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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年9月26日も今市市の石仏巡りでした

2009年09月27日 | Weblog

 今回は、何としても前回に見つけられなかった岩崎地区の山の中にある庚申塔を探し出すべく向かう。そして頼りとするのは、その岩崎地区に住まう郷土史家である駒場氏宅。齢、90になろうという老人を今回ばかりは何が何でも引きずり出して、昔に行ったことがあるという山案内をしてもらうためである。膝が悪く、今ではあまり歩けないと言うご老体を車に乗せて早速前回探した場所へ向かうと、その道は一本間違っているという。そして指示通りに林道(といっても、皆様が想像するような林道とは桁違いの悪い道)途中へ車を乗り捨て、ぬかるんでドロドロの道を歩いていく。駒場さんも、何しろ昔のこととて山へ入れば勘だけが頼りの状態で、ゆっくり周辺の状態を確かめながら歩いていく。と、向い反対側の山肌に木材の切り株には見えぬ小さな何かが建っている。それは、旨い具合に最近伐採されて開けた場所になっていたから見えたものの、もしそうでなければ到底見逃してしまうような代物だった。ご老体もこの頃になると疲れが出てきたと見え、私に構わず先に行ってくれと言う。私は喜び勇んで、小さな沢を駆け下り、反対側の山斜面を駆け上れば、それは正しく長年探し続けていたこの地の庚申塚だった。それにしてもその場所は、民家のあるところからはあまりにも遠く離れた山の中である。道理で、すでに庚申信仰の途絶えたそのの方々に聞いても、誰も知らないわけであった。寛政と大正の庚申年塔2基を調べ、これで岩崎地区の石造物調査は無事に終了したことになる。
 その後、無事に下山してから駒場氏宅へ戻り、お茶をご馳走になりながらお昼近くまで石造物談義をして過ごしてしまう。
 午後は、岩崎地区から北へ行った文挟地区の碑塔調査である。未調査の墓地数カ所の碑塔を調査終えたので、この文挟地区もほぼ終了。但し、例幣使街道沿いにある道標四角柱は、今回も近くに車を止められないので未調査のまま通り過ぎてしまう。
 そしてそのまま、小代地区へ入る。この小代地区は、大きな分譲地が出来ているので、その分譲地中にある庚申塚探しは大変で、これまでに数度挑戦したが未実見のまま過ごしていたので、今回は何としてもその庚申塚を見つけだそうという目的で入る。相変わらず、団地内をウロウロしては住人に尋ねるも、知っている方が無理と言うもので、逆に「庚申塔と、何ですか?」と逆質問される始末である。それでも、団地内の森の中をあちこちと丹念に探し歩いた結果、昔の鎌倉街道沿いの森の中に建つ庚申塚を今回は探し出すことが出来た。時間を見れば、この時点で既に午後の三時半。今回は、これまで探し出せなかった二箇所の庚申塚に巡り逢えただけで充分と、その後はあちこちと適当に巡り歩きながら落ち穂拾いを繰り返しつつ帰路についた。
 次回の石仏巡りは、この小代地区から再開しようと思っている。もっとも、本心半分はもうそろそろ他の地区へも浮気心で訪れたいと思っているのだが…。
※掲載した写真は、岩崎地区の大正九年庚申塔です。このような庚申塔が、山の持ち主以外には入らない山の中にあるのですから、毎度の事ながら今市の庚申塔探しはホント、大変です。町中の庚申塔巡りをしている人の10倍以上の努力が必要ですが、それがまた楽しいのですから、もうこれは病膏肓といったところです。
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栃木県小山市の宝篋印陀羅尼経塔の完成

2009年09月23日 | Weblog

 今年3月に、栃木県小山市の近世宝篋印陀羅尼経塔を調査終了したのだが、その流れでいつもなら直ぐに製本してしまうのだが今回に限って放置したままだった。そこで、今回の連休を利用して印刷し、製本まで完了しました。もっとも、作成したのは自分の分と佐野市の高橋氏に贈呈する2冊のみという有様だが…。
それでも、こうして小山市で確認できた全40基を纏め、改めて眺めてみると、小山市の当該塔の流れや採用銘文等が面白く汲み取れる。
 そして問題は、こうした面白くもない石造物にはほとんどどころか全くと言って良いほど誰も手を出さないことである。始めて見ると、以外と面白いのに…、である。今年の冬は、あと数基で終わるのに途中で中断したままの藤岡町と栃木市を完成したいと、それを眺めつつ考えている。それというのも、現在進めている今市市には、この手の宝篋印塔が少なく、まもなく半年が経つというのに出会えたのは4基のみという、地域によっては造立に大きなムラがあることを味わっているところからかも知れない。
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どこへも行かずにパソコン漬けです

