これが、前回に御紹介した石碑の手拓画像です。両面に銘文があり、これはその内の碑表です。石工は、彼の廣羣鶴です。実際に目の当たりにすると、その廣羣鶴の手抜きしない文字彫りに見惚れてしまいます。裏面には、大関増裕夫人の待子作和歌と三田称平撰文&関思敬書の銘文があります。それにしても、勝海舟の書には私などには簡単に読めぬ箇所があっていつも泣かされます。今回も幾つかの文字読みに自信がないところがあり、これからその読みに本気になって挑戦です。それでも、内容は大関公の履歴なので易しく助かっています。碑表をここへ掲載したので、近々碑陰も御紹介しようかな~と思っている。
先週は、かつて調べ歩いた宇都宮市内の石碑でまだ手拓していないものを2基採って来ました。来週も、多分宇都宮市内の未拓本を求めて出歩くことになるでしょう。何しろ北風が強く吹く季節となったので、これから遠方の拓本採りに行くには天候との戦いになります。
2022年7月・読み下しもあるのですが、種々と考えました末に未掲載としています。無断盗用が多い時代ですので…悩み深き問題です。
栃木県黒羽町は、江戸最後まで藩として残った県内10藩の一つ、黒羽藩があった地域です。勿論、藩としては小さな藩でなので江戸幕府の要職に着くことはなかったのだが、その黒羽藩で最も有名なのが、かの松尾芭蕉が全国吟行の旅に出て最も長く一箇所に留まった地区としてなっています。従って松雄芭蕉に感心のある方なら一度ならず必ず訪ねている所でしょう。
さて今回は、その黒羽藩江戸末期15代の若き城主であった大関増裕の石碑だが、彼は譜代大名の西尾氏(遠江横須賀藩主)の家系に生まれたので江戸幕府との繋がりがあり、その為に徳川家茂に拝謁出来て、その後は幕政に関与することとなった。しかし慶応三年帰国途上にて俄かに享年31歳の若さで病死してしまう。
この碑は、そんな前途を嘱望された彼の死を悼んで勝海舟が撰文し自ら揮毫した、栃木県最高の石碑作品である。勿論、これを刻した石工は廣羣鶴であり、実際にこの碑の前に立って眺めれば廣羣鶴のその仕事振りの素晴らしさを改めて認識させられるだろう。そして私自身、これをいつかは手拓したいと思いつつ歳月が過ぎてしまい、ようやく今回その拓本をとることが出来た。その拓本は、後日ここへ掲載して皆様にご覧に入れたいと思っている。
さて、そんなこの石碑には両面に渡って碑文が刻されているので、その両面を手拓終えるのに朝早く来たのに関わらず随分時間が掛かってしまったが、秋晴れの中で一人静かな場所での手拓作業に気分は最高で、心から楽しめた時間であった。が、その一角に四角柱石塔がある。見たが、苔と汚れが酷くて文字が存在するのを確認するのが精一杯。今日は、他に訪れたい場所もあったが、意を決してその時間を使って水洗いしてみれば「墓碑銘」とあり、撰文者は「門人 三田称平」とあり、書家は「雪江 関思啓」とある。当地黒羽藩で活躍した三田称平の師とあらば、これも記録として残しておかなければならない碑文である。泥落しにもいっそう力が入り、拓本を採り終えたのは既に午後の2時になっていた。いずれにせよ、帰宅してからの銘文を読むのが楽しみな石碑が、今回も思わなく1基追加されたことになる。
だが、ここで大失敗。これまでの石造物調査ウン十年にしてこれまで数度しか経験していない「写真の撮影忘れ」をやってしまった。要因は、水洗いして綺麗にしてから撮影しよう。いや、拓本を採り終えてから撮影しようと、少しでも良い写真を撮ろうとしていたことである。その写真撮影忘れに気が付いたのは、今日はこれ以上の手拓作業は時間切れで不可能となっていたので、残り時間を周辺の石仏調査に当てようと黒羽町の南部まで来てしまってからのことである。拓本だけで全景の画像が無くては話にならんが、まあ今回は戻るのも大変だから諦めようと決めてそのまま少し早いが帰宅してしまう。これもやはり、今回で今年の当地方面の石造物調査は終わりにしようと考えていた私が甘かったようで、来月末頃から12月に(上る山は薮が酷くて冬季でないと登るのに難儀するから)愛宕さん山頂にある大きな猪乗り将軍地蔵像と、面白い像容の青面金剛塔の調査を兼ねて行く事にしよう。
