石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

7月28日も日光市の庚申塔調査でした。

2007年07月30日 | Weblog
 7月28日も日光の庚申塔調査に行きました。でも、本当に暑かった一日でした。もしかして、庚申塔を眺めながらクラクラと目眩を起こして日射病で倒れてしまうのではないかと、本気で思うくらいでした。
 それでも予定通り、安川町の磐裂神社(延宝8年塔)と花石町の花石神社(寛文9年塔)に清滝一丁目道路沿い(寛文8年・延宝8年二基)の三箇所、都合5基を全て調査できました。特に清滝一丁目の庚申塔手拓には参りました。水貼りの終わらぬうちから乾いてしまい、下部まで張り終えたときには上がパカパカに乾いてしまっていて、もう一度霧吹きをかけながらの手拓という、笑うに笑えない始末です。おまけに、墨は蒸発してしまって上手く紙に乗らない始末ですから、良い拓本など望むべくもなく、今回も石文が読めれば良しとする状態でした。それでも、これで日光市の江戸前期庚申塔はその90%が精査終了となりました。ちなみに今日までで、旧日光市の江戸前期庚申塔は寛永十一年塔から始まって貞享五年までで総数55基です。その内の3基は未調査です。特にその中の、三仏堂にある延宝六年銘の薬師如来石造は、輪王寺の許可なくしては調査が出来ないので悩んでいます。何しろ輪王寺さんですから、私のような馬の骨にはそうそう容易く調査許可を出してくれる訳もなく、困っているところです。残り2基は、日光市内から離れた地区にありますから今夏の旧盆休みにでも調査に行く予定です。そしてその前に、もう一度日光市街地で再調査の必要な庚申塔を次回から二回に分けて行おうと思っています。それは、ドジな採寸忘れや雨で拓本が取れなかった庚申塔に、交名の再確認です。加えて、これまで誰も読めない庚申塔の石文解読にも挑戦して、1基でも江戸前期の紀年銘が新たに読めればと、捕らぬ狸の皮算用をしています。
 そして願わくば、私が日光に出張るときは快晴でなく、なにとぞ曇天でありますように、です。そうでないと、真夏の太陽をまともに受けた逆光では、北向きに立っている庚申塔の写真を撮りようがないからです。もちろん、炎天下での手拓作業も勘弁してもらいたいという自分勝手からです。
今回のHPへの画像掲載は、恐らくしない予定です。気分によりますが…。
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石造物調査の難しさと、その報告について考える。

2007年07月27日 | Weblog
 私が今のところ行っている「日光の庚申塔精査」を知っている人から、同じような「日光の庚申塔調査報告」のHPが他にあると、教えていただいた。それが、下記に記したURLである。興味のある方は、下記URLをコピーペーストして見てください。

http://www18.ocn.ne.jp/~yyaa/chiiki/sonotachiiki/niikkorist.html

 ※ここへご案内した「日光の庚申塔」HPは、決して誹謗中傷のために紹介したものではありませんこと、お断りいたしておきます。単に、私との石仏調査の方法の異を比較するために選びましただけです。当然ながら、それはそれで初めて日光の庚申塔を知る方にとっては参考になるHPであることを私は了解しています。

