

“慰霊の日の制定に立ち会った古堅さんは、14~19歳の少年が集められた「鉄血勤皇隊」として沖縄戦に動員された後、
捕虜になってハワイへ送られた経験を持つ。
毎年、慰霊の日には摩文仁にある沖縄師範学校の慰霊塔「沖縄師範健児之塔」での慰霊祭へ足を運び、犠牲になった旧友たちを思う。
「一緒に立っておって吹っ飛ぶも者もいればけがをしないで済む者もいる。
そういう中で偶然生き残った者として、どんな生き方をするのか死ぬまで問われ続ける問題です。
二度と戦世を引き起こしてはならんという立場に立たされている者がね、
慰霊やそれに関わるような問題についていささかもないがしろすることは許されないですよ」”


【内容抜粋メモ】


沖縄 アメリカ軍の激しい攻撃から逃れ、南へ、南へと追い詰められ、大勢がこの崖から身を投げました
「沖縄戦」最後の激戦地 糸満市にある平和記念公園です
今日6月23日は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる慰霊の日です
式典会場の隣りは、犠牲となった人たちの名前が刻まれている「平和之礎」です



沖縄は、本土防衛の最前線と位置づけられ、県民の4人に1人が犠牲となりました
いまだ遺骨さえ見つからない人が多く、刻まれた名前だけが故人を偲ぶ縁となっています
朝から多くの人が訪れ、祈りを捧げています
今年の慰霊の日 沖縄の人々は、不安と怒りを募らせています
アメリカ軍による事故やトラブルが相次いでいるからです
去年10月 東村 ヘリコプターが沖縄本島の北部の民間の土地に緊急着陸し燃焼


12月には、普天間基地に隣接する小学校の校庭に、ヘリコプターの窓が落下する事故が起きました


さらに、11日 訓練中のF15戦闘機が海に墜落
原因を特定されないまま、2日後には飛行訓練が再開されました


在日アメリカ軍専用施設の7割が集中する沖縄
その現実を改めて痛感させられた1年でした
今に続く重い基地負担の原点となった「沖縄戦」
戦争体験した人は、今や県民の1割にまで減っています
その記憶を、どのように若い世代に伝えていくのか大きな課題となっています
こうした中で、去年大きな衝撃を与える事件が起きました
沖縄本島中部の「読谷村」
奥にあるのは「チビチリガマ」と言われる自然洞窟です



73年前 アメリカ軍が攻めてきた時に、周辺の住民が逃げ込んだ場所です
ガマの中で人々は精神的に追い詰められ、83人が集団自決に追い込まれました
中には、親が自らの子どもに手をかけるという悲劇も起きた場所です
戦後は遺族にとって大切な慰霊の場となってきました
しかし去年9月 ここが荒らされる事件が起きたのです
9月12日、何者かによって千羽鶴が引きちぎられ
遺品であるガラス瓶が割られ、遺骨の上にばらまかれたりしました


事件から3日後 逮捕されたのは、沖縄本島中部に住む4人の少年たちでした
少年たちは、動機について「心霊スポットでの肝試しだった」などと話しました
会長は、集団自決で祖父母、叔父、叔母を亡くされています
沖縄の少年たちがここを荒らしたと知った時は、どんな気持ちでしたか?
会長:
沖縄の未来を背負う少年の犯罪ということで、大変ショックを受けています
ここの再建以来、各県内外から、小中高校生の学生が平和を学ぶにもかかわらず
なぜこんな事件が起こったのか
平和教育の在り方、ガマの管理活用について考えさせられた事件でした
少年たちが、自分たちがしたことについて改めて考えてもらおうと
地元の方たちが課題を与えました この「野仏」の制作です
全部で12体作られ、ガマを見守るように置かれています


