石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2007年9月29日も日光の庚申塔巡り

2007年09月30日 | Weblog
 朝起きると、当地宇都宮は雨が降っている。予定では日光へ庚申塔巡りに行く予定だったが行くべきか一瞬迷う。早速天気予報を見ると、今日より明日の方が雨の確率は少ないので、余計に迷う。しかしそれはそれ、現地へ行って雨が降っていたら酷い苔に覆われている庚申塔磨きに予定を変更すれば良いし、何よりも晴れているときは逆光の光線で写真が撮れない庚申塔を、こんな時にこそ撮影チャンスと捉えて雨の中を車に乗り込む。
 そんな雨も、宇都宮と今市市の境当たりまで来れば止み、曇り空となっている。ヨシッ、こうなればしめたもの。今日は、いつもなら写真に撮れない庚申塔を中心に巡ることとして、ルンルン気分で日光へ向かう。その最初に向かうのは匠町の憾満ケ淵入口駐車場南側にある庚申塔としたが、その前に先週訪れて気が進まずに手を抜いた安川町磐裂神社へ行き、安永八年銘の自然石庚申塔に刻まれている「或有起石廟 乃至童子戯 聚沙…」の偈頌を手拓する。ついでに面倒がらず、裏面にある10名の交名も手書きする。また、写真を撮らなかった碑塔も全て処理してから憾満ケ淵入口の駐車場へと向かう。
 駐車場南側にある庚申塔で、ただ1基だけ磨いていないなかった四角柱の拝侍二猿型庚申塔を早速磨く。特に下部にいる拝侍二猿の足のところにも何か文字があるので、そいつも読みたい一心で。同様に両側面にある交名は手拓しないと読めないので、その両側面の手拓ついでに、メインの正面も手拓することにした。この様子はHPの方へ掲載しましょう。ところで今日は、温度も低く太陽も出ていないので、水貼りした画仙紙は一向に墨入れ可能状態にならない。仕方なく、この地にある庚申塔を眺めたりして、「まあ焦ることもないか」と、のんびり構えて待つことにする。そんなこんなで、この地を離れたのは10時半を過ぎていた。
 次は、細尾町の庚申塔である。この地の庚申塔4基とも、全て北向きに祀られているので晴れていてはまず写真に撮れない状態にある。その中の2基の拝侍二猿姿、苔に覆われていたので取り除いてから撮影し、ついでに精査を行う。そして終えてみれば、お昼も過ぎていたのでこの地で昼食を取り、秋の始まった日光の落ち着いた景色を眺めてのんびりする。この時点で、今日の成果はまだ9基のみだが何となくこのまま帰宅しても良いような気分になってしまう。そして思い出したのは、イロハ坂登り口の馬返駐車場内にある庚申塔。これも北向きに祀られているので、普段では写真が旨く撮れない。今日のついでに、これも撮影しておこうとして午後の部へ進む。その帰りに、今年7月に写真撮影を忘れた清滝一丁目の道路沿いにある享保12年銘庚申塔を撮影。
 さて次はどこへ行こうかと悩みつつ車を走らせ、思いついたように花石神社へ到着。明日の花石神社祭礼準備で多くの人が集まっている中、まだ再確認の済んでいない庚申塔を手早く済ませて町中へ戻り、先週に途中まで掃除した下鉢石町の薬師堂へ向かう。その中の1基、薬師堂本堂右側下に祀られている三猿付きの庚申塔、予想以上に綺麗になっているのは良いのだが、碑面摩耗が進みすぎて石文が見た目では読めない。駐車場へ戻って手拓しようかと思ったが、どうせその庚申塔は江戸中期のものと決めてかかっているので面倒になり、目を皿のようにして判読し、何とか主銘文の一部と紀年銘の一部を読む。その他、残りの3基は問題なく処理する。もっとも、その中の1基は下部が埋没しているのを理由にして交名などは読むのを省略してしまったが…。
 この時点で、午後も3時を過ぎた。曇り空とはいえ、周囲の山々には雲がかかっていて何となく薄暗い。予定では、稲荷町の稲荷神社のまだ精査が終えてない庚申塔も訪ねたかったが、今日はもう充分としてここで帰宅することにした。
 そしてこれをタイピングしている今(9月30日)は、やはり昨日に行っていて正解だったと胸をなで下ろしている。
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2007年9月22日も日光の石仏巡り

