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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

良いお年をお迎え下さい

2005年12月31日 | Weblog
いよいよ今年も大晦日になりまして、明日は2006年元旦。
この一年間を振り返ってみますと、本当に良く健康で、毎月石仏巡りが毎週出来たものと思います。そこで今年1年でどの位の石造物を調べられたのかをDBに登録したものを計算してみましたら、総数で1,200余基になりました。毎月100基を確実に調べたようで、その数に我ながら感心しています。ちなみに、今年の調査目標100基であった宝篋印塔の総数は丁度80基でした。少し足りませんが、これも良く調べたものと感心しています。それでもやり残しは、栃木県岩舟町の石造物悉皆調査が未了になってしまったこと。また、庚申数庚塔の調査に手抜きがあり、思うほど調査できませんでした。
そこで来年の目標としては、取り敢えず岩舟町の石造物悉皆調査を完了すること。また、宝篋印塔は今年の数までは行きませんが、一応50基目標と致しましょう。そして庚申数庚塔は、もう少し真面目に取り組むことと、那須の地の馬頭観音様巡りももう少し増やしてみたいと思っています。それと、それと、足利市の寺院巡りは、この一年で悉皆調査の目鼻を立てたいと思っています。
等々と書きますと、また来年も自分で自分の首を締めることになりそうです。まあ、それでも私の石仏巡りは、基本的には「趣味」の範囲に納めておきたいので、余り肩肘張らずに楽しく巡って歩けたら良いと思っています。

今年一年も、本当に多くの方々に支えられて石仏巡りが出来ました。特に佐野市の高橋久敬氏にはお世話になりました。また、岩舟町の大慈寺さんや岩舟山高勝寺さん等々、訪問しました各寺院の住職様には心ある供応に預かり感謝申し上げます。この場を借りましての御礼と、来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。
                                      合掌
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今年最後の石仏巡り

2005年12月29日 | Weblog
今年最後の石仏巡りは、佐野市の高橋久敬氏と一緒に田沼町から足利方面へ出かける。
先ず9時に、田沼町の「道の駅」に集合。そして今日の最大の目的である、昭和58年銘の「千庚申塔」を高橋氏の案内で近くのお寺さんの角地にあるのを見に行く。私としては、なぜ昭和58年の庚申塔に「千」という文字があるのかが最大の関心事である。記録を取ったり写真に撮っている間に、高橋氏が住職さんに聞き込みをしてきてくれて、それは元々ここにあった古い千庚申塔が壊れてしまったので、地区の人々が同じ銘文の「千庚申」という文字塔を再建したとのことである。聞いてみれば、あっさりと納得するものの、少なからずガッカリする。もし、これがこの地区の人々による千箇所の庚申巡拝塔なら、それからの聞き込み調査でとてつもない資料を得られると期待していたからである。

そんなわけで、何となく意気込んできた今日だが拍子抜けし、その後は足利市へ向かうことにする。そして最初に訪れた利保町の持宝院さん。挨拶がてら、板碑の存在を聞いてみると本堂にあるという。拝見を所望すると、「どうぞどうぞ、こんなもの今まで誰も見に来た人がいませんよ」といって、快く見せてくれる。そこには三基あり、その中の1基ははっきりと延文二年(1357)と読めるではないか。計測などをしてから表に出して写真撮影。一方の高橋氏は、鉦の所在を確かめて見せてもらい、その中の一つに享保年間の銘を見つけて大喜びしている。もちろん、その境内にある庚申塔やらその他の碑塔は悉調査したことは当然のことである。
何となく気分を良くして、菅田町の稲荷神社へ立ち寄るが、ここではたいした収穫なし。ついでだからと、近くの光得寺へ立ち寄る。ここには、無縁塔が集められた中やその隣に投棄同様の碑塔が集まっている。その中の碑塔の「奉請青面金剛」という庚申塔の紀年銘に「善月」とあるのを発見。これが陰暦で何月に該当するのか判らず。

