田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

えにし 神戸の赤い糸(2007/8/14)

2007-08-14 16:52:46 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。

父が7/19日に亡くなり、時間の問題と医者から告げられていた母も、郷里四国今治の病院で8/10に亡くなりました。
畑仕事の予定も、8/13の関門花火大会を船(フェリーボート)から見物の予定もすべてキャンセル。
今日、葬儀を終えて、九州の我が家に戻ってきました。
あすから、畑仕事と温泉三昧再開。
釣りは9月からか。

(一人では)
妻は何ヶ月か前、入院中の母の話題になって、「私は自分の父も母も看取れなかったので、あんたのお母さんは一人では死なせない」と話したことがあり、気持ちだけでもサンキューと思ったことがありました。
8/10日はちょうど妻が今治の母の見舞いに行っており、息を引き取る瞬間まで看病してくれました。
直後に妻から来たメールは「タイトル 死亡 本文 9時23分」。

(21日)
父が亡くなった後、四国に行き、母に父の死を伝えようかと思いましたが、手を握ると目を開けるだけで、話も出来ず、耳も聞こえない。
伝えずじまい。
ただ無意味に生きているだけだと内心思っていました。
お通夜の夜に、兄妹、甥姪と雑談してまして、父が亡くなって何日生きたのかと計算してみると21日。
50年前、私の妹が肺炎で亡くなり、「名前が3月7日に生まれたので、語呂を合わせて美奈にしたら、3x7の21日目に亡くなった」母が嘆いてたのを思い出しました。
父が亡くなってから、この幼くして亡くした美奈チャンと同じ、しゃべれず、寝返りも打てずで、同じ21日を生きて、私たちに早く逝った妹を思い出させたのかも。
また、父と母には子供が4人、孫10人、それぞれの配偶者も入れると21人。
この一人一人に毎日達者でと念じながら21日で逝ったのかも。
最後の21日間もしっかり働いて母は逝ったようです。

(思い出話)
告別式で喪主は長男の私で、最後に挨拶ということで、

①7歳の頃、朝学校に行こうとすると、新しい黒い運動靴を母が持ち出してきて、これを履きなさいと。
今なら安物の運動靴だが、当時は貴重品。
穴だらけの靴を脱いで、新しい靴に私のまだ小さい足を入れるとピッタリで、私は大喜び、母は得意。
母が得意になってるので、私はもっと喜び、母は益々誇らしくで、世界で一番満足した子供と誇らしい母親が出来上がった。
以来、50年、これほど物をもらって喜んだ事はない。
この黒い運動靴に十分満足して今まで物がもっと欲しいと思ったことはない。

②10歳の頃、風邪で近所の病院でペニシリンの注射を打ってもらい、寝ていると、足が痒い。
母に言うと発疹が出ている、ペニシリンアレルギーかもと、血相を変えて、私をおぶって、300メートル程離れた病院にダッシュ。
私はすでに身長130センチ、母は小柄で140センチ。
どこにこんな力があるのかと、力強く弾む母の肩にしがみついて、驚いたり道行く人か振り向くので恥ずかしがったり。

③これも10歳の頃、近所の遊び仲間3人でどぶ川にはいって遊んでいたが、何かのひょうしに仲間外れで、半べそでトボトボ我が家に。
路地に母がいて、私に「どうしたん」と。
母の顔を見、声を聞くと、涙ボロボロ、オイオイ大声で泣いて、心の中の滓のようなものがすっかり出尽くして、スッキリ。
このスッキリ感は、50年近くたった今も続いている。

こんな事を、父の葬儀の時と同じようにボソボソとしゃべりました。

父が亡くなる数年前に書き散らした文章に、母との結婚に至るまでの思い出話がありました。以下がそれ。400字詰め原稿用紙12枚で、読むのには忍耐が必要。貧しいが活気と希望のある終戦時の雰囲気が伝わってきます

