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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

1月28日も小山市へ出かけました

2007年01月30日 | Weblog
1月28日、昨日に続いて小山市の疑念庚申塔を確認のために出かける。その庚申塔は、阿弥陀如來立像だが、頭は欠けてなく、両手は欠損していて見た目にはお地蔵様のようにも感じられるが、その手の印相から阿弥陀如來とどうにか判るような酷いもの。だが、その背中には「延宝八年庚申十一月五日」と、延宝庚申年十一月の当たり日が記され、更に「申得惣結衆欽白」とある。その銘文「申得」の文字が「申待」の「待」という文字の読み違いかと確認しに行った訳だが、何度見ても私には「得」としか読めない。
帰宅後に、その文字で悩みながらも紀年銘が延宝庚申の当たり日であること、また「申」の文字があるところから、これを「庚申信仰」に基づく造塔と推定したが今ひとつ自信がない。そこで、春日部市の中山氏に電話して相談とあいなる。中山氏も、「申待」の読み違いではないかと疑われたが、その為に今日はその再確認のために行ったことを話し、それなら間違いなく庚申信仰による造塔だろうということになる。
じつは、この碑塔一基だけが、小山市・江戸前期迄の庚申塔を最終的に纏めるに当たり、その中に加えるか否かで悩んでいたのである。三猿姿がどこにも見当たらないのでその点でも悩みながら、中山氏と電話で話していて、やはりそれは延宝庚申塔として加えなければならないと、変に自信を持った。そして中山氏にも、ぜひ一度確認に行ってもらいたく、地図と写真をお送りした。

そんなこんなで、27日の石仏巡り報告HP掲載が遅れています。新年一月草々、バタバタと忙しい石仏巡りを繰り返してしまい、自分でもその調査した碑塔の詳細を整理し切れていない始末に苦笑しています。来月は、もう少しのんびり出来る石仏巡りにしたいものと考えています。
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1月27日、小山市の石仏巡り

2007年01月27日 | Weblog
本日、1月27日も小山市へ石仏巡りに出かけました。今回も、紀年銘が不明な庚申塔を中心に確認して歩きましたが、成果は何もなくて全て不明は何度確認しても不明のままでした。1基位は、思わぬ紀年銘が出てくるかと期待していたのですが…。これで、小山市の紀年銘不明庚申塔は全て実見確認することが終わりました。
もちろん、その途中途中でまだ見ていない碑塔を見かければ立ち寄ったのは言うまでもありません。また、午後には前々から気になっていた「月記念仏」と、書籍にあったのを確認しに行きましたら、やはり私の予想していたとおり「日記念仏」塔でした。本日最大の嬉しい碑塔の確認です。
本日の最後は、南河内町に出ましたので本吉田地区の寛文阿弥陀像庚申塔を久しぶりに訪ねました。昔と同じ景色の中にあり、なぜか安心しました。
そしてついでだからと黄梅寺跡へ立ち寄り、亀田鵬斎が揮毫した碑文を拓本に取りたくて行ったが、風がけっこう強く吹いていて断念せざるを得ませんでした。そのまま帰宅するにはまだ時間があったので、隣の家のワンちゃんに吠え続けられながら同地にある素晴らしい宝篋印塔を写真に撮ったり、ついでだからと銘文を再確認のために筆記して時間をつぶしてから帰宅する。
帰宅すると、あきる野市の多田氏から「悠真」石仏月報が届いている。相変わらずの、写真が一杯の石仏巡り報告書に今夜は楽しめそうだ。
そして今悩んでいるのは、「小山市の江戸前期まで庚申塔」の改訂版をもうこれ以上は無いと断言して発行しようかどうかで、である。小山市の庚申塔は一応見終えた気分だが、小山市のどこかにまだ江戸前期迄に建立された庚申塔があるのではないかという疑念が、私の心の中で拭い去れないでいる。その疑念が残っている以上、改訂版の改訂版をまた作成するのはいやなので軽々に報告書を纏めるべきではないと考えている。が、今1月号の「石仏月報」は、既に印刷も終えて暮れから年始にかけて書籍を頂いた方々を中心に発送するばかり。その石仏月報に、小山市の庚申塔纏めを一緒に送ると書いてしまったので、同封しなければ失礼になるし…。ホント、どうしよう!
明日は日曜日、まあ、ゆっくり考えることにしましょう。
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1月20日の石仏巡り記掲載しました

2007年01月21日 | Weblog
少しだけですが、20日の石仏巡りで出会った碑塔を掲載しました。御笑覧下さい。どうもこの頃、掲載画像の数を手抜きしていますが、それはただ単に掲載が面倒なだけなのです。パソコンに向かっている時間が、雑用が多くて少ないからです。それも、暖かくなるにつれて増えていくことでしょう…。
なお、このHP上に掲載していました「栃木県の日記念仏塔」の詳細。転用されるかも知れぬと、よからぬ情報が入ってきましたので、しばらくの間閉鎖しました。本来、このようなことはキライなのですが、時々とんでもない”石仏研究家”とやらがいますので、既に時遅しの感も無きにしも…、それでも一応は防御したつもりです。もし、無断で使用した場合は厳重抗議しますこと、付け加えておきます。
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1月20日も小山市の石佛巡り!

