夕方近くになって雨が上がり明るくなった。東の空には夏の積乱雲が顔を出した。湿度も高いこともあり、夜にはまた雨が降るのではないかと不安になった。確かに西や南の空では、秋空のうろこ雲のような雲も見えるが、黒っぽく低い雨雲がまだ動いていた。16時から18時までは天気は上々で、ウォーキングには支障なかった。
夕食後に、ドラッグストアに買い物があるというので、出かけた直後に遠くで雷が鳴り、雨が降り始めた。おさまるだろうと傘もささずにドラッグストアまでは問題なくたどり着いた。
支払いを済ませて店を出た途端にとても明るく雷がひかり、雨が大粒になった。光ってからなるまでに10秒ほど。安全とはいえないが、思い切って走って帰った。家まで無事にたどり着いたものの、全身ずぶ濡れ。運動靴もすっかり濡れてしまった。
帰宅後、スマホを見たら神奈川県に竜巻注意情報が出ているとのメールが届いていた。まったく気がつかなかった。
今のところ雨はほぼやんでいる。雷鳴も聞こえなくなった。東京湾の対岸の木更津市では猛烈な雨のようだ。
梅雨明けの雷であることを願いたい。
★夜の雲のみづみづしさや雷のあと 原 石鼎
★雷去りぬ雷のにほひの戸をひらく 篠田悌二郎
★遠雷やはづしてひかる耳かざり 木下夕爾
第3句、何とも艶めかしい、ドラマチックな男女の逢瀬であろうか。ちょっと作りすぎとも思える。耳飾りを外す女性を持ってきただけで十二分なのだが、さらに、遠雷や、と追い打ち欠けている。切っているので、外したイヤリングがいなびかりに光ったわけではないが、これは結びつけないのが無理というもの。これ以上は言及しない方がよさそうである。
レーダー雨量計によると、時間雨量80ミリを超える雨の区域がつい先ほど私の家の上を通過していった。確かに、ほんの一瞬だったが、確かに向かい側の号棟がほとんど見えなくなった。そのときだったのだろうか。
朝から30ミリから50ミリの雨の区域が断続的に通過していった。その間には太陽も顔を出すこともあり、めまぐるしい変化である。そのたびにミンミンゼミも慌ただしい。鳴いたり、雨に鳴くのを遠慮したり、忙しい。
風はそれほど強くはなく、ほぼ南風。東の空は雲の切れ目が多いが、南から低い雨雲が押し寄せてくる。
昼過ぎから幾度か出かけようとしてそのたびに強い雨が降り、足止めを食う、ということを繰り返している。
薄・芒は秋の季語であるが、先日薄の穂を折角見つけたので‥。
★野にありし全長を活け穂の芒 鷹羽狩行
★リヤカーにつきゆく子等や花芒 星野立子
★芒挿す光年といふ美しき距離 奥坂まや
第3句、正しい光年の使い方である。光年とは時間の尺度ではない。距離のをあらわすのである。人は「1万光年」と聞くと、「1万年」という時間を思い浮かべる。正しくは「光が1万年かかって到達する距離」のことである。「美しい」のは「距離」ではなく言葉の響きから醸し出されるイメージと、そして「光」のイメージであろう。芒を照らす光は太陽光であるが、宇宙からの光をも反射してかがやいている芒かもしれない。
残念ながら梅雨の最中に穂の出てしまった芒は、光を求めても叶わない。
昨日のように昼食中に突然の雨。XRAINの画面で確認すると、本日は30ミリほどの雨だった。それでも向かい側の号棟が見えづらくなった。そしてすぐに小雨になり、昨日ほどの雨量にはなっていない。
午前中はオンライン講座。ゴンブリッチの「美術の物語」の講読。講読といっても決して新しい著作ではないので、古代の遺跡の解説も含めて新しい知見による解説も必要になる。それについても触れてもらえている。
私は美術史を通史として読み通したり、学んだことはない。素人のわたしは好きな個人、好みの地域、惹かれた傾向については少しまとめて知識を読書で得ようとするが、それ以外についてはほとんど知らない。知識の底上げくらいはしたい。いい機会である。
昨晩は2時半過ぎまでかかって資料と教科書を読み終わった。とても眠い。