2007年09月24日 | Weblog
 天気予報では、今年最後の暑さとなるとのことなので、避暑も兼ねて相変わらず日光へ向かう。何しろ日光の石仏は1990年代迄にに調べた物がほとんどのため、昨年から改めて再調査を始めたので、まだまだ行かなければならないところが沢山ある。それでも幸いに、日光の碑塔所在地は、そのほとんどを過去に行っているので所在地探しに悩まないで良いことである。
 さてそんな今日は、最初に松原町の松原公民館へ行く。ここへは今年の8月15日に、佐野市の高橋久敬氏と待ち合わせをしたところだが、そこにある碑塔のほとんどはまだ再調査していなかったからだ。また、公民館の裏から登る天王山へもついでに行き、庚申塔3基(内2基は拝侍二猿型庚申塔)をも精査する。特に、天王山での調査は涼しい風があって快適で、ついつい休みすぎて終わってみれば既に10時半を過ぎていた。
 次いで、安川町の磐裂神社へ向かう。ここへは今夏に訪ねたばかりだが、その時は2基の庚申塔を精査しただけで終わっていたので、今日はこの境内にある全碑塔の再調査である。といいつつ、逆光で写真が撮れない物や碑塔掃除が嫌になって(沢山の碑塔掃除に途中で飽きてしまって)、数基を再調査せず仕舞いとなってしまう。特に安永八年銘庚申塔にある「或有起石廟…」で始まる偈頌の手拓するのが目的だったが、碑塔磨きに飽きて次回へと繰り越してしまう。ここも、涼風が気持ちよく流石は日光だけあって涼しく過ごせて長居をし過ぎ、午後1時頃に境内で昼飯とする。そんなこんなで、この磐裂神社を離れたのが午後1時半過ぎ。今日の予定では、この後はまだ見つからない浄光寺にあって良い筈の残り1基の庚申塔探しと、憾満ケ淵の未調査庚申塔を訪ねる予定だったが、大幅に時間が過ぎているので省略し、本町の八幡神社へ向かう。
 この八幡神社へ車を置いて、今回はここから歩いて寂光の滝への道を進む。その寂光の滝への道途中にある庚申塔を、ほんとうに暫くぶりに訪ねる為である。それらの庚申塔は、まず県外の方には場所が判らないところにある物。まずは、名前だけ?の小さな祠が祀ってある八坂神社境内にて2基の自然石庚申塔を調査する。この地にある、あと2基の大きな自然石巳待塔(種子表記)も調査するつもりだったが、これも碑塔掃除が大変なのでついつい「こんな好い加減な石仏調査ではいけないんだよナ〜」と独り言をつぶやきつつパスしてしまう。
 そして今日のメイン調査地である、ここも小さな祠のある県外の人では判りにくい大輪社へ行き、碑塔掃除用の大きな水の入ったザックを降ろす。今日は、ここにある4基の拝侍二猿型庚申塔の精査が目的だった。時間を見計らって来ただけに、写真を撮るには最高の条件である。4基とも、まずは綺麗に碑塔磨きをしてから、全体像はもちろん各部分毎の写真も撮影する。宝永6年・7年塔と享保3年・14年塔があり、主銘文の出だしも「奉信礼」「奉修」「奉敬礼」と申し分のない物。しかも4基のうち3基は拝侍二猿姿が上部に位置している。だが惜しむらくはその全てに蓮華がなかったが、それでも拝侍二猿型庚申塔としてはその二猿の姿が良く、大満足。ヤブ蚊に喰われながら、ここを終えて車まで戻ったところで、既に時計は3時を過ぎている。
 今日の予定では、さらにここから清滝そして細尾町へと巡る予定だったが完全にタイムオーバー。空の雲行きもおかしくなってきたので日光中心地へと戻り、まだ調査の終えていない下鉢石町の薬師堂へ行く。というのも、もう少しで雨が降り出しそうなので、もし上手い具合に雨が降り出したら、その雨を利用してまだ碑塔磨きの終わっていない物を一気に済ませてしまおうという魂胆である。そして境内に来て、まずは一休みと先週に中山正義氏と一緒に来て時間を過ごした所へ腰掛ければ、そこに見慣れた拓本墨の入れ物が置いてある。それは間違いなく私の物、しかも上物の油墨の方である。どうやら先週、馬鹿話に夢中になって置き忘れた物である。「マッタクッ!」と、自分の間抜けぶりに呆れながらザックにしまい込む。雨が降り出しそうで一向に降らぬので、仕方なしに市役所で汲んできた水で、本当にどうしようもない庚申塔の苔剥がしやら碑塔磨きをしていると突然の大粒雨が落ちてくる。シメシメ、この調子でもっと降ってこいと願ったが、それはほんの通り雨であった。たった2基の庚申塔磨きで、手持ちの水を使い果たしてしまったので「今日はここまで!」として切り上げ、帰宅する。
 そして帰宅し、記録用紙を整理してみれば写真のないものや採寸を忘れた物などが数基出てくる。まったく、石仏巡りと言いながら半分は里の暑さから逃れて来たような、好い加減な石仏調査の気の緩みに自分ながら苦笑する。
※今回の写真等のHP掲載は、少し時間を頂きます。恐らく木曜日頃まで!
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訃報! 金子弘様が逝去されました。

