言質を私は求めたいと思う。そうでなければ留学生を受け入れる資格はないものと思う。
 都合の悪いことは「なかったことにする」姿勢はこれだけではない。東北大100年史の展示コーナーでは、1971年の学費闘争がこじれて、8割近い学生が期末試験をボイコットしたこと、75%が留年したこと、2年続けて卒業生が75%にとどまり、仙台の産業界だけでなく東北の全体に極めて大きな影響を与えた自体がまったく触れられていない。その前段の1969年の封鎖事件では学生から奪い取った旗を戦利品のように展示し、そしてこの事態はまったく無視をし、無かったことにしている。
 都合の悪いことをなかったことにする姿勢は、今の政府のとんでもない姿勢とまったく同じである。

 わたしは日吉台の地下壕と登戸研究所が敗戦日の日にそれまでの記録をすべて焼却処分にし、それまでのことが「なかったこと」にしてしまうあの戦争の惨禍をもたらした政治指導部と現在の東北大学のみっともない姿勢が二重写しに重なった。

 どんな場合でも「歴史をなかったことにする」「都合の悪いことは忘却させる、触れない」さらには「美化」してしまうという「歴史を改ざんする修「正」主義」は断じて許されることではない。
 我が身を常に振り返ることを続けていきたいものである。

「陸軍登戸研究所」見学会&明治大学平和教育登戸研究所資料館

2015年03月08日 13時02分31秒 | 読書
         

 川崎の生田にある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪れた。広大な明治大学生田校舎の敷地の一角にあるこの資料館と敷地内にある弥心(やごころ)神社、動物慰霊碑、「弾薬庫」跡、当時の消火栓などを見学した。ここの広大な生田キャンパスの敷地は1945年敗戦までは陸軍兵器行政本部所管の「第9陸軍軍事技術研究所」(登戸研究所)の跡地であったのを1950年に明治大学が購入して現在の形にしたものであった。
 この「研究所」は防諜・諜報・謀略・宣伝を意味する「秘密戦」のための兵器・資材の研究・開発をする、いわゆる戦争の裏面を支える部門であった。存在自体が秘密とされてきた部門である。
 始めは1937(S12)11月に「陸軍科学研究所登戸実験場」として発足した。初期は電波兵器、レーダーなどの無線機器、宣伝機器の開発をしていたが、2年後には毒物・薬物・細菌兵器・スパイ用品の開発、偽札・偽造パスポート製造などがおこなわれるようになった。
 1942年以降は風船爆弾も製造し、最盛期には11万坪、100棟に1000名を超す所員が従事していたという。研究所機能は1945年本土決戦ということで長野県伊那地方に分散疎開しそこで敗戦を迎えるが、地元雇用の職員はその時点で解雇されたようである。

将校・技師などの幹部職員は云うに及ばす、地元雇用の職員にも従事した業務には硬く口止めがされていて、その呪縛を解く努力が地元研究者の間で粘り強く行われ、ようやく戦後40数年も立ってから、研究所の研究内容、業務内容が少しずつ明らかになったという。この呪縛が多くの人々の人生を規定してきた。戦争というものの癒すことの極めて困難な傷跡がここにも存在していた。