2007年01月20日 | Weblog
本日1月20日は、又しても栃木県小山市の石佛調査に行きました。今日は、徹底して今までに紀年銘が判らない庚申塔の実見確認としました。その結果、私の独断で延宝八年塔とすべき青面金剛像を1基追加することにしました。
と言いつつ、やはり目の前に庚申塔以外の碑塔群があれば見逃すわけにいかなく、本日の調査数39基のうち、三分の二は庚申塔以外になってしまいました。その中には、大きな宝篋印陀羅尼経塔が1基あります。今年に入って3基目の宝篋印塔です。
ところで、今日の私の頭はどうかしていて、今日を1月19日だとばかり思っていました。その為、あきる野市の多田氏が19日に小山市の庚申塔調査に来ているというので、もしかしたら会えるかと彼氏の携帯電話に連絡。その後で、今日は1月20日で「多摩石佛の会」の新年会&総会日であることを思い出し、つい自分の間抜けさに大笑いしてしまいました。ついに、認知症の仲間入りか!
元に話しを戻して、小山市の紀年銘不明庚申塔調査も、あと数基になりました。出来れば次回の石佛調査で終了させたいと思っています。そうすれば、今度こそ自信を持って「小山市江戸前期迄の庚申塔」として冊子が纏められそうです。そして2月からは、小山市の庚申塔に追いかけられることなく、新たな碑塔調査へとのんびり入れそうです。

HPへの掲載は、明日以降にします。今夜は、今日の成果の清書書きに追われそうで嬉しい夜が過ごせそうです。それにしても今日は、暖かかった。春の訪れが今年は早そうである。昨年暮れの12月22日〜23日と、那須の石佛調査へ東京から出かけたモサがいました。寒いから、地元とはいえ、那須方面は行かずにいたのに…。私の見逃していた日記念仏塔の写真を送ってきてくれました。その場所は、過去に数回も家内と一緒に写真撮りを含めて行った所なのに、一体私はどこを見ていたのだろう…。ホント、恥ずかしい限りである。
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13日の小山市石仏巡りを掲載しました

2007年01月15日 | Weblog
数は相変わらず少ないのですが、13日の小山市石仏巡りを掲載しました。今まで誰も報告したことのない寛文9年銘庚申塔が載っています。御笑覧下さい。

それと、今年は早々と中山氏&戸向氏に会いました。お二人とも相変わらずの情熱と行動力に見習うところ大なるものがあります。

それにしても、昨年末に纏めたしまった「小山市の江戸前期庚申塔」報告書は、いったい何だったのでしょう。今年になって、新たな庚申塔を2基も見つけてしまうとは、少しばかり功を焦った感がなきにしもあらずです。それでも、数人の方に一覧表を送ってしまったのは事実。仕方がないから今月末にもその改訂版を印刷し再度送らなければならないと思っている。自分で自分の首を絞めてしまったようだ。
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1月13日の小山市石仏巡り

2007年01月14日 | Weblog
正月気分もすっかり抜けた昨日1月13日、栃木県小山市へ石仏巡りに出かけました。そして最初に訪れた網戸地区で、何と何と又しても一見して江戸前期の庚申塔と判る素晴らしい庚申塔に遭遇。こりゃ〜、今年はついている。と思いつつも、それは単なる小山市の石造物調査がまだまだ不十分な証と自戒する。
 嬉しさと共に銘文解読に入るが、詳細は手拓しない限り全文は無理である。しかし、時計はまだ9時前につき、霧吹きを使用してもその水分は今朝の冷やされた石面に触れるやたちまち凍り付いて話しにならないし、写真も西向きなために撮影できない。ヨシッ、今日はこの1基だけで成果は充分としてこの周辺をうろつき、詳細な調査は午後になるのを待とうと、一端その場を離れる。
※佐野市在住の高橋様、既に調査済みとは思いますが、網戸小学校から東へ思川岸へ行った道路角地に火の見櫓があり、そこにも半鐘がぶら下がっていました。実見済みと思い、写真も取りませんでしたが一応は念のため…。

