「ポンビドゥーセンター傑作展」でピカソの有名な「ミューズ」(1935)を見ることが出来た。
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1925年頃からピカソはアンドレ・ブルトンの影響をうけシュルレアリズムの影響を受ける。この時期と重なるように1927年から44才のピカソはマリー=テレーズを愛人とする。そして1935年、この絵の描かれた4か月後にマリーの妊娠が明らかとなり、ピカソは妻オルガと別居する。
しかしシュールレアリズムの影響、アンドレ・ブルトンの影響とはこの絵の具体的にどこに現われているのか、というところは私の力ではわからない。
描かれている物をまずは具体的に検討してみることからしか、わたしには手立てはない。描かれている二人の女性、一人は紫色の服を着て、テーブルのようなものに頭を載せて寝ていることは間違いが無いようだ。しかし年上と思えるもう一人は果たして何を描いているのだろうか。ネットでは「鏡に映った自身の姿を描いている」という指摘もあったが、果たしてそのように断定できるのだろうか。
白い服を着て乳房を見せているようにも見える女性が何かを描いていることは確かだ。その前方に鏡らしきものはある。しかし鏡と断定はできない。黄色の額縁のようなものが額縁の中にも見えるので、鏡に映った絵画作品かもしれない。しかし額の外にはそれらしきものは描かれていない。また描いている女性の姿も写っていない。鏡を使って自画像を描いているというよりも、絵画作品を模写しているといってもいい。ピカソ自身の何かの表記に自画像と断定しているのだろうか。
次に寝ている女性がマリー=テレーズだと指摘している解説もあった。これも肯定も否定も私は出来ない。画家の現実世界の現実的な人間関係だけで作品を解釈するのは、鑑賞とは言えないと思う。妻オルガとの関係も含めて、そのような不安な関係を抱えた女性には見えないほど、穏やかな表情の落ち着いた雰囲気で寝ている。反対に、何かを描いている女性はどこか不安な目を持ち、表情に影がある。この二人の女性には、作品としての描写からは意志の疎通、コミュニケーションが感じられない。別次元の女性のようだ。また描いているピカソとも画家とモデルという関係すら希薄に思える。ピカソにとっては妻オルガもマリーも女神であったことは事実なのだろう。ピカソにとってはお互いの存在は秘密であって、画面上も没交渉な女神を作品の上で同在させたということなのだろうか。だが、やはりそこに意識が向いてしまうのは、やはり違うようである。
そして描かれているものは何か、ということ以前に、明るい緑を中心とした色彩のバランスに私は惹かれた。そもそもわたしはピカソの色彩が私は気に入っている。白い服を着た女性と青い敷物、、紫の着物とその服を着た女性の明るい青の肌、壁のの3種類の緑の色の配置、花瓶に活けた花の細かな色の配分、黄色の額縁と画中画の黒とオレンジ色の線、どれもが互いにひきたつように用意周到に配色されている。そして明るさにかかわらず落ち着いた画面のように見せる形。これがこの絵の基本だと思う。二人の女性の関係、また作者ピカソとの関係、何かを描いているポーズの謎、これらは鑑賞者の想像を刺激する要素である。
題名からするとピカソにとっては女性はピカソの創造意欲をかき立てるのに重要な役割を果たしていることを匂わしている。
残念ながら私はこの先を記載する知識はない。
ネットで検索していたら、2016.7.1月号の週刊朝日の、パリ・ピカソ美術館館長のローラン・ル・ボン氏のインタビューに基づく記事に行きついた。次のように記されていた。
【https://dot.asahi.com/wa/2016062300121.html】
「愛がピカソに絵を描かせた、と言ってもいいでしょう。新しい女性が現れたとき、より多くの創作を行っていますし、よりエネルギーに満ちた作品が生まれています」
ル・ボン氏はそう認めながらも、伝記的な見方から作品を楽しむだけではもったいないと指摘する。
「本作に描かれた2人が誰なのか、知る者はいません。最愛のマリーと、妻オルガだと考える人もいる。でも私にとっては、現実の世界にはいない抽象の“女神”なのです」
どのような読み解き方も可能なのが、ピカソの面白さだと言う。
「右の女性は絵を描いているようにも見えるし、左に置かれた鏡は絵でもある。絵とは何か、という暗喩(メタファー)ではないかと思っています。花などのディテールや、鮮やかな色彩もすばらしい。ピカソは線で描き、マティスは色で描いたと言われていますが、この絵を見ると、ピカソも非常にすぐれた色彩感覚を持っていることがわかります」
自分ならではの視点で、ピカソの“女神”を堪能したい。
