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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

皆様へのお詫び

2008年06月29日 | Weblog
今日の午後4時20分頃の事です。昨日の石仏巡り内容をHPの方へ書き加えていて、ついやってはいけないエラーコードを入れてしまい、気づかずそのままエンターキーを押してしまいました。この段階で、普通なら画像確認をするのですが、そこで気づけばエラーコードを削除できたものの、午後4時半からの雨中の散歩に出かける楽しみのために、つい気を抜いて更新ボタンを押してしまいました。
その結果、ものの見事に今6月号のHPは全て吹っ飛んでしまいました。従いまして、6月の石仏巡りHPは、全く何もない状態になっています。
もう一度、6月1日からの石仏巡り記を書く気持ちになれませんので、本当に申し訳ないのですが6月号は、一つも碑塔案内がないということになりました。
少しでも、楽しみにしていました方には深くお詫び申し上げます。
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2008年6月28日は、予定変更で日光へ!

2008年06月29日 | Weblog
 2008年6月28日は、暫くぶりに日光へ行きました。というのも、今回は死後たが忙しすぎて今日のための事前計画が何も出来なかったために、そのままの状態で粟野町へ行っても無駄な時間を費やするだけだと感じたからです。
 朝一番で、に日光市匠町の浄光寺さんへ、昨年行った庚申塔調査の報告書を提出のためです。ついでに、境内にある梵鐘以外の金物を写真に撮ってきました。寶篋印塔は、光線状態が悪く良く撮れませんでしたが…。その後、憾満ケ淵などへ移動しましたが直ぐに引き返し、寂光の滝へ行きました。ホントッ、ここへは前回に行ったのは何時以来だろうと思うくらい久しぶりでしたが、静かな中に優雅に流れ落ちていました。
 さてそれからが本日の本番で、駐車場へ車を止めて歩き出す。今日は、この寂光滝線沿いの山の中を歩いて碑塔探しをすることにしたのである。途中途中で、道端にある首欠け地蔵を含めて調べ歩きながらも、最大の関心はやはり山の中にある。勿論、その山の中に何かがあるという情報を持ってのことではないので、行ったり来たりの一往復を行いながら少しずつ進む。一時間が過ぎても何の成果もないまま進んだので、一旦また車まで戻る。そして車を運転し、調査した時点まで進んで車の置ける路肩に止め、そこからまた調査を開始する。今度も全く成果無し。この寂光滝線は、かつて釘念仏で名を馳せた寂光寺があったのだから、その途中にあるのが地蔵像ばかりではないと目論んでの調査だが、ないものはない。やはり、私の目論見は甘かったのか、と少しばかり今日の行動予定を後悔する。また、暫く進んでから車に戻って、と同じ方法で次へと進む。すると今度は、道路から山の中に入った所に青く苔生えて横になっている石があり、それはどう見ても人の手による四角柱らしきもの。もちろん、一面に生えている苔のために文字等は全く分からない。念のため、落ちている杉の枝で苔を少し剥がしてみると、そこには明らかに文字らしきものがある。ついに、今日初めてヒットしたことになる。車に戻って金属ブラシを始めとした掃除道具に調査用紙を持ってから、本気になってまずは碑塔磨き。何しろこれまで、何十年どころか百年を越す年月を誰にも知られずに放置されていた碑塔なのだから、その苔の状態は中途半端でなく大仕事となる。そしてどうにか出てきた文字は「殺生禁断」とあった。これは、二荒山神社の裏から登る女峰山への登山道沿いにある二基の「殺生禁断石」と同じ内容のもの。その、山岳修験と関連する結界石が、この寂光道にも有ったことに思わず一人で「バンザイ」となる。しかし、写真を撮るには困ったことに、横倒しとなっているので、カメラを両手で高くしてシャッターを押すしかなく、写るのは中途半端なものばかり。何枚も何枚も撮って、どうにかその中に全景が写っているのを以て良しとする。
 当然ながら、今までこの結界石についてその存在を記している書籍類はない。それだけ今日はこれ1基だけで私にとっては大成果となり、今まで皆が忘れ去っている碑塔を新たに再確認できた嬉しさに酔っている。石造物馬鹿とは、こういうものである。
 その後も、そんなことを繰り返して道を戻って行くが何も見つからないまま、ついに人家が現れてくれば、そこから下は既に調査済み区域。その最後の人家裏で、元禄十年銘の庚申塔を記録し、今日の日光に於ける石仏調査を終了して日光市内へ戻る。が、まだまだ帰宅するには陽が長いこの季節。そこで、これまでにも何度も行っている所野の磐裂神社へ向かうことにする。目的は、境内にある延宝年間の造立と思われる庚申塔に、何としても紀年銘が見つからないので、それを見つけたいためにである。加えて、この庚申塔の拓本を取るときはなぜか強風が吹き荒れる時ばかりで、未だに満足な手拓を持っていなかったので、ついでに拓本を取りたいと思いつつ…。
 その庚申塔は、これまでに磨きに磨きをかけていたので直ぐに手拓開始が出来る。しかも幸いに今日は、風もおとなしくしているので手早く水貼りして後は自然乾燥を待つだけである。庚申塔の前に腰掛け、何もすることのない時間をのんびり過ごしているこの時間こそ、石仏巡りの醍醐味である。それに続く、タンポの心地よい音を聞きながらの墨入れ。石の状態が悪いので、スキッとした手拓にはならないが、それでも満足顔して帰宅する。それが結果としては、朝から夕方まで日光にいて、今日新たに調査できた碑塔はたったの2基のみだったにもかかわらず。
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2008年6月21日も栃木県粟野町の石仏巡りでした

