Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ピカソ「ミューズ」

2016年09月12日 22時40分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「ポンビドゥーセンター傑作展」でピカソの有名な「ミューズ」(1935)を見ることが出来た。



 1925年頃からピカソはアンドレ・ブルトンの影響をうけシュルレアリズムの影響を受ける。この時期と重なるように1927年から44才のピカソはマリー=テレーズを愛人とする。そして1935年、この絵の描かれた4か月後にマリーの妊娠が明らかとなり、ピカソは妻オルガと別居する。

 しかしシュールレアリズムの影響、アンドレ・ブルトンの影響とはこの絵の具体的にどこに現われているのか、というところは私の力ではわからない。
 描かれている物をまずは具体的に検討してみることからしか、わたしには手立てはない。描かれている二人の女性、一人は紫色の服を着て、テーブルのようなものに頭を載せて寝ていることは間違いが無いようだ。しかし年上と思えるもう一人は果たして何を描いているのだろうか。ネットでは「鏡に映った自身の姿を描いている」という指摘もあったが、果たしてそのように断定できるのだろうか。

 白い服を着て乳房を見せているようにも見える女性が何かを描いていることは確かだ。その前方に鏡らしきものはある。しかし鏡と断定はできない。黄色の額縁のようなものが額縁の中にも見えるので、鏡に映った絵画作品かもしれない。しかし額の外にはそれらしきものは描かれていない。また描いている女性の姿も写っていない。鏡を使って自画像を描いているというよりも、絵画作品を模写しているといってもいい。ピカソ自身の何かの表記に自画像と断定しているのだろうか。

 次に寝ている女性がマリー=テレーズだと指摘している解説もあった。これも肯定も否定も私は出来ない。画家の現実世界の現実的な人間関係だけで作品を解釈するのは、鑑賞とは言えないと思う。妻オルガとの関係も含めて、そのような不安な関係を抱えた女性には見えないほど、穏やかな表情の落ち着いた雰囲気で寝ている。反対に、何かを描いている女性はどこか不安な目を持ち、表情に影がある。この二人の女性には、作品としての描写からは意志の疎通、コミュニケーションが感じられない。別次元の女性のようだ。また描いているピカソとも画家とモデルという関係すら希薄に思える。ピカソにとっては妻オルガもマリーも女神であったことは事実なのだろう。ピカソにとってはお互いの存在は秘密であって、画面上も没交渉な女神を作品の上で同在させたということなのだろうか。だが、やはりそこに意識が向いてしまうのは、やはり違うようである。

 そして描かれているものは何か、ということ以前に、明るい緑を中心とした色彩のバランスに私は惹かれた。そもそもわたしはピカソの色彩が私は気に入っている。白い服を着た女性と青い敷物、、紫の着物とその服を着た女性の明るい青の肌、壁のの3種類の緑の色の配置、花瓶に活けた花の細かな色の配分、黄色の額縁と画中画の黒とオレンジ色の線、どれもが互いにひきたつように用意周到に配色されている。そして明るさにかかわらず落ち着いた画面のように見せる形。これがこの絵の基本だと思う。二人の女性の関係、また作者ピカソとの関係、何かを描いているポーズの謎、これらは鑑賞者の想像を刺激する要素である。

 題名からするとピカソにとっては女性はピカソの創造意欲をかき立てるのに重要な役割を果たしていることを匂わしている。
 残念ながら私はこの先を記載する知識はない。

 ネットで検索していたら、2016.7.1月号の週刊朝日の、パリ・ピカソ美術館館長のローラン・ル・ボン氏のインタビューに基づく記事に行きついた。次のように記されていた。