2007年09月23日 | Weblog
 昨日9月22日の夕方、金子弘様(日本石仏協会顧問)のご令嬢から電話がありまして、今夏8月からの入院治病の甲斐もなく逝去されましたとの訃報を頂きましたのでご連絡申し上げます。享年87歳でした。個人的に何かとご指導ご鞭撻頂いていました、それは正に、実の父親のような金子様のご逝去の報に接して言葉のない私です。私が発行している「石佛月報」にしても、その最初は金子様にご指導を仰ぎたくて始めたのがそもそもの出発点でした。その第一号は1995年6月とありますから、石佛月報を通しての思いでだけでも数え切れないほどありますし、その間のやり取りしましたお手紙類は山ほどあり、全て「金子様通信便り」として保存していますので、折を見てもう一度読み返し、金子様との思い出を反芻してみたいと思っています。
 金子様のご冥福を祈りつつ、ここに簡単ではありますが御報告いたします。
                       平成19年9月23日  瀧澤龍雄
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旧日光市の江戸前期庚申塔DB掲載について

2007年09月17日 | Weblog
本日、当HPの「栃木県の碑塔」へ、旧日光市にある江戸前期迄庚申塔のデータベースを掲載いたしました。興味のある方は御笑覧下さい。なお、誠に勝手ながら印刷等は許可しませんこと、ご了承下さい。また、煩わしいのが嫌いなたちですので、それらについての質問などもご遠慮下さい。
※現時点で、これ以上の正確・詳細な当該データはないものと自負していますが、誤りや他に抜けている庚申塔所在をご存じの方からのご叱責は喜んでお受けいたします。 瀧澤龍雄
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2007年9月15日は中山氏との庚申塔調査!