2008年06月22日 | Weblog
 前回の石仏巡りの内容をHPの方へ掲載しないうちに一週間が過ぎてしまいました。それもこれも、毎年の事ながらこの時期はこれからの夏に向かっての仕事で忙しく、趣味としてパソコンの前に座る事が出来ないほど、毎日仕事でパソコンを操作しているからです。「もうそろそろ、仕事でパソコンを触るのは止めたいネ」というのが正直な気持ちですが、貧乏人は即生活に困りますので、ついつい趣味の時間まで仕事をせざるを得ないのです。
 そんなこんなで、HPの方へは結局掲載出来ぬまま新たな石仏巡りに出かけてしまいました。昨日6月21日も、栃木県粟野町へ出かけました。天気予報では、当地も雨が一日中降り続くとの事でしたが、そんな天気予報に騙されてたまるものかと、それでも出発はいつもより1時間ばかり遅い8時半になってしまいましたが…、出かけました。
 今回は、いつものコースと違って、粟野町の深程地区から入りました。小松神社で、いつもの延宝庚申塔を見てから内へ入ると道沿いに庚申塔が建っていました。それが何と、栃木県での160基目となる昭和庚申年塔でした。青梅市の石川博司氏が、ようやく全国的な昭和庚申年塔を纏める気になったようなので、そのうち資料を差し上げることにしましょう。
 さて、早速そこに刻まれている個人宅へお伺いしてその庚申塔造立について話し等をうかがいました。今日の石仏巡りとしてはこれで大満足。さあ、いつでも天気予報通りに雨が降ってこい!、という気持ちになりましたが、それどころか太陽まで出てきた蒸し暑さが増してくる。それからは、少しずつ北上してまず久野地区へ入る。この久野地区の小松神社と寄居観音堂を見てから、まだ実見していない口粟野神社にあるという粟野地区3基目となる昭和庚申年塔を見に行く。ところが、その口粟野神社には他の家畜塔などはあるものの、肝心な庚申塔は1基も見つからない。こうなるとすぐ無気になるのは、いつもの私のこと。境内裏は広大な森となっているので、必ずその森の中のどこかに庚申塚があって、そこにあるのだろうと見当をつけて探索開始。森の中にある幾筋もの踏み跡を辿って侵入するも、成果は無しでヤブ蚊と蜘蛛の巣の被害に遭っただけで、足元はずぶ濡れ。それでも諦めきれず、今度は東側の神社敷地の境にある山道がどうも怪しいと再度捜査。その結果、山道から暫く先へ進んだその山側へ5メートルほど奥の所に隠れていた庚申塔を発見(山道から、一歩山の中へ入って登って行ったのが結果的に良かった)。そこには、元文庚申塔から始まる寛政・万延・大正・昭和の庚申年に造立された自然石文字塔が5基並んでいた。それにしても、この場所には参った!。もし、それらを訪ねたい方は気軽にお問い合せ下さい。私のような無駄な苦労をする必要はありませんから、詳細地図をご案内しますので。
 そしてその後は、今日の石仏巡りは大満足として観音霊場巡りに切り替え、あちこち移動しました。それら訪ねた観音堂に下がっている鰐口が気になりつつも、全く調査もしないままで高橋氏に申し訳ないと思いつつ…。
HPの方へは、おいおい暇な時間を見つけて作成し、掲載します。そして今月も残すところ石仏巡りは出来て1回。それなら今までの流れで、同じ粟野町へ入ろうと思っています。
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2008年6月14日も粟野町の石仏巡りでした

