この前の日曜日に、ようやく手拓出来た墓碑銘をご紹介します。これは、栃木県鹿沼市楡木町の駅戸長を務めた上野麗三郎の墓碑二面に刻まれている碑文です。たぶん、茨城県水戸藩に関わる江戸幕府末期から明治にかけての、地元で活躍した人々に並々ならぬ関心を持っている方もいるかと、ここにご紹介します。私が紹介しない限り、まず以ってその存在を知ることは出来ないでしょうから‥。
なお蛇足ながら、撰文は弘道館で会沢正志斎や藤田東湖に師事した内藤耻叟(ないとうちそう)。その後、彼は藩内の論争に巻き込まれながらも明治36年に没するまで活躍する。また藤田健については言うまでも無いだろうが、彼の藤田東湖の次男で嗣子となる幼名藤田健二郎。その彼が、書を担っている。このように、この当時の水戸学に活躍した二人が栃木県の一般には名の知られていない人物の墓碑に名を見ること自体珍しいことである。そんな訳で、この二人について調査している人でも、今回のこの碑文の存在は知らないだろうと、ここに紹介する次第である。
但し、今回掲載した碑文は未完成です。墓碑の石苔と着いた手拓に悪戦苦闘しながらも読めない箇所が出てしまい、そのうちにまた調査して完全な内容に仕上げるつもりです。※もし、この二人の碑文所在場所などについて知りたい方や、この碑文に興味ある方がいましたら別ホームページ(栃木県の石碑で検索し鹿沼市の石碑からご覧ください)。
昨日の日曜日は、絶好の手拓日和。何よりも暖かく?風は無風に近い。そこで今回は、先週もそうだったが風があって何としても今日こそは二基の碑文を手拓しようと出かける。ところが、鹿沼へ入ると朝方に雪が降ったようでうっすらと雪が積もっていて、空気は凍るような寒さ。現地には9時少し過ぎに(それでも意識して遅く出かけたのだが)着いてしまったが、手拓するには温度が低すぎて画仙紙に水を使うことが出来ず、仕方なしにもう少し空気が温まるまで周辺の石仏調査とする。そして撮影したのが上記に掲載した写真で、鹿沼市の村井町墓地での青面金剛塔の下部に見る猿さんの姿である。それはご覧のように2猿だが、御幣とは思えぬような物を2猿が一緒になって手に掲げている。これには困った。御幣でないとすれば何なのだろうと思案するが、結局はわからず仕舞い。悔しいので、ここへ掲載した次第である。ご存知の方からのご教示をお願いしたい。
さて、そうこうして時間も10時半になったので最初の手拓現場へ戻る。試しに碑石へ少しだけ水をつけてみると、凍らない。しめしめと、今回は霧吹きを使用せずに濡れタオルで少しずつ碑面に水張りを行う。そのためにいつもより時間はかかるは、手は感覚がなくなるほどの冷たさとなり、思わず手に息を吹きかけて暖める始末に苦笑。そんな冷たさを継続して何とか半切画仙紙を2枚半張り終えてから、少しだけ乾く時間に急いで車の中へ逃げ込み、暖房を効かせて一休み。現況が厳しかったが、何とか予想以上に良く採れた。ただ、何とも達筆な草書体なのでそう易々と読める代物ではない。それを眺めながら、車の中で昼食。しかし、既に午後1時過ぎになったので今度はいつものようにいつ風が出てくるかわからない。食事を終わるや、急いで次の手拓場所へ向かう。その第二の手拓目標は、嫌らしい石苔が着いている墓碑の二面、前回に金属タワシで磨いておいたが、やはりもう一度磨きなおす必要になり、思わぬ時間がかかってしまった。そして水張りしたが、やはり部分的に苔の残っている場所は浮いてしまったりして文字にうまく画仙紙が食い込まない。それでも、風が無いうちにと焦り気味に墨入れしてしまう。そして帰宅してみれば、やはり全体の五分の一は解読不能。まあ、そこはこれからも何度も通る道沿いにある墓地。これからも通るたびに立ち寄って、今回読めなかった部分は一文字ずつ解読していくことにしよう。そんなことで、本日の石仏巡りは午後も3時半になったので終了。結果的には、本日の新たな石仏調査原簿はたったの14枚という有様だったが、念願の手拓が2基一緒に終了したので、満足顔で帰宅した。
今年になって、サボりにサボっていた石仏巡りで撮影した写真を、ようやく昨日に掲載できた。やはり、何でもそうだろうが溜めてしまうとその後が大変なことを実感!