                      【https://dot.asahi.com/wa/2016062300121.html

 「愛がピカソに絵を描かせた、と言ってもいいでしょう。新しい女性が現れたとき、より多くの創作を行っていますし、よりエネルギーに満ちた作品が生まれています」
 ル・ボン氏はそう認めながらも、伝記的な見方から作品を楽しむだけではもったいないと指摘する。
 「本作に描かれた2人が誰なのか、知る者はいません。最愛のマリーと、妻オルガだと考える人もいる。でも私にとっては、現実の世界にはいない抽象の“女神”なのです」
 どのような読み解き方も可能なのが、ピカソの面白さだと言う。
 「右の女性は絵を描いているようにも見えるし、左に置かれた鏡は絵でもある。絵とは何か、という暗喩(メタファー)ではないかと思っています。花などのディテールや、鮮やかな色彩もすばらしい。ピカソは線で描き、マティスは色で描いたと言われていますが、この絵を見ると、ピカソも非常にすぐれた色彩感覚を持っていることがわかります」
 自分ならではの視点で、ピカソの“女神”を堪能したい。


 私はとりあえずは鑑賞の入口までは自力でたどり着いていたようだ。


9月は予定がいっぱいに‥

2016年09月12日 20時07分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど帰宅して手足を洗っているうちに昨晩から今朝にかけて家の中で鳴いていたコオロギが寝室の入口近くの机の裏から突然出てきた。妻が慌ててプラスチックの入れ物を上から被せて、「身柄を確保」した。
 その後は下に紙を差し入れ、ベランダに持って行って南側の草地に放した。喜んでいたかどうかは分らないが、我が家に閉じ込められて生を終わるよりは良かったのでないかと思っている。うまくメスと巡り合うことが出来るであろうか。
 本日の夜からは耳元で騒がしいあの鳴き声を聞かなくて済んだのは嬉しいことである。やはり庭で鳴いている声、草むらの中でか細く鳴いているのを聞く方が風情はある。

 本日の幹事会で9月中にあらたに4つの行動が加わった。いづれも午後である。これで明日以降18日間で予定の無い日は半分の9日間になってしまった。ちょっと想定外に慌ただしい。家で作業をする日、読書の日が限られてしまう。その日の行動の報告やホームページにアップする作業などを考えると、休みが無くなってしまった。

 考えようによっては美術展ばかり行って、入場料と図録代と帰りのひとり飲みで散財するよりはいいことかもしれないが、各行動終了後に他の参加者と飲みに行ってしまえば散財することには変わりない。大勢で飲んで飲み過ぎたりすれば健康上はあまり芳しくない。
 それよりも困ったことにウォーキングに精を出せる日が無くなったということだ。

本日は幹事会

2016年09月12日 10時07分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は退職者会の月に一度の幹事会。昼前からには会館へついて準備作業。一昨日に会館で確認したところ新しいニュースは印刷所から届いていた。
 1300通のニュースや資料の発送作業と、幹事会としての審議事項をこなして16時には終了したいものである。審議事項は量的には多いようだ。わたしは事務局長の補佐役である意味気楽ではあるが、事務局長はなかなか大変である。現役の支部の書記長よりも忙しいかもしれない。
 終了後はいつものとおり500円のワンコインパーティーの予定だが、参加者が少なければ中止予定。どうなることやら。

 昨晩のコオロギ、私が寝ようとしたときには居間の本箱の裏から移動して、寝室に近い妻の机の裏で鳴いていた。寝室に鳴き声が響いていた。一応4時くらいには鳴き止んだが‥。雌を呼んで鳴いているのか、草むらに戻れないことを嘆いているのか、虫の気持ちはどうなのだろうか。
 草むらにもう戻れないのではないかと思うと哀れである。

秋の虫が迷い込んだ

2016年09月12日 01時55分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は結局どこも出歩かなかった。午前中団地の管理組合の諮問機関の会議のあと、ブログの記事を書き、その後は何となく時間ばかりが経過した。
 いつの間にか夕方となり、いつの間にか23時を過ぎ、いつの間にか日付が変わってしまった。ぐだらぐだらとした時間を過ごしてしまった。

