石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

10月28日の石仏巡り

2006年10月29日 | Weblog
10月28日土曜日は、いつもと違って日光へ行って来ました。だが、日光市内は曇天で期待していた快晴には一日中なりませんでした。
そこで石仏調査に切り替えて、日光市内の宝殿地区にある筋違(スジカイ)橋付近にある庚申塔群を調べることにしました。この場所は、一般の方にはまず所在地が判りません。まして県外の方では、見つけることは絶対に(変な自信有り)無理でしょう。その訳は、ものすごい薮の中(道のない)にあるからです。それでも、東武電車に乗って東武日光駅に到着する寸前に、左側車窓下の、薮の中にあるのを見つけることが出来ます。但し、目が良ければですが…。
そこには、延宝8年塔塔を含めて5基の庚申塔が並んでいます。しかも拝侍型庚申塔です。その中の元禄塔には「清面金剛」と「青面」ではなく「清面」となっている庚申塔が2基あります。この「清面金剛」とある庚申塔は全国的にも珍しい物です。タブン?
この場所で、午前11時半から午後2時まで過ごしました。お昼になって、弁当は車の中につき、また食べるような場所でもないので昼食抜きで頑張りました。

その後、遅くなってしまったお昼とすべく滝尾神社手前の白糸滝へ行き、ついでに日光で最も古い(浄光寺の灯篭を抜いては)庚申塔を見に行きましたが、いつの間にか移動されて、しかも酷い状態で横倒しになっていて、写真を撮る気力もありませんでした。(もっとも、私は既に拓本も写真も持っているので問題ないのだが)。しかし、この庚申塔見たさに県外から来た人には申し訳ないので、「何とかしてくれ!」と、日光ではその適任者と思われる中川住職さんを訪ねましたが、生憎と不在。そんな訳で、もしこれからその庚申塔を見たいと思われている方は、当分諦めてください。兎に角、銘文は読めない、写真は撮れないと言う有様ですので…。

前から気になっていた、七里の日枝神社へも行きました。その本殿前に建立されている一対の庚申灯篭を精査するためです。ここでも、その灯篭の前で約2時間過ごしました。その結果、該当庚申灯篭は2基とも貞享五年二月の紀年銘であることを確認しました。

それら、今回の調査は僅か7基のみという有様でしたが、HPの方へ掲載するつもりでいます。特に、日光市の方々でもその存在さえ忘れられている筋違橋付近にある庚申塔所在地は、地図を付けてご案内するつもりです。東京のT様、くれぐれも見逃さないように!

そして宇都宮へ帰宅すると、今日は暑いくらいだったという、何とも皮肉なことで、やはり足利方面へ行けば良かったかと思う。
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10月21日の石仏巡り記

2006年10月22日 | Weblog
 昨、10月21日は、佐野市在住の高橋氏と岩舟山高勝寺で落ち合い、藤岡町を中心とした周辺の石造物巡りを行ってきました。
 最初に、高勝寺さんで9月末に行った板碑調査の報告書を提出、そしてその折りに高橋氏が預かっていた古文書の整理したものを提出。その古文書の整理は、高橋氏の努力により詳細な目録付きとなっていて、住職さんと共にその仕事ぶりの完璧さに呆れるばかりでした。その古文書の中から、今まで全く不明だった岩舟山の真言宗から天台宗への改宗時期が判明し、同時に岩舟地蔵の開帳に関する重要な事項が判りました。これは、今回のHP上に少しだけ掲載しようと思っています。
さて、高勝寺さんを辞して向かうは、藤岡町の歓喜院跡にある碑塔の、今回で4回目にあたる調査です。碑塔調査を始める前に地元の方から聞き込み調査して、その歓喜院の先祖という方に巡り会えまして、非常に貴重な話しを伺うことが出来ました。これも、この手の調査方法を得手とする高橋氏が記録しました。
 ついでだからと、高橋氏の専門とする金物、つまり歓喜院入口にある火の見櫓へ登って、そこにある半鐘を調査。高橋氏一人が登っただけで揺れている火の見櫓、私はその下でのんびり見学としました。
 今日は、この歓喜院跡にある碑塔調査を完了すべくやって来たのだが、調べるほどに梵字が多数現れて、どうにも収拾つかなくなる。特に、側面に出てくる梵字真言らしき文字には閉口して、半分ヤケクソとなって調査する。たった2基の、それも梵字文字だけを撮影したコマ数は有に60コマを越える有様。何しろ、高橋氏が水洗いする度に新たな梵字が出てくるのだから、その撮影も飛び飛びとなって、これでは前後左右が判らなくなってしまうと苦笑する以外にない。それでも、高橋氏がこの造塔に関わったと思われる僧侶の墓碑をついでに調査してくれたので、今日は大きな収穫が得られた。
 時計は既に12時を過ぎているが、昼食とするにはその食べるものを買い忘れていて食べることが出来ない。こうなると意地で、ここの調査が終わるまで昼抜きとして続行し、結局、谷中村の慰霊塔が有る所でお昼にしたのは1時も既に遠く過ぎていた。
 1時間近くのんびりしてから、いつかは訪ねたいと思っていた、「葭立修提碑」を見に、町の中へ戻ってから見に行く。その碑は私が想像していた以上に大きな碑であった。出来れば拓本を取りたいと思っていたが、下部が埋もれていることと風があることに加え、彫刻としては文字に勢いがなく今回は断念。しかし、資料的価値は大きく、やはり拓本として手元に置いておきたい1基である。
 次に、潮音寺の宝篋印塔調査に向かうが、生憎と住職さん不在で諦め、近くの双体道祖神を見に行く。(これも今回のHPに掲載しましょう)
 この辺で、今日の石造物巡りは終わりを迎えたが、帰路は岩舟町へ戻るので高橋氏が墓地で見つけておいてくれた碑塔調査に向かう。静和駅へのメイン道路沿いから少し南へ入った共同墓地にそれらは並んでいた。もちろん私にとっては未見の碑塔類、喜び勇んで調査と写真撮影が終わると既に3時半を過ぎているので今日はここまでとする。
今回も、またしても高橋氏にはお世話になりっぱなし。深く感謝しつつ「和泉」の信号で二手に分かれて又の再会を願う。高橋さん、お疲れさまとありがとうございました。
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14日の中山氏との石仏巡り記

