石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

栃木県栃木市の災害碑「大旱魃紀念」の石碑調査に行きました

2017年01月30日 | Weblog

2006年12月ぶりに、栃木市の高谷町万福寺前にある「大旱魃紀念」碑を見てきました。前回は石仏調査が主だったので、銘文は調査したものの拓本を採っていなかったのでその採択のためです。これは、掲載画像銘文にもあるように昭和15年(1940)の当地の旱魃について述べられたものです。当地区の旱魃被害については、あまり見かけない資料なのでその意味では貴重なものでしょう。と云いながら、墨入れを終えてからその画像を写真にとることは滅多にないため、この写真を撮り終えたら気分良くなり、全景写真も撮影したつもりになってしまい、帰宅してから写真を見たら全景写真が無いことに気づくというトンマなことをしてしまった。これも、もう一度当地へ来い。という思し召しかと諦めて、昔に撮ったはずの写真を探し出すことにしましょう。そうそう、この碑の建立紀念は碑陰にあり、そこには「皇紀2千六百年五月建立」とある。これって、おかしな話です。災害にあった時と同じではないか、と。従って、実際にこの碑が建立されたのは、早くても昭和15年五月以降の旱魃から逃れた後ででなければならない筈です。
それにしても、昨日はまさに「春遠からじ」といった陽気で、暖かく穏やかな天候でした。手拓が終わってからは、私の大好きな?、栃木市内の寺院巡りをしましたが相変わらず思うような成果が上がらず、剛を切らして大平町地区へ、これまた暫くぶりに入りました。そして長年の願望だった「瀧山西谷墓表」を調査&手拓することが出来ました。今回はこの2基だけの調査で、まあ栃木市地区の成果としては上々と気分良く帰路に着くことが出来ました。そして今週から2月に入ります。2月は、私にとっては意外と調査成果の上がる月なので、「よし、今年もがんばるぞ」と、年甲斐も無く張り切っています。尤も、その前に佐野市田沼地区の最後まで残った未調査2基を仕上げねばと思っているところですが‥。

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栃木県内江戸前期迄の庚申塔調査報告書、最終第三版が完成!

2017年01月24日 | Weblog


上の画像が、B5判サイズの表紙で、下が本文中の栃木県平成合併前の市町村別当該庚申塔の出現数地図です。こうしてみると、栃木県の庚申塔の初期の姿がみえてきますね。なお今回の報告書も年代順画像とそのリストに終始した内容で、庚申塔の知ったかぶり内容は掲載していません。

今回の「栃木県江戸前期迄の庚申塔調査報告書」は、過去に二度作成していたのだが、田沼町の調査にて記録漏れがみつかってから改訂版を出さなければと思いつつ、ついつい画像追加とリスト順位の入れ替えが面倒なために躊躇していた。しかし、いつかは第三版を!と思っていたので、この1月という期間を利用して作業に取り掛かり、ようやく完成した。それにしても、1基の画像とリストを追加する作業の煩わしさには手こずりました。終了してから年代順の画像入れ違いを見直せば、予想通りにダブっていたり、順番が間違っていたりと大変でした。
今度は、その印刷作業になるが、今度は印刷時の帳合い間違えに恐々としながら進めることになる。何しろ、印刷から製本まで全てが自分一人で行うのでまた大変。いつになったら出来上がるのか、今は全く見通しが立たない。贈呈したい方も、庚申塔調査報告書だけに沢山いるので、多分印刷等に要する時間に呆れて今回も数部のみになるのではないかと苦笑している。
それにしても、ウン十年かけて調査した栃木県内の江戸前期までの庚申塔、その数が偶然とは言え299基とは変な意味で感心している。もう1基探そうとも思ったが、今は石仏巡りは中断しているのと思い当たる探索場所が思い浮かばないので、いかにも私らしい数字ではないかと笑っている。ぜひ、どこかの誰かさんが、300基目となる江戸前期迄の庚申塔を探し出して、私の鼻先で笑ってくれることを期待している。

