片づけを進めている物置に こんなものがあります。
うちでは「とろんこ」と呼んでいました。
若い頃 アメリカに渡って働いていた 祖父のトランクです。
木で作られ 外は何が張られているのかわかりませんが
中はきれいな布張り しっかりした金具がついています。
宿屋のシールが貼られています。
内外汽船問屋 とは 移民する人たちを泊めた宿のようで
横浜桜木駅前「廣島屋」と印刷されています。
移民が盛んな時代は 何軒もあったようです。
明治時代の日本に こんなシールをトランクに貼るなんて
時代の先端 おしゃれだったでしょうね。
もう一枚のシールには
アメリカ サンフランシスコの 永本ホテルの 名前が見えます。
ひと月はかかる 長い船旅だったと思います。
祖父は その後 ユタ州 ソルトレークシティにいき
大陸横断鉄道の建設に従事していたと聞いています。
昼間働いた後 夜には 英語を習って よくわかるようになるまでは
上司のアメリカ人の支持が聞き取れず よく叱られたもんだ
と よく話してくれました。
日記も数冊あります。
明治45年の日記に 「渡米して 5度目の正月をお雑煮で祝った」と
書かれています。
明治20年生まれの祖父が 25歳の時の日記です。
このころはもう すっかり英語も喋れて
休日にはグレートソルトレークに 泳ぎに行ったのでしょう。
塩分の強い湖で 泳がなくても浮いたまま 本が読めるんだ
と話してくれたことがあります。
かかった費用の記録なのか? 英語で書かれています。
アメリカで15年働き 日本に戻って 10歳年下の祖母と結婚しました。
ボストンバッグも まだ しっかりしています。
私が6年生の年の 暮れも押し詰まった日の夜明け前に
突然心臓発作で 亡くなりました。
これは日本での晩年です。お花見でしょう。
わたしの記憶している祖父の姿です。
この帽子も まだ帽子箱に収まっています。
おしゃれで 優しい おじいちゃん
「おお ようかえってきたなあ」と 学校から帰ってきただけでも
ハグしてくれました。
このトロンコとボストンバッグは また しまっておきます。
日記は 少しづつ読んでみたいと思います。
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祖父のことを思いだすと よく祖父にハグされた幸せな気持ちが蘇り
心が温かくなります。
ゆりさんも おじいさまに似ていらっしゃるところが多いのですか。
一緒に過ごした期間の長さだけではなくて どのような関係を築いていたかで
何十年たっても その姿が 生き方の指標として 奥底にあるのでしょうね。
素晴らしい宝物ですね。
そして大正時代に帰られたのが良かったですね。
そうでなければ、ようちゃんも生まれてませんでしたね(*^^*)
私も小さな時に亡くなってしまった祖父への想いがいっぱいです。
ようちゃんが、おじいさまに文字が似ていて綺麗なように!私も祖父に似ている部分があるのです。
隔世遺伝(*^^*)
ようちゃんの様々なバイタリティもおじい様譲りかもしれませんね。
いいお話に心ほっこり致しました♡
いまの時代は 日本で働く外国の人たちが 似たような事情を抱えて
おなじような気持ちでやってきているのでしょうね。
何とか成功したいという強い気持ちと実行力を持った人と血がつながっているとおもうと
勇気づけられます。
太平洋に向かって暮らしていると あの海の向こうへのあこがれのようなものも強かったのでしょうか。
スタンプください・・・なるほどね。
つい 日常の言葉は 使い慣れた英語の方がつい出て来るんでしょうね。
祖父は 腹が立っても言い返すことがない穏やかな人にみえましたが
人一倍腹は立っていたのか こっそりと英語で 相手の後ろ姿に向かって
「foolish!(愚か者!)」とつぶやいて 溜飲をさ
げていたの 見たことがあります。
でも 当時は移民船で新天地を求めて渡った人が多かったのですよね。
近所にも アメリカに行っていたというおじいさんが私が知っているだけで3人はいます。
帰国時には相当のお金を持って帰ったそうですが やがて
戦争などで 貨幣価値が一変し 「早く家を建てておけばよかった」と
悔やんだそうです。
今こそ築145年の古い家ですが 当時はまだそれほど古くない
しっかりした家だと思ったのでしょう。
また 太平洋戦争では アメリカで経験した話などできなかっただろうし
息子(わたしの父)が兵隊に行き アメリカと戦うことになったころも
辛かったと思います。
おしゃれでしたね。
kebaさんに褒めていただいて 祖父があの世から 喜んでいると思います。
ネクタイの結び方がきれいで 帽子をかぶってさっそうと歩く姿をよく覚えています。
日記は父が 親も形見としてしっかりしまい込んでいましたが 遺品の遺品として
出てきましたので すこしづつ読んでみたいと思います。
おじいちゃんの想い出もたたくさん詰まった
開けると 色々な事が蘇ってくる箱
これから また 何が出て来るのかしら
日記も 読んで見るのも楽しいですね
その頃 海外で生活することが どれだけ大変な事だった事か!
