石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2010年10月31日は紅葉真っ盛りの日光市の石仏巡り

2010年10月31日 | Weblog

 先週は、多摩石有志の面々との山々を巡る石仏巡りでしたが、何しろ人数が多かったので楽しい山の中でした。それに比べ、今回は独りでの山の中。しかも先行するのは鹿という有様に加え、今にも雨が降ってきそうな山の中とあれば余り良い気分はしません。しかし、紅葉の真っ只中の山中とあればそんな気分も登るに従いハイ気分となって、先行する鹿さんに追いついてコールのやり取りまでする始末です。そんな山の中で、やがて鹿さんもいなくなり、独断場となったところで写真撮影に夢中になりました。銘文その他は、過去に調査済みなので気軽なものです。その場所とは、昨年の日本石仏協会主催の石仏巡りでも一部の方をご案内した日光市中鉢石町の愛宕山です。撮影を一通り終えた後は、銘文再確認のために手拓開始です。しかし昨夜来の雨とやらで湿気は充分過ぎるほどで、水張りした用紙は一向に乾きません。仕方なく腰をおろしてのんびり秋の景色を味わっていると、気にかけていた雨が本当に降り出しました。これはヤバイと、水分たっぷりの用紙に向かって墨入れ開始。銘文が読めるだけで充分と、その目的を変更して荒っぽい手拓です。その後は本降りとなった雨の中を、車の中に雨具やら傘を置いてきたので、ずぶ濡れになって下山しました。
 さあ困った。まだ時計を見れば10時半。このまま退散するわけには行かないので、日光図書館の吉新館長さんを訪ねることにする。そしていつものように、日光のまだ私が実見していない庚申塔の所在地をご教示願う。特に今回は、その中でも全く未知の二基の庚申塔所在地をご教示賜った。その他、石仏の話をしているうちに昼近くとなり、雨も止んできたので早速教えていただいた大日堂方面へと向かえば、いつの間にやら集まったのか、朝方にはガラガラだった道路は紅葉見物の観光客の車で大渋滞となっている。そこで早くも断念し、またしても薬師堂へ戻って「八斎戒供養塔」の手拓に挑戦、また十王堂の背中銘文も確認のための手拓をすることにした。こちらも、少しも乾かぬ用紙に悪戦苦闘しているうちに、またしても雨が降り出してくる。ここまでなると、流石の私も観念して本日の石仏巡りを断念し、そのままいつになく早い午後4時半の帰宅となってしまった。
次回から早くも11月。スカッと晴れた日に日光へは再挑戦としよう。そうそう、ここへ掲載した写真は、愛宕山に立つ仁王像と馬乗り将軍地蔵が納まっている石宝殿です。
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2010年10月24日は多摩石会有志の方と石仏巡り

2010年10月25日 | Weblog

 今回は年に一度の恒例化となってしまっている感の、多摩石仏の会有志の皆さんとの栃木県石仏巡りです。参加者は、私の車一台での石仏巡りということもあって、犬飼氏・多田氏・加地氏の三名と私の4名です。
 宇都宮駅に9時半に集まり、早速出発。今回は宇都宮市から日光街道へ抜けて、その道沿いにある私の案内なくしては行けない山の中の庚申塔を中心に案内ですが、もちろん車中での雑談の中で見たいものがあれば立ち寄っていくという、いつものパターンの石仏巡りです。それでも、皆さんが喜んでくれたことにホッと安堵した私でした。特に、初公開となる宇都宮市での延宝庚申塔には、多田氏が大喜びしてくれました。お昼は一時近くになってしまいましたが、山の中の庚申塔を見てから田んぼの縁に腰掛けての食事となり、ついついのんびりしてしまいました。午後の部は、加地氏ご希望の家畜塔を見たり、予定外の寄り道をしたりとしつつ旧今市市の小百地区へ入り、またしても本日最も大変な山登りに挑戦!。犬飼氏に大変な体力消耗をかけながらも山頂に到達し、そこでの石仏の素晴らしさに大満足して頂きました。本日の石仏巡りは、この辺で時間切れですが、せっかく近くまで来ているのだからと、法蔵寺の日本で最も大きな庚申塔を夕闇の迫る中で見ていただきました。加地氏のメジャーのおかげで、今回始めて私としてもこの庚申塔の高さを測ることが出来、その高さは本体のみで3メートル31センチであることが確定しました。もちろんついでにお猿さんと日輪のサイズも測ることが出来ました。今回案内する場所としては、一箇所が未消化でしたが、それは次回の機会にとして、早くも暗くなってしまった道をのんびり安全運転で宇都宮駅まで戻り、今回の特別に体力消耗の石仏巡りを終了しました。
上記に掲載しました写真は、宇都宮市石那田地区の庚申塚でのスナップです。灯篭に、大きな桃を持った二猿などが刻まれているものです。
本当にほんとうに、参加されました皆様、いつもの事ながらお疲れになったことと思いますが懲りずにまた来年も御来県下さい。お待ちしております。
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2010年10月16日は栃木県南の石仏巡り

