石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

1月最後の石仏巡りは…

2006年01月29日 | Weblog
今月最後の、石仏巡り記を掲載しました。但し、ページを分割するのが面倒なばかりに、それでなくても重いページに、さらに掲載してしまいました。
その為、今回のご紹介はそれでも4基に留めました。特選の4基ですので、ぜひご笑覧下さい。
来週から早くも2月、少しばかり焦りますね。訪ねたい場所ばかりあるのに、少しも成果があがりません。今年こそ、昨年と違ってのんびりした石仏巡りをしたいものと思いながらも、一ヶ月が過ぎてみればやはりやっていることは昨年と同じこと。際限のない石仏巡りにどう対応しようかと、この一ヶ月を振り返って思うことばかりです。
そう思いつつ、また2月も同じ繰り返しになるのでしょうね。
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多摩石仏の会様と今年の庚申塔巡り話し

2006年01月25日 | Weblog
先日、「多摩石仏の会」の五島氏からメールが入る。要約は、今年3~4月に日帰りで足利方面の庚申塔巡りを昨年に続いてしたいのだが‥、ということである。東京の、それも西端から日帰りで、足利市まで来るというのだから、その情熱には脱帽すると共に、コリャ~半端な人達でないとその老いて益々の情熱に舌を巻く。
昨日、多摩石仏の会会長の石川氏に電話連絡して、日帰りならいつでもどうぞ!となって、4月22日の土曜日と仮決定する。
それにしても、八王子方面から日帰りで足利市の庚申塔巡りには参った。何がマイッタかというと、足利市だけで二千数百基もある中から、日帰りで見てもらうコース選びにである。仕方がないので、電車で来られる人には訪ねにくい場所である、足利市南部方面を案内することにしよう。延宝庚申塔に、青面金剛像の変わった像容塔に、石川氏ご希望のバンザイ型を組み合わせ、一日で足利市南部方面の代表的な庚申塔を全て見せてあげようと思う。もちろん、その途中には足利市の特徴的な石仏も含まれるが。
昨年秋の庚申塔巡りも、かなりハードな石仏巡りだったが、どうやら今回もそのような量的庚申塔巡りになるのは仕方がないだろう。それでも、いわゆる百庚申塔群は一つも組み入れていないのは心残りである。
昨夜、寝る前の一時をどの位の数の町を巡るのだろうかと指を折ってみたら、優に15町を越えていた。コリャーまずい。一日では回りきれないので、更にコースの絞り込みが必要なようだ。延宝庚申塔の幾つかを省略しよう。と、いずれにせよまだまだ先のこと、東京からの日帰りでは参加者が少なくて計画が実行されないこともあろうと、コース作成はまだ当分放っておき、4月になってからでも遅くはないだろうと思って眠りにつく。
それにしても、恐れ入った情熱である。流石に「多摩石仏の会」である。私には見習う気力もない!。
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島田氏へ、と、今月のHPについて

2006年01月24日 | Weblog
島田氏へ
こちらこそ、今年も宜しくお願い申し上げます。私の方は、山はすっかりご無沙汰です。山男変じて「スソノオノミオト」と決め込んでいましたが、今やそれも格下げとなって里山さえ怪しくなっています。本来なら、この一年で最も寒さの厳しい時期はいそいそと氷壁(当地では、日光の雲竜渓谷が代表的な氷壁です)通いを続けたものですが、その冬山道具はここ何年もオネンネしたままです。
何しろ年でして、厳冬期といえども単独行が好きでしたが、今やその単独行も「一人で冬山へ入るのは危険!」と、家内や友達にも止められている始末です。最も、この頃では夜中に起き出すのも辛く感じますが‥。そんな訳で、一般には石仏調査もこの寒さでは休止するべきなのですが、まだまだ寒さに鈍感な私は早朝から野山や郊外の石仏巡りを続けています。
どうぞ今年も、島田様の楽しい山行とそれに伴う石仏報告を楽しみにしています。

