山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

「玄冬小説」の背景は賢治の世界

2023-07-03 19:39:30 | 読書

 久しぶりに小説を読む。第158回芥川賞受賞作の若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社、2017.11)だった。55歳の主婦・若竹さんが小説講座に通い、63歳で「第54回文芸賞」を史上最年長で受賞した作品でもあった。さらに、2020年には、沖田修一監督、田中裕子主演の映画公開ともなった。

             

 老いを迎えた主人公桃子さんの楚々とした住まいで、「捨てた故郷、疎遠な息子と娘、そして亡き夫への愛、震えるような悲しみの果てに、桃子さんが辿り着いた、圧倒的自由と賑やかな孤独」と対峙する。脳内に様々な姿の人と自分が交差・攪乱されるが、「おらおらでひとりいぐも」の東北弁となる。

   

 この表題にはどこかで見たことがある。それは高校の教科書に載っていた、のではないかと思い出す。宮沢賢治の「永訣(エイケツ)の朝」という詩だった。妹が死にゆく直前、「あめゆじゆとてちてけんじゃ」(雨雪・ミゾレを取ってきてください)と賢治に頼んだ言葉の一節を脳委縮気味のオイラはなんと未だに覚えていた。

 さらに、妹の言葉として「Ora Orade Shitori egumo」(私は私一人で行きます)とこの言葉だけローマ字を使用していた。賢治は妹が亡くなった翌日にこの詩を書いている。賢治の慟哭が波のように襲ってくる詩だ。

          

 著者の若竹さんは、この同じ言葉を「老い」を生きるための新たな決意を込めた内容にしている。「年をとったらこうなるべき、という暗黙の了解が人を老いぼれさせるのであって、そんな外からの締め付けを気にしてどうする、そんなのを意に介さなければ、案外、おら行くとごろまで行けるがもしれね、と考えたのだ」。

          

 桃子さんの「この先一人でどやって暮らす。こまったぁどうすんべぇ」の心境を、「嘆き、怒りの次に現れたのは何とも言えない愉悦」であり、「死は恐れではなくて解放なんだ」と覚醒し、「おらはおらの人生を引き受げる」という心境に至る。状況・立場の違いはあるが、著者の前向きな姿勢が「ひとりいぐも」に込められている。

           

 本書の帯には、「青春小説の対極、玄冬小説の誕生!」と書かれたあった。「玄冬小説」という言葉を初めて知る。それは、「歳をとるのも悪くない、と思える小説のこと」だそうだ。なるほど、現実はそうとう厳しい結末はあるにはあるが、「まだ戦える。いつでもこれから」の著者のメッセージに学びたいものだ。東北弁満載の小説で解読に少々手こずったが、クリエイティブに切り取った表現力にはなんどもうなされた。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ますます脳髄がクモってきた!? | トップ | ケバケバ・イボイボ・凸凹の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書」カテゴリの最新記事