午前中は江戸時代の絵画についてのオンライン講座を100分程度。4回シリーズの最終回。
1800年代初頭から幕末・明治維新直後まで。浦上玉堂や谷文晁・渡辺崋山・小田野直武・司馬江漢・亜欧堂田善・酒井抱一・鈴木其一・歌川国貞・渓斎英泉・歌川国芳・葛飾北斎・歌川広重・月岡芳年などを取り上げ盛りだくさん。
抱一・其一・広重ファンとしては、短いけれども楽しい講座であった。
午後はカジノ問題での鳥畑与一教授の講演会「コロナ禍・カジノ幻想を斬る」。終了後は取材と、参加した友人と軽く懇談会の予定。
本日も明け方雨が強く降った。今は再び降り始めた。いつになったら梅雨明けとなるのであろうか。梅雨明けとなればまた暑くてたまらないのだが、今は何よりもこの雨模様から速く抜け出したいものである。
今でも帽子とマスクとで苦しいくらいである。帽子はしばらくはしていない。熱中症にならないために逆に帽子を被らない、という選択になってしまった今年である。
午前中に「方丈記私記」(堀田善衛)の最終第10章「阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」を読み終えた。
さらに巻末には「対談 方丈記再読」ということで、五木寛之と堀田善衛の対談が収録されている。
まずはいつものように気になったところを覚書として。
これは著作のキーセンテンスとか、核心部分ということではなく、私が気になったり、新しい治験であったり、「私とは違う」と思ったりしたところである。むろん「なるほど」と思ったところもある。
そしてどれもが、全肯定でも全否定でもない。
1.「和歌所の寄人になってからは、芸術官僚どもの心の狭さと、世上一般に対する全的な、トータルな無関心、無関心でありうる能力、無視能力にも、ほとほと感心、あるいは呆れ果てもしたであろう。そういう、宮廷の閉鎖社会からも完全に脱けて出、かつは突き抜けて出てしまった。“夫、三界は只心ひとつなり。”堂々たる宣言である。」
2.「京の死者の屍臭は、御所のなかにも当然達していた筈である。しかし、如何なる意味においても、現実は芸術に反映することがなかった。‥現実を拒否し、伝統を憧憬することのみが芸術だった‥。千載集から新古今集にいたる間の、六百番だの千五百番だのという、途方もない歌合といわれる文学的行事の、そのどこに飢饉、屍臭、戦乱、強盗、殺人があるか。どこにも絶対ないのであるから、世界の文学史上、おそらく唯一無二の美的世界でる。異様無頼の「夢の浮橋」である。」
3.「(定家の歌論では)二つの拒否がある。まずは(当時の)現代日本語の拒否であり、第二には、現実を歌うことの拒否である。本歌取りとは、歌によって歌をつくることでり、すなわち芸術によって芸術をつくれ、現実を詠じてはならぬ、ということである。‥これは世界の芸術史のなかでも、ひた一つの文化論としても、まことに極端なものであろう。」
4.「生者の現実を拒否するという思考の仕方は、しかし七百年のむかしのことだけではないのである。一九四五年のあの空襲と飢饉にみちて、死体がそこらにごろごろしていた頃ほどにも、信州不滅だとか、皇国ナントヤラとかいう、真剣であると同時に莫迦莫迦しい話ばかりが印刷されていた時期は、他になかった。戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。論者たちは、私たちを脅迫するようかのようなことばづかいで、日本の伝統のみやびを強制したものであった。危機の時代にあって、人が嚇ッと両眼を見開いて生者の現実を直視し、未来の展望に思いをこらすべき時に、神話に頼り、みやびやかで光栄ある伝統のことなどを言いだすのは、むしろ犯罪に近かった。天皇制というものの存続の根源は、おそらく本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災殃を人民は眼をパチクリさせられながら無理やりに呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根づいているのである。」
