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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2008年11月29日は栃木県小山市の石仏巡りです

2008年11月29日 | Weblog
2008年11月29日は栃木県小山市の石仏巡りです。
それは、佐野市在住の山口氏からお便りがあり、小山市中河原地区の神明宮境内に、石幢六地蔵があったと教えられたから、石幢とあらば何がなんでも見たくなり、しかもこれまで小山市内では石幢六地蔵を1基も実見していないだけに県北へ行く予定を急遽差し替えて出かけた次第です。勿論、朝一番に神明宮へ乗り込みました。そして教えられたとおりに、境内には灯篭型六地蔵塔が対で迎えてくれました。ただ残念なのは、紀年銘を含めて一切の石文が分からないこと。また、問題の六地蔵像は龕部(火袋)部分ではなくて竿部分に陽刻されていました。それでも小山市での初塔だけに嬉しさは格別です。本当に、山口様ありがとうございました。その後は序でだからと中河原地区を総ざらいしまして、この地区の碑塔は一応調べ尽くしました。
 それからは隣接する福良地区へ入って、これまで一度も調査していない碑塔類の調査に入りました。しかし如何せん福良地区には碑塔が多すぎて、坪数で言えば午後3時近くになっても3箇所しか回れませんでした。それに、本日の小山市訪問の目的にはあと一つあり、それは現時点で小山市唯一の延島地区にある昭和庚申年塔を実見することにもありましたので、その後はそこへ向かって昭和55年庚申塔を調査してから帰路につきました。
 それにしても陽が落ちるのが早過ぎます。午後も3時を過ぎると良い写真は撮れなくなり、何となく帰宅を強要されているようです。早く、春にならないかな〜。

※昨日、あきる野市の多田氏から「悠真52号」最新号が届きました。その中に、「鎌倉市には庚申塔でシッポのある猿がある」との森永氏からの情報を得て実見してきた報告がありましたが、そこで初めて私は知りました。それは、東京方面ではお猿さんにシッポが見えるのは非常に珍しいことであると言うこと。しかし、そのお猿さんにシッポが見える庚申塔は日光方面で沢山見ているので、私にとってはそれはごく普通のことと思っていたことです。確かに、日光のお猿さんのシッポは短いのですが、それははっきりとシッポと確認出きるものです。興味のある方は、ぜひ日光の庚申塔(特に拝侍型二猿塔)をその気になって見てください。あちこちで、必ず見られますから。また、同誌には性器の見えるお猿さんも沢山掲載されていましたので、今日の石仏巡りでは福良地区の宝積院で当該お猿さんを写真に撮ってきました。良く写っていましたら、HPの方へ掲載使用と思っています。
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昭和55年庚申塔データを最新に書き換えました

2008年11月23日 | Weblog
 別HPの方へ掲載しています「栃木県の碑塔公開データ」の内、昭和55年庚申塔のデータを先ほど最新の物に書き換えました。
 これで総数169基となりました。もっとも、その中の2〜3基にはご教示頂いた資料が余りにもアバウトなために実見出来るか不安な面もありますが…。
 何れにしましても、これで栃木県は長野県に次いで全国で二番目の昭和庚申年塔の多発県となりました。これまでは数基の違いで新潟県と二番目を競っていましたが、今回の宇都宮市上小池町の庚申塚調査で一気にその差を広げることが出来ました。
 そこで是非、新潟県の皆様も昭和55年庚申塔の新たなる発見に挑戦して下さい。栃木県とはこれまで、良い意味でのライバルだっただけにこれからもバトルを続けましょう!
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2008年11月22日も宇都宮市北西部へ石仏巡りに行きました