私はとりあえずは鑑賞の入口までは自力でたどり着いていたようだ。
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1925年頃からピカソはアンドレ・ブルトンの影響をうけシュルレアリズムの影響を受ける。この時期と重なるように1927年から44才のピカソはマリー=テレーズを愛人とする。そして1935年、この絵の描かれた4か月後にマリーの妊娠が明らかとなり、ピカソは妻オルガと別居する。
しかしシュールレアリズムの影響、アンドレ・ブルトンの影響とはこの絵の具体的にどこに現われているのか、というところは私の力ではわからない。
描かれている物をまずは具体的に検討してみることからしか、わたしには手立てはない。描かれている二人の女性、一人は紫色の服を着て、テーブルのようなものに頭を載せて寝ていることは間違いが無いようだ。しかし年上と思えるもう一人は果たして何を描いているのだろうか。ネットでは「鏡に映った自身の姿を描いている」という指摘もあったが、果たしてそのように断定できるのだろうか。
白い服を着て乳房を見せているようにも見える女性が何かを描いていることは確かだ。その前方に鏡らしきものはある。しかし鏡と断定はできない。黄色の額縁のようなものが額縁の中にも見えるので、鏡に映った絵画作品かもしれない。しかし額の外にはそれらしきものは描かれていない。また描いている女性の姿も写っていない。鏡を使って自画像を描いているというよりも、絵画作品を模写しているといってもいい。ピカソ自身の何かの表記に自画像と断定しているのだろうか。
次に寝ている女性がマリー=テレーズだと指摘している解説もあった。これも肯定も否定も私は出来ない。画家の現実世界の現実的な人間関係だけで作品を解釈するのは、鑑賞とは言えないと思う。妻オルガとの関係も含めて、そのような不安な関係を抱えた女性には見えないほど、穏やかな表情の落ち着いた雰囲気で寝ている。反対に、何かを描いている女性はどこか不安な目を持ち、表情に影がある。この二人の女性には、作品としての描写からは意志の疎通、コミュニケーションが感じられない。別次元の女性のようだ。また描いているピカソとも画家とモデルという関係すら希薄に思える。ピカソにとっては妻オルガもマリーも女神であったことは事実なのだろう。ピカソにとってはお互いの存在は秘密であって、画面上も没交渉な女神を作品の上で同在させたということなのだろうか。だが、やはりそこに意識が向いてしまうのは、やはり違うようである。
そして描かれているものは何か、ということ以前に、明るい緑を中心とした色彩のバランスに私は惹かれた。そもそもわたしはピカソの色彩が私は気に入っている。白い服を着た女性と青い敷物、、紫の着物とその服を着た女性の明るい青の肌、壁のの3種類の緑の色の配置、花瓶に活けた花の細かな色の配分、黄色の額縁と画中画の黒とオレンジ色の線、どれもが互いにひきたつように用意周到に配色されている。そして明るさにかかわらず落ち着いた画面のように見せる形。これがこの絵の基本だと思う。二人の女性の関係、また作者ピカソとの関係、何かを描いているポーズの謎、これらは鑑賞者の想像を刺激する要素である。
題名からするとピカソにとっては女性はピカソの創造意欲をかき立てるのに重要な役割を果たしていることを匂わしている。
残念ながら私はこの先を記載する知識はない。
ネットで検索していたら、2016.7.1月号の週刊朝日の、パリ・ピカソ美術館館長のローラン・ル・ボン氏のインタビューに基づく記事に行きついた。次のように記されていた。
【https://dot.asahi.com/wa/2016062300121.html】
「愛がピカソに絵を描かせた、と言ってもいいでしょう。新しい女性が現れたとき、より多くの創作を行っていますし、よりエネルギーに満ちた作品が生まれています」
ル・ボン氏はそう認めながらも、伝記的な見方から作品を楽しむだけではもったいないと指摘する。
「本作に描かれた2人が誰なのか、知る者はいません。最愛のマリーと、妻オルガだと考える人もいる。でも私にとっては、現実の世界にはいない抽象の“女神”なのです」
どのような読み解き方も可能なのが、ピカソの面白さだと言う。
「右の女性は絵を描いているようにも見えるし、左に置かれた鏡は絵でもある。絵とは何か、という暗喩(メタファー)ではないかと思っています。花などのディテールや、鮮やかな色彩もすばらしい。ピカソは線で描き、マティスは色で描いたと言われていますが、この絵を見ると、ピカソも非常にすぐれた色彩感覚を持っていることがわかります」
自分ならではの視点で、ピカソの“女神”を堪能したい。
私はとりあえずは鑑賞の入口までは自力でたどり着いていたようだ。