田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
昨日は一月ぶりの関門での舟釣り、今日は、竹田農園で、ピクニックがてら、葱、大根、柿の収穫でした。
(アラカブ入れ食い)
コーラル丸には、パソコン屋のI氏に、居酒屋のT氏、薩摩隼人のO氏、郷土史家のT氏となじみの顔ぶれ。
新日鉄埠頭近くのアジポイントに船を留め、アジ釣りに。
撒き餌を撒くこと30分、川端船長にアジ。
そのあと次々にいい型のアジ(冒頭の写真)。
水温も下がり、そろそろアラカブが釣れているということで、潮の流れが弱くなった昼過ぎ、門司駅沖のアラカブポイントに。
産卵に備えてか、アラカブの食欲旺盛で、よそ見して隣の郷土史家のT氏とおしゃべりしていると、勝手にアラカブがグイグイと竿を曲げるしまつ。
5人で次々と生簀にアラカブを投げ込み、納竿1時過ぎには、もう満足。
(農園でバーベキュー)
明けて今日は、妻と竹田農園に。
昨日のアラカブを煮付けて、元南海ホークスのエースの江藤正翁におみやげ。
関門の急流でもまれ、餌もたっぷりのアラカブは煮つけにすると、とても美味く、江藤翁の好物。
農園の側の林の日溜りで、炭火をおこし、鶏肉とサツマイモを焼く。
カモ鍋も。
鍋の中に畑のネギを放りこむ。
これを江藤翁と冒険家のM先生(現在フィリピンバギオ)のお嬢さんのNさんも加わり、4人でムシャムシャ。
ビールが旨い。
(江藤翁の話)
○ジョーデーマジオを1951年に日本に連れてきたのは、オドール氏。
大リーグの監督も務めたと思うとのこと。
○ジョーデマジオのバッティング投手を務めたが、自然体でどこもかしこも隙だらけ。
バッターはそれぞれ癖があり、ここは隙だと分かるが、デマジオは隙ばかりで、投げやすいが、どこに投げていいやら分らない。
ピッチャー返しを警戒して、インコース高めに投げると全てレフトスタンドに放り込まれた。
大岡虎雄氏のバッティングフォームとそっくりだった。
○先日亡くなった稲尾が別府の緑が丘高校にいたとき、江藤翁の学生時代の友人の首藤氏が社会科の先生をしながら、野球部の監督。
首藤氏は野球は好きだが、よく分らない。
いいピッチャーがいるので、見てやってくれと頼まれ、高校に出向く。
このピッチャーは左利きだから、ピッチャーにされていたとのこと。
首藤氏がどうだと聞くので、このキャッチャーをピッチャーにしなくて誰をビッチャーにするのかと、首藤氏に話して別れる。
翌日電話が首藤氏からかかってきて、今日からピッチャーにした、これが稲尾投手の始まり。
○戦前の渋谷は法政大学のエースだった江藤翁のホームグランドで、百軒店(ひゃっけんだな)でよく遊んでいた。
先日、TVで「ひゃっけんてん」とゲストが言うので呆れた。
一番の思い出は、歌手の上原敏のステージを百軒店の劇場で見ていて、突然楽屋裏に引き上げ、戻ってきたとおもったら、「いま、召集令状が来た、これから入営する」と舞台からおり、そのまま戦死してしまった。
忘れられないとのこと。
上原敏という歌手は知らないと私も、妻も、Nさんも言うと、江藤翁絶句。
東海林太郎と並ぶ、人気歌手だったそうな。
(ハゼ釣り大会のその後)
小倉の仕事サポートセンターの若者7人と先日ハゼ釣り大会に行ったが(2007/10/29日参照)、その後の消息。
一番年上のM氏は正社員の配送業務の仕事、朝寝坊で10時前に起きることが出来なかったG君、朝5時からのスーパーのアルバイト、等、5人が仕事を始めました。
仕事をしていない、二人も一人は、釣りを毎週やっており、実質漁師。
先日赤エイを釣りあげ、パナマ船の船員に、「プレゼント、フォー、ユー」と渡して大変喜ばれたとか。
人と話すのがあまり苦にならなくなったとのこと。
