2012年最後の石仏巡りが大晦日となったのは、本当に暫くぶりです。それもこれも、昨日までの年末の天候が宜しくなかったからですが‥。それにしても、今日の天気は申し分のない快晴で、しかもこの季節にしては信じられないような暖かさ。車に乗ってものの15分も走れば、ご覧の写真のように日光連山がすっきりと望めたので、今年最後のこのブログを締めくくるに相応しいと写真に撮る。左端から、丸いドーム状の山が男体山で、次に大真名子山。その後ろに聳えているのが太郎山。そして帝釈山のピークから女峰山。そこからなだらかな尾根を通って右端の赤薙山へと、これが日光の表連山の峰々です。そして今まとめているのが、左端の関東の名峰、男体山碑の栃木県内にある碑塔の全容です。まだ、その碑塔所在までしか進んでいませんが、明日の新年には、本邦初公開のその全碑塔200基を、2013年新春お年玉として6日までの限定で公表するつもりです。栃木県内の男体山碑に興味のある方はお見逃しなく。何しろ20年以上をかけて県内各地を探し求め歩いた成果ですので。
さて本日は、自宅から来るまで20分もあれば着いてしまう、栃木県鹿沼市の楡木町を中心とした地域に行きました。その最大の目的は、いまだに見つけることが出来ない個人墓域にある文政年間の個人家塾を開いた方の墓碑を見つけ出すことです。公民館に車を置かせてもらい、ここはという昔からのお宅や商店を訪ね歩いての聞き込み調査。それを延々と1時間半ほど繰り返していって、何とかその墓地らしき場所を突き止める。そして今度は教えられた墓地内を丁寧に見て歩くが、一向に目的とする墓碑が見つからない。そこへ、地元の方が今年最後の墓参りに来たので事情を話すと、その墓地ならもう少し西へ行った共同墓地かも知れないと教えてくれる。喜び勇んで飛んで行き、またしても一基ずつ丁寧に見ていくと、その中に目指す墓碑がありました。もう、嬉しくて嬉しくてその墓碑に抱きつきたいくらい。ようやく巡り会えたので、既に嫌な風が強く吹き出していたが何としても手拓をしようと、昼食抜きで始める。しかし、水張り段階で画仙紙は風に舞い、その繰り返しを二度ほどして四角柱墓碑の二面に刻まれていた銘文を手拓出来た。もっとも、今回ばかりは文字が読めれば良しとする手荒い手拓作業。何しろ、少しでも油断すると墨入れ途中で何度か風に飛ばされそうになる有様。それを全身で防ぎながら悪戦苦闘し、1時間程で何とか全文が読めるようになった。同地には、もう1基の墓碑があるのだが、こちらは今回断念する。とにかく、風が強い。来春の手拓絶好機に、再度来ることにしよう。何しろ今日は、長年捜し求めていた所在場所が判っただけで本日の目的は達したのだから‥。その後は、充実感で胸いっぱいのまま、本当に遅い昼食を取った後、周辺のいくつかの石仏を調査しながら帰路に着く。そんなわけで、本日の帰宅は午後3時半丁度。今夜は、その手拓してきた拓本を眺めながら、楽しい大晦日の夜を過ごそうと思っている。
ところで、来年の初石仏めぐりは今のところ予定なし。明日からの1週間は、とにかく今進めている男体山碑の原稿を纏めることに集中しようと思う。その原稿書きに必要な写真を探し出すだけでも、多分一日はたっぷりかかるだろうと思っている。何しろ20年以上も前に撮った写真もあるのだから、それをうまく探せるか不安の気持ちを感じつつ、いずれにしても嬉しい正月休みである。
そういうわけで、今年のこのブログも書き収めです。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。
今回から、鹿沼市の近世宝篋印塔の纏めが出来たので、今度は本気になっての鹿沼市未調査地区の洗い出しと、2000年以前に調査した碑塔の再確認作業として出かけます。その手始めとして、自宅からは近い鹿沼市南部の東部地区へ入りました。最初は日光奈良部町と上奈良部町が、前回までに終了したのでその続きとして下奈良部町へ行きました。この地区は、2000年以前に何度か訪れながら一部を覗いただけで調査してしていない地区だが、碑塔のある場所は分かっている。したがって、朝から順調に調査作業が進みました。でも、一箇所の共同墓地内にて、崩れかけた近世宝篋印塔を見逃していたのに気づき早速見てみると、そこには宝篋印陀羅尼経からの掲文が簡単ながら刻まれている。せっかく纏め終えたというのに、1基追加である。面倒だが、水洗いをして全文を記録する。