2009年09月22日 | Weblog

 連休の時間を用いて、栃木県の江戸前期(貞享年間迄)の庚申塔を本気になって纏めました。これまでは、パソコンに入っているデータベースを単純に掲載していましたので、それを本気になって内容を見直したり訂正すべき所は直したり項目を揃えたりしたりして、どうにか終了しました。その結果、再考を含めて総数を290基としました。
 多分これで、栃木県の江戸前期までの庚申塔は99.5%の確率で纏められたと思っています。つまり、後で洩れがどこかで出てきてもそれは2基前後だろうと確信を持っています。その纏めとして、自分だけの1冊を印刷し、製本したいと思っていますが、それはまだまだどこかでひょっとして新たな当該庚申塔が出てくると困るので、暫くは寝かしておくことにしました。ここへ掲載しました表紙画像ように、表紙から始まり目次・資料リストに全画像と全ての項目は揃えたのですが、その総数ページは200頁近くになってしまうからです。これで、一応は栃木県の庚申塔調査最大の目的は果たしましたので、やれやれと言ったところです。その意味では、この連休を有効に使うことが出来ました。
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2009年9月19日も栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年09月20日 | Weblog

 9月19日も、相変わらず栃木県今市市の石仏巡りに出かけました。今日の最初の目的は、小倉地区の例幣使街道にある慶安元年銘松平正綱公の日光杉並木記念碑の手拓にありました。その途中で、今まで気付かずに通り過ぎていた所に、昭和三十年の台風被害の災害碑に遭遇。急いでそれを調査してから、いそいそと小倉地区へ入りました。何しろ、五連休という初日なのでこんな時でもなければ暢気に手拓をする気分に今までなれなかったからです。そして特別指定文化財に向かい、まずは碑面掃除。それからのんびり手拓開始です。とにかく気分的にはのんびりしていますので、適当に水分が取れるまで気長に待ち、それから墨入れ。そんなのんびり時間を過ごしたので、撮影を含めて全て終了した時はここで一時間以上も過ごしてしまいました。それでもこれで、大沢に続いての二枚目をゲットしました。残るは、大桑町の寄進碑です。これも今秋中には手拓しようと思っています。問題は、その親塔とも言うべき日光の神橋北側にある記念碑です。場所が場所だけに、東照宮に無断で手拓する訳には行かないだろうと、半分は諦めています。
 その後は岩崎地区へ入り、今日こそはこの岩崎地区を終了しよと思い、まずは再調査を含めて岩崎神社へ行き、その参道に沢山ある家畜塔等を調査しました。それからは、ここ何年間も探していながらその所在地が全く判らない2箇所の庚申塔探しです。これも、何とか時間が掛かったものの1箇所は無事調査できましたが、もう1箇所は山の中をあちこち徘徊するも撃退されて、次回以降へと繰り越しになってしまいました。それにしても、今回はあちこちで立ち寄った所でお茶をご馳走になりました。従って、今回は地元の方と無駄話ばかりしていたので、その調査数は少なかったのは当然でしょう。それでもまあ、秋晴れの一日を地元の方達と一緒になって楽しい会話を楽しめたのだから良しとしましょう。なお、昨日現在で今市市の碑塔調査数は1467基になりました。今年の4月からですから、今回の今市市調査は今までと違って随分とスローペースです。それもこれも、今市市は山地が多すぎるからでしょう。この分では、2,000基に達する前に今市市から一時撤退となりそうです。
 そうそう、今回から雑草の種がやたらとズボンに付くようになりました。毎年、この季節になるとこれが厄介で、薮の中へ入る度にその種落としをしなければならなくなります。そんな訳で、これから暫くは下草の繁茂する山の中と雑草の生い茂る薮の中は進入禁止として、主に住宅地周辺の石仏巡りとしたいものです。
※画像は、今市市岩崎の岩崎観音堂の「馬力神」3並記塔です。
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2009年9月13日も今市市の石仏巡りでした

