7月28日も日光の庚申塔調査に行きました。でも、本当に暑かった一日でした。もしかして、庚申塔を眺めながらクラクラと目眩を起こして日射病で倒れてしまうのではないかと、本気で思うくらいでした。
それでも予定通り、安川町の磐裂神社(延宝8年塔)と花石町の花石神社(寛文9年塔)に清滝一丁目道路沿い(寛文8年・延宝8年二基)の三箇所、都合5基を全て調査できました。特に清滝一丁目の庚申塔手拓には参りました。水貼りの終わらぬうちから乾いてしまい、下部まで張り終えたときには上がパカパカに乾いてしまっていて、もう一度霧吹きをかけながらの手拓という、笑うに笑えない始末です。おまけに、墨は蒸発してしまって上手く紙に乗らない始末ですから、良い拓本など望むべくもなく、今回も石文が読めれば良しとする状態でした。それでも、これで日光市の江戸前期庚申塔はその90%が精査終了となりました。ちなみに今日までで、旧日光市の江戸前期庚申塔は寛永十一年塔から始まって貞享五年までで総数55基です。その内の3基は未調査です。特にその中の、三仏堂にある延宝六年銘の薬師如来石造は、輪王寺の許可なくしては調査が出来ないので悩んでいます。何しろ輪王寺さんですから、私のような馬の骨にはそうそう容易く調査許可を出してくれる訳もなく、困っているところです。残り2基は、日光市内から離れた地区にありますから今夏の旧盆休みにでも調査に行く予定です。そしてその前に、もう一度日光市街地で再調査の必要な庚申塔を次回から二回に分けて行おうと思っています。それは、ドジな採寸忘れや雨で拓本が取れなかった庚申塔に、交名の再確認です。加えて、これまで誰も読めない庚申塔の石文解読にも挑戦して、1基でも江戸前期の紀年銘が新たに読めればと、捕らぬ狸の皮算用をしています。
そして願わくば、私が日光に出張るときは快晴でなく、なにとぞ曇天でありますように、です。そうでないと、真夏の太陽をまともに受けた逆光では、北向きに立っている庚申塔の写真を撮りようがないからです。もちろん、炎天下での手拓作業も勘弁してもらいたいという自分勝手からです。
今回のHPへの画像掲載は、恐らくしない予定です。気分によりますが…。
それでも予定通り、安川町の磐裂神社(延宝8年塔)と花石町の花石神社(寛文9年塔)に清滝一丁目道路沿い(寛文8年・延宝8年二基)の三箇所、都合5基を全て調査できました。特に清滝一丁目の庚申塔手拓には参りました。水貼りの終わらぬうちから乾いてしまい、下部まで張り終えたときには上がパカパカに乾いてしまっていて、もう一度霧吹きをかけながらの手拓という、笑うに笑えない始末です。おまけに、墨は蒸発してしまって上手く紙に乗らない始末ですから、良い拓本など望むべくもなく、今回も石文が読めれば良しとする状態でした。それでも、これで日光市の江戸前期庚申塔はその90%が精査終了となりました。ちなみに今日までで、旧日光市の江戸前期庚申塔は寛永十一年塔から始まって貞享五年までで総数55基です。その内の3基は未調査です。特にその中の、三仏堂にある延宝六年銘の薬師如来石造は、輪王寺の許可なくしては調査が出来ないので悩んでいます。何しろ輪王寺さんですから、私のような馬の骨にはそうそう容易く調査許可を出してくれる訳もなく、困っているところです。残り2基は、日光市内から離れた地区にありますから今夏の旧盆休みにでも調査に行く予定です。そしてその前に、もう一度日光市街地で再調査の必要な庚申塔を次回から二回に分けて行おうと思っています。それは、ドジな採寸忘れや雨で拓本が取れなかった庚申塔に、交名の再確認です。加えて、これまで誰も読めない庚申塔の石文解読にも挑戦して、1基でも江戸前期の紀年銘が新たに読めればと、捕らぬ狸の皮算用をしています。
そして願わくば、私が日光に出張るときは快晴でなく、なにとぞ曇天でありますように、です。そうでないと、真夏の太陽をまともに受けた逆光では、北向きに立っている庚申塔の写真を撮りようがないからです。もちろん、炎天下での手拓作業も勘弁してもらいたいという自分勝手からです。
今回のHPへの画像掲載は、恐らくしない予定です。気分によりますが…。