Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「あの戦争と日本人」(半藤一利)を購入

2021年04月11日 21時39分54秒 | 読書

 本日の失敗は、ウォーキングに出かけるときに喫茶店で読む予定の「バロックの音楽」(磯山雅、ちくま学芸文庫)を机の上に忘れてしまったこと。
 温かいので、喫茶店の外のテーブルを確保して、リュックを開けたら本が入っておらず、がっかり。コーヒーを注文してしまったので、書店に行くわけにもいかず、コーヒーを飲みながら、スマホでツイッターやフェイスブックを眺めて1時間を過ごした。
 帰りはバスに乗ることにして、書店で「あの戦争と日本人」(半藤一利、文春文庫)を購入。バスの中で第1章「幕末史と日本人」を半分ほど読んだところで、降車するバス停に着いた。
 有隣堂では、半藤一利氏の追悼コーナーはまだ書店にある。売り切れとなっていた「昭和史」も増刷ができたようだが、それも在庫は少ないようだ。私はあまりいい読者ではなかったし、異論もあったが、しかしその姿勢に学ぶべきものはたくさんある、と思っている。
 敬意を表して、いくつかの著書を読むつもりではいた。今回は本日購入した半藤氏の文庫本と、「バロックの音楽」(磯山雅、ちくま学芸文庫)を並行して読むことにした。


本日の作業

2021年04月11日 14時13分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日頼まれていた買い物を忘れていたので、午前中は歩いて20分ほどのスーパーまで買い物。朝から5千歩近くも歩いてしまった。

 昼食後は明日の会議に向けての資料を若干作成。これよりいつものウォーキング&コーヒータイム。午後のウォーキングは軽めの予定。喫茶店に持参する本は、「バロックの音楽」(磯山雅、ちくま学芸文庫)の予定。美術関係の本を選ぼうとしたが、手ごろなのがなかった。まだ目を通していない美術展の図録があるが、持ち運びには無理。

 夜は、ふたたび記念誌の校正刷りに目を通してチェックする予定。


シャクナゲが咲いていた

2021年04月10日 22時04分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 ウォーキングの途中で気が付いた。近くの緑道では石楠花があざやかに咲いていた。このようになるまでにはだいぶ日数が経っていると思うが、まったく気が付かなかった。少なくともこの1週間で3回はここを通過した。「見る」と「気が付く」ことに大きな差があることをあらためて実感。この石楠花、毎年気が付いていたのに今年に限って意識しなかった。
 そういえば、一昨日ウグイスの声を聞いて、妻に報告したところ、「私は2週間前に聞いた」と言われてしまった。
 「家で一緒にいたのに、気が付かなかったの?」と意外そうな顔をされた。これにもショックを受けていた。


バッハ「イタリア協奏曲、フランス風序曲ほか」

2021年04月10日 21時34分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 本日聴いていたCDは、小林道夫のチェンバロによるバッハの「イタリア協奏曲、半音階的幻想曲とフーガ、コラール3曲、フランス風序曲」。2006年に横浜みなとみらいホールでの録音。
 こういう曲はゆったりした時間に静かに聴きたいものである。バッハの曲はこの編で終了。明日からは出のような曲はを聴くか、今晩じっくりと探してみたい。


「アート鑑賞、超入門」読了

2021年04月10日 19時44分39秒 | 読書

 本日の横浜では、日中は15℃にわずかに届かず、3月下旬並みと気象庁のデータは表示されている。平年よりも3℃低いとのことである。平年、わずか10日で3℃も気温が上昇しているのか、あらためてびっくりした。

 買い物に一緒に出掛けて、喫茶店で別れて私はかなり遠回りをしてから帰宅。その間、喫茶店で若干の読書タイムと、家電量販店でプリンターのインクを購入。

 「アート鑑賞、超入門! 7つの視点」(藤田令伊、集英社新書)を読み終わった。特に引用はしない。ただし参考文献に
・高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」(中公新書)
があげられていた。1966年の出版ということである。在庫があれば購入してみたいと思った。あるいは古書店で探すことになるのだろうか。

 ウォーキングでかなりの汗を書いた。

 


