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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

「日光山輪王寺」第77号を希望者に差し上げます

2009年10月30日 | Weblog

 本日、栃木県日光市の輪王寺さんから「日光山輪王寺」第七十七号が、五部送られてきました。ご希望の方に無料でお送りしますので、当ブログではない方の私のHPから入ってメールでご連絡下さい。また、メールをお持ちでない方は、このブログの方へその旨書き込んでください。(確認次第、書き込みは直ちに削除しますので、住所 〒番号 氏名 電話番号明記して下さい)。1部は送り先が決まっていますから残り4部しかありませんので先着順です。
 内容は、日光山輪王寺が発行している年に一度の機関誌ですので、石仏に関する内容は二~三箇所です。それでも、今まで釈迦堂の裏山にあって一般の方には訪ねることが出来なかった「輪王寺愛宕社」が全面的に修復された様子が掲載されています。見所は、やはり明暦三年銘の愛宕地蔵丸彫像と大きな猪の狛犬です。その他、鳥居に興味ある方にとっても良いものがあります。それと、一般の方は立ち入り禁止区域にある、延宝の薬師如像容庚申塔が掲載されています。
※連絡事項→多田さんには後日お送りします。
明日は、栃木県今市地区の碑塔落穂拾いに行ってきます。果たして、新しい碑塔が何基見つかるやらですが、それだけでは悲しいので、ついでに過去に調査した碑塔も再調査しようと思っています。
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2009年10月25日は多摩石仏の会の皆様と一緒に…

2009年10月26日 | Weblog

 昨日10月25日は、今年の春以来の、東京「多摩石仏の会」の皆様と一緒に栃木県佐野市から岩舟町~大平町方面の石仏巡りでした。
 朝10時に、JR両毛線佐野駅集合。全員が集まって直ぐに佐野市犬伏下町の浄土宗大庵寺へ向かう。この地の目的は万治二年銘の六観音像で、准胝観音或いは不空羂索観音像に替えて揚柳観音像を配していることである。その、滅多に見られない六観音の取り合わせに皆さん興味津々と見ていただけた。また、同寺には血盆経に関した如意輪観音像が二基あり、加えて立像の寛文二年銘の如意輪観音像なども見ていただく。その他、興味ある碑塔も沢山あるのだが、今回は時間が限られていることもあって次の岩舟町天台宗大慈寺へ向かう。ここでは、失礼と思いつつも住職に挨拶へお伺いすれば時間が大きくかかってしまうので、顔を見せぬまま融通念佛塔を調査、ついでにその脇に並んでいる延宝四年銘の大きな舟形光背石六体六地蔵を見る。掲載した写真は、その六地蔵を調査している皆さんのスナップ写真です。
 ここの調査終了後、足早に去って岩舟地蔵発祥の地である高勝寺へ向かう。この高勝寺には、板碑等を除いても私が調べた範囲だけで138基余の石仏があるので適当に選別しつつ眺め、主に岩舟高勝寺本尊の写しである石像地蔵丸彫と、南側の石段途中にある舟乗り地蔵像を見て、そこの急で長い石段に腰掛けて思い思いの昼食とする。この三箇寺だけで午前中は瞬く間に過ぎてしまい、高勝寺を出立したのは既に午後の1時を過ぎていた。
 午後の部は、主に大平町の石仏巡りとなるが、その前に高勝寺を降りた裾にある金山神社へ立ち寄り、延宝の青面金剛像に立ち寄る。ここで、皆でその庚申塔の後に並んで本日の記念写真を撮影。
 その後は、過去に延宝の紀年銘を確認するに手こずった三猿塔を案内したり、融通念佛塔や滅多に見られない偈頌塔を訪ねたりと精力的に動き回り、本日の最終地点となる大平町牛久の雷電神社へ到着。晴れていれば、午後の陽に映える庚申塔群の良い写真が撮れるのだが、生憎のドンヨリした曇り空に加え、既に夕刻が迫った時間では望む術もなく、それらの庚申塔を調査終えた段階で、本日の石仏巡りを終了とする。やはり、最初に予定していたコースの半分ほどは未消化に終わってしまった。そして帰りは、JR両毛線栃木駅まで送り、そこで楽しい一日を終え、又の再会を約して別れる。
 本来なら秋の景色を味わいながらの石仏巡り予定だったが、生憎の一日を通しての曇り空だった。まあ、それでも雨が降らなかったのを良しとしよう。それにしても「多摩石仏の会」の皆様との石仏巡りは、毎回毎回楽しい時間を共有出来る。参加されました皆様と、いつも快く皆様のために協力をして下さる高橋久敬様に感謝、感謝の一日であった。
今回の参加者;多摩石仏の会より
犬飼康裕会長・多田治昭・加地 勝・五島公太郎・大窪俊彦・新井淳子各氏に
現地で皆様を車で案内していただいた、佐野市在住の高橋久敬氏に私の計8名でした。
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2009年10月17日も栃木県旧今市市の石仏めぐりでした

