石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

今年も、あと数時間です。

2008年12月31日 | Weblog
 2008年の年末、休みが続いているので何とも暇で体を持て余している。そこで、27日に今年最後の石仏巡りを終えたばかりだが、余りの暇さに咋30日にふらりと小山市へ出かける。といっても、目的があり、それは佐野市の高椅氏より徳本上人の名号塔所在地をご教示頂いていたから、それを実見しに行きたくなっただけである。
 そしてその名号塔の前に立つと、何とも綺麗に磨かれているので「これは、高椅さんが拓本を取ったからだろう」と直感し、それではと私も手拓したくなる。しかし、朝一番で来てしまったので、花受けの水は凍っているほどの気温であり、霧吹き最中に凍ってしまうのではないかと不安になりながら、それでも根性で朝日が当たるのを幸いと物にする。これで、栃木県の徳本名号塔は9基になった。特に今回のは、場所が場所だけに教えて貰わなければまず見つからないものだけに、一人でに嬉しさがこみ上げてくる。
 さあ、今日の目的を終えたからといって、そのまま素直に帰宅する私ではない。1時間以上もガソリンを浪費して来たからには、このまま午後まで小山市に居座ることにし、それからは旧四号線沿い地区を徘徊する。そして3時半ごろまでせっせと石仏調査に精を出して、何とか今回も総数で47基を新たに実見することが出来た。それでも、途中では福良の福城寺さんへ立ち寄って、小山市で最も古い寛文銘の廻國塔を手拓(手拓したのは住職さんに差し上げてしまったが)したりして遊んでの事である。

さてこの一年を、今日の大晦日の暇な時間に調べてみたら、この一年間で実見した碑塔の総数は、ナント何と2,194基を数えることが出来た。この数は、近年にない多さである。その最大の要因が、昨年までで栃木県内の主な庚申塔は調査してしまったので、この2008年は今まで実見していながら面倒で調査記録を付けなかった各地の碑塔を丁寧に記録したからだろうと思う。この調子で4〜5年継続できれば、80〜90年代に好い加減な調査しかしなかった碑塔類全てを再調査することが出来るのではないかと、捕らぬ狸の皮算用をしてしまう。

いずれにしても、今年の石造物巡りは終わりよければ全て良しの諺通りに、満面の表情で締めくくることが出来た一年でした。
それでは、この一年間くだらぬこのブログに訪れてくれました皆様に、良いお年が来ますよう願って、終わりとします。
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12月27日は今年最後の石仏巡りです