ブラームス「ピアノ協奏曲第2番」

2021年04月09日 22時27分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 本日の夜の音楽は、ブラームスの「ビアノ協奏曲第2番」。昨日と同じく、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン、バースタイン指揮のウィーンフィルの演奏。チェロのソロパートはヴォルフガング・ヘルツァーと記されている。1984年の録音。こちらも52分以上と第1番と同様、大曲である。
 第1楽章の出だしのホルンのわずか2小節の美しい旋律と、ピアノの掛け合いにゆったりとした時間を想定するのだが、すぐに始まるピアノソロの強奏に戸惑うっていると、どんどん曲が進んでいく。違和感にいつの間にか引き込まれてしまう。
 ピアノの激しい動きは第2楽章出も続く。ヴァイオリンの単純だが美しい旋律とピアノの高麗かな激しい動きの合間の弦楽器と木管が待ち遠しいと思っているうちに、第2楽章が終わってしまう。
 第3楽章ではチェロの美しい生きの長い旋律にまず引き込まれる。この楽章ではこの美しいチェロ・木管の旋律をピアノが受け継いで静かに曲が流れる。第3楽章でようやくも統一的に曲が進行するようになる。最後の約30小節は心に残る。
 第4楽章も、ビアノとオーケストラが対話をしながら進行していく。少し甘いメロディーは好みが別れるかもしれない。


「アート鑑賞、超入門!」(藤田令伊)  

2021年04月09日 20時11分06秒 | 読書

   

 家を出るときに急いで本棚から出してリュックに詰めた本は「アート鑑賞、超入門! 7つの視点」(藤田令伊、集英社新書)。本棚から出した時から少し違和感があったが、気にせずに出かけた。
 しかし喫茶店で紐解いてすぐに思い出した。6年前の2015年に出版されてすぐに購入し、その月のうちに読み終わっていた。
 喫茶店で本文に入ってすぐに気が付いた。覚えているところがほとんど。しかし4分の1程度は記憶も定かでなかったので、そのまま忘れていたところを中心に拾い読みをした。
 喫茶店と帰宅後、あわせて1時間ほどで半分まで目を通すことができた。思い出したきっかけは最初に取り上げてあるフェルメールの「牛乳を注ぐ女」を使ってディスクリプションの解説を行っている箇所。そして会田雄次氏の引用に対する私の違和感でさらに思い出し、第3章のクノップフの「見捨てられた町」で確信した。
 この分では明日にでも読み終わってしまいそう。

 二度読みになってしまった原因は、2015年に読み終わった後に、いつだったか記憶にないが、もう一度購入して、未読の棚にこれをしまい込んでいたこと。2冊が本棚にあった。迂闊であった。


本日の作業は終了

2021年04月09日 13時27分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日とは違って陽射しがなく、寒々しい。とはいえ、正午前には15.5℃となっている。先ほどまで、退職者会の記念誌の校正・手直し部分の原稿を作成し、印刷会社に送信。21日が校正最終日である。印刷会社の担当者には申し訳なかったが、最後になって慌ただしくなってきた。
 本日の作業はとりあえずこれにて終了。午後からは軽くウォーキングと読書タイム。本日から何を読むか、思案中。
 明日からは月曜日の退職者会の会議に合わせて、若干の文書作成。


ブラームス「ビアノ協奏曲第1番」

2021年04月08日 22時49分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 ブラームスの管弦楽曲が聴きたくなり、ピアノ協奏曲第1番を選んでみた。USB接続のスピーカー(13W×2)では出力不足が否めないが、ステレオ装置のアンプが壊れて、買い替えができないでいるので、やむを得ない。いつになったら購入できるのか、心もとない状況である。
 この曲の冒頭のオーケストラの咆哮に近い強奏では音はつぶれてしまうが、弱奏ならば特に支障はないだけでなく、それなりの音の伸びや奥行きを感じる。贅沢を言ってはいけない。

 実に久しぶりにこの曲を聴いている。ピアノにいろいろな表情を求めていることがわかる曲である。ピアノはクリスティアン・ツィマーマン、バースタイン指揮のウィーンフィルの演奏。

 もともとブラームスの第4番のシンフォニーとヴァイオリン協奏曲は気に入っていた。学生時代、友人がブラームスはビアノの表現の幅を広げた作曲家として重要と言っていた。どう意味でそういったのかはわからないが、当時はそれをそのまま信じ、それ以来ブラームスのピアノ曲に注目するようになった。そのとっかかりの曲のひとつでもある。ピアノの特性や演奏法などわからない私だが、聴いているうちに虜になった。 


「老いのかたち」(黒井千次)

2021年04月08日 20時49分34秒 | 読書

 横浜駅近くの喫茶店で一服&コーヒータイム&若干の読書。「老いのかたち」(黒井千次、中公新書)の第二部を少々。

   

 いづれの文章も身につまされる老いの現況を捉えている。言い方は良くないが、他愛もない言い回しの分かりやすい文章であり、そして語られていることには、普遍性と共感とが同時にもたらされる。

