Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

バッハ「管弦楽組曲全4曲」

2021年04月06日 20時53分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

         


 午後のウォーキングから帰って聴いていた曲はバッハの管弦楽組曲全4曲。トン・コープマン指揮のアムステルダム・バロック管弦楽団、第2番のフルートソロはウィルベルト・ハーツェルトと表記されている。録音は1997年。発売年月日の記載がないので、いつ頃購入したかはわからない。LPレコードも持っていたが、誰の演奏で、いつの演奏だったか、覚えていない。
 この4曲はいづれも祝祭のための曲のようで、明るく屈託のない曲集である。ひねくれ者の私はどうもこのあまりの明るさ、屈託のなさが性に合わないというのであろうか、敬遠している。

 不思議というか、この曲を聴くたびに条件反射のように、ヨハン・セバスチャン・バッハは1685年に生まれ、1750年に亡くなっていることが思い出される。どうしてそのようなことを思い浮かべるようになったのか、思い出せないのだが。
 ヨーロッパは絶対主義の時代を迎え、日本で言えば、江戸時代の初期、三代将軍家光は1651年に亡くなり、1751年に第7代将軍吉宗が亡くなっている。奥の細道(1694)、赤穂浪士の討ち入り(1703)や、ロシア船が安房沖に来航(1739)と幕藩体制が軋みを見せ始め、ヨーロッパの圧力が迫りつつあった時期である。国学が興隆し、近松門左衛門が活躍した時代でもある。
 特筆すべきは、吉宗は1726年にオランダ人の演奏する西洋音楽を聴いている。果たしてプロテスタントの国、オランダ人の演奏した曲の中に、カトリックのバッハの音楽は含まれていたのであろうか。興味は尽きない。
 この江戸時代の最中に、バッハのこの管弦楽組曲のような音楽がヨーロッパで演奏されていたと思うと、政治史だけでヨーロッパを追っていくのとは違う世界が見えてくるような気がする。

 進んだヨーロッパ、遅れた東洋・日本という図式では語ることが出来ない、文化的な同時代性、鎖国という体制をとっても流入してくる文化や人の流れ、というものに敏感になる。
 オランダ・清・李氏朝鮮、蝦夷でのロシアとの接触は、大きなインパクトを与え続けていたと思う。そういう歴史のアプローチに興味がある。絵画についてはさまざまな試みがなされている。音楽については目にしない。


「万葉集講義」(中公新書)読了

2021年04月06日 14時39分01秒 | 読書

   

 「万葉集講義」(上野誠、中公新書)を読み終わった。
 久しぶりに万葉集の収録歌を味わった。万葉集は評者によっていろいろな解釈が出来、そのことで読む側の想像も広がり、それが私の思考を刺激してくれる。読み方、時代の考証、歌の発生、万葉集の出来方などなどまだまだ確定できないこと、決めつけてはいけないことなど、それが魅力である。
 作者の主張や論考にすべてに同意するわけにはいかないが、私にそれを批判するだけの知識も研究成果もない。いったんは受け止めて、私なりの万葉集の像を少しずつ作り上げるだけである。
 この本には各章のまとめが丁寧に記されているので、それを私なりにさらに短くして羅列して、復習してみる。

 第1章「東アジアの漢字文化圏の文學」では、
① 日本語を母語とした人々は幹事を学び、東アジア漢字文化圏の一員となり、漢字の導入とともに「歴史」も誕生した。
② 漢字による表記法は、文脈によって訓(よみ)を決定するという不安定で、法則性のない方法であった。
③ 漢字で歌が表記されると、一回生起的な感情を表現するものとなる。歌が個人のものとなり、作者が誕生する。
④ 一回生起的感情を遺そうとする欲求が生まれ、歌集を生み出す。

 第2章「宮廷の文学」では、
⑤ 巻1と巻2は歌によって宮廷の歴史を振り返る歌集
⑥ ⑤の編纂者は「日本書紀」を参照し、その流れに沿って配列。「書記」が宮廷社会における歴史認識となっていた。
⑦ 内容は宮廷儀礼と宴に関わるもの
⑧ 内容は歌の表現にも及ぶ