2006年10月15日 | Weblog
昨日14日は、春日部市在住の中山氏と一緒に、足利市~田沼町~栃木市~壬生町の庚申塔巡りを行いました。
朝8時33分に東武新栃木駅で落ち合い、まずは足利市荒金町の菅原神社にある延宝庚申塔を訪問。しかし、国道50号線を適当な場所で降りた為に道を間違い「おいおい、いつの間にか群馬県に入っているよ」との中山氏が気づいてUターン。改めて地図帳を見れば目的地の遙か西を走っていたことになる。堀込町の薬師様まで戻って、かつて通い続けた道へ入って、その後は無事に菅原神社へ到着。まだ9時半前だというのに、早くも目的の1基目の調査終了。次は、中山氏の要望で宮北町の高庵寺を訪ねて「年中六度守庚申 徹夜禁眠伏悪神…」の享保十九年銘偈文庚申塔を見学。偈文を写し写真を撮っただけではもったいないと、拓本を手早く取る。そしてせっかくここへ来たのだからと、近くの観音寺を訪ねて、紀年銘が無いものの像容から見て間違いなく延宝塔と考えられる青面金剛塔をも見学する。
 今度も、中山氏の希望で樺崎町の馬坂にある百庚申塔群中の「滅三尸罪」とある自然石を訪ねる。中山氏曰「ここは場所がよそ者には判らない!。多田氏もここへは来ていないのではないだろうか?」と、人様のことを気にして写真を撮っている。そして、ここには「一万庚申」という数庚塔もあるよと教えれば、「石川氏に写真を送ってやるか」といってやはり写真を撮っている。こんなのんきな時間を過ごせるのも、この場所の雰囲気のなせることかもしれない。
 中山氏に見せるため、松田町の松山地区にある青面金剛梵字真言塔をの写真を取り出すと、それも見たいという。「そう言うだろうと、始めから今日の行動予定に組み入れていたよ」と、早速山越えで松田町へ入り、該当碑塔の前に立つと、「イヤ~ア、写真以上に立派な石だ」と感心して、嬉しそうに記録を取り写真を撮る。そしてここでも、滅多に他県の人は入り込めない場所だけに「多田氏はこれを見ているのだろうか?」と、場所を一生懸命記録している。

 ここまで来ても、まだ12時前。お昼にするには早すぎると再び山を越えて月谷町へ出て、中山氏には行けそうもない山の中にある庚申塔の場所だけを教えて、田沼町へ入る。そして田沼町下彦間の須花庚申塔群の駐車場で、ようやく昼食とする。
 今日は、予定以上に順調な庚申塔巡りである。この分では、予定外の壬生町の十一面観音堂にある延宝塔まで見られるぞと勢いづいて、昼食後は直ぐ近くの延宝庚申塔を訪問。といっても、ここも私は場所を知っているからすんなり行けたが、普通では見つからない場所にある。そしてこの時点で、足利市と田沼町の中山氏リスト未見庚申塔は全て終了したことになる。今日の予定で残るは、栃木市大久保町の寛文庚申塔。その庚申塔は「這いつくばってでも、ぜひ見たい」という中山氏願望の庚申塔だけに、293号線を通って目的地へ急ぐ。そして手を引いて何とか傾斜を登り、二猿の庚申塔前で大休止。二人してその庚申塔の前に座り込み、山の中の静かな雰囲気を味わう。「ところで中山さん、その猿さんの持っているのは何?」と尋ねれば、「ウ~ム、宝珠でもないし桃にしては大きすぎる!と悩んだ挙げ句、これからシーズンとなるフットボールの球かな?」と答えて二人で大笑いする。ここを見て、栃木市の未見庚申塔も完了となる。