 夜になってコオロギらしい虫の声が家の中で鳴き始めた。食卓テーブルのある居間の本棚の後ろあたりらしい。部屋の中で鳴かれると結構うるさい。密閉された鉄筋コンクリートの建物の中なので高音の声は部屋の中で籠って響いている。
 昔は、木造住宅の中でコオロギでもスズムシでも床下や風呂場・物置・雨戸の戸袋などで鳴いていたが、それほどうるさくは聞こえなかった。音は建物の中に籠らずに、庭で鳴く虫と呼応しているように聞こえた。

 これでは寝る時にかなり耳に煩そうである。秋の風情として受け入れるしかないようだ。セキセイインコもいるので、殺虫剤を広範囲に噴霧するわけにはいかない。ゴキブリを見つけた場合は、セキセイインコの籠から少し放たれた個所に行ったときに1~2回だけ集中的に近距離から噴霧すれば、用はたりる。だがそのようなことはしたくない。姿を見つけられれば、ベランダなどから外に誘導したいのだが、このままではそのままに放置するしかない。


加藤楸邨「野哭」

2016年09月11日 23時41分09秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 加藤楸邨の、戦後すぐの句集「野哭」を読んでいる。この句集は「流離抄」(1945.5~1946.7)の77句、「北海紀行」(1946.8)の39句、「野哭抄」(1946.9~1947.12)の139句を収めている。本日は、「流離抄」と「北海紀行」を読んだ。

 表紙裏に次の句が掲げられている。
  この書を今は亡き友に捧げる
・火の中に死なざりしかば野分満つ
という句からはじまる。
 句集自体の第1句は
・一本の鶏頭燃えて戦終る

 戦後還らぬ人や、戦後の飢え、焼け跡の東京、生き残ったものとしての述懐などの句が連なっている。
・雉子の眸のかうかうとして売られけり
・凩やかぎりしられぬ星の数
・米尽きし厨に春の没日かな
・羽蟻たつ悲運は一人のみならず
・生きのこりゐて柿甘き秩父かな
となまなましい時期の句が並ぶ。戦後の飛躍を為したといわれる「野哭」の助走かとも思われるが、読み飛ばすことのできない句が並ぶ。

白鷺 その2

2016年09月11日 17時03分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「言葉の泉」というブログに「白露」と題した一文が掲載されている。【http://blog.goo.ne.jp/rurou_2005/e/14e57a9aa246f0283bb2dd5b0d2f2229】。
以下引用させてもらう。


露の中万想うごく子の寝息(加藤楸邨)
(穂高病む)の前書きがある。
露がおりる秋も深くなりつつある夜、病んでいる子どもを看病する作者。
白露がおりる秋の夜は美しくもわびしい。
わびしくもはかなげな露をおもうとき、今病んで寝ているこどもの寝息をうかがいその生死を不安に思う気持ちが重なる。
「万相うごく」にそれは一気に凝縮される。
苦しげな子どもの寝息の中、一切の秋の万相は動いているのだ。
一刻一刻を不安にすごす親と子の枕辺に美しいまでに光る白露の秋が暮れていく。
露ははかなく無常なものをおもわせる、せつないばかりの余情がただよう句である。



 この句のことは知らなかった。加藤楸邨句集を見たら初期の代表となる句集「寒雷」の最後にある「達谷抄」(1940年)14句の中にあった。この達谷抄は死が色濃く匂う。死を直接うたった句が4句、病いを詠んだ句が2句、それらと重複するが軍隊をうたった句が4句。日中戦争が大きな行き詰まりを見せ、太平洋戦争に突入する前年の作品群である。
 なお「穂高」は楸邨の長男の名。14句の中から5句を選んでみた。

・春塵の没日音なき卓を拭き  (前書きに「教へ子斎藤中尉戦死」)
・露の中万相うごく子の寝息
・蟷螂の死に了るまで大没日
・寒光る雲の磊塊砲車過ぐ
・炎天の一隅松となりて立つ

