わが家の先々代が大正9年に建立した麻布の墓に行く。先々代は麹町(千代田区)に住んでいて彫金師の職人だったらしい。その妻は髪結いで三浦環の髪結いをしたという。髪結いの夫はまさに亭主関白の職人気質だったらしく、わが親父もそっくりだった。それから関東大震災で逃れて品川に流れついたが今度は東京大空襲で家を焼失する。戦後の赤貧の暮らしはここから始まる。
親鸞聖人のお慈悲はなかなか届かなかった。当時少年だったオイラの心の傷はいまときおり血栓となり破裂に向かう。しかしそこから、なんども持ち直して生きる原点に戻される。そのことが笠で顔が見えない親鸞の教えだったのかもしれない。
本堂の太い横木には藤の花が彫られていて往年の財力とパワフルなエネルギーを示していた。そしていま、墓地も新しく改装されてきているのが目立ち、江戸から昭和初期の無縁墓が淘汰されつつある。それとともに、墓地の周りには巨大なマンションが建ち始めるという建設ラッシュとなっている。墓地はいよいよそうしたマンション群に包囲されたといってもよいくらいだ。
寺についたのが正午だった。すると、鐘楼の鐘が自動でなり始めた。人手不足や高齢化ということもあるだろうがなんとも複雑な気分だ。A I 時代に対応した経営ということに違いないが、修行に励む僧の姿が視界から消えていくのがさみしい。かつてお寺は人間の哀しみや苦しみを吸収する駆け込み寺であり、まちづくり・むらづくりの拠点でもあった。しかし今はもう寺から「いかに生きるべきか」の魂が消去された。そして形だけの残骸が残された。ブッダよ、この状況をどう考えたらいいでしょうかね?