10月27日は、天候がよくないと言う事なので、今回は鹿沼市の南部地区を訪れ、2001年10月08日に行って以来一度も再訪していない野沢町の神明宮へ行きました。ここには、ご覧のような達筆な男体山碑があり、その拓本がいつか欲しいと思いつつ、こうして11年振りに訪れた訳です。ただ、この神明宮は5年ほど前に放火に遭い、神殿は新しくなっていて、それに伴いこの男体山碑も本殿脇に移設されていました。この男体山碑の書体は、恐らく栃木県でも1、2位を競う達筆な物ですです。彼の小山霞外を上回るのではないかと、個人的には思っています。そして何よりも、私を魅了したのは、その書家が彼の菊池教中ということです。彼はご存知のように、文久2年に坂下門変の首謀者の一人として捕らえられ、やがて釈放されますが獄中に患いそれが原因でで釈放されてまもなく病死してしまいます。その教中が、このような碑文を認めたのは多分これだけではないかと思っています。しかも落款までしっかり刻まれてるので余計に嬉しい碑でした。その点でも手拓したいと、今まで思い続けていたのですが放火事件後は特に訪れるのに気が重く、ついつい今日まで延びてしまいました。その思いを、今回は一気に爆発させてその文字を2時間もたっぷり味わいながら手拓してきました。これで、菊池教中の栃木県内碑塔は完全に調査を終えたと思っています。もちろん帰宅後も、その拓本を部屋に飾って一人満足して眺めた昨夜でした。ついでに、この境内にはたくさんの石仏もあり、それもせっかくだからと再調査して来ました。おかげで、車を置かせていただいた農家の方に、「半日もの長時間、どうやって過ごしていたの」と、笑われてしまいました。
その後は、今年の8月の暑いさなかに碑の掃除をしておいた個人碑の拓本を取るべく訪ねたが、生憎と北風が強く吹き出していたのでろくな拓本が取れないと、今回は諦めました。その書体もまた私好みなので、いつかは再挑戦です。ちなみに撰文・揮毫者は、医王寺の僧です。その後も、溜めておいた碑塔の手拓の旅を続けて風に邪魔されない所の碑文を物にしてきました。それにしてもまだまだ拓本を取りたい碑が鹿沼市にはたくさん残っている。次回からは11月となるので、今度は寒さの中での手拓作業となり、一枚の拓本を取るのに今の倍近くの時間を要す事になるだろう。本当に、良い拓本を取る時期は短いことを嘆かざるを得ない。そんなこんなで、今回は宝篋印陀羅尼経の記された宝篋印塔は1基も調査しませんでした。来週は、またその宝篋印塔調査に出かけようと思っています。それと、前回に熊が出ると脅かされた神社へも行こうかと思っている。霧吹きの水が凍る冬本番前には、ある程度の拓本は取っておきたい気持ちと交差して、本当に贅沢な悩みです。
最初にこの碑と出会ってから、それこそ長い年月が経ちました。しかし、それは自分の趣味範囲としてどこにも発表せず、かろうじて埼玉県小川町に在住の高瀬正氏を2007年に案内しただけでした。その後、高瀬氏はその碑文を「日本の石仏」誌上等へ発表していましたが、私にとってはそれを流し読みしただけで自分の調査した碑文との再確認をしないまま放置していました。ところが最近、手持ちのダブっている「日本の石仏」誌を図書館に寄付すべく整理していて、この災害碑の発表文を偶然に目にしました。改めて目を通しましたところ、彼の高瀬氏にして銘文の数箇所に誤りがありました。多分、校正段階で気づかなかったものと思われますが、何となく残念に思いました。そこで、秋の夜長を利用して自分で手写したものを整理してここへ掲載することにしました。ただ、いつものように碑文に使われた文字は最大限、実際に碑面に刻まれている文字形に近くなるよう作字してありますので、読みにくいかと思います。そしてそして、その読み下し文は、毎度のことながら「述而不作」として掲載してありません。
※掲載場所はいつものように、小生のHP「栃木県石仏」の中の「栃木県の石造物公開データ」中、「鹿沼市・浅間山災害碑と嶋元鷹の碑文」となっています。興味のあります方はご笑覧ください。それにしてもここのところ、調査した碑塔の整理に追いつかない状態で、次の石仏巡りへと進んでしまっています。従いまして、石仏巡りに出かけるほどに未整理原稿が山積してしまう有様。これからの手拓絶好機とあわせると、本当に悩んでしまいす。この悪循環を断ち切るには、一度石仏巡りに出かけないことなのですが、それが出来ない悲しい性の私です。嗚呼、困った、困った!