 第3章「宮廷官人の文学」では、
⑨ 万葉集は律令国家形成期の文学であり、律令国家は漢字によって運営される法治国家を希求していた。
⑩ 少年期から漢字を学んだ律令官人たちは地方に赴任し、宮廷文化と歌を地方に伝えた。
⑪ 地方に赴任した国司と現地の郡司たちは歌で交流した。
⑫ 律令官人には高い儒教的倫理規範が求められ、その文化は精神世界に及んだ。

 第4章「京と地方をつなぐ文学」では、
⑬ 天皇から庶民までの文学のように見えるが、上位者の会社に対する慈愛を表現するもの。いたずらな理想化は禁物であり、平等社会希求は誤り。
⑭ 地方の郡司層に漢字文化が普及し、上京者と交流し共感する観点から分析したい。
⑮ 防人歌・東歌も宮廷文化の地方への浸透から生まれた地方文化の精華と見ることができる。

 第5章「『万葉集』のかたちと成り立ち」では、
⑯ まず、巻1と巻2が出来、次に巻3と巻4、そのあとに巻5~16が形成された。それに末4巻が接続された。宝亀二(771)年以降に最終的な編纂が開始された。
⑰ 巻1~6は歴史志向で編纂。これは万葉集全体の及ぶ志向性。

 第6章「『万葉集』の本質は何か」では、
⑱ 古今和歌集が万葉集から受け継いだものは、短歌体という歌体、恋情発想、四季の文学。巻8、11、12の世界である。
⑲ 平安時代は「万葉集」は勅撰集として信じられていた。やがやまと歌は唐風文化に対する日本文化のシンボルになった。
⑳ 奈良に幽閉されていた平城上皇が奈良時代を締めくくる天皇と目されていた。
㉑ 「万葉」という語には、「万世」の「これからも重なって続いてゆけ」という願望も含まれた語である。

 実証部分まで、並びに第5章については、いろいろと勉強になることが多かった。第6章の後半については、いろいろと議論はありそうである。
 気になった個所は明日にでもまた引用しておきたい。


北風が冷たい

2021年04月05日 22時14分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 雨は上がった。秋の空のような雲が点在している。北風が寒い中を、セーターとウィンドブレーカーでウォーキングに出かけた。昼間あまり歩けなかったので、30分少々と最近にしては長い夜のウォーキングをしてきた。
 22時前にもかかわらず、感染拡大のためなのか、通り過ぎるバスもガラガラ、人の歩く姿もほとんどなかった。

 今週は特に予定がなく、なんとなくのんびりしている。嵐の前の静けさ出なければいいのだが‥。


桜蘂降る

2021年04月05日 19時33分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 買い物を頼まれて近くの公園とスーパーまでウォーキング。北よりの風が冷たく、出た時は寒さにびっくり。歩いているうちに今度は汗が出てきた。

   

 自宅を出てすぐにツツジがあり、今にも咲きそうになっていた。昨晩からの雨をすったためだろうか、急に膨らんだように思えた。近くのツツジはいくつか開花しているものもあった。例年よりも少なくとも2週間は早いように思えた。

   

 歩いて20分ほどの公園では、桜蘂が地面に敷き詰められ、名残りの花のもとでボールを蹴る人も。子どもの姿はなく、見かけるのは大人ばかりの静かな公園であった。

★桜蘂散りつくづくと地べたなる     宮澤明寿
★桜蘂降る一生が見えて来て       岡本 眸


本日も引籠り

2021年04月05日 15時27分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 弱い雨が朝から止まなかった。レインアイヨコハマを見るとそろそろ雨が上がりそうな気配である。雨の区域は西北西から東南東方向に流れている。
  昨日深夜に放送していたカール・ベーム指揮、ウィーンフィルのモーツアルトのシンフォニーの40番と41番を聴きながら、読書タイム。
 「万葉集講義」の第4章と第5章を読み終わった。第6章に入ったところで雨が上がったようだ。残りは第6章と終章、あとがき。
 いつものような覚書は、全体を読み終わってから記載予定。

 いったん読書は中断。家に閉じこもっていたくないので、家の周囲を歩いてみたい。

 部屋の中は寒さは感じない。18℃を超えている。しかし我が家は1階でしかも全面フローリングである上に、体を動かさないので温かさはない。10分ほどストーブを点けては消す。1時間ごとにこれを繰り返している。

 雨にすっかり弱くなってしまったと思う。雨に濡れるのが億劫になった。

 


