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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年6月27日も栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年06月28日 | Weblog
2009年6月27日も栃木県今市市の石仏巡りでした。今回は行きがけの駄賃という訳ではないのだが、途中で気が向いたままに方向を転換して木和田島地区の松尾神社へ立ち寄る。ここには1基の庚申塔と狛犬がいたので、その調査のためである。そしてこの松尾神社に建つ鳥居は、どう見ても江戸中期迄の紀年銘があって良さそうなので、その紀年銘解読に努力したがその甲斐もなく、朝一番から無駄な時間だけを少なからず浪費してしまったと苦笑いする。
 次に、今回こそ、町谷地区の碑塔調査を終えるべく乗り込んだが、聖徳太子堂のある一箇所だけは再調査をせずにサボってしまいました。余りの暑さに加えて、過去に調べた場所の再石仏調査に気力がなくなってしまったからです。我ながら、好い加減な石仏巡りに呆れていますが、まあ何れにしてもその場所は過去に二度ほど調査した場所なので、沢山の碑塔を目の前にしてこの暑さじゃ今回は良いだろうと思ってしまったからです。
 その次に、隣の大渡地区へ入りました。この地区の主な碑塔類も勿論過去に調査済みなのだが、所在地がどうしても判らない(勿論、地元でも聞き込み調査もしましたが)庚申塚が二箇所あり、その場所を探し回りましたが今回も残念ながら実見することは叶いませんでした。「嗚呼、悔しい」ということで、貴船神社裏の風通しのよい森の中で昼食を兼ね、ついつい1時間ばかり休んでしまいました。
 それにしても、今回ばかりは暑い。田園と森が広がる地帯にいながら「暑い!」と感じるのだから、街ではかなりの暑さを感じる一日だったろうと思う。いよいよこれから暫くは、この暑さに悩まされる夏の石仏巡りになると覚悟をきめよう!
 そして再びこの地区の聞き込み調査に入るも、「60年以上もここに住んでいるが、そんな庚申塚は知らない」というばかりで、ついに今回の聞き込み調査は断念し、その代わりに実見済みの碑塔類の再調査を行い、その中から前回は調査していなかった碑塔を幾つか調査でき、まあそれなりに満足した大渡地区の碑塔調査でした。その後、碑塔を追いかけているうちに川室地区との境まで来てしまったので、そのまま川室地区へ入り、1994年に偶然見つけた下川室地区の庚申塚を再訪問。写真を全て撮影し、念のため再調査をするも前回調査と全く変わりなく、何か時間だけ浪費した感覚となり、まだ時間は午後4時前だが本日の石仏巡りは終了として帰宅への道を進む。
※毎年の事ながら、夏休みが近づくと仕事が忙しくなり、ここのところ毎日仕事漬けとなっている。そんな訳で、ついに先週の石仏巡りで出会った碑塔類をHPの方へ掲載する時間が取れませんでした。今回の石仏巡り写真掲載も、どうもあやしい雰囲気です。何しろ今日は日曜日だというのに、朝から仕事に没頭している始末です。ホントッ、私らしくない日曜日ですが、これもこのご時世に仕事に追われる身の贅沢さかと思っていますので、ご容赦下さい。
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2009年6月20日も栃木県今市の石仏巡りです

2009年06月22日 | Weblog
2009年6月20日、家を出たときは曇り空だったが今市地区へ入る頃には雨となり、仕方なしに山の中へ入るのを止めて、まずは神社訪問へと目的を切り替える。しかも過去に訪問済みの神社なので気が楽で、取りあえずは再調査と見落とし碑塔の確認を目的とする。しかし、今回も江戸時代の石造物は目にするもの全てを調査対象としているので、再調査とは言え初めから銘文の読み直しとなるので以外と時間がかかり、またそれらの全碑塔を写真に撮るので、2箇所を終えた段階で早くも午前10時を過ぎてしまったが、幸いにもこの頃から雨も止みだしてくる。
こうなると、気持ちは山の中の庚申塚へ入りたくなって、それまでにズボンとともにずぶ濡れになっていた運動靴から、車の中に入れてあった長靴に履き替えて1990年代に訪れて以来という芹沼地区南沢の庚申塚を目指す。ところが来てみると、昔あった山への入り口道路はなくなり、代わりに立派な農道が南北に直線で走っている。そのため、庚申塚が祀られている山が判らなくなり困ったが、流石は昔に一度来ていた場所だったので、適当に選んだ山の中へ入って無事に庚申塚を見つけることが出来た。しかし、雨上がりのもやった森の中の庚申塚の写真撮影には少々手こずったが…。
