石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2012年6月23日は、心機一転の栃木県鹿沼市の石仏巡りでした

2012年06月25日 | Weblog



 宇都宮市の碑(いしぶみ)調査から開放され、先週はそれを良いことに部屋でのんびりしましたが、今回は以前のような石仏巡りに出かけることとしました。その為に選んだ場所が栃木県鹿沼市で、しかも農山村風景が一面に広がる古峰原街道沿いとしました。もちろんその多くの場所は過去に調査したものが多いのですが、今回はそんなことはどうでもよく、要するにのんびり石仏を眺めたいために訪れたのです。
 さて、そんな中で訪れた日向地区の日向神社。そこにはご覧のような狛犬一対が鎮座していました。何よりもまず目に入ったのは、その首についている「鈴」です。栃木県内の狛犬も随分見てきましたが、その中でこのような「鈴」を付けていいる狛犬には過去に出会ったような気もするのですが、それがはっきりしないのです。そこで今回は、その他の面白い?石仏を差し置いてこれを掲載した次第です。ついでに下日向地区の神社では、年甲斐もなくつい触りたくなるような「良いお尻をした」狛犬にも出会えました。
 それにしても、狛犬に「鈴」が付いていたのでは少しも恐ろしくない狛犬になってしまうのではないかと、一人で笑ってしまいました。

 今回から、以前のように別ホームページの「今月の石仏巡り記」を復活させる予定です。尤も、今週は仕事が少し忙しいので掲載は遅れると思いますが…。
 そうそう、それと過去に調査したつもりのお寺さんへしばらくぶりで行ったところ、その参道に中世の重制石幢六地蔵塔が立っていたのには驚きました。もちろん、精査させていただきましたが、帰宅して家内にそのことを話したところ、それはここから登る地元の山登りの折に立ち寄っただけで、石造は改めて調査に来ようとして参拝しただけで済ませたお寺さんだったことが判明しました。私としたことが、何ということでしょう。本当に石仏巡りの恐ろしさを体験した一日でもありました。また、最後に立ち寄ったお寺さんにしても、帰宅して台帳を見たら2002年の正月に訪れて調査済みが判明。全く、私の記憶も衰えたものだとつくづく感じた次第です。やはり、石仏巡りに出かけるには、事前に下調べと目的地を選んでおくべきだと痛感しつつも、本当にしばらくぶりにのんびり石仏と語らうことが出来た一日でした。

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栃木県岩船町・高勝寺の板碑調査報告書の作成

2012年06月21日 | Weblog


 
 この「栃木県岩舟町 岩舩山高勝寺の板碑調査報告書」は、1995年に二回と1996年に一回の合計三回、佐野市在住の高橋氏という強力な手拓作業助っ人を得てなしえた報告書です。
 内容は、岩舩山高勝寺に保存してある板碑36基を調査したものですが、特徴は栃木県の板碑調査としては初めて表面と裏面を含めて手拓したことです。特に裏面の手拓によって、これまでは等閑にされていた板碑裏面の痕跡(特に調整痕)から板碑製作時の情報が詳しく解明されたことです。
 調査したまま、最終的な報告書を発行せぬままにしていたので、今週は石仏巡りをサボってこの報告書作成に費やしました。これで、肩の荷が降りた思いですが、今回もとりあえずは一冊だけの製本。少なくも5冊は作りたいと思っているのですがなかなかこうした作業は時間がもったいなくて出来ません。これまで、全く関心を持たれなかった岩舩山高勝寺の板碑内容だけに、その資料的価値は高いと思っているのですが、本当に困ったことです。また、土曜~日曜二日間とも悪天候となった時にでも作成しようとは思っているのですが…。

