1月28日、昨日に続いて小山市の疑念庚申塔を確認のために出かける。その庚申塔は、阿弥陀如來立像だが、頭は欠けてなく、両手は欠損していて見た目にはお地蔵様のようにも感じられるが、その手の印相から阿弥陀如來とどうにか判るような酷いもの。だが、その背中には「延宝八年庚申十一月五日」と、延宝庚申年十一月の当たり日が記され、更に「申得惣結衆欽白」とある。その銘文「申得」の文字が「申待」の「待」という文字の読み違いかと確認しに行った訳だが、何度見ても私には「得」としか読めない。
帰宅後に、その文字で悩みながらも紀年銘が延宝庚申の当たり日であること、また「申」の文字があるところから、これを「庚申信仰」に基づく造塔と推定したが今ひとつ自信がない。そこで、春日部市の中山氏に電話して相談とあいなる。中山氏も、「申待」の読み違いではないかと疑われたが、その為に今日はその再確認のために行ったことを話し、それなら間違いなく庚申信仰による造塔だろうということになる。
じつは、この碑塔一基だけが、小山市・江戸前期迄の庚申塔を最終的に纏めるに当たり、その中に加えるか否かで悩んでいたのである。三猿姿がどこにも見当たらないのでその点でも悩みながら、中山氏と電話で話していて、やはりそれは延宝庚申塔として加えなければならないと、変に自信を持った。そして中山氏にも、ぜひ一度確認に行ってもらいたく、地図と写真をお送りした。
そんなこんなで、27日の石仏巡り報告HP掲載が遅れています。新年一月草々、バタバタと忙しい石仏巡りを繰り返してしまい、自分でもその調査した碑塔の詳細を整理し切れていない始末に苦笑しています。来月は、もう少しのんびり出来る石仏巡りにしたいものと考えています。
帰宅後に、その文字で悩みながらも紀年銘が延宝庚申の当たり日であること、また「申」の文字があるところから、これを「庚申信仰」に基づく造塔と推定したが今ひとつ自信がない。そこで、春日部市の中山氏に電話して相談とあいなる。中山氏も、「申待」の読み違いではないかと疑われたが、その為に今日はその再確認のために行ったことを話し、それなら間違いなく庚申信仰による造塔だろうということになる。
じつは、この碑塔一基だけが、小山市・江戸前期迄の庚申塔を最終的に纏めるに当たり、その中に加えるか否かで悩んでいたのである。三猿姿がどこにも見当たらないのでその点でも悩みながら、中山氏と電話で話していて、やはりそれは延宝庚申塔として加えなければならないと、変に自信を持った。そして中山氏にも、ぜひ一度確認に行ってもらいたく、地図と写真をお送りした。
そんなこんなで、27日の石仏巡り報告HP掲載が遅れています。新年一月草々、バタバタと忙しい石仏巡りを繰り返してしまい、自分でもその調査した碑塔の詳細を整理し切れていない始末に苦笑しています。来月は、もう少しのんびり出来る石仏巡りにしたいものと考えています。