2008年12月28日 | Weblog
 2008年12月27日は、今年最後の石仏巡りとして、佐野市在住の高橋氏と山口氏の三人で、栃木県田沼町(現・佐野市)の御神楽地区にある鏡岩・庚申山を登ってきました。この鏡岩へは、過去に途中まで登っていたが、今回は山頂まで登るのを第一として訪ねました。というのも、この山へは地元の方でも三十年以上も前から誰も登らなくなってしまった山で(それは偏に獸が出現するからで、過去に登ったときもいつ熊さんと遭遇してもおかしくない状態だったので、私にしては珍しく途中で止めました)、案の定、登り口で車を置かせて頂いた地元の方に、「本当に気を付けていって下さい」と、不安そうな顔をされてしまいました。もっとも、今回はその為に一人ではなく複数人数で入山したのだが。
 そしてその道は、本来なら地元の方の案内無しでは少なからず無理な山(地元の方でも中年以下の方は登ったことが無いので道は知らない)だが、過去にその道を苦労して探していた私がいるため、今回は途中までは何のトラブルもなく順調に進む。しかし、それから先はさあ大変。何しろ道がない!。そこで、山の中に出てくる小さな「庚申」と刻まれた川原石を探して登ることになる。そして探せば、その「庚申」と刻まれた小石の何と多いこと。それこそ、手のひらに乗るような小さな石まで、拾い上げて見てみると文字が刻まれている有様。そんな庚申石に導かれるように、急な斜面を木につかまりながら登っていく。そして約45分程の山登りで山頂直下の鏡岩に到着。確かにそこには、昔の子供達はここまで登ってこの鏡岩の斜面を滑り台替わりにして遊んだという程のツルツルの大岩が崖下に斜めにある。しかし、そこを滑ったのでは、そのまま崖下へ転がり落ちそうで、とてもではないが真似をする気はない。もっとも、その頃の子供にとっては、それが最高のスリルw味わえる遊びだったのだろうが。
 さて、ここへ来るまでにはどれほどの「庚申」と記された川原石を見てきただろう。その數に驚きつつ登った鏡岩周辺には、それを上回る数の「庚申」塔(塔と言うには誤解を招きかねないような小石がほとんどだが、それでもそこに「庚申」の文字があるのだから、庚申塔には間違いないだろう)が周辺に散乱している。そしてその中央に台座(交名付き)の上に乗った「天臼(ママ)女尊・猿田彦尊」と二行書きされた上にそのにたいの尊像が陽刻されている四角柱がある。紀年銘は「嘉永五壬子二月吉日」とある。惜しむらくは、剥離が進んでいて、二尊像が判らない状態となっている。ここへ来るのが、余りにも遅きに失した次第である。そしてその周囲には四角柱の庚申塔が沢山あり、19基を記録する。その後は、散乱している小さな庚申塔を一箇所に纏めておこうと拾い集めていると、その中に「猿田彦命・天鈿女命」と刻まれた自然石を発見して大喜びしていると、今度は「「庚申猿田彦大神・天鈿女命」とある自然石も見つけて、喜びは倍加する。
 帰宅してから田沼町町史を見てみると、この鏡岩の庚申塔は25基が記されているだけで、川原石に刻まれた無数の庚申塔は全て抜けていることを知って、今更ながらに現地へ入る事の重要さを認識する。と共に、日本全国では庚申塔に興味を持っている方は沢山いるが、そんな方々にこの地の庚申塔風景を見せたら何というのだろうと、可笑しくなる。それこそ、それまでの庚申群の常識を根底から覆す事になるだろうと!。
 そして無事に下山後(なぜか、途中で道を間違えて一つ尾根違いを降りてしまい、登る以上に下山も苦労しました)、高椅氏が以前に見つけておいてくれた作原地区の碑塔群を訪ねる。そこには、暫くぶりに見る「千庚申塔」が、あった。そんなこんなで、昼食時間となったのは、午後も2時を過ぎてしまうと言う有様だったが、この一年を締めくくるに相応しい楽しくも私にとっては実り多い一日であった。
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2008年12月20日も小山市の石仏巡りです

2008年12月20日 | Weblog
 2008年12月20日(土)も、栃木県小山市の石仏巡りに出かけました。朝一番で、今回の目的地としては最も遠い中島地区の徳本上人名号塔を探しに行きましたが、結局見つからずに1時間ばかりを無駄にしてしまいました。それからは本来の石仏巡りに戻って、東山田・北飯田・萱橋・鉢形・向野・出井地区を、過去に調べた碑塔を含めて見て歩き、何とかそれらの地区を終了することが出来ました。それでも帰宅するには少し時間が余ったので、通る度に調べなければと思っていた扶桑地区道路沿いの碑塔も調べることが出来ました。
 それだけに、帰宅したら疲労がドッと出て夕方の散歩はパスすることにしました。それにしても、過去に巡っている場所が多いので、特に目新しい碑塔もなく途中で飽きそうになるのを我慢して、今回も何とか1基づつ丁寧に調査しました。やはり、先に良いところ取りをしてしまうとその後の調査に影響するようです。特に、庚申塔は既に見てしまっているので、今回もオッとするような庚申塔には1基も出会えませんでした。同様に、今回も寶篋印陀羅尼經の刻まれた寶篋印塔には1基も出会えませんでした。
 さて、いよいよ次回は今年最後の石仏巡りとなるのでしょうか?。年末年始は、小山市から離れようかとも思いますが、あと14〜5回も小山市へ通えば小山市の碑塔調査は一通り終わりそうなのでどうしようかと思案中です。
 なお、HPの方への画像紹介は明日以降になります。
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石造物データの一つを書き換えました