 今回は資料館では「紙と戦争」という企画展を催していて、風船爆弾と偽札製造についての展示が多かった。
 風船爆弾は9000個が飛ばされたようで、確認されたもので361個の爆弾がアメリカ本土、カナダ、メキシコに着弾している。私たちが中学生のころ、歴史の授業で「笑い話」の一環としてこの風船爆弾の話を教師がしていたが、当時陸軍が本気になってかつこれほど大規模に実行していたのは知らなかった。
 メカニズムの開発、風船の素材の特注和紙の開発と調達、搭載爆弾の開発などが詳しく展示されている。
 和紙の開発は今回ユネスコ無形文化遺産登録となった埼玉県小川町が行い、四国の和紙などを中心に全国から特注和紙が取り寄せられたという。和紙をこんにゃく糊で張り合わせ化学処理をして軽量で丈夫な気球をつくる工程では勤労動員などで女学生などが使われた。
 高度5000mで太平洋を9000mも横断するメカニズムの詳細は今ひとつわからなかったが、二昼夜以上かけてバラストの投下を何回かしながら高度を維持し続けたらしい。気圧計を利用した高度維持装置を働かせたようだ。
 搭載された爆弾は当初は牛疫ウィルスを利用した生物兵器を予定し、「アメリカ人の食生活に打撃」を狙ったらしいが、解説によると「アメリカの報復を恐れて陸軍中央の判断」で通常爆弾・焼夷弾に変更された
 偽札製造は、日中戦争が長期化する中で中国経済の混乱をはかり、中国での軍による物資調達を容易くするために、中華民国国民政府が発行していた紙幣の偽札を大量にここの登戸研究所で作成し、中国国内に持ち込んでいた。国際法上きわめて問題となる国家による他国の模造紙幣の作成は極めて厳重な秘密扱いとされた。製紙・製版・印刷・インク調達などがここで行われた。
 当時中国では日本の物資調達でインフレーションが極度に進み、結果としては偽札は全発行高の1パーセント未満に留まり、作戦としては失敗したという評価となる。しかし日本がもたらした極度のインフレーションが蒋介石政権の国内での信頼を失わせ、国民党政権の崩壊・台湾脱出へとつながる。

 生物兵器では小麦の被害を与える細菌、稲を枯らせる細菌や稲の害虫の散布実験も行われた。風船爆弾に登載される予定であった牛疫ウィルスの開発も行われた。
 毒物兵器では中国国内に持ち込んで青酸ニトリルを実際に使った人体実験が行われ、その時の模様を証言した手記も公表されている。

 詳しくは添付のパンフレットを読んでいただきたいが、秘密とされたこの研究所の全容は残念ながら公式文書としては残されていない。
 海軍の日吉台地下壕の記録と同じように、1945年の二ヶ月ほど前から廃棄・焼却・証拠隠滅が行われ、文書・資材・機材が失われた。ごく限られた文書が奇跡的に見つかったり、戦後40数年たってからの生存者の手記・証言が当時を復元するよすがとなっている。
 和紙の技術、水のろ過器等々の技術は敗戦後も活かされているが、ほとんどは記憶とともに失われている。その失われたことの原因のひとつとして米軍による登戸研究所の研究成果の冷戦下の活用方針である。研究所の将校・技師等については極東軍事裁判(東京裁判)で情報提供と引き換えの免責が行われ、朝鮮戦争そしてベトナム戦争にまでその成果が活用されたと云われている。

            

明日は「第3回海外神社研究会」(神奈川大学)

2015年03月07日 22時23分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は冬に逆戻りしたような寒い日であったが、「陸軍登戸研究所」見学会に参加した。雨は小雨で傘をささずとも歩ける程度で、ほとんど降っていない等しかったのはさいわいであった。
 普段は利用することの無い南武線の武蔵小杉駅から登戸駅まで、小田急線で登戸駅から生田駅まではかなり時間がかかった。生田駅から歩いて10分ほどで明治大学生田キャンパスにたどり着いた。生田キャンパスも初めて足を踏み入れた。
 見学会の模様等は明日以降にアップする予定である。

 朝から所用を済ませて駆けつけたので昼食も口にせず、一層寒さが身に沁みた。終了後日吉まで戻ったところで早目の夕食をとって先ほど帰宅。

 明日は朝一番で団地の管理組合の諮問機関の会議。午後からは神奈川大学非文字資料研究センターの「第3回海外神社研究会」が開催される。日本の朝鮮半島支配時に建立された神社のその後の姿を解明するもので、「旧朝鮮北部の神社跡地を訪ねて」という報告がある。


「旧陸軍登戸研究所」見学会に参加予定

2015年03月07日 08時46分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から雨が続いている。朝早くから所用がありそれを済ませて午後から妻と合流し、川崎市にあった旧陸軍登戸研究所の見学会に参加することになっている。雨天決行らしい。
 私はこの研究所で何が行われていたのかはあまり詳しくはないので、見学会終了後にレポートをしたいと思っている。ブックレットは購入しているがまだ読みこんでいはいない。
 中国の紙幣の偽造、風船爆弾、生物化学兵器などが行われていたということは聞いてるが、それ以上のことは残念ながら無知である。