 1940年というと午前中にアップした石田波郷の「露葎軍靴のあとを日々とどめ」とごく近い時期に作られた句である。行き詰った日中戦争下の重苦しい時代を写し取っている。自分の幼い子の重病までもが、そのような時代の中で押し潰れそうな社会や家族とかぶさっている。戦の世による「死」が日常的に浸透しつつあったと類推できる。
 「春塵の‥」の「音なき卓を拭」く行為に、持って生きようのない感情が滲み出ている。
 「蟷螂の‥」は有名な句である。小さな枯蟷螂の黄土色と、巨大なエネルギーの塊の橙色がかった大没日の対比が、小さな生命体の意地を見るという解釈を教わった。「英雄的な死」が礼賛される当時の社会背景の中、これをさらに蟷螂の不動の姿勢に「将兵の英雄化された死」を見るという拡大解釈は私にはできない。「死」は戦での死だけに意味があるのではない。日常の中での「死」にこそ人としての尊厳があるはずである。蟷螂はそれを認識する手かがりとしてあると思う。
 「寒光る‥」の句。磊(らい)とは、多くの石が重なり合う様、または大きな石の意であるという。寒光るという季語であるから、丸みを帯びた柔らかい雲の意よりも、冷たい身を切る風をもたらす雲の印象であろうが、それでもイメージとして砲車につながるのは異様である。むろん2句と3句で切れているので磊塊と砲車は直接の因果関係でも形容関係でもないが、イメージの連鎖という関係を想定しなくてはならないだろう。雲が作者の日常を圧するような重しとして認識され、さらに砲車という戦の世を象徴する重量のあるものと繋がるという感覚。「死」と「戦」が日常に深く食い込んでいる時代である。
 「炎天‥」の句、松となった立つのは誰であろうか。炎天からの光と熱の強い放射を受けて立ち尽くすのは作者、「教へ子」、「死と闘う病の子」‥いづれであろうか。松は「蟷螂」でもあろうか。


白露

2016年09月11日 11時52分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 9月7日から21日がもう二十四節気の白露。「陰気ようやく重なりて露こごりて白色となれば也(暦便覧)。野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始める」という説明がある。
 しかし横浜では昨日は31℃近くまで気温が上がり、とてもそのようには感じない。ただし蝉の声が次第に小さくなり、虫の音が耳に着くようになり、そして芒の穂やコスモスを見かけるようになっている。動植物は秋を忘れてはいない。

・露葎軍靴のあとを日々とどめ      石田波郷
・露みつついつか渤海のくらきうねり   加藤楸邨

 石田波郷の句集を見るとこの句は「鶴の眼」所収。1939年までの句を収めている。日中戦争の時期の句である。句集を見ると「露葎」という季語が多く使われている。波郷はこの季語が気に入っているのであろう。露を大量につけた秋の野の風情が荒涼とした心象風景を拡大する。そこに軍靴を持ってきた。軍隊の行軍で日々踏みつけられる枯れた野の草。露葎、病んだ波郷を重ねるのもいいし、妻子を含んだ民衆像を重ねることもできる。あるいは戦の世の荒涼とした比喩としてもいいかもしれない。暗い時代を読み取りたい。
 加藤楸邨の句集を見ると「12月28日 幹を悼む」とあり、1946年の句である。親族の死を詠んだと思われる。渤海という地名から戦争中に中国北部で亡くなった親族の死を詠んだものと推察している。「くらきうねり」に戦の世にのまれた死の重みを感じる。「露」と「くらきうねり」のイメージが対となっている。
 ただ「いつか」がどう読み取ったらいいのか、今迷っている。


日ざしが伸びたが暑い

2016年09月10日 23時54分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後からは雲が無くなったが、強い陽射しで気温は14時に30.9℃と平年より2.9℃も高くなったという。平年の気温はが28℃ということは本日よりもかなり涼しい。そういえばもう9月の中旬である。ベランダに朝の陽射しも次第に窓際まで寄ってくる。朝になると空調の室外機の上にセキセイインコの籠を置いている。朝の内にはこの籠に朝日が当たりそうになってきた。
 蝉の声は夜も昼間も静かになりつつある。