2009年09月14日 | Weblog

 実に爽やかな秋晴れとなった今日も、向かう先は今市市である。それだけに今日は、田園風景の広がる山地の石仏巡りとしたかったが、前回の石仏巡りでさんざん草に痛めつけられたので、まずは今市市街地へ入る。そして今回で三度目となる玄樹寺さんの祐天上人名号塔の銘文確認をする。それも今回こそ最後の調査確認として、今まで以上に本気になって銘文を一文字ずつ確認した。その後は、ついでだからと近くの回向庵の石仏再確認とし、ここにも大きな祐天上人名号塔があったのに気づき、独りで苦笑いである。その石文も、全部は解読できなかったが、まあこの程度で良かろうと重要でない部分は飛ばして読んで終了とする。次は、この周辺に大谷川洪水碑があるというので、その碑の探索である。それが以外と手こずり、前は確かにあったという大谷川岸辺の土手へ行けども見当たらず、地元の人に出会う度に声を掛けつつあちこちウロウロ。そして辿り着いたのが、川原町の公民館北側にある、名ばかりの小さな愛宕神社だった。どうやら、道路拡張工事や何やらで行き場を失い、最後に辿り着いたのがこの場所だったようだ。それだけに、碑面のあちこちに移動工事の度に削られた痕があり、文字が完全に読めない箇所が多くある。それでも明治35年9月の大谷川洪水記念碑とあらば、ぜひ記録しておく必要を感じて、読めない文字に四苦八苦する。本当なら、手拓して後世に残すべきなのだろうが、余りの今日の晴天下を歩きすぎたせいか、いささか頭がクラクラし、その意欲は喪失していた。また、その碑の脇には、それ以上に解読が難しい自然石文字塔がある。それを見過ごすのは悔しいので、何度も水洗いを繰り返しているうち、それは雨乞いなどに関係する八大龍王に関する石塔であることが判った。そんなこんなで、午前中はたったの3箇所で午前の部が終わってしまった。3時間半も休みなしで調査した結果がたったの12基とは、何とも情けない。そこで、気分直しのためにもと、昼食は大谷川公園へ行って、広々とした場所での昼食として移動する。しかし行けばいったで、「そういえば、この公園内の森の中には庚申塚の写真は失敗していた」と思い出し、再撮影のために森の中へ入る。その途中の池を前にして撮影した前日光の山並み写真が、最初に掲載したものである。西端が大真名子山で東端が赤薙山で、主峰の女峰山は雲に頂が隠れている。あと一ヶ月もすれば、その山の中のどこかへ紅葉の写真撮りに一人で入っていることだろう。と、早くも今秋の山の風景を想像している。
 さて、昼食時間をたっぷり取ってから、午後の部は芹沼地区の過去に調査した碑塔の再調査として移動する。それらの多くは1990年代前半に調査したものが多いので、以外と新鮮な感覚で調査することが出来、ルンルン気分であった。そこで今度は、その勢いをかって芹沼の中でも唯一、向組庚申塚未見の探索に切り替える。その、今まで見つからぬ最大の理由が、「山の中にある」と言うだけで、関係者以外はその正確な場所を誰も知らなかったために、「それなら自分で探す」と、ただ闇雲に山の中を徘徊するだけで結局は何年経っても見つけられずにいた。そこで、今回こそその庚申塚を訪ねようと決めて、組内の道路沿いにある大きな農家を訪ね歩くことにする。そして訪ね歩いて暫くすると、「うちのお父さんなら知っている」というおばさんに出会い、無理をしてお父さんを畑仕事から呼び戻してもらう。どうやら、その場所は口で説明しただけでは難しいので、一緒に行ってあげるとなり、私の車に乗せて道案内をしてもらう。そして着いた場所は、私が皆の話を総合して探していた山とは全く別の山で、かろうじてあっていたのは高声寺から南側の山の中というだけだった。そんな、今までのこの庚申塚へ辿り着くまでの苦労話をしながら調査そして写真撮影していると、大きなヤマカガシが現れて二人で大笑いする。その後、ご自宅へ送り届けると、「もう4時になるからお茶でも飲んでゆっくりしていって」となって、お茶をすすりながら出された煎餅を飼い犬のポチ君と一緒に食べて馬鹿話に花を咲かせる。そんな訳で、それでなくても難儀する今市市の庚申塚探しでは最大の年月を要した向組庚申塚調査も終わり、満足以上の気持ちを乗せてのんびり帰宅した。
 いや~あ、それにしても今日は一日中快適な天候でした。益々私の顔と腕は日焼けで黒光りしています。それにしても次回は5連休。週に一度の石仏巡りと決めている私だが、今度の週ばかりはこりゃ~悩みますわ…。
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栃木県栃木市の碑塔データを公開いたしました

