石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2014年01月28日、二基の石碑清書が終わりましたので別HPに掲載しました

2014年01月28日 | Weblog

今回は、去る1月12日に調査した足利市緑町の足利公園にある「山下雪窗先生」の石碑調査の清書を、いつものように別HPの方へ掲載しました。先生は、館林藩の人で、藩儒の田中泥斎(弘化2年に山形藩主・秋元志朝の館林移封にともなって来た人です)に漢籍を学んだ人で、詩賦を喜びし書を善くした人で、館林藩校の求道館で教授を務めたり維新後は太政官を務めた後に遊歴の旅に出て桐生市に逗留。その後に足利に来た人で、足利に仮住まいして家塾を開き多くの門弟を育てた人です。石碑は碑表に先生自筆の詩を掲載し、碑陰に碑陰記があります。
また追加して、1月12日に調査した(当ブログに掲載済みなので画像は省略)本城3丁目の徳正寺墓域にある「鈴木瀚斎(鈴木千里)」先生の墓誌」も、その清書内容を掲載しました。 ※これで、1月12日迄の石碑巡りで得た物は全て清書が終わりました。残るは、先週25日に栃木市大平山で調査した2基のみとなりました。明日からは、その2基の清書に取り組もうと思っています。

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2014年01月25日は、栃木市の太平山公園にある石碑調査に行きました

2014年01月26日 | Weblog

 天気予報では、今日は春を思わせる暖かい陽気になる言葉を信じ、栃木市の太平山公園・謙信平へ行く。目的は、明治時代に於けるこの地域の漢文はそのほとんどの人が学んだという中村靖翁の「綽軒中島先生遺愛碑」の石碑調査に行くことにした。だが、謙信平まで来てみたが、どんよりした曇り空。それでも、私にとっての嬉しいことは、その代わりに風がないこと。拓本を採るには最高と大喜びして碑のある場所へ向かう。そして来てみれば、その脇に並んで真ん中から見事に折れている上記に掲載した写真のような石碑があった。篆書を見てみると「添野五耕翁碑」とある。しかもその撰文は、彼の森 保定(鴎村)である。「ヨシッ、今日はこの2基を物にしてやろう」と決めて、まずはその2基の水洗いから始めたが、何しろ今まで誰も磨いたことがないとみえ、酷い汚れよう。金属束子と亀の子タワシで、その2基を今までとは見違えるようにしたのは既に10時半を回ってしまった。いずれにせよ、小さい方の目的としてやってきた中島先生翁の石碑から手拓開始。全紙で1枚の大きさなので、何とかお昼少し過ぎには手拓終了。駐車場へ戻って、昼食を取りながら午後の作戦を一人で練る。本来なら、今日の目的のもう一つは太平山神社随身門の脇にある碑のまだ未調査のままで放置していた碑陰の拓本を取ることにあったが、ここへ来ての目的変更。しかも大きい!。篆額までは私が背伸びしてやっと手の届くほどである。また、文辞にしても画仙紙の長さではどううまく調節しても1字分が足りない。加えて、真ん中に大きな空間がある。そんなこんなで、これを手拓するにはかなりの時間を要すと見て、食事が終わるや早速現場に戻り、まずは篆額から手拓開始。飛び上がるようにしての画仙紙張りに苦労して墨入れまでに予定外の時間を費やす。続いて本文の手拓に入ったが、半切画仙紙三枚を使って終えたのは4時になってしまった。それから又、下部の1文字を追加手拓しなければならない。そしてどうにか荷物を纏めることが出来たのは、既に日が暮れ始めた4時45分になっていた。終わった時には、足は棒のようになり、フラフラ。考えてみれば、実働で7時間近く立ちっぱなしで作業したことに加え拓本採りにこれほど夕方遅くまでした記憶がない。それでも昨年から始めて、ようやくその効果が出てきた減量作戦が功を奏し、足腰の痛みが再発しないことに感謝しつつ車に戻ったときは既に暗くなった5時を少し回っていた。
車の燃料が無くなり、警告ランプが点灯しているが、途中でガソリンスタンドへ立ち寄るのも面倒となり、そのまま進行し、何とか家に着くことが出来た。そしてクタクタの身をコタツに入れて夕食を取るも、風呂に入る気力もなくなりそのまま爆睡。朝、目覚めると足腰のどこも痛くなし。それ以上に、体のべたつきが気になり、朝風呂に入って昨日の疲れを流れ落とす。
天気予報に惑わされなければ、本来なら今週はフィールドワークに出かけない筈だった。その分、次回は寒そうだったら躊躇なくどこへも出かけずに今回の碑文清書をしたいと思っている。何しろ、1月12日に調査した足利市の石碑一基の清書がまだ終わっていないので、それまでにはその作業に取り掛からなければならない。