 早速私も、このHPを見たのだが、最初に出てきた言葉は「ウ〜ム」という複雑な思いであった。こんな程度の調査で、石造物を見たこと、調査したことにするなら何と気軽に出来ることやら、という思いと同時に、そんな内容ならわざわざ「日光の庚申塔」としてHPに掲載する必要もないと思うのだが、以外と一般の方にとっての石造物調査はこの程度で満足できるので、それで良いのかも知れない、と感じた。
 特に石文箇所に於いては、その殆どが「摩耗が進んでいて不読」となっているが、それは調査者の完全なる言い訳であって、少しでも石造物調査の方法をかじった人ならもう少し解読努力をすべきであって、現にその殆どは実際には読めるのだから、何ともイヤハヤといった思いである。
 そんなわけで、もうこの「日光の庚申塔」HPを見ただけで、この調査者の石造物に対する調査報告は全てがこの程度の内容と思ってしまい、その他の地区の庚申塔は覗く気にもならなくなった。つまり、私にとってこのHPは「単なる趣味としての石仏調査」の領域であって、「本気になって石仏を趣味」とする私とは考え方が大きく違うのである。
 特に、「参考文献では○○となっている」という表記をしているが、それほどに他人様の調べた記録は絶対的な信頼性がそこにあるのだろうか、と思う。「他の人は○○と読んだが、私は□□と判読した」と、例え一つでも良いから本気になって石文を「自分の目で確認し、読む」ことこそ、本当の調査なのではないだろうか。これではいつまで経っても先人の為した調査に追いつくこと叶わずで、ただ見ただけに終わるのではないだろうか。
 その辺が、石造物に対する思い入れの違いであって、ただ単に庚申塔なら庚申塔として見るのではなく、そこに立つ一つの庚申塔には多くの人々の思い入れがあって建立され、そして今日まで営々と継続されていることを思うと、その調査にはやはりそれなりの自覚と覚悟を持って眺め、そして建立された当時の姿を思い描きながら調べる必要があるのではないだろうか。そんな思いで調べる私だから、たった一基の庚申塔に二度三度ならず、何度でも気の済むまで私はそこへ通って眺めることにしている。従って、たった一行の銘文解読に四度五度と通うことはけっして珍しいことではなく、時には数年越しになる事もある。それでも私には自信が無く、未だに公表できずにいる石造物が沢山ある。
 今回進めている「日光の庚申塔」調査にしても同様で、その調査内容は恐らく今までで初めて行われた精査内容になると確信はしているが、その全容を公表する考えはない。それは、自分の「趣味としての調査」であり、自分だけが納得するために行っていることなので、機会ある毎に既に精査の終わった庚申塔も再度の見直しを繰り返していくから、終点がないのである。そしてつくづくと、調査を重ねるたびに自分の非学を嘆きつつ遅まきな勉強を孤独に強いられることになる。
※自分勝手な意見につき、反論などはご容赦下さい。
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7月21日の日光の庚申塔調査も雨!

2007年07月22日 | Weblog
朝起きると、宇都宮は曇り空。もしかして日光も、と期待して朝8時20分には浄光寺へ着いたが、そうそう甘い話しにならずに日光は雨だった。2週続けての雨の日光である。折角来たのだからと覚悟を決め、雨中の手拓を開始する。何しろこの浄光寺の庚申塔は、あと3基を手拓すれば終了するのだからと無理を承知で水貼りしたまではよいが全く乾かず、その後は何としても墨入れできる状態にはならない。そして待つこと3時間余、12時を過ぎても一向に画仙紙は濡れたままである。その間、少しばかり雨が止んだ時間もあったので、それらの庚申塔を記録用紙に記入したり、前回に写真が撮れなかった庚申塔の幾つかを撮影するも、何としても暇である。
 業を煮やして、12時半から無理に墨入れを開始する。そんなわけで、今回の手拓は全くの銘文解読用の拓本になってしまったが、これも今日のような雨中の手拓では良しとしよう。そして画仙紙を取り外すときに、余りの水分の多さで用紙は重く、一人ではがしたために大きな物は二つに破けてしまう。
 そんなこんなで、浄光寺を撤収したのは午後1時をとうに過ぎていた。もちろん、昼食はまだ。まずは昼食を取るために近くのストーンパーク駐車場へ向かう。このごろから雨足はまた強くなり、仕方なく車中での昼食となる。そしてせっかくここにいるのだからと、車を止めた脇に聳えている貞享年間と元禄年間の日光型庚申塔の掃除を行い、次の調査に備える。もちろん、手拓出来るような状態ではないので拓本取りは諦め、今度は次回のための碑塔掃除に他の庚申塔を訪ねようかとも考えたが、今日の所はこれで充分と時計はまだ3時にならないが早めの帰宅として日光を離れる。
 帰宅してから、浄光寺の文政年間の庚申塔、裏面にあった交名の記録忘れに気づく。もっとも、それを為すには狭い空間に入らなければならないので泥だらけになるのを覚悟しなければならず、少しばかり躊躇っていたために忘れてしまったのだが…。
 そんな訳で、次回も浄光寺から再度の追加調査となるだろう。そして磐裂神社や掃除したストーンパーク、清滝の庚申塔へと進む予定である。
※前回の石仏巡り写真をHPの方へ掲載しなかったので、今回は浄光寺の全12基を写真だけでご案内しようと思っていますが、それは今週中頃になるでしょう、タブン!
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7月16日も日光の庚申塔調査