 「一円玉の気持ち」と「友を送る-―これも同窓会」は特に心に残った。
 「落とすのではなく、落ちるのである。」に始まる「一円玉の気持ち」は実に身に迫る。「このままで行くと、いつか自分の存在まで自分から落ちてしまうかもしれない、と心配になる。しかし落とすのではなく、自然に落ちるのであれば、それはそれで仕方がないか、と一円玉の気持である。」
 たしかに、物を落とすことが多くなった。自分の意識としては、「落とす」ではなく「落ちる」のである。手が滑って落とすのではなく、意識の上では手から勝手に物が落ちていく、という表現のほうが当たっている場合が多くなっている。
 妻にいつも言われる。食事中に、箸からおかずを落とす、と。しかし箸から落ちてしまうのである。ここら辺の微妙な違いにこだわっている自分がふと情けなくなるのである。

 「友を送る-―これも同窓会」も心に残る。
 ここ数年、葬式は実に簡素になった。家族葬・密葬・直葬が多くなり、葬儀に同窓生が集まることもきわめて少なくなっている。とても寂しい。
 「同窓会や同期会には、生きている仲間たちが生きていることを確かめに出かけてくる。学校友達の葬儀は、その中の一人が居なくなったことを悼みに参集する。逆方向をむいた集いのようではあるけれども、二つの間にあまり隔たりはないのかもしれない。」
 生存確認の同窓会など以上に、死んだものを中心とした葬儀は、より時代を共有したことの再確認がしやすい場でもあると思ってきた。

 この本は、一気に通読するよりも、眠れないときなどに手にすることで読み進めたい。


つつじが開いた

2021年04月08日 19時58分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日も天気は良い。風が少し強め。
 家をでようとしたら、月曜日には綻びそうであったつつじの蕾が開いていた。ひょっとしたら昨日の内に咲いていたのかもしれないが、気が付かなかった。十数輪一斉に咲いていた。
 周囲のつつじよりも株全体が少し遅めであったが、これで追いついたようだ。

 外に出ると南風なのに冷たく感じたけれども、3分も歩くと汗ばむほど温かく感じるようになった。本日の最高気温は18.8℃、ほぼ平年並みの気温。

 所用があり、横浜駅の地下街を2往復ほど歩くことになった。人出はいつもと変わらず、メイン通りは人と肩が触れ合うほど。階段を多用すれば、地下街を歩く距離も少なくて済むが、一度入ってしまうと、地上に出るのが億劫になる。


「万葉集講義」(中公新書)読了 その2

2021年04月07日 22時26分39秒 | 読書

 終章「偉大なる文化遺産のゆくえ」からいくつかの文章を引用しておくことにした。
 同意、不同意を含めて、記憶しておきたい。

「日本の歌の二つの源流
・言葉を使って生きてゆくということは、言葉に支配されるということである。
・日本語を使って生きてゆくということは、日本語に支配去れるということである。
・漢字を使って生きてゆくということは、漢字に支配されるということである。」

「日本社会は無文字社会から、漢字を学習することによって、東アジア漢字文化圏に組み入れられた。‥試行錯誤が行われ、歌を書き留めることに成功し、‥一つの歌集に結集された‥。すると日本語は二つの源を持つということになろう。一つの淵源は日本語の歌である。‥五世紀以前の人々が口から耳、耳から口へ歌い継いでいた日本語の歌々である。その名残を、「万葉集」から推定することはできても、その全貌を知り得ることはできないのである。」

「もう一つの源は、中国の「文選」とう書物である。(文選に)収録された詩文の年代は紀元二世紀ないし三世紀から六世紀前半に及ぶ‥。」

「外来文化の同調圧力が大きくなるたびに、「万葉集」は脚光を浴びはじめ、いわば休眠滋養帯から目覚める‥。では、万葉覚醒のたびに「万葉集」に求められたことは何かといえば、それは「万葉集」の日本的側面だけなのである。‥「万葉集」の淵源の一つは、中国の「文選」にあるのであり、六世紀の中国詩の文学理論にその源がある‥。今、もし「万葉集」に風が吹いているとすれば、それは、なせか。おそらく、日常生活まで押し寄せてきたネット文化とAI化の重圧によるものであろう。ネット社会は英語が支配する社会なのだ。‥グローバル化の波に対して抗する力が、今、働き始めたのである。‥グローバル化の中での日本回帰、万葉会期をあからさまには否定したくない。‥いつの時代にも、文化の辺境に生きる私たちは、そうやって心のバランスを取ってきたからである。‥やみくもな(万葉集)礼賛言説に対しては、「「文選」なくして「万葉集」なし」と言ってバランスを取りたい、と思う。」

   

 


関内近辺の花の散策

2021年04月07日 20時34分52秒 | 山行・旅行・散策

                             