編集のノウハウを少しばかり

2021年04月04日 22時59分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日配信となったばかりの、「VSPグランドツアー2021 コラボ企画 天文雑誌 月刊『星ナビ』のつくりかた」【➡https://www.youtube.com/watch?v=TolQ7UNVuZs&t=23s】というユーチューブを見ていたら、22時半を過ぎてしまった。
 読書タイムと意気込んで「万葉集講義」を手にリビングルームでお茶を飲みながらと思っていたのだが、この番組を見たいというリクエストが妻からあり、一緒に見てしまった。

 私は退職者会の新聞の編集作業をしているので、編集作業に少しは役に立つかもしれないと思って見ていた。役立てるほどの能力は私にはないのが悲しい。組合的な新聞と、天文ファンのための雑誌では、紙面構成も、記事の扱いも、読んでもらいたい内容も違いはある。しかし読んでもらう工夫に勤めなければならないことは共通している。
 写真を中心にして読んでもらえる構成を練り上げていく、という方法は参考にしてみたいととりあえず思った次第である。
 やはり組合的に、「お知らせ」と「これをやろう」というばかりの紙面からは、何とか脱却しなくてはいけないのだが、なかなか思うようにならない。また急に紙面の構成のあり方を変えると、会員から怒られてしまう、ということもあり、難しいものである。

 あまり刺激の乏しい一日だと思っていたが、一応最後にそれなりの刺激を得られた、ということで満足しよう。

 


ベートーヴェン「ピアノ三重奏曲「大公」」

2021年04月04日 19時38分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 ウォーキングからの帰り、最後の1kmほどのところで雨が降り出した。慌ててリュックに防水用のカバーをかけ、気休め程度だがウィンドブレーカーを羽織った。幸いにも某町内会館があり、その庇のある玄関先を借りた。
 恥ずかしながら出がけに、傘をリュックに入れるのを忘れていた。

 明日の昼間でぐずついた天気が続くとのこと。

      

 昨晩第三楽章だけを聴いたベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」を聴いている。すでに幾度か取り上げている曲である。演奏はスークトリオ。


「青の時代」

2021年04月04日 14時17分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

  風が強い。曇り。時々陽は差すものの、温かいという感じにはならない。午前中の団地の会議は昼過ぎに終了。
 これよりいつものとおりウォーキング&コーヒータイム。

 先ほどまで、録画していたプレミアムカフェの「青の時代 パブロ・ピカソ」を見ていた。これは録画したときに少しは見ていたもの。記憶と重なる部分がだいぶある。青の時代のピカソの作品には惹かれる。
 苦悩と悪戦・苦闘というものは何も10代後半から20代に限定する必要もなく、いつまでたっても悪戦・苦闘なのである。しかしこの時期の苦悩と悪戦・苦闘をいかに自覚的に自分の中で抽出できるか、そこがその人の人生にとって、一番大事なものであると思っている。
 他者の、それも尊敬できる人物のその時期を見つめることも、自分のその時期を再確認するのにいい契機となる。得るものも多いと思う。そして常にそこに立ち戻って自分を考えることを続けたいものである。

 「若気の至り」という言葉を私は使いたくない。それを言って何かを語ったつもりになるのは、自分の原点を否定することである。かといって理屈にならない理屈でごまかしてもいけない。自分に不誠実な者は他者に対しても不誠実であることを公言していることに等しい。


引きこもりの一日

2021年04月03日 22時34分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 ほとんど外に出ずに家で過ごした。妻は娘の買い物に付き合うとかで不在。私は頼まれた買い物のために近くのドラッグストアを往復しただけ。ウォーキングもわずか4千歩どまり。引きこもりに近い一日であった。
 気晴らしに録画してあったビデオを見ていたが、途中から寝てしまって、結局またの機会に再度見ることにした。
 録画したのは3本もある。いつになったら見ることができるやら。

 これより明日の団地の会議に向けて若干の予習と復習。


ベートーヴェン「ピアノ三重奏曲〈大公〉」

2021年04月03日 21時56分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日のオンラインの音楽鑑賞会は、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」の第3楽章、同じくビアノソナタ「告別」のやはり第3楽章。ルドルフ大公にちなんだ曲である。
 さらに後半のバッハのマタイ受難曲も聴こうとしたがうまくZoomに接続できなくなってしまった。幾度トライしても入っていけず、断念。一瞬入れた時もあったが、ズームから切断されてしまった。どうもこちらのカメラの接続がうまくかみ合わないようだった。音声は聞こえるのだが、こちらの画像が画面に表示されなかった。
 ということで後半はほとんど聴かないうちに終了。残念。