この石碑は、栃木県大平町大中寺八世の白庵僧が開基し、建立したのは岡本讃岐守正親であり、それは天正十二年四月のこととある、鏡山寺創立からの歴史を記したものである。そしてそれ以上に私にとっての注目は、篆額揮毫者が宇都宮城最後の殿様である戸田忠友であり、その撰文者が戸田御三家の一人であり、当時の宇都宮で最高の漢学者である戸田香園。更にそれを揮毫したのがこれまた宇都宮藩の漢学、書家として知られた藤田安義。この三者の名が記された石碑は、宇都宮市内にも無く、当に私にとっては暫くぶりに嬉しいものであった。今回の鏡山寺訪問は、門前に建つ別の個人碑頌徳碑の調査にあったが、それは後回しにしてこちらを優先したことは云うまでもない。しかし、いざ手拓作業に入ると石苔が酷く掃除が必要、また中央が割れていて文字欠損箇所あり。加えて見た目以上に大きく、篆額を入れると手拓の高さが2メートルを超える。午後から始めたが、意外と時間が掛かって終わったのは夕方になっていた。午前中に、3基の石碑を終えていた身には疲労感がたっぷりと感じられ、帰路への道のりがいつになく遠く感じられた一日だった。そうそう、門前にある石碑は、次回に手拓することにしたのは云うまでもないが、こちらもこの石碑以上に汚れが酷く、何が書いてあるのかさえも読めない状態。加えて1メートル以上の高い台座に設置されているので、脚立が必要と、これまた手拓を終えるまでにはそれなりの時間が必要と、次回も覚悟を決めて再訪することにした。
今年の6月に設置された、矢板市指定文化財としての看板が始めに掲載した写真です。そしてその脇に建っているのが下に掲載した石塔写真です。しかし、私にはどう読んでも「ウハッキュウ 施入供養」としか読めません。「施」を「旅」と読み、「入」を「人」と読むなぞ、余程の学のある人が調べたのでしょうか。特に、「入」を「人」と読むなど、高学な読み方があるものだと感心しきりです。また、案内看板によると、ウハッキュウは梵字を漢字に直して合字したもので、その意味は「迷わずして道に至る」という意味があり「旅人が迷わずに目的地へ行けるよう願ったもの」と考えられる。とあります。これもまた、サンスクリットを学んだ者にとっては初めてのご教示です。私の持っている、何冊かのサンスクリット辞典には勿論ウハッキュウに該当する単語は見当たりません。是非に、その出典を浅学な私めに御教示賜りたいものです。
そんな、旅人のために建立された珍しい石塔故に、全国で唯一の石塔だからこそ文化財に指定されたのでしょうね。
浅学ながら、私なら「施しを受けたので、僧侶が「右へ行く道は氏家方面ですよ。また左へいけば大田原の佐久山へ至る道ですよ」として道の十字路?地に建立した道標と、浅知恵で思うのですが‥。まあ、市井の非学な私などが遠吠えしても仕方ないことなのですが、これって思わず「笑っちゃいますよ」ね。ついでに、「化主」の意味が記されていないのが何とも面白いです。隣りには、曹洞宗のお寺さんがあるのだから、「ウハッキュウ」の意味と、「化主」の意味を尋ねれば良かったのではないかと苦笑。
そうそう、ここへ御紹介したのは別に矢板市教育委員会の皆様を誹謗中傷したものではありませんこと、御了承ください。たまたま、目にした面白い?看板に感心してのことです。そして万万が一、その「?」に気づきましたときは、出来ればこのブログ管理者の私めにご連絡戴きましたら幸いです。その時は、この内容についての結果をごまかしなしにここへ書き加えたく存じます。それにしましても、これは私めが浅学ゆえに漢字の読み方のみならず、その意味も理解できないまま、ブログへ書き込まれて迷惑だとかとのお叱りを併せて、是非に矢板市文化財に指定しました方々からの御教示ご連絡をお待ちしています。その時は、いつでも削除します。
2015年10月6日
早速に、上記の件にて読者からお便りがありましたので下に記しました。
1、「施入」と「化主」の意味を知りたい。
近頃は、漢字字典等を開くことが少ないようで困ったことですが、浅学ながら下記にその簡単な意味を記しました
・「施入」
=ここでの意味は、主に曹洞宗の僧侶等が郷内や各地を順錫しながら人々から浄財や物品の施しを受ける事。
・毎年、暮れになると曹洞宗の僧侶が浄財を集めに巡る姿が新聞等に掲載される、カッコイイ姿のアレです。
「化主」
=僧侶や住職のことを言います。つまりここでは「提山」という僧侶の名前と推察しました。
極論すれば、それらからこの道標塔は地元の鏡山寺に関係した僧侶が、多くの人々から施しを受けたので、その感謝の意味でその道を往来する人々が行く道を間違いないように行き先の地名を記した「道標」を建立したということでしょう。
※浅学ゆえに、今回の看板内容のように別の見方があることも承知しながらこれを記しました。誤っていましたら乞容赦。