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2012年6月10日は、のんびりした石仏調査でした

2012年06月11日 | Weblog


 
 今回は、土曜日が雨だったので部屋でのんびりし、10日の日曜日に宇都宮市内をはじめとしてあちこちへ出かけました。
 特に、朝一番で訪れたのは宇都宮市若草町の公民館にある、上に掲載した画像の宝篋印塔。銘文等は既に調査済みだが、今回は塔身を手拓にあった。というのも、宝篋印塔を文字で書けば、誰が書いても「宝篋印塔」となるのだが、なぜかここでは「篋」の文字が、画像の右側へ掲載したように「鏡」となっている。これは、栃木県内の数多くの宝篋印塔を見てきた私にしても始めての出会いだった。それだけにこれは、拓本として残しておいた方が良いだろうと、「鏡」の部分だけを手拓したのだが、終わって眺めてみるとその瑞雲の模様も面白くなり、結局は4面とも手拓してしまった。ホントッ、馬鹿なことをして時間つぶしをしたものだと苦笑い。それから用事があって、二荒山神社へ行きそそくさと用事を終わらせ急いで車に乗り込み、同じ宇都宮市でも北部に位置する小林氏宅へ昨年に拓本を取らせていただいたものを差し上げるために訪問。留守だったので、メモを残して残したままだった周辺の石仏調査。新しい石造物を3基ほど調査すれば、もうまもなくお昼。
 今日は、のんびりした石仏めぐりが目的。そこでここまで来たからには田園風景の広がるところで昼食にしたいと、少しばかり足を伸ばして上河内町の鬼怒川縁に行く。のんびり、ラーメンを食べた後もそこで過ごしているうちに「そうだ、どうせ暇ならこの近くの山の中にある石碑を手拓しよう」という気になって、移動。手拓道具一式をザックに入れ、山の中の水神神社への石段を登って目的地に到着。山の中の周囲を木々に囲まれているので風は全くなし。しかしその分、湿度は間違いなく100パーセントで、これは画仙紙を不用意に張ったのでは乾かないと判断し、いつもとは方法を変えて出来る限り水を使わずに画仙紙を貼る。案の定、それでも墨入れが出来るようになるまで時間がかかり、その間は押し寄せてくるやぶ蚊と戦って時間を過ごす。半切で3枚を取って飽きれてきたが、上部にあるのは珍しく篆書体ではなく隷書体。どうせなら、こいつも手拓してしまえとなり、結局この場所を後にしたのは午後も3時半になってからだった。そうそう、それと上河内町で初めて出会った宝篋印塔があり、しかもこの町にしては感心なことに宝暦年間であり、宝篋印陀羅尼経の偈文と共にまじめな願文まで刻まれていた。いや~、宝篋印塔狂いの私としては何とも嬉しい話だが、困ったことには今年はじめにこの地区の宝篋印塔調査記録をまとめてしまったばかり。今更追加は出来ないので、まあ潔くあきらめどこかで追加発行としよう。
 それにしても、宇都宮市の碑(いしぶみ)調査の呪縛からようやく逃れることが出来、その何ともいえない開放感。これからは、のんびり気分の向くままの石仏めぐりが出来そうである。

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2012年6月2日は調査済み石碑の手拓作業だけでした。

2012年06月03日 | Weblog

 先週に見つけて調査した「養蚕記念碑」を、午前中に手拓しに行きました。相変わらずの風ですが、まあこのくらいは許せると何とか終了。そして午後は、宇都宮で唯一の女性を顕彰した「鈴木なべ媼」の碑文を手拓して来ました。拓本取りは、一日で2基くらいが丁度良いようで、先週と違って今回はルンルン気分で帰宅しました。
 そして夜は、相変わらずの蒲生君平碑の手写確認作業。それも何とか全文の校正まで終了させることが出来ました。今度は、その訓読と読み下し文の作成に入りますが、こちらはもう一度その当時の歴史等を勉強しなおす必要があり、またまた当分はその作業に没頭となりそうです。それでも、これまでたくさん発行されている蒲生君平に関する書籍で、私が見た範囲ではその二荒山神社にある碑文の紹介は、どこかしらに間違いがあって、銘文全てが正しく表記されているのは一冊もありませんでした。それら蒲生君平について著書を著した多くの高名な学者さん達の、改めてのいい加減さにひとりで笑っています。しかも間違っているところは、判で押したように同じところというのが面白いです。多分、皆で間違えれば責任を押し付けあえると怖くないのでしょうね。またどこかに、その種本となったいい加減な碑文内容の書付があるのでしょうね。それにしても、おかしな話ですね。学者さん達の裏話を知っている私としては、それだからこそ私のような一趣味人がそれを正す必要があると考えているのです。これって、責任感の違いだと思っています。
 それにしても、もうこれで宇都宮市の碑文手拓は終わりにしようと思いつつ毎回拓本取りをしているのですが、それが終わると又、今度はこれも欲しくなったと過去の調査済み石碑の写真を見ながら考えてしまう、本当によくの深い自分だと思っています。困ったものです。そんな訳で、多分次回もどこかの調査済み石碑の前に立っているのでしょうね。

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