ショパン「バラード、スケルツォ」(ルービンシュタイン)

2015年03月06日 21時50分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 久しぶりにショパンのバラードを聴きたくなってひっぱり出してきた。懐かしいメロディーがスピーカーから流れてくると嬉しいものである。
 アルトゥール・ルービンシュタインが1959年に録音したもの。バラード4曲とスケルツォ4曲が収録されている。本当はルービンシュタインのショパンの独奏曲全体を購入したいと思ったことがあるのだが、残念ながらいつの間にかそのままになっている。今私が持っているルービンシュタインのショパンは、ノクターン全曲とこのバラード、スケルツォだけである。しかもその後どういうわけかアシュケナージの演奏でショパンの全曲を揃えている。30代後半から40代に揃えたと思うが、その意図は今ではまったく覚えていない。

 外では雨が降り始めたという情報が入ってきたが、雨の音はしていない。音も無く冷たい雨が降っている。「雨水」が過ぎて「啓蟄」の最初の日にふさわしい雨と理解することにしよう。ショパンのバラードを聴くにはとてもいい感じの夜である。

         


3月もまた慌ただしい

2015年03月06日 21時12分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の打ち合わせ会議で、今月前半の日程がまたどっと入ってきた。目いっぱいでチョイと厳しい。20日までぎっしり。もっとも13~15日は休養がてら甲府市近郊の温泉に浸かりに行くので文句はないが‥。
 15日の午後は甲府の傍で食道癌の手術後の養生をしている友人の退院祝いと自宅での養生のお見舞いを兼ねて自宅を訪問する。電話では元気な様子である。
 26日、27日は年末に亡くなった義兄の納骨のために仙台を訪れる。ついでにいろいろと調査をしたいこともある。
 4月の中旬までは落ち着かない日々が続くことになりそうである。講座は4月はまだほとんどはじまっていないので、受講には支障はないのが嬉しい。

思わず購入した!高階秀彌著「名画を見る眼」(正・続)

2015年03月06日 09時55分52秒 | 読書
 ときどき横浜駅にある有隣堂でそれとなく探していた本が2冊揃って棚に置いてあった。岩波新書の「名画を見る眼」「続 名画を見る眼」(高階秀彌)である。1969年と1971年に第一刷が売り出されている。
 美術館で絵が見るのが楽しみになった私がまだこの名著を読んでいないというのは恥ずかしい話である。実は学生のころ本屋で手にしたことがある。興味はあった。しかし当時は絵というものを見るのは好きであったが、それほど強い関心があったわけでもないし、当時私が興味があったのが坂本繁二郎とゴッホだけであった。ゴッホは取り上げていたが、そこだけ斜め読みして私の気分と合わないと感じて棚に戻してしまったのを覚えている。それ以来縁がなかった。
 ここ4~5年ほどこの本が気になり、入門書として再度目をとおしたいと思ってはいたが取り寄せるほどのエネルギーは湧いてこなかった。それでも新書や文庫本の棚を見るときはそれとなく探していた。年々読みたいという思いは強くなっていて、先日両方とも棚に揃っているのを見て即座に手に入れた。
 財布に入っている小銭では足りなくて、合わせて1533円を少額なので少々恥ずかしかったもののクレジットを利用入した。
 本日からこれをリュックに入れてときどき目をとおすことにした。著者はすでに85歳になっている。1992年から2000年まで国立西洋美術館の館長であった。多数の著書があるが、どれも読んだことがない。好き嫌いは別として、美術愛好家としては読まないことには失格だと誰かに云われたことがある。


「殷-中国最古の王朝」(落合淳思)

