2008年4月27日は、春日部市在住の中山氏と一緒の石仏巡りに出かけました。初めの予定では、26日の土曜日だったのですが、天気がわるそ〜、と言うことで翌日に延期しての石仏巡りとなり、いつもの東武日光線新鹿沼駅で8時50分待ち合わせ。
最初に向かったのは、4月12日に確認していた山王権現庚申塔のある鹿沼市草久、塩沢地区の庚申塔です。前回と違って新緑が萌える山中での楽しい石仏調査となりました。その帰り道途中で、「猿多彦大神」表記の珍しい庚申塔を見たり、同じく山はずれにある梵字庚申塔を見ながら、次の場所となる栃木市方面へ向かいました。
が、途中で旧粟野町上永野地区にある、七星の延宝庚申塔を手拓することにして寄り道。昨日の雨の影響で碑面が乾かず、また絶好の天気と山肌に腰掛けての雑談に花が咲き、結局はここで2時間ばかり道草を食うことになりました。中山さんとの二人きりの石仏巡りだから良いものの、まるで野山の景色見物となってしまって、ここに他人が混じっていたら叱られそうな石仏巡り?となりました。それでも、今までは写真を撮ろうにもどうにもならなかった庚申塔の手拓が出来上がり、その出来栄えに二人して大満足です。もちろん、長居したついでにここで昼食となり、又しても石仏雑談に花を咲かせました。
次に向かったのは、ようやく栃木市へ入って最初の吹上町専福寺にある三面六臂馬頭観音立像の庚申塔調査。これは、中山リストに未掲載の寛文五乙巳天十二月八日銘です。この時代の馬頭観音像容庚申塔は少ないだけに、中山さんも大喜びです(多田さんへは中山さんが近く写真などをお送りすることになっています)。
次は、同じ栃木市の薗部町三丁目 公民館西側 六道墓地前にある紀年銘不明の四臂青面金剛像です。「どう見ても、これは延宝前の庚申塔ですよね」と云えば、「いやいや、それどころか明暦万治年間に相当する像容だろう」となって、案内した私としても「してやったり」である。
本日の予定は、これで終了。次は、オマケとして足利市へ行こうかどうしようかと云うと、上三川町延命院にある「如等所行是菩薩道…」偈文のある庚申塔が見たいと言う。もちろん二つ返事で、栃木市からは足利より近いから行こう!、となって向かう。地図も見ず、適当に走ったので途中で一箇所道に迷ったが、思った以上に簡単に延命院へついてしまう。しかし、いつもの場所にあった該当庚申塔がない!。挨拶がてらに庫裡へ行ってみれば、山門を工事中なので駐車場の一角に移動したとのこと。なるほど、行ってみれば今までとは比べようもない素晴らしい(写真を撮るにも銘文を読むにも)場所に、しかも南向きになって置いてある。中山さんは、相変わらず地面にそのまま座って庚申塔と対峙し、銘文解読に入る。しかし、この庚申塔は過去に多田氏が元禄2年と読んだだけの報告しかない程の判読に難しい状態。住職さんに手拓の了解も得てあるので、早速部分的に何度も手拓を繰り返しながら、交名を抜かしては完読することが出来た。これで、この庚申塔の石文を読み切ったのは私達が最初となった。
以上、今回は中山さんとの石仏巡りだけに、数は少ないが中身の濃い内容となりました。帰路も、相変わらず車の中で雑談に熱中して、一箇所の信号無視をしてしまいました。そして午後4時丁度に新栃木駅に到着。次回は、足利を含めた「血盆経」の碑塔を見に行こうと約束して別れる。
※追伸として、五島さん!中山さんから書籍確かに拝受しました。ありがとうございます。取り急ぎ、御礼申し上げます。
最初に向かったのは、4月12日に確認していた山王権現庚申塔のある鹿沼市草久、塩沢地区の庚申塔です。前回と違って新緑が萌える山中での楽しい石仏調査となりました。その帰り道途中で、「猿多彦大神」表記の珍しい庚申塔を見たり、同じく山はずれにある梵字庚申塔を見ながら、次の場所となる栃木市方面へ向かいました。
が、途中で旧粟野町上永野地区にある、七星の延宝庚申塔を手拓することにして寄り道。昨日の雨の影響で碑面が乾かず、また絶好の天気と山肌に腰掛けての雑談に花が咲き、結局はここで2時間ばかり道草を食うことになりました。中山さんとの二人きりの石仏巡りだから良いものの、まるで野山の景色見物となってしまって、ここに他人が混じっていたら叱られそうな石仏巡り?となりました。それでも、今までは写真を撮ろうにもどうにもならなかった庚申塔の手拓が出来上がり、その出来栄えに二人して大満足です。もちろん、長居したついでにここで昼食となり、又しても石仏雑談に花を咲かせました。
次に向かったのは、ようやく栃木市へ入って最初の吹上町専福寺にある三面六臂馬頭観音立像の庚申塔調査。これは、中山リストに未掲載の寛文五乙巳天十二月八日銘です。この時代の馬頭観音像容庚申塔は少ないだけに、中山さんも大喜びです(多田さんへは中山さんが近く写真などをお送りすることになっています)。
次は、同じ栃木市の薗部町三丁目 公民館西側 六道墓地前にある紀年銘不明の四臂青面金剛像です。「どう見ても、これは延宝前の庚申塔ですよね」と云えば、「いやいや、それどころか明暦万治年間に相当する像容だろう」となって、案内した私としても「してやったり」である。
本日の予定は、これで終了。次は、オマケとして足利市へ行こうかどうしようかと云うと、上三川町延命院にある「如等所行是菩薩道…」偈文のある庚申塔が見たいと言う。もちろん二つ返事で、栃木市からは足利より近いから行こう!、となって向かう。地図も見ず、適当に走ったので途中で一箇所道に迷ったが、思った以上に簡単に延命院へついてしまう。しかし、いつもの場所にあった該当庚申塔がない!。挨拶がてらに庫裡へ行ってみれば、山門を工事中なので駐車場の一角に移動したとのこと。なるほど、行ってみれば今までとは比べようもない素晴らしい(写真を撮るにも銘文を読むにも)場所に、しかも南向きになって置いてある。中山さんは、相変わらず地面にそのまま座って庚申塔と対峙し、銘文解読に入る。しかし、この庚申塔は過去に多田氏が元禄2年と読んだだけの報告しかない程の判読に難しい状態。住職さんに手拓の了解も得てあるので、早速部分的に何度も手拓を繰り返しながら、交名を抜かしては完読することが出来た。これで、この庚申塔の石文を読み切ったのは私達が最初となった。
以上、今回は中山さんとの石仏巡りだけに、数は少ないが中身の濃い内容となりました。帰路も、相変わらず車の中で雑談に熱中して、一箇所の信号無視をしてしまいました。そして午後4時丁度に新栃木駅に到着。次回は、足利を含めた「血盆経」の碑塔を見に行こうと約束して別れる。
※追伸として、五島さん!中山さんから書籍確かに拝受しました。ありがとうございます。取り急ぎ、御礼申し上げます。