2009年10月18日 | Weblog

 今回も、相変わらず栃木県旧今市市の石仏巡りに出かけました。今回は、もうそろそろ夏草も枯れだした頃だろうと、今市市でも北部山間地である瀬尾から高畑、そして小百~大桑まで足を伸ばしました。特に、高畑地区の昔の栗山街道(勿論今は廃道で道らしい形跡が微かに判る程度)端にある碑塔を訪ねるのを主目的としました。そこには、チョットやそっとでは手の出しようもない苔だらけの碑塔が沢山あり、それらを本気になって調査するためにです。時間をかけて、もちろん最初は金属ブラシでこびりついている苔剥がし、それからタワシで磨いて像容と銘文解読作業です。そんな中に、今回のこの碑がありました。馬の半分位まで土中に没していたので、またギックリ腰になるのを恐れながらも本気になって引き抜き、ご覧のような写真が撮れました。
 どう、良いでしょう! もちろんこれは栃木県で初めてお目にかかる、名号塔の下部にある馬さんの浮彫姿です。しかも種子は、聖観音の「サ」となっているのに困惑しましたが、それ以上に「南無阿弥陀佛」の名号塔に馬の姿があるなんて、正に眼福の至りです。紀年銘も安永八亥八月十五日とある優れものでした。今回は、これだけを以て大満足な石仏巡りでした。最後は、大桑町の法蔵寺へ行き、延宝庚申塔二基の精査をしてきました。銘文を、過去に適当に読んでいたものと本気になって読み比べ、数カ所で読み間違いを発見したり、今まで□としていた数文字も今回は読むことが出来ました。そして午後も三時半になったのを潮時と、些か疲れましたが今回は暫くぶりにルンルン気分で帰宅することが出来ました。
 さて、来週は「多摩石仏の会」の皆さんと、栃木県佐野市から岩舟町~大平町の石仏巡りです。今から、晴れることを願っています。
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栃木県市貝町での「塚まるめ」と昭和庚申年塔