まだまだ、帰宅するには時間があるということで、番外の壬生町国谷の十一面観音堂へ向かう。ここにある庚申塔は過去に中山氏も訪れていたが、それは地中深く樹木の下に埋もれていて、調査できなかった物。それを私が半日がかりで掘り起こし、隣の民家の石垣に立てかけて置いたので、それを再確認の為に訪れることにした。そして現地へ行ってみると、私が立てかけて置いた場所にその庚申塔がない。「アレッ、どこかへいっちゃった」と慌てて探せば、他の碑塔の所に移動されていた。しかし、下部が埋もれている。それを再び持ち上げて全体像を出し、写真などを撮ってから銘文を読み出すも、その碑面は摩耗していてそう簡単には読める代物ではない。そこで銘文内容は、以前に拓本を取って読んでいるので、それを参照することにして、無事に今日一日の庚申塔巡りを終了。
 前回9月23日の栃木県北西部の庚申塔巡りと違って今回は疲れもなく、何となくルンルン気分で出発点の新栃木駅へ戻り、「次回は、日光市筋違橋にある庚申塔と菅沢地区の偈文庚申塔巡りにしよう」と約束して、中山氏と別れて帰路につく。
 今回も、中山氏との漫才掛け合いの珍道中で非常に楽しい一日でした。中山氏の益々のご健勝を願って!。
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今度の14日の石仏巡りは…

2006年10月12日 | Weblog
 あさって、10月14日の土曜日は、足利市から田沼町の庚申塔巡りを行います。同行者は、庚申塔の大先輩で師匠でもある春日部市在住の中山氏です。先月の栃木県北部の庚申塔調査に続いての、中山氏未見の庚申塔を巡ります。
 そこでこれをご覧の皆様で、当日一緒に行きたいという方を2名募集します。集合場所は、東武日光線の「新栃木駅」で、時間は朝の8時30分頃です。私の車で行きますので、希望の方は明日13日の夕方までにメールを下さい。
 今日の朝、中山氏と打ち合わせて突然に決めましたので、ご案内の時間に余裕がありませんでしたが、もし、中山氏が一緒なら行きたい方もいるかと思いましてご案内致します。
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せめてもの、昭和の紀年銘は正しく読んでよ!

2006年10月08日 | Weblog
今日、10月8日は足利市へ行って来ました。しかし、台風並の強風が吹き荒れていて石仏巡りどころではありませんでした。その上、訪ねるお寺さんではどこもかしこも法事の最中で石仏調査を行う雰囲気ではなく、結局のことろ石仏を調べたのは足利市山川町の長林寺境内にある昭和庚申塔だけでした。
 実はその調査には裏話があって、以前に全て調べたのですが帰宅してから念のために「足利の庚申塔」という書籍と対比したところ10基余りに紀年銘の不一致が見つかり、自分の調査したものが読み違えてしまったのかと不安になり、その再確認の為にやって来たのです。ところが、今日再度の確認をしてみるとその全てが私の方が正しいのが再確認されました。100基もの庚申塔の中から、再度該当碑塔を調べての結果ですから、終わってみれば何となく腹が立ちました。
 他人の調べた碑塔記録は信用しない主義の私ですが「足利の庚申塔」と名打って部厚な書籍として発行されただけに、どうしてもそこに書かれていると一応は信頼してしまう私が悪いが、それでも「おいおい、せめてもの昭和年代の紀年銘ぐらい、本気になって読めよ!」と、ひとり憤慨しました。しかも、その中には昭和55年庚申塔さえ1基抜かしている有様に、まったく!の一言です。
 そんなこんなで、今回もHPへ掲載する写真はありません。そして帰宅してメールを開けると、そこには高橋氏から岩舟町の私の見ていない碑塔が写真と共に届いていました。ありがたいことです。次回、この方面へ行くときは実見しようと思っています。
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9月23日の石仏巡り記

2006年10月02日 | Weblog
 遅ればせながら、9月23日に春日部市在住の中山氏と一緒に巡った庚申塔記をHPに掲載しました。画像がたったの3点ですので、今回は文字を多く書き込みました。校正をしていないので、打ち間違いがタブン沢山あるでしょう。
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遅ればせながら…