2008年06月15日 | Weblog
 2008年6月14日は、栃木県粟野町(現鹿沼市)へ先週に引き続き石仏巡りに出かけました。それにしても、川(思川源流地域)と山々に囲まれた石仏巡りは気分が良く、ついつい沢が流れていればそこで大休止。また、さわさわと梢を渡る木の葉の音が見えればその下で又しても休みたくなり、敷物を広げてコーヒー等を飲みながら野鳥の声に聞き惚れて先へ進めませんでした。従って、今回は先週以上の数少ない石仏調査となりました。もっとも、どこにあるか分からない石仏を探し歩くのですから、一つの石仏に巡り逢うまでが大変で、時には所在地を尋ねようと訪ねた民家で長居をしてしまったりと、たった1基の石仏に辿り着くまで1時間も掛かってしまう有様ですから…。もっとも、そんな石仏巡りが好きな私ですからこれも致し方ありません。また、車の鍵をするどころか窓を開け放したままで1時間以上も放置しておける山地ならではの暢気さもあって、内を歩き回って石仏を探し歩く楽しさも加わってのことですが…。
 さて、今回も先週の引き続きで粕尾地区にある双体道祖神の残り3基も訪ねました。何しろ昔に写真撮りに一度しか行っていませんでしたので、1箇所はそれを探すまでに時間が掛かってしまいました。所在地が昔の訪ねた雰囲気と様変わりしていたからです。それら、先週と今回の粟野町粕尾地区の双体道祖神、8基は全画像をHPの方へ纏めて掲載しておこうと思っています。当地の双体道祖神の最大の特徴は、他の県の道祖神と違ってその祭祀場所にあります。それら全ては、馬も通れない昔の古道沿いにあります。従って、その昔の道が分からないと所在地も分かりませんし、塞の神信仰で祀られた以上に道行く人の安全を願って祀られた、文字通りの「道祖神」なのです。それだけに、祀られている場所はじめじめした場所が多く、その像容の劣化は激しいもので早急な対策が必要かと痛感しました。
 同時に、この地区は中世に始まったという「粕尾三十三番札所」があります。それらの観音堂のほとんどは酷い状態にありますが、石仏を巡るにはこの33ヶ處の札所所在地が分からないとどうしようもありません。しかし、現在では地元でその信仰は完全なまでに忘れ去られていますので、内でも近くにある所在地が知らない観音堂や跡地となっています。その為に、三十三番札所探しもこの地区の石仏巡りの難敵となって待ちかまえています。先週と今回の二度の聞き込みでも、1箇所だけはどうしても見つからずに次回への繰り越しとなってしまった有様です。そうまでして石仏巡りをしても、見つかる碑塔はそのほとんどが代わり映えのしない家畜塔や巡礼塔などです。時々、そんな私を慰めるように庚申塔がその中に交じっている程度ですから、石仏巡りの成果としてはガッカリ物ですが、これもこの地区の石仏分布を知る上には欠かせないことと割り切って、それ以上の自然風景の素晴らしさに身を置ける幸せを感じながら一日を楽しく過ごしました。
そんな訳で、恐らく次回もこの粟野町粕尾地区へ入ることになるでしょう。
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2008年6月7日は粟野町の石仏巡りでした

