石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2014年04月26日も栃木県の喜連川町へ石碑調査に行きました

2014年04月27日 | Weblog

 今年初めてと言って良い位の、絶好の石仏巡り。昨夜までは、今日は石仏巡りに行かずに夏野菜用の畑仕事に精を出す予定だったが、朝食をとり終えてから「今日は風もなく絶好の石仏巡りだよ」という妻の声に促され、その気になって急いで出かける準備をする。そしてどこへ行こうかと悩むまでもなく、結局は前回に引き続いての栃木県喜連川町へと向かっていた。
 今日は、最初に街中にある真言宗・慈光寺さんを訪問。ここには、明治十九年に建立された梅園秋元翁の碑があるので、その調査開始。その碑陰に、暫くぶりに梅園春男の名を見てニンマリ(その意味は省略)。
 嫌らしい苔掃除に1時間ばかり費やし、半切3枚の手拓が終わったのは午後も1時になっていた。その後、境内にある石仏を調査し、続いて向かったのは街中かrら少し北へ行った浄土宗・専念寺さん。ここには、ここへ掲載した写真のように、その高さだけで322センチという馬鹿でかい碑がある。「逸見君遺徳碑」というやつで、昔に石仏巡りに来たとき以上に大きく見えるのは、出来ることなら手拓したいという魂胆があってのことだろうと苦笑する。そして完全に手拓を諦め、銘文を手写することにしたが、なかなかの達筆さでこれまた四苦八苦。また、境内の個人墓域にはもう1基の石碑がある。こちらは、何とか銘文だけなら手拓出来そうな大きさだが、その前にどうしようもなく汚れ苔が付いている碑全面をきれいにしなければならない。おそらく1時間では終わらないだろう。今日の調査は諦め、急いで本日最後の手拓作業となる旧弥五郎坂へと向かう。そこにある道路開鑿記念碑を、今日は何としても手拓したかったからである。前回に、手拓したくて来たときは風があって無理だったが、今日は「どうぞどうぞ、手拓してください」と言わんばかりの無風状態。ここの石碑は、前回に磨いておいたこともあり、半切画仙紙3枚の手拓を2時間で終わらすことが出来た。そして時間を見れば、既に4時半近くになっていた。道理で、体がクタクタ感になっていた訳である。朝からこの時間まで、休みなく石碑の前に立ち尽くしていたのだから…。
 それにしても、本当に最高の石仏日和でした。妻に感謝しつつ、夜はその手拓した拓本を眺めてご機嫌に過ごす。