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昨日掲載した「大正戦役紀念碑」の碑陰銘文

2017年01月22日 | Weblog

上に掲載したのが、昨日掲載した画像碑陰にある銘文です。この戦役に従軍した32名の名が銘文下部に記されていたので、それも記録として残しておいた方が良いだろうと考えて掲載しました。今夜は、この作成した銘文清書をもう一度拓本を見ながら最終校正です。多分、どこかに必ず修正したい文字等が出てくるだろうと思っています。
それと、今日でようやく「栃木県江戸前期迄の庚申塔」の第三版印刷原稿が完成しました。前回より1基増えて、総数で299基という何とも私らしい微妙な数ですが、その1基を追加する作業の面倒さに苦労しました。もう、江戸前期迄の庚申塔は、新たに出てきても追加作業はしたくないですね。

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今年最初の石碑御紹介は田沼町の大正戦役(今は第一次大戦という)紀念碑でした。

2017年01月21日 | Weblog

今年最初の石碑巡りは1月09日で、田沼町飛駒地区の駒形神社本殿西側に建立されている、ここに掲載の「大正戦役紀念碑」だ。この日は、朝は雨だったが天気予報では9時頃迄にはその雨も止んで穏やかな天候になる予定だった。しかし、現地へ着いてみたが雨は一向に止まず。仕方無しに、他の地区の神社を訪ねては石碑等の石造物調査もれがないか確認して歩く。だが、10時になるも雨は止まず。そして再びこの石碑の前に立ち、悩むこと暫し。眺めているうちに、その石碑の表どころか碑陰にある銘文も話にならぬほど汚れている。そこで、どうせ雨が降っているのなら碑面を綺麗にするには最適だと考えて、相変わらず掃除道具を車から持ってきて汚れ落し。持ってきた水では足らず、近くに流れている沢水からバケツで水を汲んできて、これでもかというほど碑面に水を掛けては又、碑面にこびりついたヌル等の汚れが落ちていない箇所を掃除してはまた水を掛け、特に銘文のある碑陰はこれ以上綺麗に出来ないほどの仕上がりにした。まもなく11時になろうとするのに、雨はそれでも止まず。しかしここまで綺麗にすると、このままにしてこの場を去るにはしのびず、雨が降っている中での拓本採りを初めて挑戦することにした。勿論、良い拓本など採れるはずもないのは百も承知である。それから2時間以上、次から次へと碑面に着く雨との戦いとなって、初めて拓本採りに挑戦した人のようなひどい拓本を仕上げることが出来た。それから今日まで、少しでも手隙な時間があれば、少しずつパソコンに取り込んだ拓本の修正作業を繰り返し、何とか調査書には掲載出来るまでの拓本に仕上げることが出来た。
さて、一般の方は「大正戦役」と言われても、今では何のことだか判らないようである。そして石碑を県内全域を対象としている私にしても、この大正時代の戦役記念碑に出会うことはメッタに無く、当然ながらその銘文中には「第一次世界大戦」なる文句は全く出てこない(第一次世界大戦という言葉は、第二次世界大戦と云う名称に対して作られた言葉なのでこの時代に使用されていないのは当然といえば当然なのだが)。勿論、当田沼町においても、第一次世界大戦に関する石碑は唯一これだけである。私としては、この銘文中に「尼港事件」のことが少しだけでも触れているかと期待したが、それは無かったものの、まあ希少価値のある石碑として拓本が採れたと喜ぶ。それも雨の中での手拓作業にて。
それにしても、拓本を撮り終えた頃からようやく雨も上がり薄日さえ差してきた。急いで三脚を車まで取りに行って撮影したのがこの写真である。どうですか!ここまで綺麗に掃除した成果は(作業前は、この大きな文字さえ読めないほどでした)。碑陰は、この何倍も綺麗にしたので、機会があれば再び行って改めて拓本を採りたくなりました。

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