せいぜいこれからは溜めずに掲載するようにしようと今更ながらに思う。さて、そんな中の一つである「小森雲石君碑」をも昨夜作成したので併せて掲載した。碑文なので、一般の方には興味外かもしれないが、江戸末期から明治初頭にかけての鹿沼市教育碑としては色々な面で欠かせないもの。ご覧になるには、こちらから見るのが手っ取り早いです。もちろん、Hpの方の公開データの鹿沼項目にも掲載されているのは当然です。小森雲石君碑
今回も、寒さにめげず鹿沼市の石仏巡りに出かける。その最初の目的は、2箇所にある碑文(墓碑銘)の手拓にあったのだが、1基目は寒さで水張りの水が凍ってしまい、残念ながら断念。仕方なく、今度は下南摩町の神社境内にある場所へ行ったが、こちらも同様で加えて風が吹き出してくる。それでも、まあ何とかなるかと一枚目の画仙紙を取り出して水張りを始めたが、すぐに風に煽られて凧揚げの凧の足のように途中から切れて飛んでいく。特にこの碑は、草書体で刻まれているので手拓しないと話にならない。例えばその最初の題額にしても「安遠伎夜須多賀翁能碑」(あおきやすたかのひ)とある始末である。そして撰文・書家が明治の神道を推進した本居豊穎(本居宣長の曾孫)とあらば、やはり拓本が欲しくなる。飛んでいった画仙紙を回収してから、境内に止めた車の中で風の様子見。本日の手拓を諦めたのは、それから暫くしてからのことだった。
今日は、この2基の手拓を目的としてきたので行き場を失い、仕方なく次の碑のある場所へ「あそこなら南向きに立っているし、東側には風除けのお宅があると塩山町へ向かったが、所詮は手拓するには風が強すぎた。そしてそれ以上に、その碑を眺めるに、それを手拓するだけの価値があるかと篆額の何とも下手な刻字を眺めながら、書家には申し訳ないが「これはその価値な」しと手写だけで充分とする。その碑は、撰文・書家・篆額共に、南摩綱紀によるものだと言うのに、である。
その碑の北側にある大内廟堂前に並ぶ石仏を、時間があるのでのんびり調査。それが上に掲載した画像の一部である。ここにも、回国塔に刻まれた和歌があるので、次回にはそれを手拓しようと思いつつ今回は断念。何しろ、夕方になるにつれ風が強まっているのだから。そんなこんなで、今回は行き当たりばったりの石仏巡りとなり、過去に調査済みの再調査分を除けば、朝から夕方4時まで動いていたのに30基の調査用紙書き込みに終わってしまった。したがって前回から引き継ぐと30/525基となり、残るは495基である。それでも、今月は調査用紙が100枚を突破したので、次回も余裕で手拓作業を目的としているので、天候が悪ければ石仏巡りは休む事にしようと思っている。
土曜日の12日よりも、日曜日の13日の方が暖かくなるとの予報だが、日曜日は他に予定があるので寒さを覚悟で出かけたが、結果的には風も穏やかで今年初めての手拓も出来て、満足のいく1日でした。しかし、内容的には一日で24基と調査碑塔の数の少なさ。それもこれも、上記に掲載した写真のような場所で風もなく春を思わせる陽気となれば石仏を調査している時間よりも、のんびりその傍らに腰掛けて無為な時間を過ごすのも石仏巡り途上での楽しみとしてしまったからでしょう。早く、本当の春の暖かさが来ることを期待しつつ、これからももう少しの間、寒さを惜しむような気持ちで石仏巡りに出かけたいと思っている。
今回の累積調査数は24基だから前回の51基と合わせると75/600基となり、残るは525基。次回は25基の調査を目標にガンバロウ。
今年最初の石仏巡りに、昨日6日に栃木県鹿沼市へ出かけました。今回は、今年最初の石仏巡りということで昨年に撮影できなかった(太陽の光線の具合で)所へ行って、上に掲載したのを撮ってきました。これは、多分鹿沼市では唯一の「ねこ像」だと思います。当然ながら、養蚕に関わる信仰塔です。