 午前中は復元した写真データをこの1カ月余りの更新データとともに外付けのハードディスクに保管した。折角復元したデータを再度破損したり削除してしまわないように慎重に取り扱わないといけない。暫くはこまめに更新データの保存を行うことにした。
 夕方から横浜駅に出て、賑やかな居酒屋で妻と外食。

 購入した書籍
 「江戸の想像力」(ちくま学芸文庫、田中優子)

ヘリコプターと飛行船

2016年09月10日 11時13分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩はおかげでぐっすりと眠ることが出来た。日付が変わる前にすっかり眠くなってうつらうつらしながらパソコンの前に坐っていた。首が後ろに倒れて、首を起こすのに全身の筋肉を緊張させて元に戻した。これを3~4度ほど行っているうちに、とうとう1時前には立ち上がってベッドにフラフラと向かい、そして倒れ込んでそのまま寝てしまった。
 お風呂には帰宅後すぐに入っていたことが良かった。

 4時ころにいったん起きて、寝る前にできなかった血圧の薬を飲み、緑内障の目薬をさしてまたそのまま寝た。通常なら早目に寝た時はこの時点でもう一度パソコンに向かって作業をしたり、本を読んだりするのだが、眠気の方が勝った。

 本日はずいぶんと過ごしやすい日となった。まだまだ湿気を感じるが、これまでと比べられないほど湿度は低くなった。秋を感じる、とはいっても湿気の少ない抜けるような青空はまだまだ見出せない。
 午前中は朝からヘリコプターの音が煩い。消防か警察か、あるいは何かの取材用なのか。音は南の空から聞こえるのだが、南側の号棟に視界を妨げられてその姿がみえない。米軍の軍用機にしては高度が低いようだ。私の団地の上空は軍用機の飛行経路のようである。

 現役の頃は、土・日家で静かにしたいときにこれが来るとイライラしたものである。今はほぼ毎日これを耳にする羽目になった。冬は窓を閉めているが、それ以外の季節は窓を開けているので、とても気になる。ラジオで音楽を聴いているときなどはがっかりする。CDなら再度聴くことは出来るが、FMならば再度聴くことは出来ない。

 先ほどは大きな飛行船が北西から南東へ静かにゆっくりと動いていった。これが雲のない秋空ならばまた気分も爽快になったかもしれないが、雲が多くすっきりとした気分で眺めるというふうにはならなかった。


ブラームス「ホルン三重奏曲、クラリネット三重奏曲」

2016年09月09日 23時45分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 データの復元が出来たら途端に元気になった。ソフトの紹介をいただいた「ろこ」様に幾度でも感謝の意を表します。
 元気になったらまずはブラームスでも聞きたくなった。夜も遅いので、ホルン三重奏曲とクラリネット三重奏曲。
 ホルン三重奏曲(作品40)は2002年の録音。ホルン(ラルス・ミヒャエル・ストランスキー)、ヴァイオリン(ペーター・ヴェヒター)、ピアノ(岡田博美)という構成。
 クラリネット三重奏曲(作品114)は2004年の録音。クラリネット(ペーター・シュミードル)、チェロ(タマーシュ・ヴァルガ)、ピアノ(岡田博美)という構成。
 ホルン三重奏曲は32歳の1865年の作曲。クラリネット三重奏曲は1891年、58歳の時の作品である。若い時のブラームスと最晩年のブラームスの響きを味わうにはいいカップリングである。
 前者は明治維新の3年前で翌年に薩長連合成立・第二次長州征伐失敗と明治維新へ時代が大きく動いた年である。
 後者は明治24年というから第一回帝国議会の翌年、足尾鉱毒事件が注目された年、鴎外の舞姫(1890)、幸田露伴の五重塔(1890)が発表された。
 こんな時代にこのような曲が作曲された。作品の印象と日本の社会状況がうまく像を結ばない。時代のイメージが合致しない。


