足利市での二基目の宮亀年(石碑には宮亀年の「年」の文字が「秊」を使用している珍しいもの)刻字碑である、今回の石碑は「足利の石造物」に栄町の示現稲荷神社境内に所在すると記されていたので、今から数年前に友人達と一緒に行ったが見つからず、「恐らく東日本大震災で倒れて片付けられてしまったのだろう」と諦めました。しかし、それでも簡単に諦められるほどの石碑ではないことは充分承知していたので、足利市へ行く度に「恐らく、探す場所が違うのだろう」と思っていた。それが、東京の嘉津山氏と先日電話で話していたときに、彼は既にこの碑の拓本を採っているとのこと。他の話を途中にして、大体の場所が判明。そこで早速に今回はこの石碑調査の為に、宇都宮を朝早く出かける。そして「二重阪の切通し」にあるという言葉を頼りに車は足利公園の駐車場に置いて歩いていけば、何のことは無い。簡単に見つけることが出来た。しかも、その脇まで車で行けたのである。(正確な所在住所は、足利市通7丁目3107付近の切通し道沿いです)
早速、碑面を水拭きしてから手拓作業に入るも、上部は継ぎ足し手拓となり、予定よりも大幅な時間オーバーでの採択となった。つくづくと、三脚のありがたさを実感する。撰文は、川田剛だけに、手拓しながら「これを読むには大変だな~」と思う。また揮毫は巌谷修なので、正字を確定するのにも苦労するだろうなと思う。それに加えて、欠損文字やら傷文字があり、それをどうやって文字を確定して埋めるのかも大変だと思う。尤も、その文字遊びが私の好きな時間なので、今週は石碑調査は休んで土・日曜にかけて楽しく過ごそうと思っている。
長年、その所在場所が判らなくて調査出来なかった石碑(足利市発行の石造物調査書に、出鱈目な所在地が記されていたのも大きな原因)を、今回ようやく探し出すことが出来、拓本も採ることが出来ました。それにしても、大体の場所が判れば何のことはない、簡単な所に設置されていました。場所地の状態が判らないので用心しすぎ、車を離れた駐車場に止めて歩いて行ったので、現地に着くもカメラ三脚は無い。脚立は無い、水は多くは持参して無いのないない尽くしだったので、写真もご覧のようにはっきりと写っていない。又、上部を手拓するにしても三脚が無いので背伸びしての水張り、そのために位置がずれてしまい、上部がうまく繋がるか心配でしたが何とかぎりぎりセーフでした。また、場所が切通しの一番高い所にあるので風の通り道となっていて、水張りに苦労したが何とか半切用紙5枚半を使って手拓することが出来ました。尤も、手拓に要した時間は碑面の水洗いを含めてタップリと5時間掛かりましたが‥(笑)。そのために今回は現地に8時に着いたのだが、昼食を採ったのは午後も1時を過ぎてしまいました。
いずれにしても、駐車場へ戻って昼食を取り30分ばかりの休養。その後は、近くの福巖寺さんへ行き、境内にある日清戦争で亡くなった方の石碑調査に伺う。住職さんから快諾を得て、早速に掃除から初めて手拓開始。小ぶりな石碑ながら、全紙でも左右が少しばかり足りない幅なので、相変わらずこれも半切用紙で手拓することにして2枚半。手拓が終われば午後も4時を少し過ぎていた。住職さんと少しばかり雑談をしてから足利市を離れる。そして何と何と! 自宅に着いてからシャワーを浴び、カメラを確認してみれば肝心な写真撮影を忘れてしまったことに気づく。今更悔やんでも始まらないので、どうせ残りの石碑を調査しなければならないので、その時に撮影することにして、夕食後は早速に、銘文の第一回清書を拓本を見ながら碑文用紙に一字ずつ埋めていけば、瞬く間に就寝時間となってしまう。
これを書き込んでいる今日は、朝から畑仕事に精を出す。それは、夏野菜の二度目の苗植えやら作物の管理やらと大汗をかきながら働いて、半日が過ぎてしまった。昨日に続いての重労働で、体力は限界まで達したので昼食後はゆっくりと昼寝して体力回復に努めなければと思っている。嗚呼、疲れました。つくづくと、歳を取ったことを実感です。