5.「危機意識と無力感が、彼らの貴族集団内だけで通用する先例と故実、‥古典の蒐集、完成を目ざさしめた。そこに彼らの集団外では何の意味もない先例を規範とし、‥生活自体が本歌取りと化した閉鎖集団が出来たのである。‥すなわち生活自体がフィクシオンと化した。」
6.「歴史と社会、本歌取り主義の伝統、仏教までが、全否定されたときに、彼にははじめて「歴史」が見えてきた。皇族貴族集団、朝廷一家のやらかしていることと、災殃にあえぐ人民のこととが等価のものしして、双方がくっきりと見えてきた。そこに方丈記がある。すなわち彼自身が歴史と化したのである。」
7.「私には、この時代について、及びこの時代の「世」について考えるとき、二人の、二つの極に立つ人の姿が見えている。長明が一方の極にる人として、さらにもう一方の極にある人としては、身みずから、罰せられて「世」に出て衆生救済そのものと化した人としての親鸞が見えている。しかも長明がかくれた日野山の、そのすぐのふもとに親鸞が生まれたとは、何たる縁というものであろうか。長明かくれて親鸞出づ。」
私には4に違和感があった。堀田善衛の戦中体験のところ、この論の肝にあたる部分である。あの戦争遂行体制の中で、暴力的な思想統制、社会のすみずみまで変てこな国体思想や軍事思想が浸透してきたと聞いてきた。しかしそこには「日本文化のみやびやかな伝統」を踏まえたものなど匂いもしない。あるのは暴力的で抑圧的で非情緒的で、ましてや非論理の塊のような強制であったはずだ。定家の念頭にあったのは、藤原氏の専権がゆるぎなくなり、天皇家との一帯が確立して以降のそれこそ「雅」な世界であるが、1945年の時に流通していたのは、7世紀の天皇制の確率以降にも存在しなかったあまりにいびつな国体「思想」ではなかったのか。
そして話を2020年と比べてみると、1945年の当時の日本の政権の在り様が、ダブって見えてしまう。現実をみようとしない、現実を見る能力がなく、都合が悪い現実はなかったことにして先延ばしする。取り巻きの人間との癒着、この無責任の体系はまさに1945年の悲惨と2020年は無関係ではない。それはこの「私記」が書かれた1971年とも重なる。
「天皇制」を拠りどころとする者は、もっとも「天皇」とは無縁でそして遠い人間でもある。そのような人間に依拠せざるを得ない「天皇制」というものはいかなる形態をとろうと私は拒否する。
4は少し言葉が足りないのではないか、と思った。ただし5は集団論、組織論として傾聴したい。
6と7は生煮えの感がある。少し結論を急ぎ過ぎていないか。飛躍があり過ぎないか。私の読みが足りないとは思うが、もう少し私の中で咀嚼してみたい。
家を出たときに少し降り始めた。3つ先の私鉄の駅まで歩き、喫茶店でボーっと外を眺めたりしていた。喫茶店の外のテーブル席が空いており、幸運であった。
しかし途中から本降りとなり、庇から雨のしぶきが足もとにあたるようになり、店内に移動。外がよく見えないので、若干の読書タイム。「方丈記私記」の第9章を読み終え、第10章へ。読み終えるのがもったいないとは思えないものの、じっくり読みたいという思いは変わらず。
雨を避けるために喫茶店に入る人が増え、混み合ってきたので少し小止みになったので、傘を差しながら自宅までさらに遠回りしながら歩いた。途中で雨がやみ、ウォーキングの歩調を取り戻した。
気温はさほど高くなかったものの、湿度が極めて高く大量の汗をかいた。
ほぼ10日ぶりに「方丈記私記」(堀田善衛)を再開。本日は第9章「夫れ、三界は只心ひとつなり」を読み終えた。
「(鴨長明は)どうにもトゲがのこる、いつまでたっても、出家をしても、世を捨てても、六十になってもトゲののこる人であった」
この文章、堀田善衛の鴨長明の人間性に言及しているのだが、堀田善衛自身の自己評価のような気がする。