2015年03月05日 23時23分33秒 | 読書
   

 本日読み終わったのは「殷-中国最古の王朝」(落合淳思、中公新書)。
 殷については、白川静の甲骨文字についての著作、岡村秀則の「夏王朝」、伊藤道治「中国古代王朝の形成」などを読んだことがある。
 その他にもいくつか目にしたことがあるが、上記以外は周代以降の中国の歴史書、特に史記などに大きく依存したもので考古学や、科学的な史料批判に基づかないものが多く、いつも首を傾げる者ばかりであった。伊藤道治の著作は時代的な制約があるが、そこらへんを克服しようとしていたように思える。白川静は「文字学」の立場から思弁的にさまざまな殷の時代の文化・思考・政治を論証しようとした点でとても魅力的である。後代の史記などの著作にとらわれない論考を追及している。ただしやはり史料が限られていたり、考古学的な裏打ちが無いもどかしさを常に引きづっていた。
 この本の著者は白川静記念東洋文字文化研究所研究員という肩書からも想像できるが、白川静の研究成果を踏まえた論考であると信じられる。読み進めるうちに白川静の殷に対する理解の修正をしながら新しい殷という国を捉えなおしている。たとえば「子某」が王の子孫や擬制的な親子関係でもないことを明らかにしている。その結論が正しいのかどうかも含めて示唆の段階であるようだ。また甲骨文字に二系統の流れがあったことなども初めての知見であった。
引き続き著者の研究の進展をのぞみたいと思う。

忘れていた月に一度の飲み会

2015年03月05日 22時31分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 すっかり忘れていたが、本日は大久保での月に1回の集まりであった。昨日急に予定がなくなって休養日となり、ホッとして忘れてしまった。昨夜18時に友人と近くの駅の喫茶店で会うことを決めたときには頭の片隅にちゃんとあった。1時間ほど遅刻して参加してもいいと考えているうちに、頭の中から消えていた。多分今朝起きたときにはもう頭から消えていたと思う。
 スケジュール表にはちゃんと記載しているのに、それを見ることもしなかった。最近はどうもこのようなことが多くなったように思う。

 出席義務があるわけでもないし、欠席したから怒られるわけでもない集まりなので、その点は気は楽である。そして散財しなかったと思えば、それはそれで悪くない。


「鶴見川流域のくらし」横浜歴史博物館

2015年03月05日 21時26分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 午後から横浜歴史博物館を訪れた。企画展の「鶴見川流域のきらし-生業・水運・信仰・祭礼」を見てきた。
 鶴見川の水運に興味があった。八王子までの往来が江戸時代はどうして鶴見川沿いで舟運を使わなかったのか、というのが昔疑問に思っていた。その後各種講座で聴いたところによると、川舟では小机城あたりが川船の運行の限界で、それより上流と、源流域の町田を過ぎて八王子までは、起伏が多く陸路はつらいという指摘が多かった。確かに陸路では起伏が多い。今の16号線沿いに八王子に向かう方が起伏は少ないようにおもう。しかし帷子川は川幅が鶴見川よりも狭いので陸路が多いので荷はあまり効率的に運べない。さらに町田を過ぎるとこのふたつの陸路は随分と接近する。したがって陸路部分が厳しい、という指摘はどうもすんなりと納得できないでいる。今回鶴見川はどの辺まで船で溯上て来ていたのか知りたくて訪れた。
 展示を見る限り今の綱島あたりまでは長さが10メートルほどの川舟が溯上できていたようだ。5トンくらいの荷は運べたらしい。さらに小さな船では小机を越えてはいたようだ。しかし小机より2キロ位が限度ではないかというような印象を持った。
 その根拠は、明治維新後横浜・東京に供給するためこの鶴見川沿いで天然氷の製氷が行われていたということに示されていた。今ではとても信じられないが、明治初期この付近に多い谷戸では12月から2月の平均気温が氷点下であったらしく、天然氷の製氷がかなり活発だったとのことである。その氷を鶴見川の舟運で関内の氷室まで運んだらしいが、製氷所の分布が小机から2キロ位上流まで及んでいることから小さな川船で運んだのではないかと類推してみた。それよりも上流には製氷所は出来ていなかった。氷は鶴見川の河口まで川舟で運び、そこで艀に積み替え関内の港を経由して中村川沿いの氷室に搬入していたという。無論陸路の運搬も存在していたようで、今の地下鉄岸根公園駅=篠原池を経由して関内まで陸路を多分馬で運んだ記録も展示されていた。