その後は、隣の南上野町から大和田町、さらに藤江町へと進んで最後は楡木町の雷電神社へ行き、ここで銘文の読めない石仏を手拓して本日の石仏巡りを終了する。結果的には、本日の再調査を含めて記録を取った石仏は34基でした。
上記に掲載した写真は、1995年に藤江町で初めて見つけた男体山碑(写真右側の赤い前掛けが十重二十重に巻かれている台座に銘文が刻まれている)です。暫くぶりに見てみると、台座の下部に剥離が見られ、このままでは近いうちに読めなくなるのは確実と思い、台座三面を写真にとって記録として残しておくことにしました。紀年銘は天明四年とあるので、男体山碑としては古い方になります。
さて、今年も後わずかです。年内に残っている仕事は26日で終わり。年末は、今年最後の石仏巡りとしてどこかへ行く予定ですが、それも天候次第と言ったところです。それにしても今日などは雪雲が日光方面から次から次へ流れ来て、いつ宇都宮でも雪が降り出してもおかしくない天候。つくづく、昨日に石仏巡りに出かけて良かったと空を見上げながらこれをパソコンに打ち込んでいます。そしてこの後は、昨日の写真整理等でもしようと思っています。
一般の人にとっては関心のない、鹿沼市の碑(いしぶみ)調査一環として手拓しました、栃木県鹿沼市西沢町招魂社にある「青木幸躬大人之碑」の碑文手拓画像を掲載いたしました。
明治時代に生きた国学者としての青木氏の記念碑で、当地南摩出身です。題額は、当地出身で陸軍大将にまでなった奈良武次、撰文と書は物集(もずめ)高見です。また、石工はこの時代に栃木市を中心にして多くの石造物に名のある松村三瓢です。碑文は、草書体となっていますので今の人には読みにくいかと思いますが、当時の教育事情の一端を垣間見る文章で、またその流麗な書体に魅せられます。
鹿沼市の近世教育史には欠かせない碑文なのですが、今は地元の人を含めてまったく関心をもたれていないのが残念です。こうした人々に、今一度日の光を当てるのも、今の私の大事な役目かと思い、せっせとこの寒さもものともせず手拓してきました。手拓したものから修正を加えて、ここまでするのに丸二日(夜)を要してしまいました。それでも、こうした碑文に出会うと嬉しくて、ついつい夜更かしをしながらの楽しい時間を過ごせました。
まあ、余り興味はないでしょうが、こんなバカなことをしているとお笑いくださいまして一人でも関心を持ってくださる方がいますことを期待しつつ掲載いたしました。
碑文は、ここをクリック→招魂社に建つ、「青木幸躬大人之碑」の手拓画像。 してご笑覧ください。
今日は、朝から暖かい陽気に心うきうきと、今年8月に手拓作業を見送った鹿沼市西沢町の招魂社にある、個人碑(いしぶみ)の手拓を目的に出かける。招魂社に着くと、地元の方々が境内の掃除中。これ幸いと、手拓許可をお願いすると快諾していただける。今回のこの碑は、現時点で鹿沼市最大の碑なので覚悟を持って半裁画仙紙4枚を持って、山の中に入る。早速、試しに霧吹きで碑面に吹きかけてみるが、その霧吹きで石面が凍る心配はなさそうである。場所柄、風もそれほど入り込まないのでルンルン気分で水張り。問題は、墨入れ出来るまでの時間である。なにしろこの時期は、出来る限り水分を使わないような方法で画仙紙を張るのだが、それでも乾きは悪い。今回は、そんな事も懸念して真新しい墨を持参したのだが…。30分程様子を見てから、一気に墨入れを開始。それを三回、水張りを繰り返しながら、上部面は手拓を終えたが、今度は用紙が足りない下部の手拓に入る。そんなこんなで、手拓作業が追えたのは午後になってしまった。もっとも、途中で1時間ほどの地元の方とのよもや話の時間があったので、手拓作業時間としては納得できるものだった。