今月のホームページについて
私のHP作成スタンスは、日本のどんな田舎に行っても気軽に見られますよう、アナログ回線の人を対象に作成していますが、どうやら今月号だけはその掟を破ってしまったようです。途中から、今月はページを二つに分割しないと収拾がつかなくなるのではと危惧していましたが、その通りに非常に思いデータになってしまいました。もし、今月もう一回の石仏巡りをしたら、その報告はどうしようと、今から悩んでいます。本当に、アナログ回線の方には申し訳なく思っています。その時は、今のデータ量がアナログで見るには限界だと思いますので、石仏巡りの結果によって二つに分けるつもりでいます。
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1月22日の石仏巡り

2006年01月22日 | Weblog
今日は、足利市の石仏巡りでもこれまでと場所を変えて名草方面へ入る。まずは、名草上町から始めたが、車を置いて山側の小径ばかりを2時間ばかり探索したので、大寒の最中だというのに大汗をかいてしまう。そのお陰で、滅多なことでは見つからない庚申塔などを幾つも見つけることが出来た。
そしてルンルン気分で、その後は廃寺となったお寺さんや無住のお寺さんを訪ねて、以前に調べてある碑塔を再確認する余裕である。
お昼になったので、今日は名草中町の金蔵院で昼食とする。この金蔵院、一年に何度も来ていながら、その境内にある碑塔類を調べたのは今から10年以上も昔のこと。しかもその当時は、今のような環境の良い所にはなかったので銘文を読むのに四苦八苦したことを思い出す。それ以来、来ては眺めるだけで満足していたのだ。そこで今日は、既に今日一日分の成果をあげていることに気を良くして、もう一度全ての碑塔を調査することにする。と言いつつ、始めて見ると時間ばかりが過ぎていく。結局は9割の碑塔調査で諦めてしまう。そしていつも写真を撮りたくても、光線の具合が悪くて撮れていない「録事尊」を眺めるが、今日も一向に光線は良くならない。ついにしびれを切らして、またもや中途半端な写真を撮って金蔵寺を離れる。
その後も、名草下町の細い道を通って幾つかの碑塔類を調査し、やがて菅田町へと入る。菅田町では、共同墓地の庚申塔群へ迷い込んでしまったので、全ては記録できないと端から諦め、数庚塔や紀年銘のある庚申塔などを調べることにする。と、そこへけたたましいサイレンの音。顔を上げれば、東に連なる山から大きな煙が立ち昇っている。山火事の発生である。私のいる場所は高台のため、地元の人々が続々と山火事見物に登ってくる。こうなると、もう石仏調査どころではなくなる。集まった地元の人々と一緒になって、山火事見物である。そんな騒ぎも30分程で納まったので(見物が)、再び碑塔調査に入るが既にその気持ちは無くなっていたので、適当に調べて今日はここまでとする。
帰路は、ついでだからとまだ煙が昇っている山火事を、もう少し近くで見ようと道を選んで路肩に止まり、またしても車の中から見物する。それもこれも、人家が少ない山火事だから暢気に見ていられるのだろう。そんな暇な時間に、今日の調査碑塔記録を数えてみると、いくら再調査の碑塔が含まれているとはいえ、55基もあった。こりゃ~、帰宅してからの今夜の時間は、この清書に全て取られてしまうと苦笑する。
それにしても、今日は暖かだった。これから毎週末毎の石仏巡りが、行く度に暖かくなって楽しくなるというものだ。
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1月15日の石仏巡り