2009年09月11日 | Weblog
 栃木県栃木市の碑塔は、推定全碑塔の85%位の確率で調査済みでしたが、もう少しその確率を上げてからデータ公開をしようと思っていました。何しろ他の地区の碑塔巡りが忙しく、まだ未調査の所在地が判っていながら訪ねる機会を失っている状態なのです。
 が、それではいつになるか判らないので、中途半端ながら公開することにしました。もちろん、そのデータの中には神社仏閣にある灯篭・鳥居・狛犬・手水鉢・記念碑等の附随物のほとんどは収録されていません。それでも、その他に関しては最新情報かつ銘文は正確を期したつもりです。
 なお、参考資料として中島昭氏著「栃木市 野仏の風景」がありますが、その書籍との年号や石文違いは私の方が正しいと自負しています。お疑いの方は、現地調査をどうぞ…。
 収録データ数は、全部で1181基です。今回から、主な信仰とその他の項目に分けました。その方が、少しは見やすいかと思いましたからです。今回も、印刷等は出来ません事ご了承下さい。同様に、今までの公開済みデータも見やすいように地区別に纏めました。
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多田治昭氏著書の岩槻型青面金剛塔のご紹介

2009年09月09日 | Weblog

 先日、あきる野市在住の多田治昭氏(多摩石仏の会)から、「庚申塔報告第5号」-岩槻型青面金剛塔ーの報告書が恵贈されてきました。この、岩槻型青面金剛塔は、中山正義氏が昭和63年に「多摩石仏の会」機関誌「野仏19集」で最初に発表されたもので、その像容は真手が合掌でありながら人身を持つ像容とされ、しかもその青面金剛は必ず鬼を踏んでいることである。特に、その「青面金剛が必ず鬼を踏んでいること」が重要であると、かつて中山さんと一緒に石仏巡りをした際に教えていただいたことがある。それがこの頃では、その像容的特徴を自分の都合の良いように拡大解釈している輩がいると憤慨していたことを思い出した。
 さて、その岩槻型青面金剛塔の全72基を、多田氏は中山氏の内容を忠実に踏襲し、何十年もかけて丁寧に追い求め、その全容を画像と共に纏めた集大成が今回の報告書である。これまで、理屈では理解していたつもりの私だが、今回のこの報告書を戴いて、それは視覚的にも全てがはっきりと理解できたし、その分類に加えて所在地や銘文・持物・法量等も実に丁寧に記されていて、もうこれ以上の報告書は出来ないほどの充実した内容となっています。
 中山さんが存命でしたら、さぞかし感心し喜んだことだろうと、あの、以外と人なつっこい顔をして笑う中山さんを偲んでいます。
 そんな、中山さんさえ集大成され得なかった岩槻型青面金剛塔が、この報告書のように完璧なまでに纏められました多田氏の努力とそれ以上の執念に完全に脱帽です。流石は、中山氏第一の弟子として自他共に認められた多田氏の面目躍如とした報告書です。なお当然ながら、中山氏の追悼文も写真入りで掲載されています。
 庚申塔に真摯に興味があります方には不可欠の書として、是非お手元に備えておくべき冊子としてご紹介いたしました。ただ、その報告書は私家本となっていますので、残部はあっても僅少のことと思いますので、お問い合せの際はその必要性を明記し、必ず返信切手同封の上でお願いいたします。住所は「多田治昭 190-0142 東京都あきる野市伊奈933-3」です。なお、興味半分で資料だけを集めているような方は、多田氏に了解を得る前にこれをご紹介しましたのでご迷惑になりますからご遠慮下さることを願います。
※多田さん、了解を得る前に掲載しましたことご容赦下さい。
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2009年9月6日も今市市の石仏巡りでした