さて、念願の手拓作業が終了したのでこのまま帰宅しても良いのだが、まだ時間が余っていることなので午後はどうしようと考え、まあ少し周辺を巡ってみようとまだ行ったことのない西沢町の三山沢を訪れる。内でご老人に出会ったので、「このに庚申塔はないですか?」と尋ねたところ、「庚申塔はないが、大日様があるので行ってみたら」と進められ、教えられた通りに来た道を戻って大日様のある急斜面を登る。そこに数体の石仏があり、上部に掲載した写真はそのうちの1基である。銘文は、「ア 奉供養光明神咒講二世安全攸」とあり、紀年銘は享保八癸卯天十月廿五日となっている。問題は主銘文で「神咒」の次にある文字で、ここでは「講」と読んでみたが自信はない。あるいは「誦」と読むのかもしれない。何度も確認したが、肝心な箇所が欠けているので途中で諦め、「講」としてしまった。いずれにしても、ここでも光明神咒を何遍も唱える念仏講が、享保年間には既にあったことが確認できただけでもうれしい。その帰りに、大日堂の持ち主であるご主人様から聖護院大根を頂く。ふつうの大根なら、我が家でも地中に埋めてあるので不要なのだが、聖護院大根の美味しさは格別なのでついつい言葉に甘えて頂いてしまったが、道路をその大根をぶら下げて歩く姿は我ながらこっけいなものだろうと可笑しくなって苦笑せざるを得なかった。それでも、帰宅して早速に料理して食卓に上った聖護院大根の味はまた格別なものがあった。そんな訳で、今回の石仏めぐりの成果は、西沢町三山沢地区の8基のみであった。
さて次回も多分、風がなければ鹿沼市内の手拓に行こうと思っている。年内に、少なくもあと数基は拓本を取っておきたいものと、この年末に来てもなお欲張ったことを考えている私である。
今年の7月から始めた鹿沼市の近世宝篋印塔調査が、11月に終わりましたのでその調査報告書を上記画像のようにB5版100頁余として印刷発行することが出来ました。これで、小山市~足利市、そして今年春の宇都宮市までの県南地区の報告書作成が出揃いました。これからは、真岡市等の栃木県東部地区の宝篋印塔調査となりますが、そろそろ栃木県の近世宝篋印塔調査も飽きてきたので継続して行えるかは自信がありません。なお、一冊のみ余分な冊子がありますので、ご希望の方には2,500円で頒布します。(12月12日昼で終了)もっとも、こんなマイナーな調査報告書など興味があるはずもないと思っていますが…。
以上、鹿沼市の近世宝篋印塔調査報告書完了のご案内までです。
灯篭等に灯明を灯すのは、なぜなのか?と言うことについて、一般には興味を持たれませんが、その灯明についての梵字真言が鹿沼市板荷地区の観音寺さん境内にある灯篭の中台に刻まれていました。手拓してから二ヶ月以上が経ってしまいましたが、昨日の日曜日を利用してまとめましたので、興味のある方はご笑覧ください。
鹿沼市板荷・観音寺の金剛燈菩薩梵字真言のある灯篭 をクリックしていただけますと見られます。全国的にも、金剛燈菩薩の梵寺真言は珍しいかと井の中の蛙的発想でのご紹介です。
ついでに、鹿沼市加園地区の加園中学校舎裏にある鹿沼市加園・馬頭観音堂(観音寺跡)筆子塔 も纏めましたので一緒にここへご紹介いたします。さらについでに同地にあるもう一つの碑も清書が出来ていますので出し惜しみせずにご紹介しましょう。鹿沼市加園・馬頭観音堂(観音寺跡)地蔵念佛と筆子塔 をクリックしてご笑覧ください。
今回も、先週に引き続いて歩いての鹿沼市中心街からの石仏巡りでした。その第一は、先週に紀年銘を確かめに行った上に掲載した4猿姿です。自然石の下部に浮き彫りされているのですが、肝心の紀年銘の所が読めずに先週は退散。今度こそとやって来ましたが、風が強くて拓本道具を広げる気にもなりません。像容からは、拝待二猿の二組の組み合わせのようにも思いましたが…。いずれにしてもこの庚申塔の紀年銘がはっきりしなければ納得できずに再度の挑戦となったわけですが、ものの見事に追い返されました。いずれにしても、江戸の中期なのか後期なのかだけでもはっきりさせたいと、また機会を見つけて挑戦しようと思います。こんな時、亡き中山さんがいたなら面白がって一緒にその解読に挑戦しただろうと思いますが、こればかりは仕方がありません。