実物の石碑を見ただけでは良く判らなかった、碑表に画かれた梅の絵が手拓により綺麗に出てきました。手拓するのは大変でしたが、やはりその甲斐があったと思います。なお、前回に碑陰銘文撰文者の小野弘は小野湖山の息子だろうと書き込みましたが、碑陰清書の折に読みましたらやはり家巖から碑陰を書くようにとありましたので、息子さんであることがはっきりしました。
今週は、足利市の未調査だった庚申塔を20余基調べて来ました。暫くぶりの庚申塔調査でしたが、やはりそれなりに楽しい時間を過ごせましたが、暑さには参りました。そして午後は、近くの里山へ登りましたが、山頂直下周辺にある石造物を調査していて疲れてしまい、目と鼻の先にある山頂までは到達せずに下山してしまいました。里山の登山は、はやり冬場がいいですね。機会があったら再挑戦です。
前回に手拓した、田崎草雲画伯石碑碑陰に刻まれている銘文です。撰文者は、ご覧のように小野正弘となっていますが、多分小野湖山の息子さんではないかと思っています。書は、いつも綺麗な楷書体で揮毫する藤本周三です。彼の揮毫石碑は、足利に沢山あります。また、石工は井亀泉です。人によっては、宮亀年よりも腕前は下のようにいう人もいますが、私はその逆で、結構好きな石工です。ご覧のように、書家の筆遣いの雰囲気が良く出ていると思うのです。
さて、問題はこれからです。この石碑の碑表手拓をどうやって巧く画像化するかで今は頭が一杯です。恐らく完成するまでには一週間位かかるのではないかと思います。巧く出来ましたら、またここへ掲載したいと思っています。期待しないでお待ち下さい。
わざわざ、風が強くて手拓日には不向きな日に訪ねました。事前に、手拓許可を得てこの日に決めていたので意を決して出かけました。それも、高200.0×幅175.0cmの碑表を全面手拓に加えて、碑陰にある銘文も手拓しようという計画なので、それこそ眦を決して出かけました。職員の方に挨拶をしてから早速に両面とも水洗い。見たところではそれほど汚れも目立ちませんでしたが、流石に手拓するためと水洗いすれば結構な汚れでした(写真は、水拭きが終わった段階での撮影です)。本日は、邸内茶室で大きなお茶会があると聞いていたが、多くの紳士淑女が和服などで美しく着飾って、この前を通る。そこで、お茶会が始まるまでは、碑陰に回れば目立たないだろうと考え、まずは碑陰にある銘文から採択開始。半切画仙紙3枚丁度で手拓完了。この時点で昼食として1時間ばかり休憩。
午後1時丁度から、いよいよ碑表の手拓開始としたが、何しろ風が強く吹いているので画仙紙の中でも厚みのある用紙で採択することにするが(仕上がりが悪いので、本当は良い画仙紙で採りたかったが仕方なし)、手持ちの画仙紙長さは135cm。仕方が無いので、下部の何も刻まれていない一部を省略することにして、上部は65cmの長さの画仙紙で継ぎ足しすることにした。また向かって右側の一部は風が強くて画仙紙が独りでは貼れないので、少しだけだが一部画像手拓を断念せざるを得なかった。そして特に水張りに悪戦苦闘し、今度は風があって画仙紙の乾きが早く、加えて墨入れに四苦八苦。そんな状態を見ていた人々からは、拓本を採るのは大変な作業なのですね、と慰められる始末。それでも何とか3時間余り掛かって半切用紙で8枚分の碑表手拓が完成した(しかし、予想した通りに出来が悪い)。碑表の梅の絵は、田崎草雲の門人である小室貞である。そして碑表の題名を揮毫したのは、明治の三詩人の一人と称された小野湖山であり、時に九十六歳とあるから、亡くなる少し前(翌年の4月に歿)のものである。
碑陰には小野正弘撰文とあるから、多分に小野湖山の息子であろう。そして揮毫者は、下野の藤本周三であり、石工は井亀泉であるから、東京で作られてここへ運んできたものである。そうそう、肝心な建立日は明治42年九月とある。いずれにしても、拓本の良し悪しは別にして採れたので、その後の清書と拓本画像化等は当分お預けとなりそうである。
※念のために書き加えておきますと、一般の方の拓本採りは禁止となっています。