やはりこの年末の石仏巡りは、余り本気になれぬまま(本当は、今日の目的+思わぬ板碑調査完了のオマケ付きで大満足していた)、次は山奥の名草上町、無住寺(臥龍院)を訪ねる。谷間のため風もなく、そこは春のような暖かさで境内の水仙数本が咲いている。石仏調査よりもまずはここで昼食と、日溜まりの中で相変わらずの弁当を広げる。境内にある碑塔類は、わずか数基のみという収穫だが、何となく今年の石仏巡りを締めくくるのに相応しい場所だった。

ここからは帰路道となり、市街地へ向かいだしたが、その途中で高橋氏が道沿いの名草川を越えた一角に碑塔が並んでいるのを発見して止まる。この道は、これまでに何度も通っていたが、私は全く気づかなかった碑塔群である。車を路肩に置いて歩いていけば、そこには私が求めていた庚申名数塔が4基も並んでいる。しかも安永年間のものもあるではないか。二人で大喜びし、今日の思わぬ大収穫に小躍りしてしまう。しかもその数庚塔の銘文が良い。「百ヶ所拜行供養」とあるのだから!
その後は気分益々良好、途中で馬坂峠の百庚申塔群を遊び気分で訪ねてから家路に付く。
本当に今年は、最後の最後まで高橋氏には迷惑をかけてしまったが、それでも二人して大満足した本年最後の石仏巡りでした。
この今日の石仏巡りHPご報告は、明日以降~正月にかけておいおい掲載することに致します。
明日は、今年最後の墓参りです。皆様も、残り少ない年末をご健勝にお過ごし下さい。
それでは良いお年を!!。                             
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得した本日の石仏巡り

2005年12月25日 | Weblog
今日は、午後から栃木県粟野町の自性寺さんを訪ねる。目的は、今年お世話になった御礼を兼ねての挨拶のつもりだったが、連絡もなしに行ったので生憎と不在だった。
仕方がない、夕方にもう一度寄ろうと時間つぶしを兼ねて周辺の石仏巡り(一箇所だけだが)をする。
そして地元の方に聞き込みをし、近くの大慈庵跡を訪ねれば、そこには享保三年銘の宝篋印陀羅尼経が刻まれた宝塔型宝篋印塔がある。思えば、粟野町の近世宝篋印塔調査があと1基というまま途中で何年もストップしていた。それが今日の出陣で、思いもかけずに完了することになる。享保三年銘の近世宝篋印塔は、当県では古い方の部類に入る物。早速その銘文を読んでみれば、何のことはない普通一般にありふれた内容で、書き写しはチョチョイと終えてしまう。
まだ時間があることを幸いと、その周辺にある碑塔も併せて調査する。十九夜塔に馬頭観音塔、そして横倒しになっている寛政庚申年の自然石庚申塔等々。そして終えてみれば、結局そこには1時間以上いたことになる。
粟野町郊外は、南北に山がある谷間の村。そのためか、3時になったばかりだというのに早くも太陽は山陰に沈んで寒くなる。それでなくても、19日に降った雪がまだ残る上を吹き抜けてくる風は冷たいのに、日影となっては尚更さむい。
そんなわけで、今日はこの一箇所だけで退散し、再び自性寺さんを訪ねるも、やはりお留守のようである。
初期の目的は達せられなかったが、思いもかけずに粟野町の宝篋印塔陀羅尼經塔が纏められたので、心は満足。なにか得した一日の思いでルンルンと帰路に着く。
そうそう、今夜こそ年賀状書きをしよう!
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12月23日の石仏巡り

2005年12月24日 | Weblog
今年の足利方面の石仏巡りは終了したつもりでいたが、何となく車を乗り出して気が付いてみれば、いつものように足利市の梁田地区にいた。
そんな訳で今日は気分的にゆとりがあって、今まで一度も足を踏み入れていない渋垂町内のお寺さんを訪ねることにする。