その後、前回に撮影を忘れた狛犬や碑塔の幾つかに立ち寄りながら、川室地区へ入る。そしてこの地の鎮守様である高雄神社へ立ち寄り、本日の昼食時間とする。この神社は、この地区へ来る度に休憩場所としていた場所なのでこれまでに何度も来ているが、改めて写真撮影やら森の中へ入ってもう一つの私の趣味である野草観察を行う。そしてそれは丁度良いときに来たようで、杜の下草に混じって「クモキリソウ」が沢山咲いていた。しばし、石仏のことを忘れて野生蘭としては地味なクモキリソウの写真撮影に夢中となる。また、もやった杜の中からは例の馴染み深いホトトギスの澄んだ声がすぐ近くで聞こえる。野鳥観察の大好きな私としては、その姿を求めて静かに佇んだが、所詮は天候が悪すぎてその姿を観察することは不可能だった。
 そんなこんなで、すっかり遊んでしまった高雄神社を下って、神社入口にズラリと並んでいる家畜塔を今回は調査することにする。何しろ今までは、この場所の家畜塔はその数を数えただけで正確な調査はせぬまま見過ごしていたからだ。ここでも、以外と時間を使ってしまい、今日の石仏調査の進まぬ現状に愕然とする。「このままじゃイカン!」となって、この川室地区下の庚申塚はまだ未見だったので、本気になって石仏調査モードとして訪問し、五基の庚申塔を調査する。そして気が付けば、この段階でデジカメのメモリーが限界に来てしまっていたので、予備のメモリーと交換しようとして慌てる。それは、あるはずのメモリーを机の上に置き忘れてしまったのだ。仕方なしに、今日撮影した画像を点検しながら、ダブり画像を消して何とかあと8コマだけ撮影することが出来るようにする。そして鬼怒川バイパス沿いの稲荷神社へ行けば(ここは、バイパス沿いにあるためにいつでも来られると見過ごしてばかりいて、今回が初訪問)、そこには狛犬ならぬ狛狐像が何組も祀られている。こんな狛狐の写真を撮る空しさを覚えながら、貴重なコマ数を使って撮影。そして全てのコマ数を使い切ったところで、今回はまだ3時半と少し早いが帰宅することにした。それも皮肉なことに、この頃から雲の切れ間から晴れ間が覗きだした。勿論そんな帰り道は、遠回りしながら次回への下調べを兼ねての道を選んだのは言うまでもない。それにしても、流石に梅雨ですね。今度の土曜日もこの様な天気となるのでしょうね。それでも、あの真夏の暑さよりはこの様な梅雨空の方が調査には良いですね。
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2009年6月13日も、今市市の石仏巡りでした

2009年06月15日 | Weblog
 中山さんの告別式に参列してから早、1週間が過ぎました。13日、何となく気抜けした気分のままで今市市の石仏巡りに出かけましたが、庚申塔を見る度に中山さんの顔が浮かんできてしまいました。特に、延宝元年の青面金剛塔が見つかったので見に行こうと誘って、今市市では最も東地区にあたる大渡地区の庚申塔前を通った時は、もう二度と一緒に楽しい庚申塔巡りが出来なくなってしまったのだなと、悲しくなりました。
 さて、いつまでも中山さんのことを偲んで悲しんでいても喜ばないことが判っているので、今回は塩野室地区を終了しようと毎に聞き込み調査をしながら進み、初めて知った碑塔類を調査することが出来ました。但し、北向き地蔵尊があるという一箇所だけは何としても探し出せなくて、これは再挑戦です。その後はあちこちの碑塔を調査し、午後4時半までみっちり調査しました。成果は思いの外に多く、一人ニンマリです。そんな日は、帰宅するやいなや中山さんに電話して、「今日はこんな面白いのが見つかったので、今度一緒に行こう」と報告するのが常でしたが、もうそれも出来なくなり又しても改めて中山さんが、もうこの世にいないことを実感しました。
 ところで、安政七年銘の「鰹講中」とある狛犬に出会いました。その信仰内容が判りませんので、もしご存じの方がいましたらご教示下さい。私の感覚では、「恵比寿講」の別称ではないかと思っています。それと、不動明王の火焔光背に「鳥」が浮き彫りされているのに出会いました。なぜ、不動明王に「鳥」が付いているのか、これから考察しようと思っていますが、これも多分「ガルーダ」ではないかと思っています。もちろんこれは、栃木県では初めての出会いです。後日、別HPの方へ画像を掲載しようとおもっています。その他、今回は神社巡りが多かったこともあり、多くの狛犬に出会いました。その中には、「こりゃ~狛犬ではなく、森の中にいる爬虫類の一種だ」と、深閑とした森の中で思わず呟いてしまったような、面白い姿の狛犬さんとも出会いました。これも同じく、HPの方へ掲載しましょう。そんなこんなで、今回で今市市の塩野室地区と針貝地区は終了することが出来ました。次回は、大渡地区と町谷地区を終わらせようと思っていますが、これまでに何回探しても見つからない庚申塚がありますので、果たして無事に見つけだすことが出来るか不安です。