2008年12月18日 | Weblog
 HPの方の「栃木県の石造物データ」中の、重制石幢六地蔵塔を最新のものに書き換えました。合計で182基となっています。と言いつつ、こんなマイナーな碑塔に興味を示す方はいないでしょうが…。当然ながら、印刷等は出来ません事述べておきます。
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2008年12月13日も栃木県小山市の石仏巡りです

2008年12月14日 | Weblog
 2008年12月13日も、栃木県小山市へ行きました。現地8時半頃から始まり、小山市の高椅、延島、福良、中島、中河原地区の調査が今回で終了しました。特に今回は、いつもの私らしくなく、地域毎を見落としのないよう現地の方々に尋ねながら熱心に見て歩きましたので、余程のことがない限りそれらの地区の碑塔調査に訪れることはないでしょう。
今回のように、面白くもない碑塔を中心に地区を総ざらいすることが、本当の意味での石仏調査だとは思うのですが、それがなかなかに難しいのです。半分以上も土に埋もれている家畜塔を調べたからと言って、それがどれほどの価値があるのかを見いだせぬまま、淡々と1基づつ丁寧に調査することは時に空しさを覚えることがあるのも正直な思いですが、それらを黙々と重ねる中でこそ思わぬ碑塔に出会えます。今回にしてもその思いは強く感じ、はやりコツコツと1基づつの調査を為すからこそ、その中に先人の調査書で大きな間違いをしている物や調査漏れの思わぬ碑塔との出会いがあるからです。次回からもそれらを肝に銘じ、興味範囲の石仏巡りではなく、その地区に根を下ろした碑塔調査をしていきたいと思っているところです。そんな訳で、さあ次回はどの地区へ入りましょうか、と思案中です。特に今回は、筑波山麓を中心として見られる江戸前期の大日如来像と思われる物に出会えました。石文が不明だったのが残念ですが…。
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2008年12月6日も栃木県小山市の石仏巡りです

2008年12月08日 | Weblog
2008年師走の第一回目の石仏巡り、本来なら前回予定していた栃木県東北部への石仏巡りに行こうと思ったが、どうにも寒い一日となりそうなので中止。何しろ、東北部の寒風ときたら、その地に住んでいる人々が信じられないような痛さなのでさっさと方向転換である。そして前回に引き続いての小山市へと向かう。
 小山市は、これまでに何度も飛び飛びの地を気の向くままに調査していたので、多分ここへは来ているはずだと思いながらも、一時間以上も掛けて調査した碑塔類が、帰宅してから調べてみたら案の定、2007年2月にしっかりと調査していたものだった。何という、この昼間の活動時間の少ない時期に時間の無駄遣いをしたものだと、次回からは既に調査済みの箇所をメモして行くことにしようと思う。
 また、お昼頃からは北風が強くなり、その風の中で延島地区宝性寺さんのとんでもなく文字数の多い寶篋印塔へ取り付く。この頃では、こうした偈文書き取は誰かがやらなければならないと云う、変な脅迫感に囚われてしまったのか、書き写している台帳が風で吹き飛ばされそうな中で一文字づつ丁寧に拾う。そして感じるのは、小山市の寶篋印陀羅尼經塔に見える偈文は他の市町村に比べて長文が多い。嬉しいやら…、何とやらである。ここでも1時余りを使用してしまう。その後も、延島地区を中心に高椅地区までの碑塔探しとその調査に熱中して何とか一日で54基を調査できた。その中で、今回特に気に入ったものは馬頭観音文字塔の台座に陽刻されていた二頭の馬の姿。これには感激である。HPの方へもそのうち掲載しようと思っている。そこで、ここまで来たら次回も同じ小山市へ入って今回の地区を総ざらいしてしまおうと思っている。それは、今までの飛び飛びの調査地域から、一つの地域毎の調査変更である。
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