まずは、真言宗の自性寺さんを訪ねる。庫裡に挨拶に行くと、素敵な若奥様が思いっ切りの笑顔を見せて「どうぞうどうぞ、ご自由に」と言葉を返してくれる。
まずは本堂に手を合わせ、境内にある宝篋印陀羅尼経の銘文写しから開始する。その内容はこれまでにたくさん見てきた銘文だけに、一気に解読終了。
そして門前に並ぶ石仏群へと足を運んで端から調査開始。と、そこに滅多にお目にかかれない「七夜念佛」の文字がある舟形光背地蔵立像と出会う。勿論、足利市では初めての「七夜念佛塔」である。しかもその紀年銘は延宝四年とある優れもの。その銘文から、十六日念佛講の人々による七夜念佛講への寄進塔とあるから、その嬉しさは倍加する。
またその隣には、戊辰戦争梁田役で無くなった幕府軍の戦死者供養塔が建っている。一般に、戊辰戦争では官軍のお墓は立派な物が多く、その逆に賊軍となった幕府方の墓は、あっても両軍の合祀墓や官軍か幕府軍かを書き表さない場合が多いのに、ここでははっきりと「戊辰戦役幕軍之墓」「慶応四戊辰三月九日戦死」と刻んである。それだけ、梁田の戦では両軍に戦死者が多く出たのだろう。
その他、ここには青面金剛像容塔やら読誦塔が幾つもある。また、一段高く積んだ無縁塔群のなかに、如意輪観音像容の「十六日念佛」塔やら、四角柱三面に順礼地の本尊を浮き彫りした百番供養塔(素敵な石塔なのだが、隙間が無く写真も撮れず銘文も読めない部分があって残念)等がある。

ここで、2時間以上を費やしてから、その近くの無住である高沢寺へ行く。先ず目につくのは、舟型光背石に刻まれた六臂如意輪観音像で、それはつい最近建立されたかのようなどこにも傷のない素晴らしい物である。また、その台座に見える偈頌が良い!。その良さは、何と言っても読めることには読めるがその意味が全く分からないからである!?。意味が分からないと言うことは、即ち私にとっては「本当にアリガタイ」文字なのである…?。また、不明三尊形式の自然石もある。こちらも「三尊種子+供養」とだけでは、その信仰内容が私には判らないではないか、と一人ブツブツ文句を言いつつ水洗いして後学のために写真を撮る。
そして気が付けば、いつしか本気になって「石」と格闘している自分の姿に苦笑する。ここは無住ゆえの気軽さもあって、本堂の階段に腰を降ろして昼食時間とする。冷たいご飯に冷たいお茶を腹に詰め込んだが、今日は当地にしては珍しく風が弱いので日当たりの良い場所は暖かく、そこで一休み。もちろん、その一休み中には上述の偈頌銘文を拓本取りしたのは言うまでもない。
食後は、気分転換の意味合いもあって、個人墓碑は滅多なことでは写真に撮らないが、素敵な像容の「請け観音」像容塔があるのでこのHP用にと写真を撮ってから、更に近くの稲荷神社へ移動。ここには、富士信仰に関わる碑塔を収録する。

前々から、行かねばならぬと思いつつもその機会がなかった上渋垂町の東光寺へ、今日のこの機会にと向かう。そしてその一歩手前の道路沿いにて、重制石幢六地蔵を発見。これは思わぬ発見である。年代的には結構古そうだが、その形態はかろうじて竿の一部と龕部が残されているのみで、竿部分の銘文は何としても読めない。そして肝心の龕部だが、この龕部は七角形となっている。一般に七角形の場合は六地蔵+一観音像となるのだが、その像容も傷みが激しく地蔵と観音の判別が付かない始末にガッカリ。まさか、前回のこのブログで足利で興味ある物の一つとして「七地蔵」像容塔と書き込んだから、早速それが出現した訳ではなかろうに…。いずれにしろこれは、再度のしつっこい再調査としよう。

今日最後の訪問地となる東光寺に着いたのは、もう午後の陽が西に傾きだした頃。その為に、入口にある碑塔の写真撮影は全て次回への繰り越しとする。その中には、滅多に出てこない「光明真言曼陀羅」種子塔がある。
境内の中央に、堂々と聳える近世宝篋印塔。銘文解読のためには、その基壇の上に登らなくてはならない。そして登ったものの、その銘文文字の彫りは浅く、足を乗せるだけの基壇の上で読むのに四苦八苦。しかもその銘文は、宝篋印陀羅尼経文の中の一部分を細分して記し、しかも作文がしてあるので、すんなりと読むことが出来ない始末悪い塔である。お墓詣りに来たおばさん達に、「落ちないで!」と声をかけられたり、うちのご先祖様の名前がここに刻まれていると話しかけられたりで、更に解読作業が遅れてしまった。それでも、越後の石工名が出てきたので嬉しい限りである。(越後の石工が刻んだ文字にしてはお粗末だが…)
塔にへばりついてから一時間余、一部読めない部分があるが、まあよく頑張ったと一人納得し、飛び降りて終了。
今日はこんなにもムキになって石塔を調べるつもりはなかったのだが…と、終わってみれば今日一日で38基もの新しい石造物調査成果にニンマリして帰路に着く。
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「合爪」文字、その他の文字について(五島様へ)