2007年09月16日 | Weblog
 2007年9月15日の石仏巡りは、春日部市在住の中山氏と一緒に栃木県鹿沼市から日光市までの、中山氏未見の寛文塔2基と延宝塔3基を案内かたがた、楽しい一日を過ごしてきました。例のように、東武日光線・新鹿沼駅で8時50分に落ち合ってから、最初の鹿沼市上久我寺畑地区にある地蔵堂へ直行。近くの農家宅へ挨拶してから早速に拝侍二猿型の角柱庚申塔の調査開始。紀年銘は先月8月に手拓して完璧に読んでいるので問題ないが、主銘文は相変わらず摩耗が激しく読めないので簡単に諦めたが、その上に刻まれている梵字に不明なところがあったので、今回も手拓をして一緒に読むことにする。しかし、何としても頭置き字の最初が相変わらず読めない。「□・バン・ウン・タラーク・アク」。ウ〜ム、「タラークの次にはキリークがあって当然なのだが…」と、二人して首を傾げるも、手拓して出てこないのだから仕方がない。それでは頭にある不読種子が「キリーク」かと何度も見直すが、どう見てもキリークの形には見えない。そしてついに、これ以上のこの庚申塔調査を断念する。
 前回の私と同じく、中山氏もそばにある「虫地蔵尊」という文字に注目して、「これは珍しい」記録を取ったり写真を撮ったりしている。ご挨拶に伺ったご主人も見えられたので、「虫地蔵とは、子供の疳の虫かそれとも石裂神社の信仰の一つである害虫の虫送りのどちらかと尋ねれば「子供の方」と答えてくれる。そして地蔵堂の扉を開けてその本尊様を見せていただいて、私としてはビックリ。虫地蔵尊というのに、その本尊様は木像の如意輪観音様だった。しかし、中央には立派な厨子に納まっている石造地蔵様がある。思うに、いつの間にか本尊様が地蔵から如意輪様にと、言い伝えが変わってしまったのだろう。
 次に向かったのは、鹿沼市街地の上材木町・厳島神社にある拝侍型二猿庚申塔。下部が土中に埋まっているので、銘文を読むには腹這いにならなければいけない。前回の、この庚申塔調査は延宝までは読んでいたがそれ以上の紀年銘が読めないので、今日は中山氏と一緒に再挑戦である。面倒だがここでも再び手拓し、それを地面に腹這いになった中山氏が読むことになる。二人でああでもない、こうでもない、と地面に臥して眺めているのを隣のご主人が見て笑っている。結局、紀年銘は「延宝」としながらもその後が判らず、取りあえずは断念して次の目的地である日光市下鉢石町の薬師堂へ向かう。
 薬師堂へ着いたのが、丁度12時なので石段に腰掛けての昼食と雑談時間とする。二人の漫談掛け合いは昼食時間から始まって延々と2時過ぎまで続いてしまう。他人様が見たら、石仏巡りと言いながら何と無駄な時間を過ごしているのだろうと、大笑いしたのを機に、ようやく腰を上げて庚申塔を見ることになる。最初は、寛文八年銘の「奉供養時三年」とあるものから。その碑面には、「庚申」の文字も「二猿」の姿もないが、そこに添えられている偈頌「分布諸舎利」「而起無量塔」から、また種子「バーン」等も考慮して「これは一座塔」と二人の意見が一致して庚申塔にする。次に、寛文三年の拝侍二猿型庚申塔の精査を行う。これも今回で三度目となる手拓を行いつつ、二人で真剣に文字を読むが、紀年銘の干支が出てこない。また月日の文字は判るものの、肝心な数字が判らない。仕方なく、主銘文が読めて、紀年銘の年号がはっきり読めるので「良し」として終了する。さらに中山氏は、この薬師堂で承應三年銘の手洗鉢があったと、目的外の収穫に喜んだ。
 残るは、稲荷町にある延宝八年塔の再確認だけである。そこに穿たれている種子が「アーンク」なのか「バーンク」なのかを二人の目で確定するためである。そしてその倒壊しているその庚申塔を目に前にして、中山氏は「これは初めて見た」という。また、その庚申塔の余りにも酷い状態に愕然としている。何しろその庚申塔は、意図的に種子と主銘文が削り取られているので、そのままではそれが延宝八年の紀年銘を持つ庚申塔とは気づかぬ代物なのである。以前に私が手拓した物を中山氏には見せていたが、その現物に接して驚きながらも、文字が全く判らないので車から霧吹きを持ってきて文字を浮かび上がらせながら、二人で判読。そしてこれも、二人の意見が一致して本日の石仏巡りは終了となり、虚空蔵を3時半頃に離れる。当然その後も新鹿沼駅までの約1時間の道のりは、車中で掛け合い漫談を繰り返しながら戻り、さらに足らぬと中山氏が乗る電車までには時間があるのを口実に、その待ち時間をまたしても冷房のない車の中で馬鹿話しに花を咲かせている私達だった。
 いずれにせよ今回で、栃木県の江戸前期までの庚申塔は完全に終了。「完全」という言葉は石仏調査では滅多に使えないのだが、現時点では、「もしかしたら…」という他に思いつく庚申塔が私には全てなくなってしまったのだから仕方がない。これから先、江戸前期迄の庚申塔が出てくるとするなら、それは全くの偶然性と未知の山の中で出会う以外にないと思っているからである。
※帰宅してから寝るまでの間、鹿沼市上材木町の庚申塔の今日の手拓とその前に取った拓本を並べて解読作業に没頭。その結果、何とか「延宝六戊午天□月□日」と判読出来たので、今日の朝一番で中山氏に電話し、昨日の御礼と併せて御報告。