2008年11月23日 | Weblog
2008年11月22日も栃木県宇都宮市北西部地区の石仏巡りです。
といいつつも、その最大の目標は前回に途中で調査を諦めた、上小池町原組にある山中の庚申塚再調査にある。しかし、それだけでは能がないのでその途中にある碑塔で1990年代に見た碑塔を含めて目的地へ進むことにした。
 そんな途中で、里山の山頂に「あたご様(愛宕)」があることを教えていただいたが、何となく今日ばかりはフウフウ言いながら山へ登りたくないので、大凡のその入口だけを教えて頂いただけにしてパスして先へ進む。そして上小池町を入る手前の石那田町で、六本木地区の山の中にある庚申塚を暫くぶりに訪ねたくなり、寄り道をする。私にとって、この場所の庚申塚は宇都宮で一番の素晴らしい場所なのである。その理由の第一は、全くもって静かな森の中にあること。第二に、そこに祀られている青面金剛様は言うに及ばず、前立ちとして奉納されている庚申灯篭の素晴らしさにある。今回も、この場所で小一時間ばかりを遊んでしまう。
 そしてようやく、10頃に今回の主目的である庚申塚へ到着する。空は真っ青で、北西には山頂に雪を頂いた日光表連山がくっきりと聳えている。もちろんその近くには真っ赤に熟れたリンゴ園があり、今日も多くの観光客がリンゴ狩りをしている姿が見える。それらを遠目にして森の中へ入り、今回は時間に余裕があるので1基づつ丁寧に水洗いしながら読み、写真を撮る。その調査に約2時間ばかりを要してしまったが、これで親塔を含んで合計12基の昭和55庚申年塔が調査できたことになる。前回も少し述べたが、昭和55年庚申塔群で、一箇所で12基もあるのは全国的に見ても非常に稀な例だろう。調査も終えた満足感で森を出て、お昼には少し早いが風もない穏やかに晴れ渡った野原の大地に腰を落として昼食時間とする。そして今回は暫くぶりに、ここで1時間近くを休憩してこの季節ならではの風景を楽しみながらのんびりする。
 これで、今回の石仏巡りは終了しても良いのだが、それには時間が余り過ぎているので、西隣の今市市猪倉地区へ越境して徘徊しながら帰路につくことにする。そんなのんびり石仏巡りなので、やはり昔に訪ねた碑塔を再確認しながら写真を撮ったり銘文を再確認したりと、全く気軽な石仏巡りとなる。そんな気分でいたからだろうか、上猪倉地区の高おかみ神社境内で思わぬ嬉しい発見をする。それは、この神社へは過去に来ていたのだが完全に見逃していた、重制石幢六地蔵塔である。しかも紀年銘が宝永元年銘。そもそも、神社境内に重制石幢六地蔵が存在することを想定していなかっただけに、何ともハヤハヤといった思いである。しかも、主銘文までしっかり読める嬉しさに、今日はここで終わりにして少しばかり早いご帰還だが、時にはそれもまた良かろう。
 次回は、宇都宮市を離れてどこかもう少し遠くへ行こうと思っている。
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2008年11月15日も宇都宮の庚申塔探訪です