2005年12月22日 | Weblog
「合爪」(ゴウソウ)文字について

石造物に見る、合掌と同じ意味を持つ「合爪」という文字を探していまして、今回は埼玉在住の五島氏から旧浦和市大久保領家 日枝神社前路傍の祠内にある元禄三年塔にあることを教えていただきました。しかも写真までお送り下さるとのこと、嬉しい限りです。
この合爪文字については、当HPの中に掲載してありますので、その他にご存知の方からのご教示を是非にと願っています。
五島様、ありがとうございました。今後とも宜しくお願いします。
ついでに五島様へ、
「鬼宿日」のご教示ありがとうございました。縣様が「野仏」に掲載する位なのだから、やはり全国的に珍しいものだと確信しました。また、浅間神社の庚申塔銘文、面白いでしょう。こういうのに出会うと、ついつい何度も足を運び、全文を知りたくなりますが、その度に返り討ちに遭っています。まあ、それが解読の楽しいところなのでしょうが、やっている本人には少々辛いこともあります。誰か代わりに挑戦して、全部読めたよと教えてくれないかな~、とも思います。
またいつか、機会がありましたら楽しい石仏巡りを御一緒したいと思っています。今日、石川様と電話で五島様が那須の地の馬頭さんに興味を示されたことお聞きしました。石川様としては、来年は足利市の庚申塔を見たいらしいです…。また、御一緒できると良いですね。

ついでに、私が興味をもっている文字に「石佛」という文字があります。
常日頃、何の疑問も持たずに使用している「石仏」という言葉ですが、これが石造物に見えるのは何時からなのかに興味を持っています。
当栃木県では、私の実見した範囲では初発塔が栃木県栗山村で見た天文18年塔です。その後今市市で天正10年、文禄3年と続いていますので、中世には既に「石仏」という文字が使われていたことが判ります。そして県内では寛政年間をもって終わっています。
そこで、ここをご覧の皆様の中で、天文18年銘よりも古い石造物中にこの「石佛」という文字があるのをご存知の方からの情報をお待ちしています。
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12月17日の石仏巡り