えにし 神戸の赤い糸

第一章

 昭和十九年正月、陸軍兵科甲種幹部候補生を命ぜられた直後に帰郷休暇を与えられた三日間を終わり、帰隊のため神戸三宮元町駅に降り立ったのは午後九時ごろであった。
帰隊門限は午後十二時である。
まだ時間はあるし急いで帰る気にもならず、何とはなしに駅前をブラブラしていると、同じ中隊出身の徳島の早川一也、金森秀雄の二人に出会った。
二人も私と同じような気持ちでフラツイテいたのである。
ヤアヤアヤア・・・で合流したが、戦時中のこととて町の店の大戸はおろされて、唯もう暗がりと静寂があるばかりで人影も全くなかった。
ハーテどうするかいなあと三人とも溜息をつきながら阪神三宮駅の前から西にガード沿いに歩き出した。
がなんにもありはせん。
唯闇があるばかり。
ところが、前方に二つ三つとほのかな灯が見える。
なんだあれは。期せずして三人の足が速くなる。
近づいて見ると、小さな屋台にローソクをともした町の易者さんである。
こんな所で商売になるんかいな。
見渡す限り通行人の気配はない。
なーんだとガッカリしたが、待てよと一人が声をかけた。
わしらこれから戦争に行ってどうなるんかいなあ。
みてもらおうよ・・・ほかに当てもない後の二人もそうだなあと、一人の易者を取り囲んだ。
早川・金森とみてもらったが、易者が何を言ったか、私はすっかり忘れてしまった。
多分あんたの武運は強いよ、無事生還疑いなしだ位のことだったと思うんだが、二人がニコニコしたことだけは憶えている。
さて私の番だ。
私の手相を天眼鏡をかざして見ている。私はどうせ同じ事言われるんだろうな位に軽い気持ちでいた。
ところがところである。易者はニコリともせず徐に小声で・・・

「あんたは結婚した最初の嫁さんを帰したりしたら,あんたの一生はめちゃめちゃ破滅の人生を送ることになる。」

思いがけぬ託宣に、こっちはビックリ唖然。
この時、早川と金森は二人で何か話していて後向きである。
易者はこれ切りで何も言わない。
肝腎の私の戦場の運命はどうなるんかいなと易者の顔を見たが、それっきりダンマリ。
ハハア、これ以上は特別見料がいるんだなと合点して、そこに書かれていた最低の見料を払って、三人ともサヨナラをした。
わしは嫁さんが貰えるんだということは、生きて帰れるんだと理解。
自分のいい方に解釈して、「今日はいいこと聞いた。」と心を明るくした。
私はこれが私に与えた易者の凶を吉に変える重大な警告だと悟らなんだ。
何しろ、その頃の軍務は楽ではなかったからなあ。
この一月に六十三㎏あった体重は、八月十五日陸軍機甲整備学校を卒業した時には五十二㎏に減っていたんだからな。昭和十八年四月入営した二等兵は幹部候補生に採用されてからは、兵ではなく候補生として兵の階級を与えられた。
八月一等兵の階級、十月上等兵の階級、翌一月伍長の階級、六月軍曹の階級、八月曹長の階級を与えられ兵科見習士官を命ぜられ、翌年一月十日任陸軍少尉、予備役編入、即日応召といったスケジュールだ。
それから南方総軍司令部転属、ビルマ方面軍配備で出征の途についたが、台湾高尾で沈没。
台湾軍編入あとは毎日毎日飛来する米軍機のP51・P38・B24・B25・B28の対応に追われた。
何しろ台湾軍で戦闘しているのは、目下私達防空隊だけだからな。

第二章

 昭和二十年(1945)八月十五日、正午、天皇陛下のラジオ放送による御言葉を聞くために大隊本部にて大隊長以下整列、つつしんで拝聴したのであるが、雑音が入って天皇の御声を聞き取れなかった。
八月九日、ソ連の対日宣戦が伝えられていたので、大隊長は「各員、戦局の重大さに向って尚覚悟を新たにして奮励せよ。」訓示して一同解散。
各自の業務に向った。
この日の空は抜けるように青く、そよ風も吹かず、ジリジリ照り付ける日差しに汗を流していた。
十六日は普段通り、十七日午前中、所要物資積み込みのため桃園街に出張した車が空車で帰って来た。
どうしたんだと尋ねると自動車兵は無言で操縦席の窓から一葉の新聞紙を差し出した。
台湾新聞である。
一面に大きく大詔が載せられている。
早速井ノ口副官に連絡。大隊長へ。
終戦即ち敗戦である。残念無念。
十五日以来上級指揮機関からは何の連絡もなかったのである。
早速第八飛行師団桃園飛行団、台湾軍司令部、台湾防空司令部へ通信連絡を入れたが、全て杜絶して回線はつながらなかった。
大隊長以下呆然として、為す所もなく為す術も忘れ果てて、今までの空襲警戒体制も日常業務も放棄して、その挙句が隊舎にこもって食っちゃ寝、食っちゃ寝といった状態が丸一日は続いた。
 所在無く外に出てみたが、人影もなく死んだような気配に包まれた兵舎だけが、照りつける夏の日差しにヒッソリと建っているだけである。
本部衛兵所は詰める兵の姿はなくガランとしている。
その前を通り営外に出る。
一本の広い路が延々と遥かに延びている。沿道の民家もなく、広々とした水田が、新竹州独特の防風竹林に囲まれて青々と広がっているばかりである。
空は明るく無限に広がっている。
平静である。
空を仰いだ時、「あヽ、私は生きて故国に帰れるんだ。」という思いが不意に起こった。
今は国も民族も家も家族もない。
ただ我が命がここにあるという思いだけだった。
そして、神戸三宮の易者の言葉がよみがえった。
わしの嫁さんも内地のどこかでこの同じ青空の太陽を仰いでいるに違いない。
戦争は敗戦に終わったけれども、どんな思いでいるのだろう。
その顔は私には思い浮かばなかった。
きっとモンペ姿だろうな。
私の思いはここまでである。
厳しい現実がある。
これから私達は、私達だけで内地に復員するまでの自活の道を講じなければならなかった。
もうどこからも、補給を受けることができなかったからである。