2009年10月15日 | Weblog
 
仕事で、栃木県那須烏山市(旧烏山町)へ出かけついでに、それだけでは往復の時間がもったいないと、かねてより実見しなければと思っていた市貝町の昭和五十五年庚申塔を訪ねる事にする。そして遠い寄り道として、その場所があるという市貝町田野辺地区へ向かう。事前に、ただそれだけの情報なので所在地を見つけるまでは大変だと、その地区のお寺さん(曹洞宗・慈眼寺)へ立ち寄る。丁度、住職さんが庭の掃除中で、早速話を切り出せば、「嗚呼、それは私が中心となって建立したものだ」となって、一発で所在地把握。それどころか、宇都宮から来たのでは一緒に行って案内しましょうとなって、住職さんを車に乗せた私の車は庚申塔の前でストップ。確かにそこには、いかにも昭和庚申年塔然とした平石に刻まれた庚申塔が建立されていた。ついでに、隣りに建つ萬延庚申塔も調査したのは言うまでもない。その後、住職さんが、ついでだから内の物知り爺さんを訪ねて、当地の庚申について話を聞こうと言うことになり、地元のお寺さん住職という立場を利用して数軒の農家を訪ねては、お茶をご馳走になりながら色々な昔話を聞くことが出来た。その中で、私にとっては何とも嬉しい話が、「この地域での庚申信仰は、「塚まるめ」と言って、石塔を建てる以上に大きな塚を築くことに意味がある」という話だった。つまり、庚申信仰に於ける「まるめ」についての話が暫くぶりに聞くことが出来たのである。一般に「庚申まるめ」といえば、庚申塔を庚申縁年に庚申塚へ建立する意味に用いられているとしていたが、ここで新たな「塚まるめ」という、庚申石塔を建てるよりも大きな庚申塚そのものを築く意味で使用されていたのである。この、「塚まるめ」という言葉を聞いて何となく理解できたのが、この周辺地域では非常に庚申塔そのものが少ない理由が、ここにあったのである。庚申塔よりも、庚申塚を築くことという事に重きがあったのである。
 もちろん今も、その数は少なくなったといっても、各地で庚申講は続けられていることを聞くことが出来たのも大きな収穫であった。そんな、今も庚申講が続いているにあっても、庚申塚は築かれても庚申塔は滅多なことでは建立しないことも判り、当地では庚申塔を建立すること自体が珍しい事例であると言うこともである。そんなこんなで、結局は午前中たっぷりとこの地で過ごしてしまったが、私としては実に実り多き半日であった。勿論その後は、昼食も取らずに本日の目的である仕事に急いで戻ったのは言うまでもない。
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2009年10月4日も栃木県旧今市市の石仏巡りでした

2009年10月06日 | Weblog

 10月4日も相変わらず栃木県旧今市市の石仏巡りです。今回は、今までのように雑草の生い茂る草むらには入らないようにと、平地の石仏巡りとして日光例幣使街道沿いを中心にして巡りました。そうなると当然ながら、あちこちの墓地荒らし?になってしまい、一日で沢山の個人墓地を含めて訪ね歩きました。しかし、その結果は数は少なくなりましたが、それでも楽しい碑塔達に出会うことが出来ました。また、今回はそんな毎の細い道ばかりを選んで入りましたので、思わぬ所で道路工事の為に移転された庚申塚に出会いました。その景色やら、今までの場所が悪かったのに比べると雲泥の差で、こんなにも環境の良いところへ引っ越してきたとは、と驚いてしまいました。その景色が、ここへ掲載した庚申塔の並ぶ写真です。
 それにしても、いや~あ、秋ですね。ついつい、余りにも素敵な秋晴れに、通りがかりの川の土手に腰掛け、何をするでもなくのんびり過ごしてしまいました。

 そうそう、それと今回またしても、今市民俗資料館の「今市の庚申塔」でも把握していない、新たな昭和五十五年庚申塔に出会いました。それは、まずもって熱心に石仏巡りをしている人でも立ち入らないような、数軒しかないの奥に入ったところ、そこに地図には記されていない小さな稲荷神社があり、そこの鳥居が文政三年銘ということと、それを奉納したのが武士であることが記されていた。これは面白いと調査し、ついでだからと崩れ欠けた石段を登って山の中腹にある本殿へ行く。しかし何も興味を引くものがなく引き返す前に一周すると少し離れた森の中に石塔があり、そこに小さな自然石に刻まれた昭和五十五年銘の庚申塔があった。これだから、ついつい今市市の石仏巡りに没頭してしまうのである。そんな勢いに乗って、多分次回もその今市市のどこかへ行くことになるのだろう。
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