それにしても今年は正月早々寒い日が続いていました。例年でしたら、4日には石仏巡りに出かけていたのですが、今年は余りの寒さに出かける勇気もなく、昨日の天候の具合を見て出かけた次第です。それだけに暖かく、シャツに厚手のセーターだけで一日を過ごすことが出来ました。「こうでなくっちゃ」というわけで、何となく遊びの石仏巡りのつもりがいつの間にか本気になってしまって、正月早々一日で51基もの石仏調査記録を取ってしまいました。もちろん、その中には過去に調査済みも多く含まれていましたが‥
今年の、鹿沼市の調査目標塔数は600基と予定していますので、今日一日だけで51/600基を消化した計算になります。なお次回からは、このブログにその鹿沼市の調査達成基数を記して、密やかなる?自分の励みにしようと考えています。
そうそう、それと正月から掲載していました「男体山」碑は今日から見られませんことご了解ください。予定では、正月中にレポートを仕上げるつもりでしたが、あれやこれやと次から次へと机上の整理しなければならないものが沢山あり、結局は集中して欠くことが出来ませんでした。その点では、今年も出だしからダメみたいです。今日から仕事、これからクライアント様の正月明け用ホームページを更新しなければなりません。仕事始めの朝から何となくやる気がなく、困ったものですがお客様は待っていてくれませんから、これを閉じて始めることにしましょう。それでは皆様、今年もよろしく!
今年の正月も、毎年のように元旦から昨年の石仏調査の整理であっというまに三が日が過ぎてしまいました。そして今日4日は、今年最初の石仏巡りに出かける予定でしたが、余りにもの寒さで中止しました。つくづくと年をとったことを実感です(^O^;)
それにしても今朝は寒かったですね。我が家の猫ちゃんの部屋の温度は4度という有様でした。昔なら、こんなに寒いなら日光の山は面白いと、いそいそとザックを担いで午前3時頃に起きて出かけてしまうのですが、今では布団から抜け出すことが出来ない体たらくです。
そんな訳で、多分今日もパソコンの前に座って石仏調査の資料整理で一日を過ごすことになるのでしょう。そこで今回は、栃木県での初発となる「男体山」碑となる鹿沼市千手山公園にある碑塔の清書がこの正月に終わりましたのでそれを掲載いたします。(1月6日で終了しました)
新年も平日も、相変わらず一年を通して同じ生活リズムで元日の今日を過ごしていますが、皆様にとりましては気持ちも新たな思いで新年をお迎えのことと拝察しております。本年も、相変わらぬご愛顧をお願い申し上げまして新年のご挨拶といたします。
さて、昨日お約束の「栃木県内の男体山碑塔」ご紹介をいたします。興味のあります方は、ご笑覧ください。(1月6日で終了しました)
ここで、昨年一年間の石仏巡りを振り返りますと、月平均では4.5回の回数で栃木県内に出かけることが出来ましたので、総回数は50回を超えました。その一年間の内の前半は、主に宇都宮市内の碑(いしぶみ)調査に重点を置き、後半の7月からは鹿沼市の石仏巡りに終始しました。その結果、鹿沼市の近世宝篋印塔の調査が終わりました。2011年が、腰痛を悪化させて思うような石仏巡りが出来なかっただけに、まあ満足できた一年だったと言えるでしょう。
そこで今年は、その引き続きとして鹿沼市の石造物調査を続けようと思っています。多分、あと600基くらい調査すれば、過去の再調査を含めて鹿沼市の石造物は一応の区切りがつけられそうです。しかし、以前と違って調査能力が劣ってしまい、一日で調査する碑塔の数が落ちてきていますので、どのくらいの期間が必要なのか見当がつきません。半年くらいで終わることを期待しているのですが‥。
以上、とりあえず新年のご挨拶を兼ねまして。