2005年12月17日 | Weblog
今日、12月17日は朝一番で岩舟町の大慈寺さんへ立ち寄って、この一年のお世話になった話しやらで楽しい一時を過ごす。ご母堂様が入れてくれた甘酒が特に美味しかった。
その後、10時に同じ岩舟町の龍鏡寺で高橋氏と待ち合わせていたが、少しばかり遅れてしまう。今日は、この龍鏡寺にある延宝庚申塔の銘文解読を、二人で行う予定なのである。この庚申塔の銘文は、先月の多摩石仏の会の皆様と見たときにも読めなかった物。また、多田氏もかつて挑戦していたが、やはり途中までしか読めなかった因縁のある庚申塔なのである。その、読めぬ悔しさで、今日は高橋氏に助っ人をお願いして一緒に解読しようとした次第。そしてその庚申塔に向かうこと、その後2時間を要したがどうしても主銘文の一部が読めない。金ブラシで、銘文にこびりついた苔や埃をゴシゴシ擦って何度も何度も拓本を取る繰り返しながら、ついに完読する事が出来なかった。ホント、「悔しい~」である。それでも、紀年銘等のある左側半分は完読出来た。
そんなわけで、午前中はこれで終了。
その後は、岩舟町静の浅間山へ向かう。その浅間山登り口で、少し遅れた昼食時間としてのんびり過ごす。これが今年最後の高橋氏との石仏巡りであり、一年を振り返っての忘年会と言ったところか。
さて次なるは、この浅間山山頂にある、八角形庚申塔の銘文解読である。特にその二面には細かな文字でビッシリと文字が刻まれている。この文字解読にも、高橋氏の力を借りようと言う、私にとっては虫の良い話しであるが、その山頂まで辿り着くのに二人してハァ、ハァする始末に、お互い年を取ったことを改めて実感する。もっとも、私は両手に拓本道具一式、高橋氏は大きなスコップ持参のうえ、落ち葉が山道に積もっているので滑りやすくなった道を登ったからと、言い訳をする。
その銘文解読、その後二人で2時間以上も頑張った甲斐もなく、やはり読めない文字が沢山残ってしまった。言い訳としては、スコップで下部を掘り起こせば読める筈だったが、大きな石が出てきてどうにも掘り進められない。高橋氏は私以上にムキになって、最後は素手で土を掘り出したが、それでも途中までしか文字が出てこない。それでも、地面に這いつくばって一文字ずつ見える文字は読もうと努力したお陰で、その見える範囲の文字は随分と読めてきたので、この辺で終了とする。そして下山直前に、高橋氏が改めて塔全体を眺めて、その内の三面の下部に何か文字があるのに気づく。それは大変と、またスコップの出番となってその箇所を掘り出せば、そこには「不見」「不聴」「不言」の文字が出てきた。まさに、野球でいえば9回裏のツーアウト逆転ホームランである。この地区での唯一の塞三猿像容に代わる、その文字表現塔の出現だからである。
この時、既に時計は三時を過ぎている。やはりここにも2時間もいたことになる。陽も西に傾きだしたので今度こそ本当に終了として、下りはルンルン気分で下ることが出来た。
本来なら、ここで別れるつもりだったが、もう一箇所だけ高橋氏の案内で墓地巡りをする。というのも、この岩舟町のどこかの墓地入口に延宝庚申塔があるはずなのだが、それが私は未だに見つからないから、それを探すためにである。そして着いた墓地だが、やはりそこでも見つけだすことが出来なかった。残念だが、これは仕方のないこと。これを探し出すのは、偏に私の仕事だからである。
いずれにしても、今年も高橋氏には年の瀬の最後までお世話になってしまった。「来年も、これに懲りず宜しく!」と挨拶して別々に帰路に着く。もちろん、早くも来春には足利市の板碑拓本を一緒に取りに行く約束をして!
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2005年12月10日の石仏巡り

2005年12月11日 | Weblog
朝から北風の強い中を、今日も足利市へ石仏巡りに出かける。その目的は、ここの所の足利通いで、写真を撮れずにいた碑塔の撮影である。従って、目的地の定まっている石仏巡りは楽なもので9時頃には写真撮影に夢中になっていた。と同時に、確認していながらも、銘文確認が済んでいない2基の宝篋印陀羅尼経の書き写しを行う。
午前中に、目的としていた碑塔全ての写真撮影が終了。そこで気分を良くして、足利市荒金町へ入る。目指すは円性寺。来てみれば、そこは無住のお寺さんで、境内の中程に大きな宝篋印塔がある。今日3基目の宝篋印陀羅尼経を書き写す。また、南側の山門には、嬉しいことに享保年間の「十六日念仏塔」と「二十二夜塔」がある。台座に記された銘文一部が読めない悔しさで、ここで該当部分の拓本を取って解決。
暫く振りに快調な調査が進んで、ここまでで33基もの石造物を記録できた嬉しさで、持参したコーヒーを作ってのんびりする。流石の赤城下ろしも、この円性寺さんの一角だけには吹き込んでなく、師走の太陽を浴びながら、ついつい長居をしてしまう。
今日はここまで、として帰路に着くために北上していると、覚本寺の墓地募集の看板がある。その看板に吸い込まれるようにして、寄り道をしてしまう。そしてこれが、何とも嬉しい文字に出会えることになる。それは、境内の中心に聳える宝塔型宝篋印塔で、そこには県内で二例目となる非常に珍しい紀年銘に見る二十八宿の一つ「鬼宿日」という文字に出会ったのである。拓本を欲しかったが、時間の関係と風が強く寒いこともあって断念。いずれにせよ、この文字についての解説は、12月発行の拙著「石仏月報」に載せようと思っている。