2009年09月07日 | Weblog

 昨日の畑仕事は、普段の石仏巡りの何倍もの体力を消耗してしまい、一晩寝ただけでは元に戻っていないどころか、また痛さが増してきていた。しかし、朝起きてみると石仏巡りとして天候は申し分ないので、今市地区でも自宅から近い今市南部地域へ出かけることにする。そしてまず、腰の状態を確かめようと、宇都宮市と今市の境に当たる宇都宮市古賀志町の薬師堂へ立ち寄る。その結果、無理をしなければ何とか石仏巡りが出来そうなので、今回は遊び気分で石仏を見ることにした。その為、本当なら拓本を取りたい大型塔3基は後日の挑戦とした。
 今市地区として最初に入ったのは岩崎地区だが、その中でも岩崎観音堂周辺にある沢山の碑塔は未調査塔が多いので、こんな時こそのんびり調査しようとやってくれば、今日は地区の運動会がその脇の広場で行われて老若男女でごった返している。何となく、皆さんの目障りになりそうなので、数基を調査しただけで次回に譲り、少し離れた小代から長畑地区へと移動する。道沿いの碑塔をつまみ食いしながら、結局はこの方面へ来ると休憩&昼食場所として良く利用する長畑の木ノ峰観音堂へ行く。特に、この観音堂境内にある回国塔には沢山の石文が刻まれているので、その解読のためにも拓本が欲しかったが、最初に述べたように指をくわえて眺めただけである。この観音堂には延宝年間の庚申塔を始めとして沢山の碑塔が並んでいるが、それは今から10年程前に整理した物である。それ以前は、観音堂の周辺に無造作に転がっていて、台座と本体ももちろんその多くはバラバラになっていた。従って、その後に今に見るような姿にしたのは良いのだが、その台座は適当に据え付けられたものなので、そのほとんどは本体と台座は別物と理解しなければならない。しかし今ここを訪れて石仏調査をする人は、その当時の状態を知る由もないので、本体に石文がない場合はその適当に組み合わされた台座の銘文等を基本として記録されているのが現状である。従って、この観音堂の調査は、よくよくに本体と台座との関連性を熟慮しないととんでもない間違いを起こすだろう。
 それにしても、今が夏草の盛りである。それは、長畑からの帰り道は小倉地区へと入ったが、以前に碑塔の在処を確認している私でさえ、その場所へたどり着くには腰まで伸びている夏草をかき分けて進まなければならない始末で、そしてその場所へ着いたとしても、今度は碑塔の姿を見るためには周囲の草を踏みつぶさなければならない状態である。そんな事を何度か行っている内に「あ~あ、イヤだ嫌だ」となり、秋が終わりを告げてから来ようと、そんな草むらから頭だけを覗かしている碑塔の姿だけを見て、午後4時丁度に終了して帰宅してしまった。また特に今回は、午前中と午後の部によって、東向き碑塔と西向き碑塔の写真撮影には苦労した。それを解決するには、今回の石仏巡り地はその逆に回らなければならないと思っている。それにしても、今回は夏草に痛めつけられた石仏巡りだった。掲載した写真は、そんな中の一枚である。ここへ到達するだけでも大変で、これらの碑塔を調査するにはさらに草との格闘が待っている!。
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定例の土曜日石仏巡りは中止で、今日は畑仕事でした

2009年09月05日 | Weblog
 前回のこのブログに書き込みしましたように、ギックリ腰がまだ完治せず!。そして何よりも、先週の日曜日にするはずだったダイコンや白菜等の種まきが出来ずに1週間が過ぎてしまいました。これは我が家の年中行事にとっては大問題です。晩秋から来春までの野菜の確保にかかっている重大事項なので、石仏巡りよりも大事な事なのです。そこで、今朝は7時30分から畑に入り、本気になって畑仕事をしました。もちろん、痛い腰をなだめながらです。そして何とか午前中で、ダイコンに白菜の種まきに加えエシャロットの植え付け地の耕作、また大豆の収穫等々沢山の畑仕事を完了しました。あとは、台風12号が当地へ来ないことを祈るだけです。芽が出たところを雨にたたかれると、酷いときは種まきから再度しなければならなくなるからです。
 それにしても今年の夏は異常な天候でした。その為か、いつもなら沢山ぶら下がる落花生のツルが今年は異常なほど少ないのです。また、小豆(大納言)にしても実の付き方が非常に悪いです。そんな中、以外と元気なのがトマトとキュウリで、特にキュウリは毎年今頃は終了してしまうのですが、今年はまだまだ食べられそうです。ナスは、茎に虫に入られて数本が駄目になってしまいましたが、それでも少しは秋茄子が食べられそうです。
 そんなこんなで、流石に午後は身体が言うことを聞かずにほとんどゴロゴロして過ごしてしまいました。もし、明日の朝に起きて腰の状態が良ければ、一日遅れの石仏巡りに出かけたいと思っていますが、どうなるやらです。
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