2008年11月18日 | Weblog
2088年11月15日は、宇都宮市北西部の山の中を徘徊で、一日が終わってしまいました。その、厳しい調査顛末を以下に少し長いのですが記します。
 今回も、先週に引き続いて宇都宮市の庚申塔を主とした石仏巡り。特に今回は、上小池町と下小池町の山の中にある庚申塚を探し歩きました。最初に訪れた、上小池町の山根地区庚申塚は、とんでもない山の中にありました。そのアバウトな所在地情報を入手するだけで1時間以上も内をウロウロし、ようやくそれらしき場所が分かって、さっそくその裾にある農家を訪ねたところ、それはとんでもない山の中にあることが分かりました。道のない山の中を、それも雨が降る度に崩壊するような沢筋を片道20分近く登らなければならない場所とのこと。そしてその目標物とやらは、山の中で最も倒木の激しい場所を乗り越えた場所の近くにあるという、何とも情けなく心許ない場所である。そして実際に山の中に入って登り始めたが、確かに山仕事に使用される踏み跡はすぐになくなり、涸れた沢筋を教えられた通りに左へ左へとがむしゃらに稜線めがけて登る。山登りに自信のある私だが、庚申塚ということで甘く見たので、私の足元はいつもの布靴。加えてザックでなく三脚に調査道具一式を両手に抱えての山登りだから、途中で何度も転びそうになる。そんな体で登ること20分位で大きな二俣分岐点に到着。右側は間近に見える稜線へと易しく登れそうだが、教えられたのはとにかく左側へと登ること。その左側は、見上げるような急峻な沢筋となっていて、ホントにこんな先に庚申塚があるの?、と疑いたくなるような場所である。それでも根性で登りだし、言われた場所の酷い倒木を何とか乗り越えて、早速両側の庚申塚がありそうな所を探したが、一向に見当たらない。それでも、苦労して登って来たからには簡単に諦めるわけにはいかず、山の斜面に大岩があれば近寄って確認したり、時には大きな木の株を遠くから見て庚申塔と見違えて駆け寄ったりと、無駄な時間ばかりを費やす。そして全身汗まみれ、服は泥だらけに加えて草の実だらけとなる。とうとう、見つけられぬまま降参となり、足取り重く下山する。今度は、もう少し季節が遅くなって、木の葉が全て落ちた冬に登ることとする。
 これは、下山後に聞いた話しなのだが、元々は山稜にあった庚申塚だが、余りにもから遠いので少し下へ移動してそこにお籠もり用の小屋を作ったが、今は潰れてしまったとのこと。ついでに、本当に庚申塔もあるのか尋ねたが、「あったと思うよ」という何とも頼りがいのない返事だった。しかしそれでも、栃木県で最も過酷な場所にある「庚申塚」として、是非ともその状態と現状を記録に留めておきたく、再挑戦することにしよう。
 さて、次の庚申塚も行き着くまでに難儀した。内を2周し、ようやく庚申塚の近くの方に、この薮道から山の中にはいると、そこにあると教えられてどうにか調査できた。しかし、写真は光線の具合でうまく撮れず、ここも写真撮影のために再チャレンジである。
 三番目の庚申塚、これも探し出すまでに時間がかかった。しかも、車を日光街道沿いのリンゴ直売所に置かせていただいて、歩いて探したので時間ばかりが掛かり、ようやく辿り着いたときには疲れてしまっていたが、その庚申塚を見て驚く。そこには何と、昭和庚申年の庚申塚があり、しかもその庚申塚の周囲には11個の個人で奉納した石塔が周囲を囲んでいたのである。これも後で聞いたところ、この地区の11軒の講員全員で各自がそれぞれに昭和庚申塚を築くときに、親塔とは別に一緒に奉納したものと分かった。当然ながら、この庚申塚はこれまでだれも発表したことのない場所。栃木県の昭和庚申年塔としては、正にお宝庚申塚である。しかし、惜しむらくは歩きで来たために三分の一程が土中に埋まっている塔は、スコップがないために掘り出せない。ここも、次回への再調査としてその雰囲気だけを写真に撮って離れる。それにしても、一箇所で、昭和庚申年塔が親塔を含めて12基とは…。驚き以外の何ものでもない。嬉しさで、暫く眺めるばかりであった。
 その後は、上小池町を離れて下小池町へ移動。ここでも二基の昭和庚申年塔を調査して、早くも暗くなり出した午後4時に本日の調査を終えて帰宅する。
 次回は、今回の再調査を含めて、隣の町の庚申塔調査を続行しようと思っている。勿論、昭和庚申年塔との出会いを夢見て。
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2008年11月8日は宇都宮市内の石仏巡りです

2008年11月10日 | Weblog
 2008年11月8日は、私としては珍しく栃木県宇都宮市の石仏巡りです。何しろ、自分の住まう宇都宮市内の石造物は、もう少し年を経て車に乗れなくなってからでも調査は遅くないと考えているので、そのほとんどは昔に少しだけ巡っただけで手つかずの状態である。そこで今回は、栃木県大平町の石像物調査にも前回で一通りの区切りがついたので、取りあえず今から15年以上前に巡った場所(どこにあったかが虚覚えているので巡るのに楽というだけ)へ出かける。
 そして最初に訪れたのは、宇都宮市でも北部地区となる上横倉町の多藤神社。この神社には沢山の碑塔があるのは嬉しいが、通行車両の激しい293号線にありながら駐車スペースはないので、苦労して歩道内の邪魔にならないところへ車を置く。
 社殿は道路から奥へ入るが、その参道には道一面にムカゴが落ちている。しかも大きな実で、食べるには最高の品質である。こうなると石仏どころではなくなり、車に戻ってビニール袋を持ってきて拾うのに忙しくなる。それにしても、あるわ、あるわ、瞬く間にビニール袋が重くなり、今秋最高の収穫高である。贅沢な油炒めにしてもまだまだ余り、ムカゴご飯にしても三食は食べられる量を収穫したが、地面に落ちているムカゴの量の十分の一も拾えきれないでいるが、もったいなくも拾い疲れたのでようやく石仏の前に立つ。 そして最初の碑塔を眺めていると、そこへの皆さんがぞくぞくと集合。話を伺えば、明日の日曜日はこの境内で関白流獅子舞があるので、総出で掃除に集まったとのこと。当方としては勿怪の幸いと、この上横倉地区にある石造物の所在を聞き出す好機到来である。これぞ正しく、向こうから鴨が葱を背負ってきたようなもので、皆さんがワイワイガヤガヤと話をして、内の石造物所在地を全部聞くことが出来てしまった。しかも、その中には山中にあって、まず地元の人以外には見つからない石祠のありかまで把握してしまったのだから笑いが止まらない。そんなこんなで、結局はこの多藤神社周辺に淺の8時に来て、11時まで居座ることになってしまった。
 その後は更に北上して、大網町〜篠井町〜飯山町へと進んで、この日暮れの早い季節に午後4時まで彷徨く羽目になってしまった。特に最後の飯山町では、山の中に入り込んでの庚申塚探しとなり、ようやく見つけた物の肝心の庚申塔は暗くて文字も良く読めない有様で、かろうじて写真が写る状態であった。そのため、その中の1箇所の庚申塚には他にも馬頭観音塔等が沢山あったが、それらの調査は次回への繰り越しとなってしまった。
 そんなこんなで、今回の別HPの方の石仏報告はいつもの手法に変えて、最初に訪れた多藤神社の石造物を中心にご紹介しようと思っている。もっとも、掲載されるまでには少しばかり時間がかかるが…。