2006年01月15日 | Weblog
朝からのバカ陽気に誘われて、足利南部地区へ着いたのは9時前だった。
今日は、7日・9日の石仏巡りで写真に撮れなかった碑塔を再訪して写真撮影。流石に午前中の早い時間とあって、次から次へと前回には考えられなかったような光線状態で写真が撮れるので嬉しくて仕方がない。そんな撮影が終わってから、これまでに何度も通った地区の落ち穂拾いをすることにする。
それにしても今日は、暑すぎるほどの陽気である。ジャンパーを着込むところか、重ね着してきたセーターをぬきたいような陽気である。そんな陽気の中を、これまでに通ったことのない道ばかりを選んで碑塔探しである。もちろん、地元の方に出会えば必ず聞き込み開始である。そんな成果が実って、今日は素敵な碑塔に沢山で会えることが出来た。
特に、単制石幢六地蔵を今日も1基ながら発見。また、思わぬ所で宝篋印陀羅尼経の刻まれた近世宝篋印塔にも出会えたし、矢場川沿いの一角に、元文・万延・大正・昭和の庚申年に造立した4基の庚申塔が美しく並んでいる光景に遭遇。思わず、その場所でコーヒーを沸かして長休みしてしまう。
その後も、あちこちと適当に巡って碑塔探し。無理矢理細い道に入り込んで往生したのを契機に、それからは神社とお寺さんを中心に巡って、これまた沢山の新しい碑塔を蒐集できた。その数、なんと一日で41基である。普段なら、25基も記録を取れば大満足なのに、今日は少しばかり張り切りすぎたようだ。時間はまだ2時半を過ぎたばかりだが、今日の石仏巡りはこの辺にしよう。と言いつつ、帰路途中で元三大師へ用もないのに、参拝客で混雑しているのを承知で寄り道したりして時間を過ごしてから、陽の高いうちに家に着いた。
次回は、足利市の名草地区へ入って、少なからずサボっている数庚塔探しをすることにしよう。なんて、このバカ陽気がこれからも続くような錯覚に陥っている私である。
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暇なので、手紙等の整理でも…

2006年01月14日 | Weblog
今日14日は、間違いなく雨が降るとのことで毎週土曜日の石仏巡りは休みとする。その暇になった時間を、昨年5月から12月までに戴いた手紙類の整理をすることにした。一通一通を読み返しながら取捨選択し、約60通の手紙を保存用に選ぶ。この作業、私は何年も前から続けていて、「里からの便り」としてファイルし、保管している。以外とこれ、していない方が多いが、何年分ものファイルを見ると、その時々の自分の活動と交友関係が知れて面白いものである。また、それを個人ごとに集めるとその人との交友歴がわかって非常に面白いものになる。
そして昨年も、色々な人との出会いがあった一方で、故人となって別れた方との最後の文通を読み返したりして、人生の移ろいをしみじみと感じている。
この作業も3時間ほどで終了したついでに、今年の年賀状も整理する。こちらの年賀状整理は手紙ファイルよりも古く、何十年と続けているので、長い人だと一人で40通以上もの年賀状がある。その一人の友の年賀状を年代を追って見ていくと非常に面白い。大げさに言えば、その友の生き様が見えてくるのである。一方で、いつの間にか挨拶文も印刷だけで宛名もワープロ打ちという、なおざりな年賀状だけになった人もいる。酷い者になると、いわゆる「後出し」の年賀状も数通ある。
ここで、これは内緒?の話しであるが、数年前から「友達整理」も始めている。いわゆる、年に一度だけの年賀状だけのやり取りになってしまった友は、もはや「友」から知人となって格下げにする。それを今年は一段とハードルを高くし、年賀状の後出しや近況挨拶等も手書きで書いていない、年に一度の年賀状だけの友へは、来年から年賀状往復もしないことにする。これが「友達切り捨て」である。その結果、今年からは新たに10名近くの友が消滅することになる。これでお互いに、無駄な義理出し年賀状がなくなり、ひいては環境保護にもなると、大げさに自分勝手に考えている。

それにしても、こうして外出しないと暇を持て余してしまう。この暇な時間を、1月号の石仏月報用の原稿書きに費やせばよいのだろうが、何となくその気にもなれず、シコシコとこれを打ち込んでいる。そして早くも、それにも飽きた。さて午後は何をして過ごそうかと思う今である。
それにしても今日は、風もなくどんよりした曇り日。この天候が昨日から知っていたなら、北向きで逆光のために写真が良く撮れない碑塔や、拓本取りの必要な碑塔を沢山抱えている足利市へ行って、それらの作業に埋没したかったのに…。残念無念!
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閑話休題