以上、今回の石仏巡りは以上のような次第で特別にご紹介する画像はありませんので、次回までお楽しみに…。
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9月8日は栃木県旧今市市の庚申塔巡りです。

2007年09月09日 | Weblog
2007年9月8日(土)の石仏巡り

昨日9月8日は、一日中栃木県今市市の庚申塔を見て歩きましたが、今年の石仏巡りで最も疲れた石仏巡りでした。
 お昼近くには、完全に脱水症状を起こしてしまい、今日こそ庚申塔に手を延ばしたまま倒れてしまうのではないかと、本気で思いました。というのも、最初の庚申塔探しがイケマセンでした。山の中のどこかにあることだけは判っていても、そのどこだかが全く判らず、蒸し暑い雑木林の中をヤブ蚊とアブと蜘蛛の巣と戦いながら1時間半もかけずり回ってしまったからです。見つけてしまえば、「何だ!こんな所にあったのか」なのですが、たった1基の庚申塔(しかも元禄年間)のために今日の体力を全て使い果たしてしまった感がなきにしもあらずだったのです。記録と写真を取り終えた時には、既に10時半近くになってしまいました。それでも、成果としてはこれまた山の中にある別の「庚申塚」を偶然に知ったことです。共に、住所(もっともその住所は書きようもないのですが)だけでは絶対に見つからない場所の庚申塚を、半日で二箇所も探し当てたと思えば良いのでしょうが…。
 この時点では、それでもまだ次へ向かう気力があった。しかし、その場所も所在地は大雑把で、「古大谷川の川際」にあるというだけ。仕方なく、炎天下の中を帽子も被らずカメラ三脚等を担いで川岸を歩いて探すことにしたが、台風明けの水かさの増した、しかも夏草の生い茂った川岸を長靴を履いて歩いたが、どこにも見つけられなかった。ここでの、無駄な動きも知らずに疲れを倍加させてしまった。それでも途中で出会った地元の方に尋ねたところ、「あるかどうかは知らないが、向こうの方の川の縁に庚申塚があるという話しを聞いたことがある」と教えてくれた。
 それだ!。今度こそと車に乗って、少しばかり移動してから共同墓地に車を止める。そして再びカメラ三脚や掃除道具一式を抱えて民家の庭先を借りて川を超え、また再び川岸を歩いて、ようやく発見。しかしその庚申塔は、今日の最初の庚申塔と同じく写真を撮っても上手く写らないし、そもそも石文解読にも手こずる相手なのである。肌を射るような日射しの中で、碑塔磨きをしながら石文を解読していると目眩を感じるようになってきた。それはもう完全に日射病になる一歩手前の症状である。シャツは言うに及ばずズボンまで汗でびしょ濡れ、長靴を履いている足はグショグショの状態。生憎と水は車の中に置いてきたので、どうせ旨く撮れないと判っている写真を適当に撮り、急いで車に戻る。
 時計を見れば、早くも12時近い。どこか、木陰のある川岸へ行って休息を取ろうと今市市小百地区へと向かう。だが、その途中にはこれまで何度もその前を通りながらも記録どころか写真1枚さえ撮っていない「拝侍二猿」庚申塔があるのを思い出して、ついつい寄り道してしまった。何しろ今日の目的が、今市市のまだ実見していない「拝侍二猿型」庚申塔の実見にあったのだから…。
 そして来て、紀年銘やら主銘文を相変わらず水洗いを繰り返しながら読んでみれば、あの「今市の庚申塔」に掲載されている内容と異なっている。特に紀年銘は、実際は元禄五年を元禄九年と干支と共に読み間違えている。そんなこんなで、ここでも時間を使ってしまい、休息場所として来た滑川に着いたときは12時半になっていた。いつもは清流の流れている滑川も、今回の台風の影響で濁っているがまずは手足を洗い、顔を拭いてから木陰に敷物を敷いて寝ころぶ。身体は完全にオーバーヒートしているのが自分でも判り、とにかく身体を冷やそうとその後は食事どころではなくなって涼風と冷気を求めて四苦八苦する。
 今日は馬鹿なことに(馬鹿なことをしでかすのは毎度のことなのだが)、拓本を取るときにいつものような油墨でなく、今日は乾きが早いからと墨汁を使用しようとしてズボンにその墨汁を思いっきりこぼしてしまう。このまま家に帰ったら、必ずカアチャンに叱られると覚悟したが、この際だからズボンを抜いて少し水洗いしてみることにする。川に浸してこすってみたら、意外にも結構落ちる。こりゃ〜調子よいと裸足で川に浸りながら選択していると何とも涼しくて気持ちよい。よし、こうなりゃステテコまで真っ黒に染みた墨汁を少しでも落とそうとパンツ一丁になって川での洗濯となる。当然、上着を着けてパンツ一枚という格好はおかしいので、上半身は裸になってまるで水遊びである。そして川原の石の上に広げて干し、乾くまでの間に昼食とする。当然ながら、暑いときこそ熱い食事を取ろうとラーメンにする。そんな、川に入っての洗濯が良かったのか、先ほどまでカッカッと火照っていた体は何となく収まり、水のせせらぎと木陰を吹き抜けてくる涼風の中で美味しい食事タイムと休憩タイムとなった。ここで、1時間余を過ごす。