第三章

 復員して見ると、二十年八月六日の夜、米軍は焼夷弾による大空襲を行い、今治の町は殆ど焼き払われて、ご多分に漏れず私の家は跡形もなく、きれいさっぱりなくなっている。
 私は、父と在間朝海(ざいま あさみ)さんと二人で共同している建具工場で働くことになった。
私には建具を作る経験なんかまるでないので、雑用をする日暮しである。
よく職場に精悍な顔をした大声で話す大柄の人が来ていた。
自然顔馴染になり、時々話も交わしていた。
或日、「喜平さんの息子さんですってね。」「父を知っているんですか?」ということで、立ち入った話もするようになった。
藤本さん。奥さんは筒井さんの娘さん。
息子さんは私の弟の幼稚園友達。
そして、戦災前の私の家の前にいた柴田さんと製材工場をしているとの事。
筒井さんの家は、戦災前私達が遊び場にした広場のすぐ側の商店であるが、店頭から裏口までそれこそ一町もあるかと思われる大屋敷であった。
段々親しくなるに連れて藤本さんは、これからの若い者が頑張って焼け野原の今治を復興させねばならんと、いつも私と顔を合わせるたんびに熱心に話してくれる。
しかし、私はその器でないことはよく知っているので、「ウン、ウン」うなづきながら聞いていた。
藤本さんはお構いなしに話をズンズン進める。
「それには今治の先ずこれはという人物を知っておくべきである。」と話は飛躍する。
 それも悪くないなあと思っていると、「その人物はわしが紹介してやる。今晩から順番に紹介しよう。」ということになり、先ず最初になる人物の大よその人となりを聞かされた。
「帰宅して服装を改めて今晩出直して来ます。」
「そのままでいいよ。そんなこと気にする親爺じゃないんだから・・・。」といわれたが、そうもならず改めて出直した。
私の住所はこの作業場から一里ほどの所にあった。
服装を改めるといったって、別に外出用があったわけではない。
普段は旧陸軍から民間に廻された兵服に今治港務所前の闇市で買った航空長靴をはいていた。
私は南方行きを命じられていたので少尉任官のため用意していた冬用将校服を留守宅に九州三池港から送り返していた。
八月六日の夜、空襲直前に私の父母は私のこうした服、私が持っていた書籍、その他私関係のものを牛車に乗せて疎開先に運んだ。
自分達や家族の者は後回しにしていた。
出征している息子への父母の思いが私に伝わる。
父母が運び出したものはこれだけで、その晩に家も財産も、長い年月かけた父母の汗の結晶はアメリカ軍機によって焼き払われてしまったのである。  
この軍服が私の一番の正装だった。
玄関に入った時、服装を改めたことは正解であると思う。
埃に塗れ汚れた作業衣のままズカズカと上がれるような雰囲気の家ではない。
紹介がすむと大きな火鉢と茶ダンスと小さな机に囲まれた主人がお茶を入れてくれる。
私の家はこんなお茶を飲むような家ではない。
さて御主人は殆ど白髪の短髪、いつもニコニコして藤本さんと四方山話をしている。
そして時々私に話しかける。
ところが暫くして私の座っている横のふすまが静かに開けられて、盛装の娘さんが目八分に捧げ持って私の所にお茶を運んで来た。
藤本さんを見やると横を向いている。
御主人は笑顔で私を見ている。
翌日、藤本さんがやって来て「私の見る所では、気立てはよくやさしく気の付く今時にはあんな娘はいないよ。」という。
藤本さんは父や弟から一かどの信用のおける人物であると聞かされたが、今治のしかるべき人物に紹介するという言葉が頭にあるので、何ぼ何でもちと話の筋が通らん。
第一娘さんはお茶を私に勧めるとそのままスッと引込んで二度とは現れなかった。私の印象は何もなく、盛装した娘が突然現れたのでビックリ。実は顔は一度も見ずじまいであった。