2006年01月12日 | Weblog
今日、これまでのHPの表紙を大幅に替えた。それは手抜きに近いものである。じつはこの頃、自分の石仏情報発信としてのHPに悩みをずう~と抱えている。
それは、私にとっての石仏巡りは、純粋に「趣味」から来ているのが要因である。パチンコ好きな人が、暇とお金さえあればパチンコ店通いを続けるように、私は週に一度、石仏巡りに行くのであって、そこにはなんの区別がないと思っている。パチンコが好きなら、どうやったら沢山コインや玉が出るかに没頭するよう、私は出会った石仏が何なのかを興味だけで知りたく巡っているだけなのである。
そして帰ってきては、それらのその日に出会った素敵な石仏などをHPに掲載したり、数が貯まれば纏めたりしてア・ソ・ン・デ・いる感覚なのである。
そんな私のHPへアクセスしてくれる方が増えるに従って、私の悩みが深まって行く。掲載する画像・内容などに対しては、別に判断基準はなく、まず一般的に見てくれの良い物、そして珍しい物などをその日の気分によって選び、そのコメントも深く勉強もせずに記している。しかし、一般に見る人にとっては、それらの情報がそのままストレートに受け止められているのにこの頃気づいたのである。
改めて、自分のホームページのコンセプト、それが全くないことに気づいたのである。そして石仏に興味があって、この私のHPを覗く方々の多くは、真剣になって石仏と接している方が圧倒的であることを。この、ギャップの大きさに悩んでいる。
本当に、これには困った!。もう一度、自分のHPのコンセプトを持とうと考えてみたが、その答が出てこないのである。それも、しごく当然。私自身が石仏の研究家でもなければ、石仏=命としている訳でもなく、唯の趣味人の石仏巡りだからである。そんな、どのようなHPが良いのか答が出ぬうちに、また石仏巡りに出かけて多くの碑塔を写真に撮ってきてしまった。考えてばかりいても仕方がないので、とりあえず以前のように漫然と今回も掲載してしまった。悩みつつ……。

そんな私の所へ、残った年賀状一通で、東北の方から昭和庚申塔の明細を送ってくれというハガキが舞い込む。全く、虫の良い話しである。自分で欲しい資料があれば、その使用目的も明記せず、ましてや返信用切手も送らずに何ページにも渡る資料を、ハガキ一通で無心する態度にあきれ果ててしまう。挙げ句の果てに、「日本の石仏」最新号に、こうした資料を求めていることを載せている、という有様。石仏を趣味としている者は、「日本石仏協会」に無条件で所属していなければならぬ筈という、思い上がりにも降参である。

もし貴方なら、一度もあったことのない人から、突然来た要求に素直に応えられますか。私は、ダメなんです。了見の狭さかも知れませんが、こういう無礼な輩に応えることが出来ないのです。こんな人達がいるから、私はかつて所属した石仏協会を退会したことが、この人には信じられないのだろうと思います。また、こうして資料を送らなければ、「瀧澤という人はハガキでお願いしたのに送ってくれない失礼なヤツだ」、ということになるのだろうと想像できるが、やはりここは意地でも送らないことにしよう。

今年もやはり、昨年以上に目立たぬようひとり静に石仏巡りをしようと思いつつ、その報告をHPに掲載していたのでは、結果的にそうならぬか、と、また悩みが始まった。そしてこう書くと、またつまらぬコメントが返ってくる羽目になる。
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1月9日の石仏巡り