 そしてその後は、この網戸地区の石造物を洩れなく調査しようとあちこち徘徊して午前の部は、網戸地区北端の藤塚・浅間神社で終える。この浅間神社には富士講による素晴らしい石塔が幾つも建立されていて、特にその中の「御頂上薬師瑠璃光如来」(※後日HPに掲載いたします)とある1基を温かい日差しを受けながら手拓する。
 昼食は、思川の土手に降りて汗をかくような日差しのなかで取り、もうそろそろ大丈夫と判断し、今朝最初の場所へ移動する。そして主銘文に些か手間取りながらも完読し、次は紀年銘に入る。そしてこれも「寛文九己酉暦霜月庚申日」と、無事に確認することが出来た。この時点で時計は1時を過ぎてしまった。しかし、このまま帰るにはもったいないと、帰路途中の中里地区の石造物調査を終わらせようと、以前に調べた碑塔を含めて再調査する。特に、遠中里公民館にある碑塔群中にある3基の板碑調査に多くの時間を割いたが、紀年銘が判らず仕舞に終わってしまった。その原因は、ついつい面倒なのと午後になって風が出てきたので手拓の手間を惜しんだためである。そんなこんなで、自宅に着いたのは4時半近くになっていた。

 早速、春日部市の中山氏に新たな寛文庚申塔発見の電話連絡。驚き、感謝されたのは言うまでもないが、もっとも喜んだのは「明日、戸向氏と小山から栃木、都賀町へ調査に行くことになっている」という、絶妙のタイミングであった。手紙では間に合わないので、早速、その庚申塔の所在地やらをファックスでお送りする。これを打ち込んでいる今当たり、恐らく大喜びで調査していることだろうと思うと可笑しくなる。
 ※あきる野市のT様、そんな訳で前回ご案内した延宝塔等に加え、今回の新しい寛文塔も明日にでも所在地などを郵送いたしますので、心待ちにしていて下さい。

今日の午後は、戸向・中山氏がどこをどううろついているのか判っているので、私もご両人に合流出来るだろうと出かけてみることにしよう。何しろ、戸向氏だけが見ている延宝塔があるのだから、その場所探しも予定に入っているという話しだったので…。
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遅ればせながら…

2007年01月08日 | Weblog
 遅ればせながら、どうにか4日に行った石仏巡り記をHPの方へ掲載できました。但し、今年初めてのHP作成にしては手抜きで数が少ないです。
 昨日7日、猛烈な強風が吹きすさぶ中にも関わらず、ついつい石仏巡りに出かけてしまいました。成果?、それはもう言うまでもなく散々な目に遭いました。写真を撮ろうとしても、後から意地悪な強風が背中を押すものだから、ついつい撮影を断念することしばしば。また、記録を取ろうにも私の場合はB5用紙に記入するので風であおられ、油断でもしようものならバインダーごと持って行かれてしまう有様です。究極は、車に戻ろうとドアを開けようとしても、風圧の力で開かない。どうにか開いたドア、今度はドアだけはずれて飛んでいってしまうのではないかと思われるほどの風である。
そして午後1時も過ぎると、北の空から真っ黒い雲が広がってきて氷雨が降り出してくる。流石の私も観念時である。それでも32基もの十九夜塔を筆頭に家畜塔や庚申塔に、帰宅してから頭を抱える難問観音塔などを調査出来たので、ここが潮時と早すぎるが帰宅することにした。
なお、この7日の石仏巡り内容は、4日の分と併せて2基ほど紹介してあります。
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今年最初の石仏巡りは小山市です。

