「風の谷のナウシカ」で本当に描きたかった宮崎駿の本意は、全7巻のマンガ版にある。そこに「全身全霊で、手持ちの武器をぜんぶ使って、泥くさくとっくみあって、宮崎駿という巨大な存在にぶつかってみた」と、作者の杉田俊介が上梓した『宮崎駿論/神々と子どもたちの物語』(NHK出版、2014.4)を読む。
アニメでも漫画でも文明と戦争による破局シーンがいくどとなく繰り返される風景は、宮崎駿の現代に対する絶望であるのはよくわかる。
その点はナウシカが自殺しようとしたマンガ版で出てくる。そこでおもいとどまるところに、トトロ・王蟲・巨神兵などの存在が出てくる。換言すれば、希望は子どもに預けるしかないという危機感の表れでもある。それは大人に対して「ボーっと生きてんじゃないよ」という憤怒であり、子どもに対して「どんなことがあっても<生き抜く>のだ」という渾身の申し送り事項なのだ。
杉田俊介氏の宮崎駿論の基調は、「こんな人間がいるんだ。こんなふうに苦しみ、全身から真っ黒な体液を垂れ流してのたうちまわりながら、それでもなお、君たちの未来をどこまでも考え続けようとしてくれる人が、この国には、君たちのすぐ「となり」には、いるんだ。」ということだ。しかし同時に杉田氏は、宮崎駿の生い立ちや家族観を背景にした弱さや自己嫌悪に逡巡する姿を見逃さない。
となりのトトロの企画書には、今そこにある日本の風景や自然という、「忘れていたもの、気づかなかったもの、なくしてしまったと思い込んでいたもの」を新しく発見し直すことを提案している。
そして、杉田氏は「となり」という単純素朴な感覚は、宮崎の基本感覚であり、宮崎の<思想>の核心でもある」と言い切る。トトロが存在しているだけで救われる、生かされるという「気配」の感覚、それが現代では不感症となり役に立つかどうかだけの価値で判断されてしまう現状、そうしたことへの異議申し立てが「となり」への見直しではないかというわけだ。
杉田氏は、「もののけ姫」以降の宮崎アニメを見て、「やりきっていない」、「消化不良の感じが残った」という。「このままでは、宮崎駿という人は、本当の意味でやりきることなく、人生を終えてしまう」とさえ評論する。それについては全く同感だ。報道によれば次作を企画しているようだが、マンガ版のナウシカを越える物語を作っているのだろうか。いや、マンガ版のアニメを再生・再構成することが始まりのような気がする。
杉田氏の難解な評論を読むのに時間がかかってしまったが、杉田氏も職場の障害者やわが子から、つまり「となり」の存在から新しい世界を獲得できたという謙虚さが素晴らしい。