 大公トリオは、いい演奏であったと思う。YouTubeの演奏者をメモするのを忘れてしまった。明日は私のもっているCDでこの曲を全曲聴きたいと思った。

 


井上雅之画集

2021年04月03日 15時26分30秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 本日「井上雅之 雁皮紙によるコラージュ」という立派な画集をいただいた。
 私がちょうど定年を迎えた年に、妻と伊勢佐木町に向かって歩いているときに通りがかった画廊で個展を開催していた。
 中に入るとちょうど井上氏がおられ、ご自身の作品の説明をしてくれた。私と同じ年齢である。とても親しみが沸いた。
 それ以来、個展を開催されるたびに案内をもらい、幾度か訪れた。この画集の発行所の「なるせ美術座」にも2度ほど足を運んだ。



 私は2010年からのシリーズ、「See through - 〈水鏡〉」が気に入っている。はじめは宇宙の銀河宇宙を思い浮かべた。さらにブラックホールに光が吸い込まれていくような錯覚も覚えた。最近ではクロード・モネの睡蓮の一連の作品を思い浮かべることもある。
 作者にしてみれば、不本意な印象を私が持ってしまったのかもしれないと恐縮はしている。作者はこの「See through(透過光)」について「大気から降り注ぐ光とそれによって見抜かれた私自身の内面の緊張を雁皮紙の線に置き換えて表現したもの」と述べている。私の感想は頓珍漢だったかもしれないが、それでも受け入れてくれている。
 私は同時に、ここに描かれている黄色もまた気に入っている。黄色は楕円で光の輪をイメージできるが、同時にチェックマークの様に黄色がときどきあらわれる。反射した光なのか、睡蓮の池に落ちる落ち葉なのか、宇宙の果てでブラックホールに吸い込まれる寸前の超新星爆発なのか、想像をしているだけで時間を忘れて見続けてしまう魅力がある。
 私にとっては癒しの時間が訪れるときもある。そして作者は雁皮紙という素材にこだわり続けている。直接作品に対するとこの不思議な光沢も魅力である。奥行きを感じる。

 近いうちに他の作品も含めてもう一度この画集に言及してみたい。

 


落花・散る桜

2021年04月02日 22時48分12秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★まつすぐに落花一片幹つたふ      深見けん二
★ちるさくら海あをければ海へちる    高屋窓秋
★花ちるや瑞々しきは出羽の国      石田波郷

 第一句、風に吹かれて落ちる落花ばかりではない。幹を不器用に落ちていく花弁もある。しかもまっすぐに地面に向かっていく。さまざまな落花に出くわす。人の人生のようでもある。
 第二句、あまりに有名な句。青い海に一番目立つ薄い桜色の花弁、小さくとも存在をいつまでも主張し続ける。「白鳥は悲しからずや海の青空のあをにも染まずただよう」(若山牧水)とはちがい感傷を排して、切れ味がいい。
 第三句、「出羽の国」は歴史を帯びた余剰が漂う。「出羽なればましてあざみの色の濃き」(庄司たけし)もまた同様。

 


タダ飯、タダ酒は身を滅ぼし、友を失う

2021年04月02日 22時16分14秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 明日土曜日の夜はオンラインの音楽鑑賞会、日曜日の午前中は団地の会議。

 さて、接待問題が大きく取り上げられている。「(酒の誘いは)断らない男・女」だのが、流行語大賞の候補にすでに上がっているらしい。
 どうしてこんな世界になったのか。あるいはもともとこうだったのか。

 私が学生のころ、「太陽が空にある時間は、お酒を飲んではいけない」、「食事とお酒がただというのは警戒しろ」、「タダ飯・タダ酒には毒が入っている」と教わった。教えてくれたのは、下宿先の方、サークルの先輩、アルバイト先の雇い主や仲間・先輩諸氏、そして学生運動の仲間たちであった。私の経験した学生運動の仲間の多くはあまりに倫理的過ぎたのかもしれない。バリケードの中では、当然のこととして誰も口に出さないが、お酒は禁止であった。
 そして横浜市の職員になった時も、初任者研修の講師や、配属先の上司や先輩たちから、また労働組合の勧誘に来た役員からも同じように幾度も諭された。