そうそう、それと以前に一度掲載していまして途中から論考に問題点が発生して掲載を中止していましたもの、ついでに新しい内容に替えて掲載してあります。これも興味のある方は、ご笑覧ください。場所は栃木県の寛文年間「請け仏(迎え仏)」像容石幢。この手の、請け仏像容塔としては、栃木県としては興味津々たるものです。なお、現地にて実現したい方は事前に小生までご連絡ください。個人墓地内にありますので、無断での拝見や調査は厳に慎んで下さい。
今回も、絶好の秋晴れに恵まれた1日でした。余りにもの天気の良さに、大芦川の河原でのんびりしましたが、それでも石仏巡りを始めると気分の良さに浮かれて熱中し、ついつい昼食を取る時間も惜しくなって、ついに今回は昼食も食べず石碑掃除に手拓作業と最後まで石仏巡りに終始してしまいまいました。特に今回は、いつもの近世宝篋印塔調査と共に、庚申塔調査も含めて一日を過ごしました。上に掲載した庚申塔は、鹿沼市下久我の沢河原地区一家墓地内にあるもので、鹿沼市では珍しい3猿1鶏像容塔です。今回もどこかに紀年銘等の石文があるかと、写真撮影後は亀の子タワシで磨いたのですが、結局は交名以外はありませんでした。せめてもの、元禄年間くらいの(何しろ、丈夫に瑞雲付の日月輪があるのでそれ以上に古い紀年銘は無理)紀年銘を望んだのですが残念!隣の墓地には、元禄年間の拝待2猿像の見える庚申塔があるというのに…。
しかし今回も悩みは、熊の出現地域に入った事。午後3時も過ぎると山の中は既に暗くなっていて、その中にある神社へ行くのは流石の私でも腰が引けます。そこでどうしようかと悩みつつ、近くの共同墓地にある貞享年間の拝待2猿塔を調査したり元禄12年銘の寒念仏塔の手拓をしたりして更に遅くなり、結局は次回以降の午前中に来たときに行くことにして中止しました。
それにしても、手拓には風も一日中穏やかで絶好の季節です。少しの期間、石仏調査を止めてこれまでに溜めていた碑塔の手拓作業に専念しようかと本気になって悩んでいます。次回は、そんな一日にしようかと、今度はその対象碑塔選びに悩みそうです。そんな、バカみたいなことを考えながらこれを打ち込んでいます。今日も天気は宵のですが、午後は県立図書館へでも行ってこようかと思っています。
実は、先週に立て続けて使用していたwinndowsのパソコン2台がクラッシュしてしまい、様々な手を尽くして修復に努めたのですが、どうにもならずに終に破棄することにしました。メモリーを取り出して壊してしまったので、廃棄処分です。二台とも10年以上使い続けていたので、やはり寿命が来たようです。MAC(ちなみにMACは5台を持っていてそのうちの3台は現役です)の中の1台などは、15年以上も使い続けている(しかもwindowsと違って非常にはハードに使用しているにもかかわらず)のに、今だ現役で活躍しているというのに!。ちなみにwindowsは、インターネット関連が中心だったのに、です。そんな訳で、先週の10月6日の石仏巡りのブログは書き込みできませんでした。
さて、愚痴はそのくらいにして昨日は、相変わらず栃木県鹿沼市の板荷地区へ入りました。この地区に残っている1基の宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝塔型宝篋印塔が未調査だったので、それを探しに行きました。その宝篋印塔、実に難しい場所にありまして、道理で普通の方法では見つかるはずもないという所にありました。それでも、その探し出す途中にて農家の方々にはお世話になり、一日の半分以上はそんな農家の方々と一緒になってのお茶飲み時間に費やした1日でした。それがまた実に愉快な時間で、この季節にしては珍しく午後4時過ぎまで現地にて過ごしました。そして帰宅し、本日の石仏巡りの成果を振り返ってみたら、調査台帳にはたったの15基のみという有様で思わず苦笑です。それでも、その中には当地板荷地区草分けの渡辺家墓地にあるご先祖さまの墓石にある、家塾を開いたご碑文を手拓することが出来ましたし、山中にある共同墓地では光明真言塔の兄弟塔(板荷地区にある同じ形態にて同じ時代で同じ内容のもの)を見ることも出来、それなりに満足出来た1日でした。
それにしても昨日は、当に秋晴れ、日本晴れの1日でした。石仏巡り途中では、野の花を写真に撮ったり、ソバ畑の風景を撮ったりと石仏巡り以上に忙しい一日でしたが、上記に掲載した写真は、その中の秋空の下にある石仏風景を撮ったものです。次回からは、板荷地区を離れて、もう少し鹿沼市の西側へ入ろうか、それとも夏に見つけておいた石造物の手拓作業に行こうか、嗚呼どちらにしようと嬉しくも悩んでいるところです。
