ロシアのウクライナ侵略により、ロシアの多くの知識人は海外へ逃避してきている現在、日本の場合はどうだったかを知りたくなった。そこで、1930年代の満州事変とともに日本の軍事体制が強固になっていったとき、当時の近衛内閣のブレーン組織が形成された。その経過を当事者が記したのが、酒井三郎『昭和研究会ーある知識人集団の軌跡』(講談社文庫、1985.6)だった。
ロシアの場合は「事なかれ主義」が歴史的に処世術だったようで、今回もそういう風潮が読み取れる。オイラがペレストロイカのソビエトに行った時もそういう空気がどこでも見られたのを記憶している。しかし、日本の場合は、国民もマスコミも財界もこぞって戦時体制を賞賛し積極的に加担していった事実を忘れてはならない。日本の方が軍部だけでなく民間も積極的だったということだ。
そんな風潮を抱えた臨戦体制の時代に近衛内閣が成立し、それとともに「昭和研究会」が組織された。そのメンバーを見ると、右から左まで各界を代表する一流の知識人が結集された。しかし、統帥権を理由に軍部の情報が内閣に正確に伝わっていないことが多く、陸軍大臣や海軍大臣の意向をくまないと組閣もできず、歴代総理は総辞職を繰り返すしかないしくみでもあった。
そんななか、天皇の信任の厚い近衛は、ブレーンを中心に精力的に「研究会」を開いていく。テーマごとに毎週のように開催され、世界と日本との政治・経済などの現状が分析されていく。そこで明らかになったのは、西洋のリベラリズム・ファシズム・コミュニズムの跋扈だった。それに対抗する国策が急務だとした。その一つとして反ファシズムを明確に表明していた。その当時としては勇気ある画期的提言であったが、軍部や警察の監視の対象団体にもなったのは言うまでもない。。
そうした状況下で、その対抗理念を構築したのが哲学者の三木清らだった。巻末に、「新日本の思想原理」「協同主義の哲学的基礎」「協同主義の経済倫理」「日本経済再編成試案」「綱領」等が掲載されていたが、一般的には難解だ。要するに、世界の元凶はファシズム・コミュニズム・西洋中心主義のリベラリズムであり、それを克服する鍵は東洋思想にあり、東亜を中心とする「協同主義」にあるとしたのだった。
包容性・調和といった東洋的思想と個を重んじる西洋思想とを活かした総合的・統一的な「協同主義」には、読んでいてロマンさえ感じ入る。また、それを経済・文化的に保障していくEUのような「東亜共同体」が不可欠とした。
近現代史家の林千勝は、日本を潰したのは昭和研究会だとしているがそれは極めて一面的だ。結果的に近衛新体制は軍事体制に巻き込まれてしまったのは間違いはない。しかし、平和志向の努力虚しく強力な軍部の力に対抗できなかったというべきだ。昭和研究会の評価については意外にも触らないようにしているように見える。
近衛も昭和天皇も結果的には軍部を抑えることができず、アメリカとの平和交渉も頓挫し、太平洋戦争へと突入する。近衛は自決、三木清は投獄され獄中で病死。研究会に結集していた多くの知識人は戦後、保守派の中心的論客として登場していく。著者の酒井は撃墜王の戦闘パイロットとしても勇名をはせた。
三木の協同主義は「大東亜共栄圏」として事実上植民地獲得の手段として変質していく。また、国民自身の革新的運動を図った「大政翼賛会」も結局同じく臨戦態勢の手段として変質していく。研究会が構想した理想はことごとく軍事体制に収斂していく。ここをどのように総括するのか、それは現代的課題ではないかと思わざるを得ない。