2007年01月06日 | Weblog
今年初めての石仏巡り、予定通りに絶好の天候の元に栃木県小山市へ行って来ました。まず最初に訪れたのは、昨年に佐野市在住の高橋氏より教わっていた小薬地区の瑠璃堂。ご教示の通り、いきなりの青面金剛塔三基を初めとして6基をget!!。ついでに、まだ訪れていなかった隣の大本地区岡坪に入る。適当に内を徘徊していると、内の十字路角地に碑塔群発見。そしてその碑塔群で最初に目に入ったのが、非常に珍しい如意輪観音の梵字真言塔。明和六紀年銘の「十九夜念佛」塔で、「オンハンドマシンダマニジンバラウン」とある。
 今年のお年玉頂戴!と言うわけで、早速その真言梵字を手拓する。そこには、ブロックで出来た小屋があり、その中にも沢山の碑塔が集められている。興味半分で覗くと、その一番奥に何と、何と、日光型庚申塔があるではないか!。驚きと共に、正にこれこそ新年早々最大の「お年玉」である。しかし、その庚申塔を調査するには表に出さねば話しにならぬ。新年早々、の中の十字路で「こそ泥」見たいな真似は出来ないなと、流石の私も迷っていると、早速に近くの方が何をしているのかと私の様子を伺いに来る。私としては、これを密かに待っていたのである。事情を説明して、その庚申塔を表に出す了解を求めると、すんなりオーケーどころか、手伝ってくれることになる。幸か不幸か、その庚申塔は二つに折れているので、それほどの苦労もなく無事にご出座となる。私としてはもう嬉しくて、早速その庚申塔の精査を始めると、「なんで、そんなに真剣に調べるのか」というので、その庚申塔の重要さを説明すると、「俺等のにそんな物があったなんて誰も知らない」となる。そして近くの方々を携帯電話で次々に呼びだし、たちまちのうちにその場所はの人々で一杯になる。当然ながら、ワウワイガヤガヤと賑やかになり、新年挨拶に始まって民の新年会会場の体をなし、その庚申塔の話しで持ちきりとなる。当然ながら、私はその方々に、この庚申塔の元々の所在場所を聞いたりして必要な情報は全て集めてしまう。
 さて、肝心な庚申塔、それはどう見ても延宝年間を下ることはない。早速、碑面にある石文個所を手拓するもそこには造立趣旨の文字しか出てこず、私の求めている紀年銘は見当たらない。いずれにせよ、この庚申塔は当小山地区では非常に珍しい拝侍二猿の日光型であるから、精査と共に拓本も必要となり、日月に始まり細部までの採寸等を終え、最後に下部にある「蓮」の形も手拓することにした。そして墨を入れると、その蓮の両側から文字が現れ、何とそれが蓮の陰刻を中心にして左右に振り分けた紀年銘だった。
 読めば、「延宝元天 癸丑十月吉日」となり、小山市の庚申塔としては第四番目に位置する物だった。それにしても、最下部の蓮の部分に紀年銘があるとは…。この場所から紀年銘が現れることは滅多にない例である。また、これは表に出しての精査以外には見つけることも確認することも出来ないだけに、の皆様のお陰と、集まった人々に厚く御礼申し上げた。調査が終了後は、目の前にある麻生氏宅に招かれてまた雑談に加わり、結局のところ今日の午前中は、この二個所で終わってしまった。※帰宅後、早速に春日部市の中山氏に電話連絡し、詳細な調査記録と所在地図をお送りしたのは言うまでもない。

 ここで昼になるも、予定では石仏調査移動の途中で調達するはずだった昼食が、そんな訳で私の手元にない。新年早々、お昼抜きの石仏調査もあるまいと、少し無駄な時間を使って昼飯を調達に遠くのコンビニまで走る。そしてついでに、コンビニの駐車場を借りて、何ともあっさりとした昼食時間としたが、心の中は嬉しさで満腹である。
 そして昼食後は、周辺を適当に巡って偶然に出会った碑塔を中心に調べ、午後も三時を過ぎた頃に、今年最初の石仏巡りを終えて心ウキウキと帰路につく。自宅に戻れば、「アラッ、今年最初の石仏巡りはずいぶん早いご帰宅のこと。夕方5時頃まで遊んでくるかと思っていた」と、家内が冷やかし半分に笑っている。
※その報告HPは、早くて明日以降になります。楽しみはゆっくり待って下さい。(^O~)
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今年も宜しくお願いいたします

2007年01月02日 | Weblog
2007年、明けましておめでとうございます。
本年も昨年同様につたない内容ですが、当HPを御笑覧下さいましたら幸甚です。

さて、正月も2日目が過ぎようとしていますが、何もせずに(パソコンにも触らず)過ごしていましたらすっかり飽きてしまいました。皆様は、このお正月いかがお過ごしなのでしょうか、と少しばかり気になりました。
私は、今日の午後は今年の初石仏巡りをどこにしようか、いつにしようかとつまらぬことを考えていまして、今約1時間ばかりの散歩を終えて帰ってきました。そして決めました。石仏初出陣は、天気さえ良ければ明後日の4日、そして場所は栃木県小山市にしようと。目的は、百堂念仏塔の実見と幾つかの青面金剛像を確認したくて、です。もちろん、出来れば宝篋印陀羅尼経塔にも出会えたらと、真言宗のお寺さんを2個所ばかり巡るつもりです。今年初めての石仏巡りですから、数よりも正月らしいのんびりした石仏巡りにしようとも思っています。

ところで、まだまだお正月気分に浸りつつも、少しは石仏のHPをご覧になりたい方に、下記のHPをお薦めいたします。
関西にお住いの島田様という、いつのまにかメール友達になりました方が、里山の遊び方々に出会った石仏のHPです。石仏を本職?にしている方ではないのですが、内容的にも非常に優れていますし写真も綺麗。ぜひ、お正月時間を持て余している方は、私の言葉につられてご覧下さい。石仏HPとして、私の最も好きなHPの一つです。もちろん、私のHPのリンク集の最初に登録してあります。アドレスは、下記からどうぞ!
   http://yama-aso2.web.infoseek.co.jp/tanbou/index.html

※島田さん、今年も楽しい山便りとつれづれに出会いました石仏の御報告を楽しみにしています。暮れには、書き込み下さいましてありがとうございます。
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