毎年のことながら、今年も栃木県県北方面へ営業で出かけましたので、その前に一稼ぎしようと早朝に家を出て、矢板市狭間田地区の薬師堂へ行き、そこにある幾つのかの碑塔を手拓してきました。今回も、妙法蓮華経からの珍しい偈文を手に入れました。
さて、上に掲載しました画像は、暫くぶりに出会ったバンザイ型青面金剛様の姿です。尤も、私としては今を去ること20年以上も前に調査済ですが、今回はその下部にある三猿姿が気になっていたので再確認してきました。それが右側の拡大したもので、チョット見にはお猿さんの顔しかないように見えまして、過去の調査記録簿にも「?」とマークを付けていたものです。でも、よくよく見ると頭から下は細い線彫りとなっていました。いっそのこと、顔だけだったら面白いと淡い期待を持っていたのですが、そんな三猿姿なんてあるはずが無いと、妙に納得でした。
この写真の碑(いしぶみ)は、これまでに何度も見ながらついついその碑文を手写するのが面倒で、結局は精査を見送っていたが、今回はこの前に立ったのが朝の8時半と言うこともあって、「よし、今日こそこれを片付けよう」と、記録紙を取り出す。そしてこの場所は、地元の人は必ずこの前を通らないとどこへも行けないので、馬鹿みたく長時間この前に立っていれば、誰かが止まってくれるだろうという魂胆もあって、この碑の管理者の許可を得ないまま手写開始。内容は、日露戦争にて中国で戦死した地元の人の「忠勇」碑と篆額にある。手拓を始めてまもなく、地元の方が散歩がてらにこの前を通り、早速話しかけてきてくれる。所有者宅を伺うと、あそこの家だと教えてくれる。そしてその方と別れて暫くすると、今度はそのお宅からおばあさんが農作業の姿で出てきた。これ幸いと、おばあさんに挨拶してから調査の許可をお願いすると、「どうぞ、どうぞ、気兼ねなく見てください」と快諾をいただける。ついでに、後日に手拓願いを申し出ると、それも快諾してくれる。そして言うことが良い。「私達だって、ここに何が書いてあるのか判らないのに、遠くから来て調べてくださるなんて、こちらこそありがたいことだ」と。そう言われてしまうと尚のこと、本気になって一文字づつ丁寧に手写しました。途中での会話などもあって、手写が終わってみれば既に10時半を過ぎていた。何のことはない、手拓するより時間が掛かったことになり、苦笑。
その後も、あちこちと気分任せに石仏巡り。途中で出会った農家の方と今回も親しくなり、その方の車先導で、あちこちの石仏やら墓地の案内をしていただく。そして気が付けば既に12時。石仏巡りの実成果は少ないが、それでも秋の田舎道をあちこち地元の方の案内で巡ることが出来、大満足の半日であった。
川原で昼食。天気も景色も気分も上々。ついついのんびりし過ぎ、時計を見ると既に1時過ぎ。午後の部も、相変わらずあちこちと彷徨いつつ、お寺さんや墓地を覗いて石仏探し。そんな折、とある個人墓地で鹿沼市で最高ランクの碑(いしぶみ)と遭遇。しかも2基。さらにその二基の石工は廣群鶴。これだけでも気分は舞い上がってしまっているのに、その碑文の篆額は菊池経政。撰文と書は、これまた恒堂菊池晋となっているのだから驚き以外の何物でもない。まさか、鹿沼市に菊池教中の子息達により碑文が出てくるとは想像も出来ないことだった。だが、調査はまずお墓の家人様に断ってからの話しであり、よしんば許可が出たとしても既に午後も3時となっていたので、とても今日中には調査どころか手拓するにも時間が足りなくなる。チョチョッと写真だけを撮らせて頂いて、今回は断念してそのまま帰宅とする。街中まで出てきたが、時間がまだあるので千手山公園へ行き、先週の調査のひとつをレポート風に纏めた小論を届け、またしても公園管理者の人達と雑談を交わして時間をつぶしから宇都宮への道へ入った。
それにしても、私にとって鹿沼は本当に面白い地区である。来週もそんな鹿沼通いが続くことになるのだろうが、今度は鹿沼の秋祭りで6日~7日と市街地は大幅な交通止め。そこで、これもいつかは手拓しなければならないと考えていた鹿沼最南部地区の男体山碑を訪ねることにしよう。多分、その男体山碑も、菊池教中の揮毫したものではないかと思っているので、その精査を兼ねて暫くぶりり再会してこようと思う。
そうそう、ここに出てくる「菊池」家とは、かの江戸末期の江戸豪商「佐野屋孝兵衛」の人達であり、かの坂下門外変の首謀者関連の子息達でもある。もちろん、これが明らかになるのは今回初めてである。所在地などは、個人墓地のこともあって今は明らかに出来ませんことご了承ください。