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2014年01月19日は、石仏巡りに出かけず、碑文清書で終わりました

2014年01月19日 | Weblog

 毎日、当地は寒い日が続いています。そんな訳で、今週は石碑調査に行った所で、碑面が冷えすぎていて手拓が出来ないと思い、土日の二日間とも部屋でのデスクワークで過ごしました。
ところで、上記に掲載しました写真は、栃木県黒羽町の黒羽神社に建立されている「三田地山翁碑」です。これは昨年10月12日に訪ねて調査・手拓したものなのですが、その文辞清書が最後まで残っていたものです。それもどうやら終了し、これで以って昨年までに調査し終えた碑の清書が全て完了しました。その内容は、相変わらず別HPの方へ掲載してありますので、興味のあります方はそちらをご覧ください。そしてこれを以って、昨年六月までの栃木県鹿沼市以降の石碑調査は43基となりました。この辺で、一冊に「栃木県の石碑調査2013年版」として纏めようと思ってはいるのですが、今年になって3基の大物を調査したので、その清書に追われる羽目になり今のところは手がつけられずにいます。まあ、その3基の清書が終わった段階で考えようと思っています。何しろ、明日は大寒。益々、石碑の手拓作業は困難な状態が暫く続くと思うので、石仏巡りに出かけられないので、部屋に篭っての清書作業に勤しむことにしましょう。

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2014年01月12日も、結局は足利市へ石碑調査に行きました

2014年01月13日 | Weblog

 車に乗ったものの、どこへ行くかは定かでないまま鹿沼市から293号線を西へと走る。そして思いついたのが、佐野市の富士町にある唐澤山神社。この神社の石碑については12月に掲載したかと思うが、とにかく写真はこの季節の樹木に葉がないときでないと写真はとれない。それ以上に、私にとっては篆額の字体が正しく読み取れていなかった。そこで、浅はかにも田沼町から向かうことにしたが今日は成人のお祝いで唐沢神社への道は混んでいる。「これは困った!」よりによって、初詣に次いでの人込になるには確実。急いで車を逆転してまた元の293号線へと戻る。そして結局は足利市まで来てしまい、「よし、こうなったら長年の懸案であった本城3丁目の「正徳寺」さんにある墓碑を調査しようと決める。その石碑(墓碑)が、ここへ掲載した写真である。庫裏へ伺い、住職さんにお願いすると、ご丁寧に鈴木家墓地まで案内くだされたが、その余りにもの汚れに愕然。手拓を取るには全面的な碑面水洗いが必要である。そこで今回は上部の篆額だけの手拓として諦め、銘文は2時間ばかり碑面と対峙して何とか書き写すことが出来たが、不読箇所が多すぎる。この墓碑のように、貴重なものは今の内に採拓して後世に残さなければと思うが、こればかりはどうにもならない。それにしても、綺麗に水洗いしたならさぞかし見ごたえのある石碑になるだろうと残念さを胸に帰宅する。

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2014年1月9日・栃木県黒羽町の「雪華那須翁碑」(那須 均)の遺徳碑を掲載しました

2014年01月09日 | Weblog

 これは、栃木県黒羽町(現・大田原市)の黒羽神社にあるものです。内容は、別HPの1月に掲載しましたので、興味のある方はご笑覧ください。翁は、江戸末期から明治初めにかけて黒羽町で漢文などを門弟に教えましたが、それ以上に有名なのは黒羽藩の勤皇の志士として大活躍したことです。その功績が認められて維新後は県外(特に東北方面の各地)の要職に付き、その後再び栃木県内に戻って河内郡・安蘇郡・上下都賀郡の郡長を務めました。そして最後は東京にて黒羽藩主だった大関家の後見人として暮らし、西大久保で亡くなりました。その波乱に満ちた翁の一代記です。特に、大関藩の密使として京に上った時、名をそれまでの佐藤均から那須均と変えて行動し、その後はそのまま那須均として活躍した黒羽町の偉人物語です。読むと、少し長文ですが面白い物語です。