 今日の予定は、あと三箇所。何となく気分も良くなったので、一旦小百街道へ戻って、いつかは拓本を取ろうと思っていた庚申塔へ向かう。当然、今度は直射日光対策を考える。その一つが、麦わら帽子はもう不要だろうと家に置いてきたので、傘をさしての作業となった。作業は順調に進んだが、どうしても読めない箇所が二箇所出てくる。悔しいので、その部分だけ二度の手拓をする(結果的には読めなかったが)。
 次は、小百小学校東側の墓地にある庚申塔。これは下部が埋まっているため、精査をするには下部をスコップで掘らなければならない。だが、何しろ墓地内。それに加えて、今日の暑さではとてもその勇気がなくて、写真撮影と確認のための記録を取っただけで諦める。そして今日の最後が、瀬尾地区高百の薬師堂にある庚申塔3基の調査。だが来てみれば、いつのまにか成長した樹木で2基の庚申塔は完全に調査が出来ない。また、アシナガバチが飛び交っているので、その樹木の中には巣があるのかも知れない。焦ることはない。冬になったらまた来よう、と潔く諦めて帰路に付く。

 そんなこんなで、今回の石仏巡りは全部で21基。しかもそのどれもが、飛び切りに写真写りの悪い状態の碑塔ばかり。それでも、先週は写真掲載をサボってしまったので、明日以降の時間の空いたときにでも作成してHPの方へ掲載したいと思っています。

※昨日の疲れが残って、本当なら今日9日は畑仕事をする予定でしたが中止とし、完全休養日にしました。そして次回15日は、春日部市の中山氏と一緒に鹿沼市から日光市までの庚申塔巡りの予定です。どうぞ、今年の暑さもそろそろ納まってくれますよう…。
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9月1日は自然災害碑の案内でした

2007年09月04日 | Weblog
9月1日(土)の石仏巡り
 今回は、埼玉県小川町在住の高瀬 正氏が当県へ碑塔調査のために来られる。その目的は、高瀬氏が行っている「自然災害碑」の調査で、当県鹿沼市にある天明の浅間山噴火と日光市にある昭和二十四年に起きた今市地震碑を実見するためである。その案内役として、今日は私も一日を一緒に行動することとなる。その為、今回はこのブログにもHPの方へも掲載する内容は何もないのが実状である。
 それにしても思うのは、県外には沢山のそれぞれに目的を持って石造物を調査している方がいらっしゃる事実。誠に、栃木県の場合と比較すると何とも羨ましい限りで、その調査根性の違いにただ感心するばかりである。
 高瀬氏の益々の調査とその成果を、大いに期待していきたい。ところで、歌の文句ではないが「もう、そろそろ秋」。私もそろそろ、次の目標へ向かって石仏巡りを開始したいが、現時点ではその目的がありすぎて一つに絞れないでいる。だが、いずれにしても年に一度の岩舟町高勝寺さんの板碑調査にお伺いしなければならない時期である。この一年間で、何基の新しい板碑が見つかったのか?、今から楽しみである。
 といいつつ、次回はまたしても県北の庚申塔巡りになるのか…。
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