2010年10月17日 | Weblog

 間違いなく、秋晴れとなると聞けばおとなしくしておれず、暫くぶりに栃木県最南端の藤岡町(現・栃木市と合併)へ出かけることにする。何しろこの藤岡町の石造物調査はその半分くらいしか終了していないので、その後の調査をしたくていた所なのである。特に今回は、藤岡町の残っている宝篋印陀羅尼経のある宝篋印塔調査を終了させたくて赤麻寺を第一に訪ねるために出かけた。
 しかし、藤岡町へ入ってしまうとあちこちに未調査となっている箇所が沢山あり、加えて天候は申し分無しとなればとりあえずはそれらの箇所巡りでもしようと中心地へ入る。そしていつものようにあちこちと徘徊。面白い碑塔に今回も出会えて大満足。特に、これまで一度も入ったことのない墓地内で寛文四年銘の地蔵像容庚申塔に出会ったのにはビックリ!。この庚申塔の主輪部出現で、この地域の庚申塔初発塔が一気に書き換えられたことになる。帰宅したら、早速中山さんへ電話しなくては。と思う私であった。
 その後もあちこち巡り歩いて、鰐口にも出会う。もちろん佐野市の高橋氏はトウの昔に調査済みと思いつつも、念のために携帯電話で連絡を入れてみると初めて知ったということである。それでは、帰宅してからメールで送ると言うことにして、それ用の写真やら刻文を引き写す。それにしても天気が良い。昼食は渡良瀬遊水地まで足を伸ばし、暫くぶりに広大な景色が広がる中でのんびりした。
 午後も、相変わらず気の向くままにあちこちの碑塔を調査し、そろそろ今日の終わりの仕事として本来の目的地である赤麻寺へ向かう。境内にある石碑を調査し、奥様に挨拶して境内を案内してもらっていると、そこに突然、高橋氏が出現する。そういえば、お昼の電話で、今日の最後は赤麻寺といっていたのを思い出す。だが、まさか高橋氏が突然にその赤麻寺に現れるとは驚きであった。話を聞けば、一度ここへ来たが私がいないので教えた鰐口調査を終えてまた来ているかと戻ってきたとの事。高橋氏の、熱意が伝わるものである。それなら、もう一箇所の鰐口も見に行こうとなり、二人で東原の大日堂へ行き、早速調査。見た目にはとても古いものには見えないので、私も金文を確認しなかったが、高橋氏が賽銭箱の上に登って読んだところ、それは元禄年間のものであることが分かり、二人して顔を見合わせて驚く。これで、本日の成果は新しい鰐口が二口となり、私は私なりに思わぬ大物に出会って大満足の成果を得られた一日だった。そして午後3時過ぎ、それぞれの成果を胸にして少し早いけれども解散として帰宅する。そうそう、掲載した写真は、東原地区大日堂前に並んでいる碑塔達です。写真では分からぬが、ここにある庚申塔下部の三猿の姿がとってもユニークである。どんなかは、似た人だけの特権としましょう。
※次回は、予定だと24日の日曜日に多摩石仏協会有志四名様との栃木県内石仏巡りです。晴れますよう、今から願っています。
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2010年10月10日は宇都宮市内の石仏巡り