2006年01月10日 | Weblog
朝から乗り込んだ足利市福富町の遍照寺さん。そこには2基の宝塔型宝篋印塔があった。そしてその2基とも銘文が素晴らしい。特にその中の1基は、当栃木県で私は初見になる「宝篋印陀羅尼経」の出だしからが刻字されているすぐれもの。
このような塔の存在としては、千葉県習志野市の西光寺にあるのを西岡氏からその内容と共に教えていただいていたが、その出だしは「寶篋印陀羅尼經云如是我聞…」からだが、ここにあるのは「一切如來心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼經曰如是我聞…」から始まるので、一枚上である。加えて、習志野市西光寺の紀年銘は文化12年に対し、こちらは明和5年とあるから、出現が47年ほど早い塔となっている。しかし残念なのは、その内容がどこまで続いているかでは、遍照寺の方は三分の一ほど西光寺に比べて短くなっている。まあ、それらは別にしても、これでようやく出だしからの銘文に出会えたと大喜びである。加えて、もう1基の方にはその基壇4面に寶篋印陀羅尼經に基づく願文が記されている。そのたった2基の銘文書き写しだけで、この遍照寺さんには3時間以上もへばりつくことになった。また、山門には文化14年銘の徳本上人の六字名号塔があったり、明和7年の銘の如意輪観音像が乗った台座には、素敵な宝珠模様が浮き彫りされているなど、嬉しさが次から次へとこみ上げてる、宝の山のお寺さんだった。
この遍照寺さんを調べ終えて辞した後は、もうこのまま帰路についても満足という心理状態だった。そんな気持ちで、遅くなった昼食を渡良瀬川の土手へ行ってのんびり食べる。
それにしても今日は、当地方にしては珍しく無風状態で申し分のない天候。赤城山方面も真っ白な山並みを見せている。そんな渡良瀬川の土手で休んでいると、この後は今日の”もうけもの”としての石仏巡りをしたくなって、前々から行きたかった堀込町の薬師さんを訪ねることにして車に乗り込む。そして来てみれば、そこは初詣の人々でひっきりなしに人々が行き交う賑やかなお寺さんだった。
早速、事務所を訪れて訪問の趣旨を述べてから石仏調査に入る。と、その時、突然に携帯電話が鳴る。一体誰からだろうと出ると、「もしも~し、今何処にいるの~」という、佐野市の高橋氏からだった。やはり、悪いことは(といっても、高橋氏と今日の石仏巡りは約束していなかったのだが)出来ないようだ。現在地を言うと、「それなら今からそちらに行く」と言う。新年早々、高橋氏と一緒に石仏巡りが出来るとは、これは今年一年も高橋氏にはお世話になりそうだ!。
そうそう、堀込薬師様(正式な名称は、真言宗豊山派・宝性寺)境内には、今日はもうイイヨ!というような気分の近世宝篋印塔がある。銘文を見ると、いたってありふれた物だけに、簡単に銘文を写すことが出来たのは幸いである。問題は、その隣にある単制石幢六地蔵である。見ると、銘文がかすかに読みとれる。逆さまになって水洗いしていると、そこに高橋氏が到着。新年の挨拶もそこそこに、早速銘文の確認を一緒に行い、元禄8年銘であることが判った。本当に今日は、こんな所で単制石幢六地蔵に出会えるとは!。正に正月から、コリャ~春から縁起がよい、と言った所か。その境内から表に出た所に、天和元年銘の青面金剛塔があるのを高橋氏が教えてくれる。行ってみると、丁度光線が悪くなった直後で、写真にならない。初めからここを見ていれば、良い写真が撮れたのに!、と少なからずガッカリ。
そしてその後は、高橋氏推薦の、龍善寺を訪ねたりして正月石仏巡りらしい行動を一緒に取る。最後は、崇請寺へ立ち寄って、夕日を浴びながら無縁墓地の縁へ腰掛けてよもや話。この寺へは以前に来ていたが、首の欠けた丸彫り立像の背中にある銘文が気になって書き写すことばかりに夢中になって、肝心の写真を取り忘れていたから来たのだが、家に帰って写真を見てみたら、やはり夕焼け写真で気に入らぬ出来である。
そんな、今日はいずれにしても思いがけない高橋氏との新年石仏巡りが出来た次第である。次回の高橋氏との石仏巡りは、岩舟町から藤岡町方面を訪ねたいものと思いつつ、佐野市から293号線への分かれ道まで一緒に行って、今日の石仏巡りを終えて帰路につく。
※7日の石仏巡りの調査原簿も整理していない内に、今日の内容濃い調査で、これから暫くは毎夜楽しく時間が過ごせそうである。そんな訳で新年の石仏巡り案内HPへの掲載は、大幅に遅れそうである。
そうそう、それと「みみだれ地蔵尊堂」で、地蔵尊の持つ錫杖に、五輪塔が刻まれている珍しいのを見てきました。これも、HPに掲載するときは珍しいのでお見せしようと思っています。そんなの、他にもあるのを知っている方がいましたらぜひご教示下さい。
それでは、また!
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今日が石仏巡り初日としました