※数メール、先週の石仏巡りの中でご紹介した足利市高松町・長昌寺で見た「戊子■吉旦」の中央の■文字について問い合わせがありましたので、その答をここで記しておきます。
それは、■の文字は「春」の古字で「屯+日」を縦に重ねた文字で、さらにそこに草冠を付けたものです。※これ、皆様を試しているのではなく、夜に辞典を見て調べて判った次第で、HPに掲載する時点では本当に私は読めなかったのです。<言い訳に聞こえませんよネ、特に東京在住の○さん!>

今回は、午前中だけで沢山の写真を撮りました。HPの石仏巡り記にはまだ掲載していませんが、おいおい掲載していきたいと思っています。そして来週は、今年最後の岩舟町へ行こうと思っています。その半分以上は、今年お世話になった方や寺院さんを訪ねての挨拶回りとしましょう。従って、新たな石造物巡りはしないつもりです。
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12月最初の石仏巡り

2005年12月03日 | Weblog
日光方面は吹雪!。その雪雲が、宇都宮まで風花となって舞ってきた(家内の話)中を、今日は足利市へ石仏巡りに入る。しかしこことて、赤城下ろしの冷たい風が吹き付けている。今日は、最初の仕事が紀年銘の拓本取り。紙を取り出したが、バタバタと風であおられる。それでも何くそと、石面に貼り付けたが、墨入れする前に凧さんよろしく飛んでいく。諦めて、意味の分からぬ文字部分だけを小さく採拓する事にした。
本当に、先週の那須方面の馬頭さん巡りが今日でなくて良かった!。一週間の違いで、秋と冬の違いである。

その後は、前回19日に巡ったコースの逆回りをして写真を撮る予定だったが、まだ時間的に大丈夫だろうと、足利市大曽根町の道路端へ車を放置して内を歩くことにする。それがいけなかった。途中途中に出てくる碑塔を見つけては記録を取っている内に、時間は瞬く間に過ぎ去って、気が付けば12時近くになっていた。そういえば、道端に放置した車は鍵もかけずにドアの窓も三分の一位は開けたまま。悪戯する人もいないとは思うが、近頃は何とも物騒な世の中。急いで戻ることにするが、少しばかり遠くまで来てしまったようだ。また、その帰り道にも面白い碑塔があるので、写真を撮ったり記録を取ったりとして車に戻ったのは、その後30分も経っていた。
旗川の岸辺で昼食にしようと、やっと車に乗り込んで来てみれば、その車を止めた近くに大きく立派な延宝庚申塔が目に入る。遅い昼食を後にして、早速カメラと調査用紙を持って見に行く。その場所は、民家の庭先のような場所でもあるので、その家の犬君の鳴き声がうるさい。もっとも、突然見知らぬ人物が目と鼻の先に現れて、石を眺めたまま動かないのだから当然と言えば当然である。おかげで、主銘文の頭のところ二箇所が読み切れぬままに諦める。ウ~ン、何とも悔しい!
1時過ぎになってしまった昼食を急いで腹へ詰め込み、今度は百頭町まで移動。浄徳禅寺へ立ち寄って、弘安七年銘の大きな板碑等を見せてもらう。本心は、拓本を取りたいのだが、今日の強風と寒さでは無理である。それにどうせ拓本を取るなら、境内になる4基とも全て取りたいので、これからでは時間的に無理である。住職さんに話しをして、来春また来ますというと笑っている。それでも、境内になる他の石造物は調査してしまう。
次に、近くの道沿いにある無住の地蔵院へ立ち寄る。ここにも沢山の碑塔があるが、既に西に傾きだした陽で、写真撮影は無理である。ここも、午前中勝負といった場所である。
この頃になると、北西の寒風は益々強くなり、「もう、今日は諦めてお帰り!」と言われているようで、今日の石仏巡りはここまでとする。
そしていつになく早く帰宅して、熱々のコーヒーを飲んでから、夕闇の迫る中を散歩に行く。これから、今日出逢った意味不明の読めない文字と格闘する事にしよう。
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