※所で、11月6日には誰かさんが、私のHPへ掲載しました「栃木県の碑塔公開データ」を熱心にご覧になった様ですね。印刷できないので迷惑をかけますが、石仏のHPでこれだけのつまらぬ資料を公開しているものはないと自負していますのでご容赦下さい。そしてご覧になっての感想やご意見などを賜れれば嬉しいのですが…。本当なら、もっと公開したいのですが様々な要因がありまして自分としては忸怩たる思いもあるのです。
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2008年11月1日も栃木県大平町の石仏巡りです

2008年11月01日 | Weblog
2008年11月1日も栃木県大平町へ、石造物の落ち穂拾いに行きました。が、成果は少なくて1日でたったの14基という有様でした。それでも、朝一番で訪れた大平町下高島町の宝蔵寺さんで、寶篋印塔陀羅尼経の立派なものを調査できました。また、住職様から真弓地区の共同墓地にある当該碑塔所在地も教えていただくことが出来ました。さらに、温かいコーヒーまでご馳走になり、その点では楽しく調査できました。
 これで、大平町の寶篋印陀羅尼經の調査は終了です。と思ったら、西野田地区本郷の個人宅敷地内にあるのを、偶然見つけてしまいました。早速伺ったのですが、留守で調査できず!。何とも悔しいので、この周辺の落ち穂拾いに精を出して時間を過ごし、お昼近くに再度訪れましたが、やはり留守で調査することが出来ませんでした。何ともはや、で、結局は所在だけの確認で写真も撮れぬまま退散しました。その後は、榎本の八坂神社境内で昼食としてから移動し、冨田地区の落ち穂拾いを終了。さらにその後は西山田地区へ入るも、途中で個人の方と出会って家へ招き入れられ、結局は時間だけを浪費してそのまま帰宅してしまいました。
 いずれにせよ、今回で大平町の碑塔調査はひとまず終了することにしました。特に、大平町西山田地区に多くの取りこぼし碑塔があるのを承知して、です。まあ、今回の大平町碑塔調査の最大の目的が、寶篋印陀羅尼經塔の纏めにありましたので、その意味では僅か9回の大平町集中調査でしたが、その成果は90%以上の上出来ではないかと思っています。ただ、今回の調査で唯一手を抜いたのは、個人宅墓地内にあった板碑破片を実見しっただけで写真も撮らないままにしてしまったことです。大平町では、板碑調査が為されていないだけに、今になって後悔していますが、いずれまたこの地区を訪れたときにはその時こそ調査をしたいと思っています。
 さて、次回からどこへ入るかはまだ考えていません。本格的な冬が来るまで、今市市方面へ入ろうかとも思っていますが…。

※帰宅したら、足利市瑞穂野の満宝寺さんから美味しそうなザクロが届いていました。満宝寺さんを訪ねてから早くも3年以上が経つと言うのに、私のことを急に思いだしてお送り下さったそうです。ホントッ、感謝感謝の言葉だけです。足利へも、今年中に一度くらいはふらりと遊びに行きたいと思っています。同道して、いつも楽しい思いをさせてくれる佐野市の高橋氏を誘って…。
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