3月4日に、江戸時代に造られた加治木の木田用水を紹介しましたが、同じく江戸時代に造られた姶良市姶良町の中津野用水を紹介します。
中津野は周りより地盤が高く、水田ができないため貧しい村でした。15歳の少女ユキエは、山田川の対岸の女生嶽に登り、山田から中津野まで用水路で水が引けることを知り、大人を説得しました。
最初は協力していた大人も、農繁期になるといなくなり、ユキエは一人で工事を続けました。それを見た大人は再び協力し、1752年、4kmの用水路が完成し、中津野の水田が拓かれました。
前回紹介した山田麓にある中津野用水の取水堰です。
取水口の水門。
下流から見た水門。
用水完成後、大人達はユキエがあまりに利発なため、将来何をしでかすかわからないと恐れ、ユキエを殺害してしまいました。その後、ユキエの霊を慰める石祠が作られ、水口の姓を与えられて、水口家が用水の管理を行ってきました。
水門の隣にあるユキエの顕彰碑。「水口ユキエ嬢記念碑」とあります。
中津野用水を下流へ行きました。
山田麓を流れる用水。
山田小学校の隣です。
水門があります。
さらに下流へ行きます。
水門。
隧道の入口です。9つの隧道があります。
隧道の途中に開口部があります。維持管理のためでしょう。
隧道の下流側出口。
田んぼの脇の用水を進みます。
田の神がありました。
舟型に彫られた中の田の神です。
次回は、中津野集落にあるユキエの墓を訪ねます。