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1月4日は、昨日と同じ栃木市太平山神社の石段途中にある「石階築造碑」を清書しましたのを掲載

2014年01月04日 | Weblog

 銘文が短く、しかも易しい文章なので今日一日で手拓画像作成から清書まで一気に終えてしまいましたので、早速に掲載します。
これは、現在の太平山神社へ登るいわゆる「あじさい坂」の途中に置いてある碑(いしぶみ)で、題額は「石階築造碑」となっているが、その内容は現在の石段を築造した経緯を認めたものです。それによると、石段の数は記してありませんが、36段に分けて築造されたことが記されています。
相変わらず、その詳細は別HPの方へ掲載してありますので興味のある方はご笑覧ください。
さて、今年最初の石仏巡りはまだしていないので、明日あたり何処かへ出かけようかと思っています。どこへ行くかは明日の朝に決めようと思っているが、出来ればドライブを兼ねて暫く振りに足利市まで遠出しようかと考えているところです。
いや~あ、それにしてもアッいう間に正月も終わってしまいしましたが、4日間机の前に座り続けて碑文清書で明け暮れました。まだまだ、小さい石碑を含めると沢山あるのですが、それでも大物(特に栃木県黒羽町の石碑)は残すところ2基。それらは、来週から気の向いた時にでも始めようかと思っています。

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2014年最初の投稿ですが、相変わらず石碑で今回は、鈴木宗四郎翁之碑を掲載!

2014年01月03日 | Weblog

元旦早々から清書を始めた今回の石碑は、栃木県栃木市平井町の太平山神社へ登る石段途中にある、見上げる大きな石碑です。拓本を採る等は見た瞬間から完全に諦めです。何しろ碑文を読むだけでも首の痛くなる作業で、上部になると当然ながら手も届かないので汚れていて読めない箇所が(碑文2行目の最上段文字)出てきてしまいました。近くに落ちていた棒を拾ってきて何とかその1文字の汚れを落とそうとしたのだが、どうにも届かず諦めました。最も苦労したのは篆額です。碑文本体の手拓は時々サボりますが、それでも篆額だけは出来る限り手拓するようにしている私なのに、今回はそれ以前の問題で、いや~あ苦労しました。内容は、いつものように別HPの方へ掲載してありますので、興味のある方はそちらをご笑覧ください。それにしても、汚い!。明治時代の当地の功労者、まして現在の太平山神社を今のような姿に作り上げた大恩人なのに、栃木市どころか地元の人や神社関係の人も無視している。せめて年に一度くらいは感謝を込めて碑面の水洗いくらいはしてあげるべきだろうヨと、よそ様の事ながらこの碑を眺めるたびに思うのは私一人なのだろうか。と、今年も正月早々、毒舌を述べてしまった。大いに、反省。反省!である。

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2014年 明けましておめでとうございます

2014年01月01日 | Weblog

新年に相応しい穏やかな元旦を迎えられました。皆様にとりまして、今年も実り多き一年でありますよう!
私にとっては、相変わらず「是、一年一日」といった感じでなんら昨日と変わらぬ新年を迎えました。まあ、これもおめでたいことなのでしょうと、苦笑しつつですが‥。さてその元旦、朝から昨年までの石碑調査で清書の終わっていない原稿をパソコンの前に広げ、早くもその清書にこれから取り掛かるところです。新年早々、一千字に及ぶ原稿を目の前にして、嗚呼これが仕上がるまでには正月が終わってしまう!と、ため息をついています。そんな原稿が、まだまだ他に三編あるのでその意味では正月だからと言ってのんびりしている訳にはいきません。尤も、のんびり何もしないことが出来ない小生にとっては、当然の成り行きでしょうが‥。さりとて正月早々、霧吹きをかければ凍てつく石面を相手に、手拓しに出かけるわけにもいきません。
※上記に掲載した馬さんの土鈴は、佐野市の高橋様から12月に頂戴したものです。それを昨日の午後、散歩へ出かけた際にタツナミソウの群生している野原で撮影しました。ちょっとした、野に遊ぶ馬さんをイメージして‥。

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