この書の冒頭に堀田善衛は「観賞でも、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ」という文章でこの「方丈記私記」ははじまった。しかし次第に鴨長明論になってきた。そして確かに辛辣でトゲのある鴨長明論である。
これより最終の第10章「阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」となる。どう「私の、経験」へと戻っていくのか、見もの、楽しみである。
昨晩、1時直前に雷が突然鳴り始めた。少し遠いようだったもののビックリ。ほぼ同時に横浜市の北部で豪雨になるという予報メールを受信。あわててXRAINをひらくと、相模原市南区・町田市・横浜市緑区あたりに80ミリを超す雨の区域があった。東南東に移動していた。
あわててパソコンの電源を落とし、電源コードを抜いた。
私の住むところでは雷は短時間で音がしなくなり、雨も対して降らずに済んだ。こういう時にレインアイよこはまが稼働していないのは本当に不便である。XRAINでは5分おきの更新でしかない。
本日の午後は雨の予報(降水確率60%)であり、雲も厚く垂れこめているが、今のところ降る気配は感じられない。
これより外出、といっても公園まで往復。うれしいことに妻から買い物の荷物運びの指令はない。雨が降らなければ公園で缶コーヒーと読書と、眼鏡をはずして目の保養。雨がふれば喫茶店に入って読書、ないしボーっと1時間ほど。
向日葵という花は、小さいものから咲くのか、と早とちりしてしまった。大きく密生した蘂を持つものよりも花弁が弱々しく可憐と思われるものから咲き始めていた群落を見つけた。咲いた後に成長するわけでもないので、日あたりの具合なのであろうか。
★向日葵の群れ立つ乱ある如し 大串 章
★向日葵に剣の如きレールかな 松本たかし
2句ともどこかドラマを感じる句を選んでみた。ゴッホの向日葵の印象とはちょっと違う向日葵ではないだろうか。ゴッホのような圧倒的な存在感のある向日葵の印象を与えられてしまうと、別の角度から向日葵を見ることが難しくなるものである。
第1句、中心部の黒い部分が乱立しているのは、不安を掻き立てる印象もある。黄色だけではないところ、蕾の部分の緑の重量感、葉のこわごわとした質感、いづれもが「向日葵」である。向日葵の全体を見ないとこの発想は出てこないのではないだろうか。
第2句、梅雨も明けて猛暑日の続くときに向日葵はその重量感のある姿を見せる。線路わきの向日葵には、猛暑で熱く熱せられたレールが無機質な質感で絡んでくる。見ているものに鋭く迫ってくるようなレールである。向日葵とレールと人を押しつぶすように太陽、人がとても脆弱なものに見えてくる。
朝の内は土砂降りでビックリした。一時は大雨・洪水警報まで出た。が、お昼に雨は止み、13時半を過ぎたら強い陽射しとなった。ほぼ南風で、とても蒸し暑くしばらくは外に出るのは止めていた。15時前に湿度が少し下がったようなので、組合の会館へ。
若干の仕事を終えてから街中ウォーキングで帰宅。それでもとても蒸し暑かった。桜木町駅-横浜駅間だけは歩いた。ちょうど市の職員の帰宅時間と重なり、新市庁舎から職員がたくさん桜木町駅に向かっていた。一駅だけ満員の京浜東北線に乗った。満員といっても昔のようにぎゅうぎゅう詰めではなく、人と触れ合うか触れあわないか、ギリギリのところ。それでも「密」であることには変わりはない。
電車の中よりも、横浜駅のプラットホームや構内の通路、改札ゲートの方が電車よりは混みあっていたと思う。混雑する地下街を通り抜け、地上に出るとホッとする。
団地の敷地に足を踏み入れると途端にミンミンゼミの合唱が聞こえてきた。今朝よりも鳴いているセミの数は確実に増えた。
★降り注ぐ雨くろぐろと送り梅雨 清水孝男
★踏み鳴らす雷神のステップ送り梅雨 庄司たけし