2006年01月07日 | Weblog
本格的な、今年初めての石仏巡りに足利市の梁田地区へ行って来ました。主にお寺さんを中心に見て歩き、総数で38基の碑塔類を記録できました。皆様の今年の石仏巡り始めは、如何でしたか。
それにしても、今日は今年に入って最高の天候で風もなく、穏やかな日和の中をのんびりと過ごせました。神社境内でのんびり昼食、そして午後の一休みには渡良瀬川の土手で家内が用意してくれた暖かいコーヒーを飲んだりと、正月に相応しい石仏巡りとなりました。そんな一日に何となく嬉しくなって、流石に午後も遅くなってからは足利地方特有の寒風が吹き出しましたが、それも何のそのと3時まで石仏調査をしました。本当は、もう一箇所のお寺さんを訪ねる予定だったのですが、道を間違えて通り過ぎてしまいましたので、そのまま帰宅しました。
9日(月)は、岩舟町の大慈寺さんで「円仁まつり」があり、招待状を戴いているので行かなければ悪いかなと思っています。それと、何と云っても今まで所在が何度探しても判らなかった岩舟町の延宝庚申塔を東京の多田氏に教わったので(地元の私達が探しても判らなかった庚申塔を、なぜ東京の人に教わらなくてはならないのか、少しばかり忸怩たる思いです)、それは大慈寺さんと目と鼻の先にあるので早く見たい思いがあるからです。
でも、まあそれは当日の天候と気分次第に致しましょう。
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明けましておめでとうございます

2006年01月05日 | Weblog
2006年 明けましておめでとうございます
本年も昨年に倍するご愛顧の程お願い申し上げます。

今年の石仏巡り開始日は、今日1月5日です。しかし、冬型気圧配置のために日光方面はものすごく吹雪いている様子が、当宇都宮まで吹き付けてくる雪雲で分かるので、午前中はおとなしくしていました。何しろ曇り空で、北風が強く吹き付けているので、とてもではないが石仏巡りに出かける気力はその北風によって吹き飛ばされていたのだ。
しかし、午後になると薄日が射してきたのを見て、急遽それから出かけることにした。そしてその行き先は、粟野町の庚申名数塔で、一つだけ写真が撮れていないものを訪ねることにする。
何しろ、私にとっては今日までが「お正月」。明日からまた2006年の仕事が始まるので、正月気分での石仏巡り開始は、このたった1基の庚申塔で大満足といった次第である。それにしても今年の冬は寒さが厳しい。銘文をはっきりさせるため、霧吹きを持ち出したのだが、その水がカチンカチンに凍っている。しばらくその霧吹きと格闘して、ようように水が出るようになってから碑面を水洗いし、写真を撮影した。いずれにせよ、これで栃木県粟野町(元旦から隣の鹿沼市に吸収合併となって町名は消滅)の数庚塔は全て写真が出揃ったことになる。暮れと今日で、粟野町の近世宝篋印塔と庚申名数塔は完了したことになり、これで何となく嬉しくなってしまうのだから全く単純思考の私である。そのささやかな達成感を家内と味わおうと、滅多に立ち寄らない「かっぱまんじゅう屋」さんへ遠回りながら立ち寄って、今日の売れ残りに近い数少ない饅頭を買って帰路に着く。
そして本格的な今年の石仏巡りは、あさっての7日から始めたいと思っている。
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