 それにしても、季節は間違いなく夏になりましたネ。13日も、丁度神社境内で昼食を取っているといきなりの雷雨で驚きました。稲妻と強雨が一度に突然やって来て、ものの20分で去っていきました。そしてその後は真夏を思わせる太陽が出て、本当に気持ちの良い石仏巡りが出来ました。ただし、石仏調査には足元が濡れて困りましたが…。
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中山正義氏が逝去されました。

2009年06月08日 | Weblog
 庚申塔の大先輩であり、何かとお世話になりました春日部市の中山正義氏が、6月5日に永眠致しました。奥様から7日の早朝にご逝去のお電話があり、声も出ないほど驚きました。(6日はいつものように石仏巡りへ出かける予定だったのですが、天候が悪く出発時間を延ばして様子見をしていた時で、これも中山さんが「今日は連絡があるから、家を出るのはもう少し待ってて」と、私を引き留めたのでしょう)。
 それにしても、先月5月中旬に中山さんと電話で話をしていたときは元気な声で冗談を言い合っていたのに…。
 体調が悪いと31日に入院されてから、まさに日を置かずに中山さんらしい逝き方ですが、それを突然聞かされた私としては驚き以外の何ものでもありませんでした。中山さんは、生前から「死ぬときはそよ風が通り抜けるように逝き、葬式もせずに今世から静に去りたい」といっておられましたが、その通りの逝き方でした。
 そして7日の日曜日、本当のお身内だけの心のこもった告別式が執り行われました。奥様の代わりに、「多摩石仏の会」会長である犬飼康祐氏に連絡をし、7日12時半からの告別式に参列させていただきました。奥様のご配慮で最後まで中山さんをお見送りをし、生前の中山さんとの尽くせぬエピソードや石仏巡りご一緒での中山様の思い出など、お子さま達を交えて語り合うことが出来ました。
 それにしましても、もう中山さんのあのベランメェ~口調は聞くことが叶わなくなりましたし、共に庚申塔や念仏塔等について議論し、語り合うことも出来なくなりました。ほんとうに、心寂しいことです。中山さんとの石仏巡りは昨年の4月27日に、栃木県鹿沼市・栃木市・上三川町の庚申塔調査に行ったのが最後となりました。その時は、陽気も良くて庚申塔の側で2時間以上も草原に座って楽しい石仏談義をしたのをほんの昨日のように思い出します。その後、10月に大平町で新たな延宝塔を見つけたので案内するとの約束で日時まで決めていながら、体調不良で実行されませんでした。そして先月5月には、佐野市の高橋氏と一緒に佐野市内で新たに見つけた延宝庚申塔の写真を中山氏に送り、「嗚呼、また一緒に見に行きたいな~」が、中山さんとの最後の会話となってしまいました。
 そして何と言っても中山さんとの石仏巡りは、日光市の庚申塔精査作業で、何度も何度も一緒に、東武日光線の「新鹿沼駅」で落ち合い、あちこち寄り道しながら見に行ったことです。まともな人なら、降参して銘文解読努力に諦めるところを執拗に取り組み、1基で2時間以上も碑面と向かい合い、ついに読めたときは二人でバンバイザイ!と喜んだことです。まさに私の石文解読は、中山さんによりその方法のみならず謙虚に解読する本物の解読術を教えていただいたことです。そして何よりも石仏に対する思想で、その考えは中山さんと私は全く同じであって、その点でも意気投合したのでした。歳の離れた兄貴として、中山さんと出会えたことは私にとって最高の巡り逢いでした。そんな中山さん、私にとっては早過ぎる別れでしたがこれも定めと受け入れましょう。あれほど、「もう80歳になったのだから、中山さんの存在は石仏巡りに行かれなくても元気でいてくれれば十分ですよ」という、毎回の話の分かれ言葉でしたが、それも出来なくなりました。本当に、中山さん、ありがとうございました。あの世とやらで、私の中山さん譲りの石仏調査姿勢を見守っていてください。中山精神は、弟子として私が引き継ぐ覚悟でいますので…。
 そんな中山さんとの告別式当日、朝早く家を出てその春日部市まで向かう間で気になっていた碑塔の再調査をしながら向かう。これも、私流の中山さん供養の一つの儀式のつもりである。それでも早く着いてしまい、仕方なく時間潰しに近くの無住寺へ行く、そこにも沢山の庚申塔が並んでいるのを見て、これらの庚申塔も中山さんはナデナデしながら熱心に見たのだろうと、それらの庚申塔が中山さんの姿とダブって見えてしまった。そんな庚申塔は調査せず、今回は眺めるだけにして告別会場へ戻った。帰りは犬飼さんと一緒に春日部駅まで行き、4時にそこで別れる。犬飼さんは電車で片道2時間半ほどかかるという。一方、私の方は中山さんのことを偲びながら、高速道路は使わずのんびり旧四号線を下って帰ることにして、私も自宅へ着いたのは7時近くと犬飼さんと何ら変わらぬ時間を要して帰宅した。
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