2007年07月19日 | Weblog
 7月14日・15日と雨続きだったので、16日に日光へ満を期して行きました。今回は、虚空蔵堂に次いで大変な、念願の浄光寺です。8時少し過ぎに到着し、ご住職に特別の許可を頂いて、碑塔の掃除やら苔除去の許可を頂くことが出来ました。お陰で、今まで中途半端な銘文解読に終わっていたものも、今回は微に入り細にわたる調査が出来ました。勿論、拓本取りの許可も頂いたので庚申塔は一基漏らさず手拓することにしました。
 まずは、境内にある寛永十四年銘から開始。この庚申塔は、昔は本堂寄りの一角にシャクヤクと一緒にあって非常に調査のしにくかった灯篭型。今は、何の苦もなく写真も撮れるし銘文も気の済むまま読むことが出来るが、拓本まで取る勇気はなかったものだけに、まさに朝一番からルンルン気分である。しかし、9時半頃から小雨が降りだして止む気配もないまま、遂に調査を諦めた午後5時半まで、雨の中の手拓となりました。
 水貼りした紙面は全く乾かず、墨入れが何とか出来るようになるまで1時間以上の待ち時間。仕方なく、浄光寺門前の庚申塔11基中8基を一度に水貼りして時間待ちとしたので、それはそれは壮観な光景でした。雨と言うこともあり、観光客が殆ど来なかったので邪魔されることもなく幸いでしたが、庚申塔に興味がある方が偶然目にしたなら、思わぬ所で銘文が完読出来るとして驚喜しただろうと思います。
 門前に住む方の話に依れば、横浜の梶川氏が以前来て、熱心に銘文を調べていたそうですが、恐らく完全には読み切っていないだろうと思うと、可哀相に、また申し訳ない気持ちにもなりました。いずれにしても、これまでこの浄光寺の庚申塔は多くの図書に書かれていますが、その多くに誤りがあります。それもこれも、私のように特別の許可を頂いて精査出来ない事情があったので、庚申懇話会の「庚申」誌上に発表された内容を孫引きする以外に方法がなかったからです。そしてそれ以後、誰も新たに銘文解読に挑戦した人がいないことに驚いています。勿論、「日光の石造美術品」誌にも多くの誤りがあります。
 いずれにしても、一日では浄光寺にある12基の庚申塔調査は、一日では無理。私が16日に完了したのは6基のみで、手拓だけ終了したのが3基、全く未調査が3基という有様ですが、次回には残り全てを完了したいと思っています。また、日光で唯一の板碑(嘉元元年二月日銘・弥陀三尊種子)も、住職さんの話では特別に拓本を取らせてもらえそうで嬉しい限りです。何しろ、この日光唯一の板碑は、見るだけでも良いからと長年考えていただけに、バンバンザイといったところです。
 以上、今回も雨中の馬鹿げた庚申塔調査の話しです。それにしても、昼食も浄光寺門前で手拓した庚申塔を見張りながらの立ち食いでした。また、「身体を濡らしても拓本用紙は濡らすな!」というものを実感した一日でした。そして次回は、勿論浄光寺の続きから開始です。それではまた!
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遅ればせながら7日の画像を掲載しました。

2007年07月13日 | Weblog
 気がつけば、明日は土曜日で3連休の開始です。そこで慌てて去る7日に行った日光の庚申塔調査画像を只今掲載しました。今回は、全体像を見ていただくだけで、その詳細はただ面倒だと一切省略です。また、掲載した画像の多くは、手拓した状態の写真と元画像との合成写真となっていますが、それは石文が少しでも読めるように工夫した結果です。従って、本来はこのHPへ掲載する画像ではなく、文書配布用の画像ですので、碑面にイタズラしたのではないかと勘ぐられる恐れがありますが、けっしてそうではありませんこと、お断りしておきます。
※寛永だ、慶安だ、万治だ承応だと、江戸初期の紀年銘庚申塔を見続けていると、延宝年間の庚申塔が、「何だ、延宝塔か」と、つい思ってしまった今回の調査でした。それが日光にある庚申塔の恐ろしさで、ついつい精査を怠って、これまでは何度見ても「観ていなかった」ことに反省し、意を決して昨秋からもう一度初心に戻っての日光・庚申塔の調査です。これからも、気の遠くなる調査に進みますが、難問も目前に控えていますので、それをどう克服するか悩んでいます。日光という、特殊な地区にある庚申塔だけに…。
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7月7日も、日光の庚申塔調査!