 これより上流の鶴見川沿いの陸路は、八王子から小机までは歩いたことがあるが、下りだったこともありあまり難路には思えなかった。今度は逆に溯上してみることと、現在の国道16号線沿いの陸路も歩いて、どの程度の差があるかいつか実際に実感してみたいと思う。
 ただし昔の道であるから、自然環境だけでなく、所領の配置の関係などの社会的な要因も考慮に入れないといけない。もうすでに私も納得する回答はあるのかもしれない、私だけが答えを知らない可能性も高い。答えはすぐに見つかってはつまらないから、このまま少しずつ解明できればそれでいいと思っている。

 さて今回の展示で驚いたのはこの「製氷」という事業が盛況であったことである。さらに江戸時代からこの鶴見川沿いが素麺の生産地として栄えていたことは知らなかった。小麦やエゴマ油の仕入先までもわかっているとのこと。また柿栽培で江戸時代から大正時代までかなりの収入源であったらしい。明治以降はこれに桃の栽培が加わる。桃はひとつひとつ紙袋に入れて出荷していたらしく、現在にまでつながる作業のあり方に驚いた。
 江戸や神奈川の宿、そして開港地という消費地を背景とした商品作物の在り方は、江戸時代から昭和初期までその構造が変わらなかったらしいということのようである。
また煉瓦造りでも栄えたらしい。開港地の需要が高かったこと、鶴見川の舟運が洋風の都市の建設も支えていたらしい。

 その他、様々な習俗などの展示も興味を惹いたが、報告はここまでとしておきたい。

明日から啓蟄

2015年03月05日 20時02分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は予定が変更になって、休養日。18時から家の傍で15分から長くても30分位、退職者会の友人と喫茶店で会うことにした。
 天候は風も弱く陽射しがあって気持ちのいい日である。本日は十五夜、明日が満月。
 2月19日からの「雨水(陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也)」は本日まで。明日から3月20日までは「啓蟄(陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出れば也)」である。

 お昼前後は読書タイム。その後18時までどうするか?
 頭に思い浮かべたのは、横浜市歴史博物館の「鶴見川流域のくらし-生業・水運・信仰・祭礼-」展。鶴見川の水運は、江戸時代までは今の新横浜駅の先の小机城まで舟で行かれたと聞いているが、それを確かめられるかもしれないという期待を持っている。
 14時過ぎになって出かける気分になっているか、その時に判断しようと思う。

シベリウス「クッレルヴォ」

2015年03月04日 22時09分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日日本シベリウス協会主催のシベリウス生誕150年シリーズ、シベリウス作曲「クッレルヴォ」を聴いてきた。会場は錦糸町にあるすみだトリフォニーホールの大ホール。
 オーケストラ90余名、男声合唱団90余名、メゾソプラノとテノールの独唱、指揮者と190名余りの人数での演奏であった。
 久しぶりに大規模な管弦楽曲を生で聴いた。しかもこれだけの大人数の男声合唱つきの演奏は迫力は満点であった。そしてこの曲、私はこれまで聴いたことはない。
 作品番号7というこの曲はシベリウスが27歳の時1892年に初演されている。カレワラという「民族叙事詩」が1835年に編纂され、当時ロシアからの独立をめざしナショナリズムが高揚した時の作品である。シベリウスという作曲家の出発点でもある。しかしフィンランディアやトゥオネラの白鳥を作曲した1899年以降は、後期ロマン派、フランス印象派風の作風に変化していく。
 シベリウスが世界性を獲得していくのは、1899年頃、交響曲第1番を作り上げる頃からと私は感じている。
 この曲も悲劇的で劇的な叙事詩に合わせて、オーケストラの高揚は暴力的ともいえる不協和音の連続で占められる。
 私はどちらかというとクッレルヴォやフィンランディアなどの作品よりも、この変化した作風に惹かれてシベリウスファンになっている。
 しかしナショナリズムの渦の中で作られた初期の作品にも当然にも後期のシベリウスさらしさは随所にみられる。それが具体的にどのような表現、楽器の使い方、和音の進行、メロディーの特徴なのかは指摘できるほどの力が無いのは残念であるが、聴いているとシベリウスを聴いているのだな、と確か納得する。激しいリズムや不協和音、メロディーの作り方などにそれを感じる。
 要所要所の行進曲風の場面ではチェロやコントラバスによるリズムの刻み方も印象的である。それはティンパニーに移行したりするが、魅力的な表情をしている。また混沌の中からふと繊細で美しいメロディーラインが浮かび上がってくるところなどに感じることが出来る。

