石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2014年3月の最終は、栃木県の近世宝篋印塔の纏め本完成の記事です

2014年03月31日 | Weblog

 

 昨日は春の雨となって一日中降り続きましたが、私にとっては絶好の休養日。それというのも、栃木県内の近世宝篋印塔調査報告書全5冊(主に、一切如来心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼経銘文塔を中心とした)を新たに編集中で、その最後の第5冊目が昨日製本までの全過程を終了させることが出来たからです。その書影が、上記に掲載した写真です。B5版サイズで、各冊とも平均で95頁ですから475頁になり、掲載した宝篋印塔の数は約360基です。もちろん、まだまだ調査した数はあるのですが、市町別には纏まっていないのでそれらはもう少し調査をしてから新たに作成しようと思っています。それにしても、日本全国広しといえども、県単位でこれだけの近世宝篋印塔を市町単位で纏めたのは、これが初めてではないかと思っています。なお、もう少し詳細な書籍内容は別HPの方の今年3月の石仏巡り案内記の方へ掲載してあります。
いよいよ、次回から4月です。石仏巡り等には最高の季節到来!冬にサボった分を取り戻すべく集中して調査行に出かけたいと思っています。

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2014年03月19日、栃木県烏山町の日露戦役戦死者石碑ご紹介

2014年03月19日 | Weblog

 これは、日露戦争において栃木県烏山町から出兵した兄弟が相次いで戦死した物語を石に刻んだものです。題して「昭忠之碑」。篆額の揮毫者は、この手の日清日露戦役石碑に良くある乃木希典ですが、彼にしては珍しく小ぶりな篆額となっています。乃木希典を神格化した神社が栃木県にあるくらいですから、彼の揮毫した戦争碑はいたるところにありますが、それらはおしなべて巨碑。当然ながら、足場を設置しなければ手拓も出来ない状態なので、今までに1基も拓本を採っていない。そこで今回は、乃木希典の書体も1基位は手拓しておこうと思ったが、石碑の高さを測ったら総高で253センチ。やはり篆額までは背伸びしても足場がないと手拓できない。簡単にあきらめたが、せめてものその本文だけは時間があるので採ってみることにした。その詳細は、相変わらず別HP3月の項に掲載してありますので、戦争碑に興味のある方はご笑覧ください。

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2014年03月09日は、栃木県葛生町へ石仏巡りに出かけました

2014年03月11日 | Weblog

 2月上旬の降雪以来、暫くぶりの石仏巡りに出かけました。その間、約一ヶ月何もしていなかた訳でもなく、これまでに調査した栃木県内の近世宝篋印塔の数が知らぬ間に400基を超えていたのに気づく。これは、今のうちに何とかしなければと思い立ち、集中的にその纏めをしてきました。そして最終仕上げの報告書を作成する段階で、葛生町にある1基の資料が抜けているのに気づきました。しかし、何しろ調査したのは今から10年以上も前のこと。写真一枚を探すのにも、当時はデジカメを使用していなかったのでそのフィルム探しに手こずり、結局は再度訪問して撮り直しをしてきたほうが早いことになり、今回の出陣となりました。出かけた先は、葛生町牧地区にある開蔵院(無住)。その姿がここへ掲載した写真です。もちろん、陀羅尼経からの出典偈頌も刻まれているが、主たる造立目的は光明真言読誦回数到達のものです。その回数がまた面白く?、五百二拾一萬九千五百遍。いったい、何年掛けて、延べ人数何人で読誦したのでしょうね。ちなみに、建立紀年銘は享保十七年です。
 時間をかけて、のんびり調査は本当に暫くぶり。ここの所の石碑調査とはまた違った趣があり、気分もよくなって境内にある他の石仏も再調査することにしました。その中の1基は、その当時の調査した内容とは違っていて、一人で苦笑しながら正しい紀年銘を記入したり、当時は面倒で地蔵立像の背中に記されている銘文は未読だったので再挑戦したが、手拓をしない限り読めそうもない。何となく、今日は手拓はしたくない気分のまま、結局は今回も解読せぬままにその脇の石段に腰掛けて、日毎に春めく農山村風景をボンヤリ見て過ごしました。
 何しろ今日は、ここでの調査fだけが目的で来たので、その後のことは空白。とてつもなく早い昼食としてのんびりしながら、このまま帰宅するにはもったいない天候と思い直し、地図を広げて考える。そして、西へ山一つ超えただけの田沼地区へ行って、今年中には遅かれ早かれくることになるだろう石碑の場所確認に行くことにした。そして二箇所ばかりの石碑を訪ねて、その手拓用サイズを計測したり、写真に撮れそうなものを撮影してから帰宅する。

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