 ある時、大学を同時に卒業した友人と卒業後に数年ぶりに居酒屋に行った。学生時代、学部もサークルも違ったがたまたま同じアルバイト先で知り合った。仕事が終わって缶ビールと裂きイカを買って仕事先近くの小さな公園のベンチで飲んだ仲である。学生運動には興味を示さない友人だっが一緒に試験をボイコットして留年した。
 だが、帰り際、私は割り勘を主張したが「どうしてもおごる」という。友人は私の分も払ったのち、レジのレシートとは違う、店の押印のある手書きの領収書を店に要求していた。どういうことかと聞くと、経費で落とせる、という。「接待費など、接待だけでは使いきれない。みんなで使うものだ、というのが習慣」と言い出した。
 「お前の会社の金ならば、お前のおごりではない。しかも私にはまったく無関係な会社からおごられるのは嫌だ」、さらに「その費用分もお前の会社の製品の原価に含まれるというのは、納得できない。その分、購入者は損しているのではないか」と議論になった。
 議論しているうちに、駅についてその友人はさっさと改札口に入って行ってしまった。残念ながらそのことがあってから、その友人とは会わなくなった。
 すべてがそうだとは思わないが、日本の社会の商習慣というものを垣間見た気がして、割り切れないものを感じた。
 「金のゴタゴタ」が友人関係も裂いてしまった。「タダ飯、タダ酒」は信用と友人を失う、つまりは毒以上の作用がある。今でもその時の半額、当時の3000円相当程度だが、気になっている。
 同じ企業でも、製品を作る第一線の社員にはそのような特権はたぶんないであろう。また地方公務員の私よりも高い手取りを自慢した大手の社員であったその友人が、「第二の給料」として活用していることに憤りも感じたものである。
 それから数年して、地方公務員の給料が高いというマスコミ論調が始まった時には、実に嫌な思いをした。

 その時以来会っていないあのの友人は、いまどうしているだろうか。

 


疲れた打ち合わせ

2021年04月02日 18時37分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は11時前から13時まで、退職者会の打ち合わせ。むろん昼食はそののち、各自の年金から自前で。
 どこぞの政党や、省庁の幹部とは違って、会議や打ち合わせ・勉強会は食事やお酒が出ないと出来ない、などということは私たちには無縁である。

 数人で、目いっぱい議論はあったので、終了時間にはだい疲労。次に会議のある人は、食事抜き。かわいそうであった。解散後ひとりで昼食。昼食後は喫茶店でコーヒー一杯の休養。
 久しぶりに関内駅を経由して桜木町駅まで歩いてみた。横浜公園のチューリップや、関内桜通りのヤエザクラの開花状況を見てくればよかったのだが、横浜駅に戻ったところで気が付いた。気が付くのが遅かった。

 しかし、来週の日曜日まで、横浜公園をメイン会場に「第43回 よこはま花と緑のスプリングフェア」が開催されている。妻も久しぶりに見に行きたいとのこと。


桜の実・葉桜

2021年04月01日 22時04分12秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 「桜の実」「葉桜」は夏の季語ということになっているが‥。

      

 

★実桜や少年の目の海の色        永方裕子
★葉の陰に揺れはそれぞれ桜の実     庄司たけし
★入園のお下げ揺れおり桜の実      菅原 涼
★実桜や桟橋揺する波の音        酒井誠三
★葉桜の中の無数の空さわぐ       篠原 梵
★葉桜の雨しづかなり豊かなり      九鬼あきゑ

 確かにソメイヨシノが4月に満開になれば、5月初めの初夏に桜の実が黒ずむ。それが「桜の実」の季節感が夏ということの根拠なのだろう。そうはいっても桜の実が目につくのは、早咲きの桜が実をつけたころ。さらに赤くなり始めたころが見栄えがする。
 葉桜は花が散った直後のイメージではなく、葉が若く、浅い緑色で木全体が覆われたころのイメージなのであろう。私もそのころの桜の木は好きである。しかし多くの人は花が散った直後に葉が出てきた時期を差すことが多い。
 植物のさまざまな姿のどの時点を、どの言葉で表すか、言葉が時代とともに変わるように、その意味も変化する。ことわざや、中国の古典の熟語を除いてひとつの意味に縛ってしまうのは難しいものである。意味を動かしてはいけない言葉、意味が時とともに動いていく言葉、峻別は難しい。