2007年07月08日 | Weblog
 気づけば、今日は七夕。しかも私の石仏調査簿番号では、頭が070707となるゾロ目の番号となり、何となく嬉しくなる。さて今日は、日光の中心ととも言うべき「神橋」を中心に調査する事にして、市営駐車場へ車を止める。予備の水を持ち、重たくなった手拓道具一式を抱えてまずは上鉢石町の磐裂神社。じっくりと腰を下ろして丁寧に調査開始。慶安三年塔は、特に交名を中心にして手拓する。ここの交名はお陰で完読する事が出来た。次に寛文十一年銘塔に入る。ここにも、慶安塔と同じく「汝等所行是菩薩道」で始まる偈文が記されているが、次の「漸漸修學悉當成佛」のところの「覺」のところがここでは「學」になっている。もう少しで間違えるところだった。ここの交名は三分の二ほどしか解読できないが、まあ良しとしよう。次に貞享四年銘塔の調査。ここでも交名を含めて順調に調査は進んで、まずは一休み。その一休みがいけなかった。うっかりして、この塔の日輪と種子の採寸を忘れてしまった。それに気づかぬまま、既に何回も調査してある隣の元禄十一年塔や昭和庚申年塔を又しても書き写して、終わった頃には12時近くになっていた。そこでお昼になったことと手拓した用紙が溜まってしまったので、一度駐車場へ戻ることにする。一基の日輪、種子の採寸が忘れていることも気づかずに…。
 朝8時半から12時まで、途中一度の休み以外は調査に熱中していたので流石に疲れた。駐車場の片隅で、大休止を兼ねた食事とする。----疲れすぎて食欲進まず、少し横になる----

 午後から、いよいよ最も人目に付く場所である神橋北側道路沿いの寛永十八年塔の調査に入る。これは、全体を手拓したかったが余りにも目立つ場所故に諦め、石文部分だけにする。墨入れ出来るまでの時間をイライラしながら過ごして、早々に終了。
 今日の最後の場所は、あの見るだけで充分な気分になる何とも汚い庚申塔の待つ四本龍寺へ急ぐ。何しろ今日は、既に四基の庚申塔精査が終えているので、気分は最高。早速、まずは何あれ碑塔の掃除から始まる。執拗な苔に悩まされながら、最初の二基は何とか手拓出来る状態になる。画仙紙を水張り終え、墨入れを待つ間に、残る二基の庚申塔全体に絡みついている樹木の除去から始めて周囲の草むしりまでする。そんなこんなで、ここにある四基の庚申塔掃除だけで2時間近く費やしてしまう。だんだん空模様も怪しくなり、周囲は薄暗くなってくるし、いつ雨が落ちてきてもおかしくない。その為に水貼りした画仙紙は少しも乾かず、少し焦ってくる。今日は、こんな事を予想して、偶然手に入れた湿拓用の油墨ではない、とんでもない目的使用外の特別に用意してきた、滅法水に強い墨を取り出して試しに叩いてみる。これは使える!。予想していた以上に、水に強いことが判り、いつもの小さなタンポに代えて、大きなタンポで力一杯叩き始める。既に時刻は午後4時を廻りだしたのと、雨が少し降り出したので、急ぎつつ益々リズミカルに力強く叩いて、何とか4時半に終了する事が出来た。しかし、万治2年塔は少し碑面の磨きが足りなかったようで不満足な手拓となって、交名が解読できない。この塔だけは、後日改めて碑面を磨いてから再手拓する事にして、雨傘をさして駐車場へ戻って帰宅する。勿論昨夜は、その手拓を眺めながら楽しい解読に過ごしたのは言うまでもない。
※今日の日曜日は、畑仕事に精を出しました。ジャガイモの収穫に数時間、スイカ畑などの草むしりに数時間。一日中曇り空でしたが、やはり大汗をかきました。今夜も、手拓した用紙を眺めてご機嫌な時間を過ごそうと思っています。
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あきる野市、T様へ

2007年07月01日 | Weblog
昨日、6月30日に中山氏と一緒に日光の庚申塔調査に行ってきました。最終確認とした寛永塔と、新たに二人で読んだ延寶元年塔を、HPの方へ掲載しました。御笑覧下さい。追っかけ、中山氏からも最新の栃木県庚申リストが届くことと思いますので、併せてご覧下さい。
なお、開くにはクリックするとパスワードを要求されますが、それは拙著月報の表紙に掲載してある電話番号の下4桁を打ち込んでください。それでも見られない場合はご連絡下さい。

なお、T様以外で上記に記した番号をご存じの方は、同様の方法で見られます。また、案内地図だけはだれでも見られるようにしました。個人宅のために、勝手に言っても見せてもらえませんので所在地明記です。
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