2008年06月08日 | Weblog
2008年6月7日の石仏巡りは、栃木県粟野町(現鹿沼市)の中でも最も遠い上粕尾地区へ行きました。そして最初に行ったのが、山の神地区にある奥深沢(オフクザワ)の滝に祀られている不動明王像です。予定では、滝の上部から対岸に渡り、更に不動明王の祀られている大きな岩の上まで行くつもりだったのだが、昨夜までの雨のために渓流は増水していて渡ることが出来ませんでした。そこで、少なくも写真だけは撮ろうとしたのですが、今度は不動明王の祀られている所は暗くて、手持ち撮影ではどうにもなりません。今さら、三脚を車の中に残してきたことを悔やんでも仕方がないと、苦労して下った崖を登って車まで三脚を撮りに行きました。それでも、望遠のないカメラでは不動明王の姿は風景の一つとして小さくしか写せませんでした。悔しいので、今度は滝の撮影に目的を変えて狙いましたが、木の枝が邪魔してポジションが得られぬままシャッターを押しました。そんなこんなで、まだ1基の石仏にも接していない内に早くも10時を過ぎてしまいました。
 「嗚呼、私は何をしているのダ〜」ですが、その分を暫くぶりに渓谷で涼しくのんびり出来ました。
 元に戻って、まずは発光路(ホッコウロと読みます)地区の石仏調査。昔はあちこちにあったものが、今は薬師堂敷地内に集められているので調査は簡単です。それで、今回はその中に未調査の碑塔を見つけて、まずはニンマリでした。
 そうそう、ついでに今回は粕尾地区の双体道祖神も訪ねようと考えていましたので、これまでに庚申塔調査のために何度も来た碑塔群へも再訪問し、写真を撮ってきました。
 その後は、道なりに下って行っての碑塔調査に専念することにしました。田の端地区を終え、更に大井地区へ入り、ここで「蛇除地蔵」の碑を調査。次いでに、近くの粟野三十三番札所の内の第二十九番目となっている「蛇除地蔵堂」へも行きました。そうこうしている内に、今日は早くもお昼時間です。石仏調査はまだ11基しかしていないのに、です。
 次の北村地区へ入って、まずは日光神社の境内でお昼としました。そして昼食後は、一人でこれからの石仏巡り作戦を練りました。幸いに、今は一年中で最も昼の永い時間帯なので、午後は真剣になって石仏巡りを5時まで行うことにしました。しかし、これから入る北村地区は初めての地。そこで更に考え、最初に地区内にある東光寺さんを訪ねることにしました。住職さんに、地区内の石仏所在地を全部教えて貰おうという、醜い目論見です。そして東光寺さんを訪ねれば、その心算通りに喜んで教えて下さり、挙げ句の果てに場所の分かり難いから外れた林道沿いの「庚申塔」等を住職さんの車で案内して頂けました。お陰様で、北村地区の碑塔は時間こそ掛かったがものの見事に悉皆調査が終了してしまった。厚く厚く御礼を述べて辞し、次は双体道祖神のある半縄地区へ突入。と云っても、車は路肩に置いてこの地区は全て歩いての調査となる。少しばかり暑くなってきたが、カメラ三脚も忘れずに抱えての石仏調査。その後も車を置いての地区毎の石仏巡りを続けて、本日最後は栃原地区の第九番観音札所で午後4時51分に終える。結果的には、五基の双体道祖神を20年振り位に巡ったが、手入れがなされていないので苔が生え、剥離が進んでいるものもあった。この粕尾地区の双体道祖神像は都合8基だから、今回はその内の5基を訪ねたことになる。次回には残りの3基を訪れたいと思っている。
 それにしても今回は、結果が分かっていながらも目新しい碑塔が無さ過ぎた。加えて調査数も少なかったので、私としては珍しく遅くまで調査した割には疲れだけが残った石仏巡りだった。HPの方へは、今回の双体道祖神は未掲載と致します。粕尾地区のあと3基を再訪してから、纏めて掲載しようと思っています。そんな次第で、タブン今回も画像は少ない報告となるでしょう。もっとも、掲載されるまでには2〜3日を要しますが…。
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2008年6月最初の石仏巡りは鹿沼周辺です

2008年06月02日 | Weblog
2008年6月1日の石仏巡り記
 5月最後の昨日土曜日は朝から雨のため、流石の私も石仏巡りは中止して部屋でのんびり過ごしました。開けて6月1日、日曜日は朝から快晴。昨日までは、石仏巡りに行くことは予定していなかったのだが、余りにもの快晴に誘われてつい車に乗り込んでしまう。しかし、今日はどこへ行くかを決めていなかったので、手頃な鹿沼市から粟野町周辺の石仏巡りとする。そして、前々からいつかは精査しなければならないと思っていた寶篋印塔の手拓作業に朝一番から入る。暫くぶりに出会った石文の彫りが悪く、黙視だけでは判読不能な箇所がありすぎるので、これも仕方がないことと諦める以上に、今日は目的地が決めていないので、目の前に現れた石仏は過去の調査分をも含めてのんびり調査することにしたからである。それにしても、こいつは手強い。手拓しても、願文箇所の判読と推読に手こずり、虫食いだらけの清書になりそうである。
 その後は適当に車を運転し、鹿沼市と粟野町を入ったり出たりしての石仏巡りとなる。それでも、実見したかった粟野町の昭和55年庚申塔だけは訪ねようと、少しばかり所在地探しに手間取ったが、2基ある内の1基は無事に出会うことが出来た。もう1基は、所在場所が分からず簡単に諦める。お昼は、粟野町の林道へ入って木陰の下での昼食。直ぐ近くでウルサイほどのウグイスの鳴き声に聞き惚れ、ついウトウトしてしまい、1時間以上も休んでしまった!。それでも、午後3時半頃に調査用紙の枚数が65枚になったのを潮時と、今日の石仏巡りを終えて帰路に付く。今夜は、手拓してきた寶篋印塔銘文読みに時間を使って、イライラそしてのんびり眺めようと思っている。
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