2006年10月01日 | Weblog
遅ればせながら、只今9月17日に行った、栃木県藤岡町の石仏巡りをHPの方へ掲載いたしました。ご笑覧下さい。
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9月30日の石佛調査記

2006年10月01日 | Weblog
今回は、佐野市在住の高橋氏に又しても感謝!感謝!の石佛調査でした。
昨日30日は、当所の主な目的が曼珠沙華の花咲く田園風景写真撮影と、暫くぶりに足利市へ足を踏み入れることにありました。
 まずは、栃木市柏倉町の琴平神社周辺の田園地帯を訪ねる。予想していたとおり、特に大楽寺周辺が曼珠沙華の群落となっていて、それはもう一言で「見事!」と言うほかない。早朝の1時間ばかりをここで過ごしてから、ようやく次の目的地へと移動するも、その目的地が定まらないまま、取りあえず1年以上もご無沙汰している岩舟町の岩舟山高勝寺さんへ、いささか遠回りをして向かう。

 住職さんの所へご挨拶に伺うと、まだ挨拶もしていないのに顔を見るなり「おお、来るのを待ってました!」と言わんばかりに倉庫を開け、この一年余で新たに境内地から見つかった「板碑」破片を一輪車に一台ほど提供してくれる。これぞまさしく「恐れ入谷の鬼子母神」で、今日は挨拶程度のつもり出来たのだが、そういう訳にはいかなくなってしまった。どうやら今日は、ここから一歩も出られそうもないと覚悟を決めて、まずは水道を借りて水洗いから始める。それにしても、それらの板碑拓本を一人で取るとなるととても今日一日では終わりそうもなく、途方に暮れてしまう。
 そこで、「困ったときの友達頼み」で、佐野市の高橋氏に拓本取りの助けを求める。そんな高橋氏、こちらの魂胆を見透かして拓本道具一式を持参のうえ、お饅頭まで持って来る。

 早速拓本取りを開始しようという時に、住職さんが今度は段ボール一箱を抱えて再登場。何が入っているかと覗けば、そこには古文書が雑然と詰まっている。聞けば、古いふすまを焼却しようとしたら、そのふすまの下貼りにそれらが出てきたとのこと。処分する前に、その意向を聞きたくて私達のために取っておいたらしい。早速に高橋氏と中をかき混ぜて適当なものを拾い読みすれば、なかなかに面白い物がある。特に、長年不明だった(これまで記録が焼失してしまったために誰も分からぬままに過ごしてきた)、当寺岩舟山高勝寺が何時の時代から真言宗から天台宗に改宗したかの謎が解ける文書が見つかる。文書下部が破けていて、全文は読めぬまでも初代から九代までの僧侶の名前がその年と共に記されている。その文書によって、当寺も天海僧正によっての天台宗改宗への流れの中で改修された事が判り、しかも東叡山から派遣されたことも判明する。いずれにせよ、それらの古文書は段ボール箱ごと高橋氏が預かって整理してくれることになる。また、まだ処分せずに残っている古いふすまの処理には、以後高橋氏が立ち会って行うことを住職さんと取り決める。

さて、板碑調査に戻るが、今回は完全品は1基もない。また、三分の二以上は陰刻部分のない板碑破片であることから、今回は拓本を含めて調査はしないことにする。また、今回も拓本は表と裏面も取ることにしたが、準備不足のためにノギスを持ってこなかったので、厚みは測定しないこと、併せて両側面の写真も撮影しないこととする。これなら、何とか今日中に拓本取りが完了するという了見もあってのことである。
 その結果を簡単に述べると、高勝寺さん板碑の最古銘は元徳元年(1329)となっていたが、永仁年間(1293~1298)の物が出てきたこと。また、題目塔として文明年間の年号が見つかるなど、今回調査した12基の中にも面白い物が含まれていた。いずれにせよ、今回もそれらの板碑調査整理には多くの時間がかかるだろう。
さて、来る10月6日の金曜日には、高勝寺さんにある絵巻物を見るために東京から絵巻物専門とする大学教授が来るので、ぜひ来てくださいと住職さんから誘いを受けるが、生憎私には仕事がある。そこで、ここも一番、高橋氏にでばってもらって現場立ち会い人となてもらう。高橋氏なら、必要な項目は写真に撮るは、メモる、はで、後日の参考となる資料を沢山残してくれるので、私としても心強い限りである。そして今日一日の感謝を込めて御礼を述べ、午後3時半過ぎに岩舟山の山を下りてそれぞれ帰路につく。高橋さん、この場を借りて御礼申し上げます。今度は、藤岡町の最後の詰めの調査にご同行下さい。
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