実際に私は「お見合い」なんどいう気持ちは全くなかった。
だから親にも行先は言ってない。
「・・・顔も見てないのに・・・」私は意見は何もないと伝えると、藤本さんは「じゃあ,もう一度ゆっくり会って見るか。」とくる。
どうも藤本さんの話を押し返す雰囲気にならん。
結局、藤本さんのペースでこの話は進んで行く。
「わしは家もないし、職業だって本来のものではない。家もわしもお先真暗で、嫁さん貰ったってどうにもならん。」
「うん、おやっさんは娘を引き取ってもらえるまで、一年でも何年でも預かる言ってる・・・」
「ほんなら直ぐでなくっても、いいというのですか。」
「そうだよ。」
藤本さんは、いとも簡単に答える。
そんな条件なら何も差し当たってどうこうせんならんことはないと、私は極楽トンボだ。
まだ復員して間がなく、世間の常識にはまだ馴染めずにいた。
こんな私のどこを見て言っているのだ。
再会して見ると、兄一人・姉妹五人兄弟で、兄はまだ復員せず、どこにどうしているのか全く不明であるという。
して見ると、彼女の家の後継ぎがどうなるかが問題である。
もし兄の身に間違いがあると、長女の彼女に責任がある。
その点を聞くと「・・・姉妹が多いんだから・・・」という、このことは彼女も彼女の両親も同意見である。
私は長男であるから、こうした問題にはこだわりがあるが、とにかく彼女との話は承知したが、内心は彼女の兄が無事復員してから具体的な話にすべきだと考えた。
やがて、厳しかった南方から彼女の兄が復員してきた。
私の父は親類から檜・松の原木を贈られて、ささやかながら小さな住居と作業場を建て本来の仕事に復帰し、私も父の仕事を手伝うようになった。
やがて、一年は過ぎた。藤本さんは                 
「もうそろそろ片を付けていいんじゃないか。」
「アレ・・順がつくまでは一年でも二年でも待つといっていたのに・・。」
「ウン、おやっさんが、もういいのではないかと言っている。」・・・
そうだな。後にまだ娘が四人もいるし。
それに決まってから一年になるのに、まだそのままでは父親の立場がある。
その頃はまだ家族制度は全くすたれたわけではないし、父親や娘の立場も考慮のうちに入れんならん。
そして私の方も父がドンドン仕事を進めていて、どうやら筋道も立ってきている。
私の生活は殆ど父親の手の内にある。家も仕事場もみんな親のものだ。
それに私の手元にはお金もない。ないないづくしである。結婚についても私は何もせん。
父親が準備をしているのを、他人事のように眺めている。
昭和二十二年四月六日、私達の結婚式が行われた。披露宴は純米のカレーライス一皿、それで出席者は御馳走だと喜んだ。私達二人の出発門出はこんな時代であた。
さて、私は神戸の易者が、「お前の一生をハチャメチャな破滅から救うだろう。」と、あのほの暗いローソクの光の中で私にキッパリと占断したことは、全く忘れて思い出しもしなかった。
彼女の父母兄妹は、スカンピンの私を大事に扱ってくれ、長年変わることはなかった。
私は私の実家よりも彼女の実家に精神的に生活を支えられたと今も思い返している。
 あの終戦のあとにどうしているかなあと大空を見上げた時、内地でどうしているかなと想像した彼女は、この時現実に私の前に現れたのであるが、私はこのことを忘れていた。
 神戸三宮の闇のほのかな灯がいつか胸に灯った。
昭和十九年から五七年、私の心の中にこの神戸の易者の言葉がいつのまにか腰を据えて、今でも大きな顔をしている。
平々凡々の私は今、四人の子供、十人の孫がいる。
ヤッパリ、神戸の易者の占断は、私を吉運に導いてくれたのだ。


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