 陽気に誘われて妻と関内近辺を散策。まずは関内桜通りで見ごろのヤエザクラを堪能、次に日本大通を歩き、街路樹の元の花々を愛で、最後に横浜公園のチューリップを見て回った。
 今週中が見ごろと思われる。老若男女が多数歩いていた。しかし横浜駅の地下街ほどの人ごみではなかったので、ゆっくりと見て回ることが出来た。
  散策後は、私は打ち合わせのために組合の会館へ、妻は買い物をしてから帰宅。


指揮者カルロス・クライバー

2021年04月07日 10時20分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 日曜日の深夜、月曜日に日付が変わってからBS放送で、カルロス・クライバー指揮、ウィーンフィルによるモーツアルトの第36番のシンフォニー「リンツ」と、ブラームスの第2番のシンフォニーを放映していた。1991年のウィーンでの録音・録画。
 クラシック音楽ファンならば聞いたことのあるクライバーの名であるが、私は初めてその演奏と表情に接したと思う。
 録画しておいて、月曜の深夜にモーツアルト、昨晩の深夜にブラームスを聴いた。

 モーツアルトでは、指揮者はほとんど体を動かさず、曲想の変わるところ、変化のはじめだけ軽く腕を振るというスタイルにびっくり。しかし顔の表情にはすっかり見入ってしまった。動きの少ないことは驚くほどで、第三楽章のオーボエとファゴットの聴かせどころでは、なんと左手を式台の後ろの支えにおいてしまって、リラックスのポーズ。
 モーツアルトの音楽の流れに任せて、スポットだけ腕を振るというスタイルである。

 ところが昨晩聴いたブラームスでは、一転汗が流れるように躍動感あふれる指揮ぶりにまたまた驚いた。
 モーツアルトとは違って、自ら音楽をつむぎ出す、あるいは編み上げるという姿勢に変化している。とはいえ現代の指揮者の大仰な指揮ぶりとも違う。
 入念なリハーサルで有名な指揮者だったので、曲の解釈や自身の思いは伝わっており、指揮振りとは違った劇的な演奏にも魅了された。
 楽器群の配置もまた古い形を基本にしているのであろうか。指揮者の左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン。ホルンが指揮者の左に位置し、金管では左からチューバ・トロンボーン・トランペットという今の配置とは全く逆であった。そして最後列にコントラバスが一列に並ぶという私には不思議な配置に思えた。
 実際に音響が演奏会場ではどのように聞こえるのか、演奏会場で直に体験してみたくなった。
 ウィーンフィルといったん決別した後の和解した時の演奏ということで有名になった演奏ということもネットの情報に載っていた。

 またクライバーは、ベートーヴェンの第4番のシンフォニーにこだわりがあったようである。私はこの第4番が好みではない。一度クライバーの指揮による演奏を聴いてみたいと思った。ブラームスの第4番のシンフォニーも聴いてみたいとも思った。

 現在の指揮者、特に若手の指揮者が大きな身振りで、曲の流れに合わせるという身振りよりも「自分が曲を紡ぎ出している」という姿勢の強調には、お節介な心配をしてしまう。指揮者の役割の変遷の違いがあると思うし、またテレビなどの映像表現との兼ね合いなどもあることは承知をしているが、独り相撲のようなあまり大仰な指揮ぶりには、私は違和感が強い。

 


久しぶりのCD店

2021年04月06日 22時03分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 陽射しは時々あったものの北風が冷たい一日であった。横浜駅近くの喫茶店で1時間ほど、読書とメールチェック、書店を見て回りたかったが人通りも多そうなのであきらめ、地下街から離れた場所の大型のCD店のクラシックコーナーで最近のCDの状況を見て回った。
 ベートーヴェンのピアノソナタなどを見て回った。すすめられたCDは陳列棚にはなかった。まだまだ購入できるほどの小遣いは用意できていないが、購入するにしてもここの店では購入しないで、神奈川大学の生協の割引を利用して購入する予定。しかしいつになるやら‥。
 この店で30分ほど見て回ったが、クラシックのコーナーには人はたった一人しか入ってこなかった。これではクラシックのCDは儲けにならない、と言われてしまうのも致し方ないであろう。残念である。
 ついでにジャズのコーナーも見て回ろうとしたが、そちらは他のコーナーと接しており、人が多かったので近寄らなかった。
 横浜駅周囲や地下街の人出は減っているようには見えない。大阪ではこれまでで最高の感染者が出たとのこと。私には理解できない言動の知事と市長のコンビである。

 横浜ではワクチン接種の具体的なスケジュールは今のところ私の耳には入ってこない。市のホームページでは接種の開始は5月中旬から、としか記載されていない。
 6月末までにすべての高齢者に2回接種が可能な供給量を確保、とも記されているのみである。あくまでも供給であって接種の完了の予定ではない。
 これでは7月末までの完了も難しそうな気配である。それまでに、第4波、第5波もやってくる可能性がありそうである。