 叙事詩の進行に合わせた曲で、85分という長時間の曲である。合唱と独唱は第三楽章と終楽章の第五楽章に登場する。この曲の山場である。しかし第二楽章、第四楽章も単独の管弦楽曲としてもすぐれている。特に私は第二楽章、それも終盤が気に入った。

 会場では、同じ曲を渡邉暁雄指揮、東京都交響楽団の1978年のCDが格安で販売されていた。こちらも今度じっくり聴いてみようと思う。

         

古屋紀之氏講演「横浜の弥生土器」

2015年03月04日 13時41分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日の古代史セミナーは横浜市埋蔵文化財センターの古屋紀之氏の「横浜の弥生土器」ということで講演。13時30分から15時30分まで2時間、入門的なことから氏の推論まで中身の濃い、示唆に富んだ講演であった。
 横浜の弥生土器という題であるが、当然にも横浜市域という枠に弥生時代の人々が囚われていたわけではないので、南武蔵、相模、上総という枠組みでの話となった。今でいうと埼玉南部、東京、神奈川、千葉北部という範囲になる。

 講演で云われた内容では、
1.関東地方の弥生時代の後期の土器は彩色や縄目文で装飾が近畿などの他の地域に比べ際立っていること。
2.後期には土器ごとの集団が細分化されて併存していること。
3.日本海側から中部高地を経由した流通・影響を考慮すべきこと。
4.相模は東海からと、日本海側から、東北地方からの三つの流れの接点でもあること。
が印象に残った。

 その上で、
a.なぜ装飾が際立っているか、なぜ地域文化圏が成立したか
b.併存している土器様式による集団の文化的差異は何か
c.紋様(図像)の表す世界観は何か
という問題意識を設定されていたと思う。

 aについては弥生時代の途中の一時的なの寒冷化(?)に伴う人口減少時期の現象から、後期後半の人口回復期の現象の考察をされていた。人口減少期の集団の過疎化と点在。人口回復期に現われる集団の細分化、そして集団同士の差異化の進展。これらから説明を試みていたと思う。
 日常使う土器の製作者が女性であったことから、通婚とともに土器の様式の広がり等の説明がされていた。
 bについては日本海側からの文化の流入は鉄器を要素としていた可能性があること、従来の青銅器だけの文化との差が窺えることを示唆されていたと思う。鉄器を持った集団とそうでない集団の差が、土器様式の差であるらしい。
 cについては私も持っても興味がある。単なる紋様ではなく、地理的な世界観などを象徴しているのではないか、との示唆は刺激的である。渦や三角の紋様、楕円の紋様などが山や海や、船や田の象徴と捉えられるとすれば、弥生人の世界観へのアプローチもあり得る。そのような目であらためて紋様を見てみたいと思った。

 私の拙い理解力なので、誤解、理解不足、間違いはあると思う。お許しを願いたい。

本日の午前中の講座は自主休講?

2015年03月04日 10時59分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 やはり朝がつらかった。深夜に帰ってから朝10時の講座に出かけるのにはお疲れモード。午後からの講座には出るつもりだが‥。歳の所為にはしたくはないが、若くはないことは確かである。

 17時からは団地に戻って、集会所で打合せ。何かと気ぜわしい一日になりそうだ。

 本日は気温が18℃とかなり温かになるとの予報である。しかし今のところ曇り空、湿気がある。