百の説教より一度の釣りと思った次第。
昨日は一月ぶりの関門での舟釣り、今日は、竹田農園で、ピクニックがてら、葱、大根、柿の収穫でした。
(アラカブ入れ食い)
コーラル丸には、パソコン屋のI氏に、居酒屋のT氏、薩摩隼人のO氏、郷土史家のT氏となじみの顔ぶれ。
新日鉄埠頭近くのアジポイントに船を留め、アジ釣りに。
撒き餌を撒くこと30分、川端船長にアジ。
そのあと次々にいい型のアジ(冒頭の写真)。
水温も下がり、そろそろアラカブが釣れているということで、潮の流れが弱くなった昼過ぎ、門司駅沖のアラカブポイントに。
産卵に備えてか、アラカブの食欲旺盛で、よそ見して隣の郷土史家のT氏とおしゃべりしていると、勝手にアラカブがグイグイと竿を曲げるしまつ。
5人で次々と生簀にアラカブを投げ込み、納竿1時過ぎには、もう満足。
(農園でバーベキュー)
明けて今日は、妻と竹田農園に。
昨日のアラカブを煮付けて、元南海ホークスのエースの江藤正翁におみやげ。
関門の急流でもまれ、餌もたっぷりのアラカブは煮つけにすると、とても美味く、江藤翁の好物。
農園の側の林の日溜りで、炭火をおこし、鶏肉とサツマイモを焼く。
カモ鍋も。
鍋の中に畑のネギを放りこむ。
これを江藤翁と冒険家のM先生(現在フィリピンバギオ)のお嬢さんのNさんも加わり、4人でムシャムシャ。
ビールが旨い。
(江藤翁の話)
○ジョーデーマジオを1951年に日本に連れてきたのは、オドール氏。
大リーグの監督も務めたと思うとのこと。
○ジョーデマジオのバッティング投手を務めたが、自然体でどこもかしこも隙だらけ。
バッターはそれぞれ癖があり、ここは隙だと分かるが、デマジオは隙ばかりで、投げやすいが、どこに投げていいやら分らない。
ピッチャー返しを警戒して、インコース高めに投げると全てレフトスタンドに放り込まれた。
大岡虎雄氏のバッティングフォームとそっくりだった。
○先日亡くなった稲尾が別府の緑が丘高校にいたとき、江藤翁の学生時代の友人の首藤氏が社会科の先生をしながら、野球部の監督。
首藤氏は野球は好きだが、よく分らない。
いいピッチャーがいるので、見てやってくれと頼まれ、高校に出向く。
このピッチャーは左利きだから、ピッチャーにされていたとのこと。
首藤氏がどうだと聞くので、このキャッチャーをピッチャーにしなくて誰をビッチャーにするのかと、首藤氏に話して別れる。
翌日電話が首藤氏からかかってきて、今日からピッチャーにした、これが稲尾投手の始まり。
○戦前の渋谷は法政大学のエースだった江藤翁のホームグランドで、百軒店(ひゃっけんだな)でよく遊んでいた。
先日、TVで「ひゃっけんてん」とゲストが言うので呆れた。
一番の思い出は、歌手の上原敏のステージを百軒店の劇場で見ていて、突然楽屋裏に引き上げ、戻ってきたとおもったら、「いま、召集令状が来た、これから入営する」と舞台からおり、そのまま戦死してしまった。
忘れられないとのこと。
上原敏という歌手は知らないと私も、妻も、Nさんも言うと、江藤翁絶句。
東海林太郎と並ぶ、人気歌手だったそうな。
(ハゼ釣り大会のその後)
小倉の仕事サポートセンターの若者7人と先日ハゼ釣り大会に行ったが(2007/10/29日参照)、その後の消息。
一番年上のM氏は正社員の配送業務の仕事、朝寝坊で10時前に起きることが出来なかったG君、朝5時からのスーパーのアルバイト、等、5人が仕事を始めました。
仕事をしていない、二人も一人は、釣りを毎週やっており、実質漁師。
先日赤エイを釣りあげ、パナマ船の船員に、「プレゼント、フォー、ユー」と渡して大変喜ばれたとか。
人と話すのがあまり苦にならなくなったとのこと。
百の説教より一度の釣りと思った次第。