データのリカバリーソフト

2016年09月09日 22時32分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 SDカードの復元が出来た。「ろこ」様の紹介でソフトをダウンロードしたところ、有料扱いでないと復元できない状況であったが、復原することが出来た。
 復元ソフトの利用までは思い至らず、あきらめて開き直っていた。感謝しきれない。いくら感謝しても感謝しきれない、といったところである。

 おかげで急に元気が出てきた。

 明日は組合の会館に所用で出向くが、夜になったら復元したデータを使って旅行の報告書に着手したい。

 世の中が明るく感じる。
 

仙台駅前の道路冠水

2016年09月08日 23時01分45秒 | 天気と自然災害
 仙台では猛烈な雨が降ったらしい。仙台駅前の道路が冠水している場面が写し出されていた。ツィッターでも動画がアップされている。いつも見慣れている個所である。
 そこは確か窪地でもない。路面排水やペデストリアンデッキから流れ込む水量が、下の道路のL型排水枡が飲み込めなかったのと、道路に埋設してある雨水管の流量を超えたと思われる。
 ペデストリアンデッキと下の道路の雨水枡が詰まっていたこと、だけでは説明がつきそうもない。想定雨量を超えたとしか言いようがないが、どこか再検討の余地があるようにも感じる。地下街、地下道、地下鉄駅構内への浸水は無かったのだろうか。いつも見慣れている個所なので眼が釘付けになった。

何をする気力も湧かず‥

2016年09月08日 20時19分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 我々のバスの跡を辿ってきた台風13号は温帯低気圧変わったものの北関東・東北・北海道に強い雨をもたらすようだ。
 横浜でも本日はときどき強い雨が降り出す空模様。とても湿度が高かった。

 本日は写真のデータを無くしてしまったショックもあり、意気消沈。雨の中を横浜駅に手欠けて安い喫茶店で、いつものとおり読書タイムとしたが、1ページも読むことなく寝てしまった。
 帰宅後も何もする気力もなくボーっとして時間を過ごした。

 横浜では雨は上がっている。


失われた旅行中の写真

2016年09月08日 11時56分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩遅く帰宅。昨晩は当初の計画通り20時ちょうどに横浜駅に帰着した。そののち横浜駅で友人と「反省会」というなの呑み直しをして22時に帰宅した。
 洗濯物をリュックから出し、シャワーを浴びてそのまま寝てしまった。終日雨の予想は見事に外れ、バスの中では終日日が痛い位窓から差し込んでいた。若干のおみやげを伊勢神宮の外の商店街で購入できた。

 だが、今朝になって写真の整理を早速しようとSDカードをパソコンに挿してデータの読み込みをしているときに、ちょっとしたはずみにデータを削除してしまうという、失敗をしてしまった。3日間の写真データがすべてなくなってしまった。
 慌ててデータの復元をしようとしたが、出来なかった。一度パソコン内にデータを移しておけば復元は出来たのだが、カード内のデータをパソコンに移す前に誤った動作をしてしまった。
 1時間ほど気分的に立ち直れなかった。他のカメラを持っていった数人に電話をして写真データを貰うことにしたが、集合写真2枚の内1枚は私のカメラしか映っていない。宴会の写真、カラオケの写真もすべてなくなってしまった。

無事横浜着

2016年09月07日 23時11分15秒 | 山行・旅行・散策
20時に横浜着。
2泊3日の和歌山の世界遺産の旅も無事終わることが出来た。最後に雨が降ってきたが、晴れを求めては図々しいと言われそう。
帰りのバスの中では、お酒も甘味も進んだようだ。
横浜では震度3の地震もあったようだが、被害は無いらしい。台風被害も無いことを願いたい。
明日は予定がないが、明後日9日は朝から所用であわただしい。