2010年10月11日 | Weblog

 天気予報を信じ、朝からのんびりしていると9時ごろから突然に太陽が出てきて、今日は快晴になりそうである。流石は、十月十日の特異日である。慌てて石仏巡りに出かけようとしたが、何しろ突然のことでしかも既に9時になってしまったからには、そう遠くへは出かかけられないので、宇都宮市内とする。しかし、宇都宮市内といっても広いのでどこに行こうかと車を運転しながら悩み、結局は通い慣れた日光方面へと車を走らせ、気がつけば今市市との境となる徳次郎町へ来ていた。そこで今回は、既に調査済みだった碑塔の再確認として主に山地を選ぶ。何しろ昔は、山の中にある神社の奉納石造物は調査対象外だったため、狛犬や灯篭等その調査も兼ねてのことである。
 だが、イケマセン!。どこへ行っても追い返されてしまいます。それは、この季節特有の下草の繁茂のためです。真夏ならまだ、単に草丈が伸びているだけですがこの季節は、それらに花が咲き今は見事なまでに実となっていました。掲載しました写真はその一例で、神社へ登る階段は全て草に覆われ、その中へ一歩足を踏み込んだだけで全身草の実だらけになります。特にヌスビトハギ、イノコズチ、オナモミは服にズボンに付いたら始末に負えません。そんな訳で、2~3歩中へ入っただけで退散です。そんな繰り返しを何度もしてとうとう午前中は終わりになってしまいました。その流れは後半も続き、地元の方と一緒になって、葛の葉が2メートル以上も繁った中に飛び込んでの碑塔探し。外からは碑の頭さえ見えない状態なので、地元の人さえ「この辺にあったはずだ」と、悪戦苦闘の有様である。そしてとうとう、最後に教えてもらった碑塔のある場所では、スズメバチが飛び回っている中へ入ってしまい、慌てて後退です。夏ならまだしも、この季節のスズメバチ君といったら、その表情まで夏とは変貌しています。これから暫くは、草地の生い茂る場所へは近づけないことを今年も悟り、町中や郊外の田園地帯へ目的地を替えて、この始末。それでも何とか帰宅するまでに27基を調査出来ました。その中には宝篋印塔が1基も含まれているのでまあ、突然の石仏巡りにしては満足することにしました。
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2010年10月2日は日光市の石仏巡りでした

2010年10月04日 | Weblog

 10月最初の石仏巡りは、9月11日以来の日光へ行きました。最初に訪れたのは、ここへ掲載した写真箇所である、その前回最後に訪れた日光市七里地区の碑塔群です。もちろん、ここにある庚申塔と道祖神は前回に調査してあるので、今回はそのどれもが土中に没していたために今回に繰り越した碑塔調査です。そんな訳で、調査第一号は大きな自然石に刻まれた弁財天碑からです。これは問題なかったのですが、次の如意輪観音様が乗っている台座を掘り返すのは些かてこずりました。中に拳大の石が混ざっているために小さな移植スコップではなかなか歯が立ちませんでした。それでも強引に掘り進めて行って、銘文やら紀年銘を解読。続いて、この写真には移っていない後ろにはもっと深く埋もれている家畜塔が4基あり、文字は読めるようになっても今度は写真が撮れない始末にウンザリしました。その後は石屋町へ行き、相変わらず周辺をうろついての碑塔探しでした。その結果、今回はこの石屋町で思わぬ碑塔との巡り会いがあって、一人で舞い上がってしまいました。そのため、竜造寺墓地に連なる崖で、頭を思いっきり岩に打ちつけ、暫くぶりに眼から花火が出ました。もっとも、崖の途中に祀られている石仏を抱えたまま、崖下まで落ちなかっただけでも良しとしなければならない状態でしたが…。その痕は今も、大きなタンコブとなっています。それでも、それに負けぬ長年捜し求めていた碑塔の拾い物をしたのですから、私的には大満足な一日でした。
 その後、相変わらず日光図書館へ行き、吉新館長さんと雑談を交わしながら、今回も2箇所の庚申塔所在地を教えてもらう。その二箇所とも、すぐ近くまでは何度か探しに行っていた場所なので、何の苦労も無く到達。といっても、地元の方でも滅多に入らぬ山深い中にあります。それにしても、日光の庚申塔探しは最後になって強力な助っ人が現れ、何とも嬉しい限りである。これで現時点で漠然ながら知られている日光地区の庚申塔100パーセント実見まで、あと数基と迫りました。もっとも、その間に持ち出したことは分かっているのだが、その先が追跡できぬ庚申塔が約20基ほどある。この難問題をどう解決するかがこれからの大きな課題になるだろう。
 それにしても、日光は東照宮周辺でさえ早くも色づきはじめている。やはり、秋なのである。そんな、帰るには少し早い時間を暫くぶりに山内の開山堂へ行き、稲荷川を含めた周辺の景色を楽しんだ。
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