津田青楓という画家については、漱石の本の装丁をしたことと、「ブルジョワ議会と民衆の生活」という作品だけは知っていた。
今回この「現代の眼 619」で修復家の山領まり氏のインタヴュー「修復家と作品の関わり」の中で津田青楓に言及されていた。意外なところで名前が出て来て少々驚いた。
「父の若い頃からの友人として存じ上げていた歴史家の羽仁五郎氏から修復を依頼された津田青楓の「犠牲者」です。私が一人で仕事を始めようとしていた時の最初の依頼でしたし、晩年羽仁氏の希望通りに、現在は陶器用国立近代美術館に収蔵されています。津田青楓は経済学者の河上肇との交友があり、当時の特高警察に目をつけられていました。ですから、この作品を描いている時も、特高が来るっていうと、キャンパスを巻いては箱に入れて、別の作品を描いているふりをする、というのを何遍も繰り返しながら描き上げたと聞いたことがあります。モデルが画家のオノサト・トシノブさんだということは知られていますよね。(何度も巻いたために)絵具の厚いところに亀裂があって、隠しきれないです。だけど亀裂もまた、時代の証人だと私は思うんです。(奇しくもこの作品が描かれた1933年に羽仁五郎は治安維持法で検束された)」
という記述があった。
津田青楓という画家の経歴の一端を知り、すぐにネットでとりあえずウィキペディアの記述を要約してみた。
「津田青楓(1880年-1978年)は京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人。良寛研究家。
1880年、華道家で去風流家元西川一葉の子として京都市に生まれる。1897年京都市立染織学校に入学。傍ら日本画を学ぶ。1899年関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事。1904年兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。1907年から安井曾太郎と2年間パリ留学。アールヌーヴォーの影響を受ける。1914年二科会創立に参加。のち河上肇の影響でプロレタリア運動に加わる。1933年、小林多喜二への虐殺を主題に油絵「犠牲者」を描いていたところを警察に検挙、処分保留で釈放。のち転向して二科会から脱退、洋画から日本画に転じる。親友に夏目漱石がおり、漱石に油絵を教え、漱石の「道草」「明暗」などの装丁を手がけた。」
これを読むと作品をじっくりと見る機会が欲しくなった。再来年没後40年、何らかの回顧展でも企画されることを期待したい。
なお、笛吹市に「 笛吹市青楓美術館」があることも初めて知った。以下のような解説を見つけた。
「津田青楓は、京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人で良寛の研究家としても知られています。笛吹市青楓美術館は、青楓と親交のあった小池唯則氏によって昭和49(1974)年に開館しました。昭和59(1984)年に当時の一宮町に寄贈され、現在に至っています。二科会創立に尽力した青楓の自由な南画風の作品や、思うがままの筆致の書など500点以上が所蔵され、そのうち約60点が展示されています。年に2回、春と秋に展示替えを行って、青楓の世界を多方面から紹介しています」
是非訪れてみたい。