その後はまた元に戻って、今度は本当の中心地にある今宮神社の石造物調査に入りました。もちろんここへは、これまでに何度も来ていながら読めない石塔があるので、社務所へ行って手拓許可をお願いしたら、事前に審査があるのでその旨の手拓許可書を申請してくださいとのことで、今回も読めない石碑は諦めることにました。なにしろ、そうした事務処理にはめっぽう弱い私ですので…。が、そう簡単に諦めたら私の沽券に関わると、二時間ばかり石碑と向かい合いましたが、やはり肝心な所は読めずに、これも見事に追い返されました。面白そうな経典からの掲文がありそうなのですが、こればかりは仕方がありません。そして車を止めた道の駅まで戻って昼食を終えたら、早くも午後1時になってしまいました。とにかく今日は風の強さが半端でない。予定では、午後は大物の碑文手拓を予定していたのだが、この強風には勝てそうもないので断念。仕方がないので自宅方面へと場所を移して、昔に記録を取った奈良部町へ入って写真撮影(なにしろ昔は今と違って全碑塔の写真撮影は夢のまた夢でしたからね)と銘文の再確認をしてきました。調査し出すと、場所が分かっているだけに夢中となり次から次へと移動して、結果的には今年一番の調査用紙を重ねることが出来、その数は全部で45基となりました。そして暗くなったころ帰宅し、この大風の中で本当に石仏巡りをしていたのと家内に笑われながら、早速に撮影した画像を見てみると午後3時半過ぎに撮影した写真は、どうにも使えない状態。そのため、今日12月9日(日)の午後から、また同じ場所へ行って撮影のやり直しをしてきました。もっとも、自宅からは片道12分で着いてしまう場所だから今日も寒風が吹いているというのに行く気になったのですが。そして画像を見てみると、今度は使えそうなので一安心し、その安堵感から今これをキーボードと向かいあって打ち込んでいます。
嗚呼、次回こそは快晴無風で暖かな日和になるよう願うばかりです。そして次回こそは、碑文の手拓作業をしたいと今から思っているところです。石面に霧吹きした瞬間に凍ってしまうような寒さだけは、本当に勘弁してもらいたいものです。そう思いませんか、同好の皆さん。
予定では、土曜日の1日に行くつもりだったのですが、朝から天候は悪く、昼ごろには1センチ程の積雪となり、出かけなくて良かったと溜まっているデスクワークとしました。おかげで、鹿沼市内の宝篋印陀羅尼経に関わる近世宝篋印塔の製本が出来ました。
さて、そんなこともあって今回は鹿沼市街地の石仏巡りとしました。街中の道の駅駐車場へ車を置かせてもらい、後はザックを担いで気ままな石仏巡りです。あちこちとうろつきましたが、結局は行くところというと決まっていて、最初に鹿沼市立図書館へ行き、昨日出来上がったばかりの「鹿沼市宝篋印塔調査報告書」を寄贈のために行きました。どうせ寄贈したところで誰も見ない冊子となるでしょうが、まあそれはそれとして、図書館の皆様にお世話になったお礼に持って行きました。
それにしても昨日に加えて本日も寒い。身体を温めるためにせっせと歩いて、石仏調査はいい加減。まったく私らしい石仏巡りだと苦笑しました。上に掲載した写真は、浄土宗清林寺にある六地蔵です。今回も、庚申塔を覗いてきましたがどうにも写真が撮れません。面白い(興味があるという意味)像容なのですが困ったものです。そして何気なくその庚申塔の姿を塞いでいる光背石に手をやると、グラグラと動く。これはもしかしてと、横に動かすと接着されていたセメントがボロボロになっていて簡単に動く。そこで一体だけを動かしてから何とか以前よりはましな写真が撮れました。
その他、歩いてばかりいて本日の記録した石仏は合計で15基。情けない話ですが、これが実情ですので午後3時には寒さから逃れるように帰宅してしまいました。
嗚呼、何たる一日だったのだろうと少なからず反省しつつ、次回は碑(いしぶみ)調査に行こうと思っています。こちらの方が、必ずそれなりの成果はあるし、面白いからです。もっとも、手拓となると寒くてむずかし難しいかもしれませんがそれにしても、もう少し暖かくなってくれないかな~あ、と今から期待しているところです。