内側にうさぎの毛皮がびっしり張り付けてありました。
あちらは冬が寒かったのかな。
真冬にはそれを着て自転車で出かけていきました。
当時自転車も贅沢で あまりない時代でした。
肉体労働の一日を終えてから英語の勉強をするのが大変だったようです。
若いから頑張れたのでしょうね。
部屋の片付けもしていくうち この日記も出てきました。
15年のうち 5冊ほどしかありませんので 渡った当初はそれどころではなかった
のかもしれません。
直接ではなくても血のつながる人がそんな生き方をしたという話は
聞くだけでも ワクワクしますね。
今のように情報が豊かでない分 いい話を聞くと妄想が膨らんで 居ても立ってもいられない
気持ちで渡ったのかなと思います。
祖父はわたしが小6の時に心臓発作で亡くなりましたが
前日まで元気に働いておりましたので おじいちゃん大好きな私は
いつも一緒に寝ており明け方に亡くなったときも同じ布団で寝ていたので
胸をかきむしりながらあっけなく息絶えた様子をよく覚えています。
裕福でないからと言っても 今の様に 学校へ行って都会で働くというわけにもいかず
せいぜい奉公に出るということだったのでしょうね。
国の政策で 外国に行って働けば 働いた分だけ自分の財産を積み上げることができる
と言うことだったのでしょう。
つまり 家庭も 国も 長男以外は口減らしと言う時代だったのでしょうね。
家を処分して家族で渡った人たちは そのままあちらで生きていかれていますが
祖父は10代の若い時に一人で渡りましたので 戻って結婚しました。
シッカリした作りですね。
鍵も壊れっていないし 中の白い内張布もきれいです。
明治時代 ブラジルとかアメリカなどへ多くの人が 移民したのですよね。
太平洋戦争のころまでいた人などは 大変だったみたいですが
祖父は 大正時代に帰国しました。
でも ありがとうございます。
田植が終り リフォームができて落ち着いたら すこしづつ 日記を読もうと思っています。
今までは 父が この日記を持っていたので 私は初めて ページを開きます。
こちらでは、けっこう多くって、
郵便局のバイトしてた時、年配のご夫人が「スタンプ、ください。」って、言われて、
切手のことだったのです。
お爺様、ダンディでいらっしゃる。
日記を残してくださった。トランクやボストンバック、
捨てられませんよね。暖かい思い出に浸れますね。
いくら他にも日本人がたくさんいらしても
慣れない国での肉体労働は大変だったでしょうね。
15年で英語もおしゃれも身につけて帰国、素敵です。
後ろの方々が背中を丸めて座っていらっしゃるのに
おじいさまは帽子にコート、片手はポケットでモデル立ち!
いかに洒落でいらしたかわかりますね。
日記が残されてるなんてラッキー
どんな物語が記されてるんでしょうね〜
ようちゃんチの歴史を感じます
おじい様 ハイカラさんでしたのね
ボストンバック 今でも通用しそうです
残された日記 丁寧な字で書かれていますね
英語も喋れるようになって 努力なさったのでしょうね~
そう云う所お孫さんまで脈々と受け継がれているように思います
日記は当時の状況がわかる資料として貴重ですね。
ようさんのおじいさんは持ち物からして なかなかのハイカラさんでしたね。
残された書かれたものはお宝です。当時の生活や周りの環境や
時代が分かる 貴重な資料でもありますね。
私の曾祖父もアメリカのサクラメントへ出稼ぎに出ていたそうで
私が生まれた時はもういませんでしたので 話を聞くだけです。
その息子(私の祖父)は若い頃 当時日本領だった朝鮮に渡り 父は釜山生まれで
九州の部隊から出征しています。祖父母は釜山で農園を経営し人も使い
成功していましたが敗戦で 何もかも捨て命からがら日本へ引き上げました。
ようさんの祖父さまは貴重なものを残されました。
書かれたものなど当時のものを 時々載せてくださいね。
とても苦労された一生だったのですね
日本も私達が子供の頃はまだ貧しい国でしたもの
海外で働いた日本人はとても多かったですね
今は日本が豊か過ぎて海外での夢は少ししぼんでいるような気がしますが・・・
勇気あるご先祖を持たれたようちゃん おじいさまに負けず
頑張ってください^^
また見せてくださいね
ようちゃんさんの字の上手なのは
遺伝ですねきれいな字を書かれていますね
昔のものはしっかりしたつくりだから
いまでも使えるくらいですね
ブログを読んでいてどことなく深さと、芯になるなるものと、
あか抜けしている根元がわかった気がしました。
資料は貴重です。大切になさってください。
時折公開してくださいね。