この野仏の制作に、少年たちと共に取り組みました、彫刻家の金城実さんです
この野仏の制作には、どんな思いを込めましたか?
ミノルさん:
少年たちが作る時に「あなた方の犯した罪は、一生引きずっていくだろう
それに対する反省や誤りを野仏とともに歩んでいくので
その気持ちで真剣に彫刻を作ってくれ」ということを言いましたね
その野仏作りを終えて、少年たちは、感想文を遺族会に提出しました
一部をご紹介します

「仏像作りをして、謝罪の気持ちでいっぱいです
慰霊の日がどれだけ大切な日かよくわかりました」
と綴られていました
この謝罪を受けて、今後はどのように平和を伝えていきたいと思いますか?
会長:
少年たちは「チビチリガマ」を知らずに行ってしまった
戦争を知らない若者が増えているということは否定はしません
今後少年たちの更正を含め、改めて「平和教育」のあり方について
形を考えながら努めていきたいなと思っています

事件の後、たくさんの花や千羽鶴が、全国からこの場所に送られてきました
修学旅行や、平和学習で、この場所を訪れる学校も増えました
沖縄戦の悲惨な記憶をどう継承していくのか、その模索が続いています
【翁長知事による平和宣言】

翁長知事は、4月に膵臓癌で手術を受け、公務を制限していますが
沖縄の声を全国に届けるため、この追悼式の出席に強い意欲を示してきました

20数万人余の尊い命を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、73年目となる6月23日を迎えました。
私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、
平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日を生きています。
戦後、焼け野が原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、
復興と発展の道を力強く歩んできました。
しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、
日本の国土面積の約0・6%にすぎないこの沖縄に、
米軍専用施設面積の約70・3%が存在し続けており、
県民は、広大な米軍基地から派生する
事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています。
昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、
先日の米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや
平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きが始まっています。
平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した
辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。
(拍手が起きる
日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。
民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、
沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、
アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。
「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。
これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきた通り、沖縄の米軍基地問題は、
日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。
国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制のあり方について、真摯に考えていただきたいと願っています。
東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では、地域紛争やテロなどにより、
人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積しています。
世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、
強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。
かつて沖縄は「万国津梁」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、
平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。
そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、
再び、アジアの国々をつなぐことができる素地ができており、
日本とアジアの架け橋としての役割を担うことが期待されております。
その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、
沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、
沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、
一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、
恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、
未来を担う子や孫が心穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、
全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。
名護市辺野古への移設問題では、国が8月にも土砂投入を始める予定です
翁長知事は、移設を阻止するため、埋め立て承認の撤回を名言しており
今後の動向に注目が集まります
【平和の詩の朗読】
朗読するのは、浦添市立 港川中学校 3年の相良倫子さんです

題名「生きる」

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。


草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃え尽くされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。


みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合っ
て生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を
絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を超え、あらゆる利害を越えて、
平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

相良さんは、誰もが当たり前に生きられる平和な世界を作ることを誓いました
安倍総理大臣は、沖縄の基地負担の軽減に今後も取り組んでいくと述べました
(何か叫ぶ声が聞こえた
少女の詩には涙する人が多かった
首相の話は、あの少女の詩の後では何も響かなかった
読んでいる原稿は誰が書いたのだろう?
観光地としてハワイを超えたこと、基地の縮小に取り組むなど、選挙演説みたいだ
●犠牲となった24万人の名前が刻まれた「平和の礎」に、今年新たに58人の名前が刻まれた
その中には、戦場で生まれ、戸籍もないまま亡くなった幼い子どもの名前もあります
これまで刻銘を諦めていた遺族が、高齢になる中で
「あの子がわずかな間でも生きていた証を残したい」と資料を集めて申請しました
●糸満ボランティアによる「遺骨収集作業」

激戦地に残る自然洞窟では、今も犠牲者の遺骨が見つかります
ボランティア男性:遺骨はまだ若い人ですよ 20歳くらいか

沖縄戦の傷跡は、73年経ってなお消えることはありません
当たり前の日々が二度と奪われることのないように
今を生きる私たちが、未来へと平和をつないでいく
沖縄戦から73年 先人たちに誓う 沖縄の強い決意です
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