前回、石碑画像のみ掲載しました村野正徳先生碑の銘文清書が終わりましたので掲載しました。林学斎の撰文だけに、楽しく読むことが出来ました。読み下し中に、辞書を引いても判らない所があるかもしれませんが、それを約すと長くなってしまいますので省略しました。本当は、ここに語彙説明が付いているのですが、それをも掲載すれば良いのでしょうがそうすると全体の画面が小さくなってしまい、読むのに難儀しますので仕方ないと思っています。特に「恬熙偸安」の前後を含めての箇所は、漢文が始めての人には難儀するでしょうがお許し下さい。「哀毀過禮」は、辞書にあるかもしれません。なお、「稚然」の「稚」の文字はここへ書き記した面白い、文字形になています。決して、私の間違いではありませんので、念のために。
今週末は11月最後で日取りが悪く、仕事の関係で土・日と仕事があり石碑調査に出かけられません。来週は、暫くぶりに栃木県佐野市の田沼方面に行こうと思っています。それにしても、今週から本来の冬の寒さになりました。拓本採りにまた難儀する季節到来です。
篆額に「邑野正徳先生碑」とあるもので、江戸末期から明治中期まで地元烏山町で一生を教育に尽くした人です。三歳の時に誤って怪我し、左足が不自由になったが長兄の愛育によって勉学に励み、やがて烏山藩主の大久保公から嗣子でもないのに例外として扶持米を賜り屋敷まで与えられた篤志の人でした。この碑は明治27年に亡くなった後で、そんな彼の門弟達が拠金して建立したものです。篆額を揮毫したのは、藩主だった大久保忠順。そして撰文とその揮毫は、かつての江戸昌平校最後の大学頭となってその後に東照宮主典となった林昇です。もちろん、烏山の石碑に林学斎(昇)が撰文から揮毫までしたのはこれだけです。惜しむらくは、石工の腕が悪く特に篆額は彫が浅すぎなのが惜しまれます。いずれにしましても、烏山町の石碑として大切にしたいものです。※碑文は、流石に林昇だけに素晴らしい内容で、その学識の深さが十二分に読み取れて浅学な私などは手拓しながらも、その内容に自然と頬がゆるみました。その碑文内容も、後日に清書が終わったら掲載したいと思っています。
今回は、銘文のある石碑からは逸脱しますが、鮎を画かせたら右に出るものが無いと言われた小泉斐の風神と龍神像が刻まれた碑に出会いましたので御紹介しましょう。ただそれだけですが、有名な画家が石碑に画いたのですから面白いと思いまして‥。それもこれも、彼が鎮国社の宮司をしていましたのでむべなるかなと思います。面白いのは、栄利には無頓着といわれていますが、「宮司藤原朝臣光定」として「藤原朝臣」と記したのがこれまた面白いと思いました。同様に、大関増裕からは三代前の黒羽城主であった大関増儀(マスノリ)の書であることも興味あるところです。
大関増裕公の夫人、待子がこの石碑を建立するにあたり呼んだ和歌が碑陰に刻されています。また、その書が横山由清なので、栃木県では滅多に見られないその書も味わうことも出来ます。銘文は、待子の夫思いの事などが記されています。この銘文によれば、碑表の勝海舟揮毫は、彼が廣羣鶴の工房まで出向いて書丹したことが記されています。海舟の書丹石碑は滅多にお目にかかることは無いだけに(大雄寺の大関家墓域にある増裕の夫人、待子の墓碑も海舟の書丹です)、それだけでも眼福ものです。なお、読み下しは省略しましたが、ここへ掲載した和歌本体は、拓本から抜き出して掲載したものです。
いずれにしましても、これで今回の勝海舟揮毫の石碑紹介は終了です。次は、また面白いのを掲載したいと思っていますが、その拓本をパソコンに取り込むのに苦労しそうです。
前回に掲載した黒羽藩・大関増裕公の碑文を読んだものとその簡単な読み下し、既にどこかに掲載されているかと調べましたが、納得したものが得られぬまま(私とは、意味の取り方や読み方の違いに加えて、原文の読み違いが見られた)日時が過ぎましたので浅学を省みず上記に掲載しました。もし、誤りがありましたら御容赦下さい。特に、最後の辞銘にある「欣心相友」と私が読んだ箇所が、全ての既刊書では「傾心相友」と、「欣」としたものが「傾」となっています。その他、色々ありますが、それも私の浅学故とお笑い下さいますよう願っています。