コメント

2014年04月19日も栃木県喜連川町へ石碑調査です

2014年04月23日 | Weblog

 今回は、先週の手拓作業の続きとして龍光寺さんへ直行。なにしろ、今日も手拓は午前中が勝負とみているので急がねばと住職さんに挨拶もそこそこに早速手拓に取り組む。最初は、先週に碑陰の手拓を残したまま帰った、上記写真からである。それにしても、今日は朝からいやな風が吹いている。水張りさえままならぬ風に画仙紙が煽られてバタバタしている。そこで仕方なしと、画仙紙の長さを半分に裁断して水張りして素早く墨入れ。これで今日の予定の三基の内の1基が終了。相変わらず風があるので、ここで一休み方々、他の二基の手拓サイズを計測して画仙紙の用意等をしつつ、もう少し風の収まるのを待つことにする。そして10時近くになると空気が暖められたとみえて、風が幾分穏やかになる。「ソレッ!」とばかりに急いで水張りするのは文政十一年紀年銘の「文孝院殿義山勇公大禅定門」(所謂、梅千代君碑)。三面を手拓しなければならないので、大忙しである。チョッとした画仙紙の間から風が潜り込んで来るので、念には念を入れて、左右の端はマスキングテープでしっかりと固定する。この作業を三度繰り返して、何とか二基目が終了。と同時に、これで廣羣鶴刻字の3基が終了したことになる。
 ここで、早くもお昼近くになってしまったが、それではとのんびり食事をしていたら大変な目に遭うので、龍光寺さん最後の手拓碑となる、「玄徳院殿恭山懿公大禅定門」へと入る。これは明和四年の銘があるもので、ここへ来たときから是非とも手拓が欲しかったもの。丁寧に手拓したいが、やはりこの頃から風がまた強く吹くようになってきた。慎重に慎重に、且つ風の吹く休みを見つけながらの素早い水張り作業で何とか乗り切り、どうにか午後の2時半には全ての手拓作業を終えることが出来た。龍光寺さんで、手拓した半切画仙紙の数は全部で14枚。一箇所での手拓数としては暫くぶりの大豊作である。と、喜んでいられないのは、先週途中で諦めた「大草鴻堆先生之碑」の石碑。何しろ高さが340センチとあるので、上部の文字にいたっては望遠鏡がないと正確な文字形がわからない所か文字そのものも読めない始末。前回の言い加減な読みを元に、1行43文字×23行の升目原稿用紙を持参したので、その升目を間違いなく1字づつ埋めなくてはならない作業が待っている。撰文は亀田英、そして書は中島慶とあらば、その手写する作業はもう大変。こういう碑文こそ拓本が欲しいものだが、そう行かないところが憎い。住職さんの話では、今までに1人だけ足場を組んで手拓した方がいたそうである。私にはそこまでの根性はないので、仕方無しに碑面とニラメッコ。いつの日か、その全文を清書したものをお目にかけますが、多分2~3文字の写し間違いがあるだろうと覚悟している。その為には、本気になって読み下して意味を正確に把握しなければならず、またまたこれも私にとっては大変な作業である。
 そんなこんなで、結局は今日一日を龍光寺さんだけで過ごしてしまったことになる。庫裏に出向き、ここのところの二日間にわたるお邪魔を詫びつつ、お陰さまで納得の行く調査が出来た感謝の礼を述べて離れる。そして、とてつもなく遅い昼食をお円山公園へ行って取る。さて、次回からは5月のゴールデン連休の中となる。喜連川町に新たな石碑を求めて出かけるか、それともその手前の氏家町へ行こうか、はたまた佐野市や田沼町へ一度戻ろうかと思案中。いずれにしても、ここの所の石碑拓本がまたしても沢山溜まってしまった。それらを清書しなければならず、やはり連休があるとは言え、私には少なすぎる休日である。誰か、暇な方は「日」を下さい。といった現況である。

コメント

2014年04月12日は、栃木県喜連川町の龍光院(寺)さんの石碑調査でした

2014年04月15日 | Weblog

 今回から、宇都宮から見ると北東方面に位置する喜連川町(現・さくら市)へ入る。その最初の訪問地は、かつての喜連川藩主の菩提寺である臨済宗龍光院さん。特に、歴代足利藩主の墓域には沢山の碑文塔が存在する。調査および手拓のお願いを快諾していただき、まずは最も手拓作業の楽な、境内にある上記写真の碑から本日の作業開始。続いて、当地の名家である大草氏の碑文調査に入るが、その高さが340センチもある大きな碑。この碑文書体は、中島慶による書丹となっているので、書丹で記された銘文に興味ある私としては是非とも拓本が欲しかったもの。しかし、あまりにも大きすぎて本文のみでさえ最上段の文字列まで手が届かない。諦めるしかない。しかも、銘文書体は隷書で書かれているだけに、そんな文字形に興味のある者にとっては余計に手拓したいもの。今回は、ささっと銘文を読みいくつかの気になる箇所だけを手写しただけで、本気になって読むのは次回以降に繰り越す。そして本日のメインである喜連川公歴代墓地へ閂のある門を開けて入る。その墓域には、どれから先に手拓したら良いかと迷うほどの墓碑が並んでいる。どうせ、一日では終わるはずも無いと腹をくくって来ただけに、まずは手前にある廣羣鶴刻字から始める。1基目を終了して、早くも昼食時間。しかし、時間の経過とともに高原山から吹き降ろす北西の風がうなりをあげて吹いてくる。そこで、せめてもう1基とここは昼食抜きで手拓作業を継続。もちろん、廣羣鶴刻字の墓碑銘と決めて。戒名を入れて4面の手拓作業も、風の比較的当たらない、また風と同じ向きの西面の2面だけを採った段階で、あとはどうあがいても画仙紙さえ張ることも出来ない状態となる。時刻は午後の2時半。まだまだ帰宅するには早い時間ながら、本日の龍光院さんを諦めて後にする。
 途中、荒川沿いに咲く桜を愛でながら、土手で休息たかがた遅い昼食となる。そしてその後は、次回以降の喜連川石碑調査の下調べとして幾つかの神社等を覗きながら石碑の所在地調査をしてから宇都宮へ戻った。
 いずれにせよ、次回以降も喜連川方面の石碑調査となるだろう。

コメント