石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

江戸末期における栃木県南部の一大算術家の石碑御紹介

2015年03月31日 | Weblog

上原子盈(ウエハラ シエイ)は、今の栃木県小山市間々田町の人で、この人の教えによって江戸末期からの下野南部地方は一大算術の隆盛期を迎えた。その弟子達はまた各地に散らばって算術を広め、全国的にも算術の盛んな地として知られた。そんな弟子の一人に、栃木県栃木市大平町の太平山に遺徳碑が建立されている塚田宗川がいる。その上原子盈碑が龍昌寺さんに有ることを教えてくれたのは、小山市の教育委員会の方だった。しかし、それを訪ねて実際に調査するまでには多くの年月が経ってからで、やっと今になってそれを拓本に採り銘文を清書することが出来たので、ここへ御紹介した。私的には、小山市の石碑として実見したかった最大のものだっただけに、今はホット一安心し、また佐野市田沼町に石碑調査に余裕を持って出かけられることになる。
ここに、その銘文清書も掲載しようと準備だけはしたのだが、こうして手拓画像を最初に掲載したところで、今更改めて私の銘文清書は必要ないほどハッキリ読めるので、それは止めておこう。所々に異体字があるので、或いは読みにくいとお思いになる方もいるかと、一文字だけ説明しておこう。それは3行目の中ほどにある「人」の前の文字で、それは「過」の異体字である。つまり。「過人」である。その他は、御発憤の程を‥。そうそう、この碑文を揮毫したのは、かの小山霞外である。念のため。
ところで田沼町の石碑調査だが、ここの所の調査が進んで残すは10基余りとなった。この調子で行けば、今年の夏までには終了するだろうと思っている。尤も、今頃になって昭和になって建立された石碑を調査すべきかで悩んでいる。一言で言えば、その内容はともかくとして、撰文内容が面白くないからである。それもこれも、漢文に毒されてしまったからかと、苦笑している。
今度の週末は、当地では桜が満開の予定。石碑巡りよりも、近くに出かけて桜鑑賞と雑木林の「山笑う」光景を楽しみたいと思っている。

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今回は、字體の一態毎の作字について記しましょう

2015年03月09日 | Weblog

2月から今日まで、石碑調査は3回で合計5基の石碑の拓本を取りましたが、それ以上に熱中したのは上記に掲載しましたような作字作業でした。勿論これまでにも何年にも渡って作字を繰り返していましたが、今回数えてみたらその作字文字数が7,000文字余になりましたので、この辺でひと段落としました。それと同時進行で、今までの調査した碑文文字を清書したのに、どうしても単純な文字打ち込み間違いやら作字した文字の配置間違いなどを繰り返していましたので、言い訳的に「0.3%の誤字(つまり千字で3文字の誤字)」は御容赦ください。としていましたが、調査した碑文の清書を繰り返すたびに胸のうちに悶悶とした気持ちが高ぶってしまいました。そこで、取りあえずは栃木県佐野市田沼町と栃木県栃木市の訳八十基ばかりの調査済み碑文を再度校正しなおしました。そしてその正確さを、今までの0.3から0.01まで高めるべく校正に校正を重ねてきました。
勿論、所詮は楷書体で記されている碑文文字をご覧のように明朝体で清書していますので、どうしても作字不可能な文字が出てきます、たとえば「木」篇の最後のハネ部分は、その数が多すぎて最初から降参です。(笑)
当然、膨大な数で出てくる異体字はその度に確認していますので、1文字を作字するに時間を費やし、中には1基の銘文を清書し終えるまでに毎夜寝る間も惜しんで向かうも1週間かかることもあります。それでも読めない異体字は、仕方なく全体の読み下しからその文字の意味を推測し、そしてその意味の文字に該当する文字探し、そして異体字探しと、本当に馬鹿なことをしています。尤も、私としてはそれがまた楽しい時間なので、これはもうどうしようもありません。
それにしてもこの頃になって、やっと恩師の言っていた「覚えたのを忘れては駄目ですよ」。と、いう意味がよく判るようになりました。こうして作字した7.000文字のその殆どがどこに置いてあるか、また既に作字済みかは判っているがそれもまもなく限界になりつつあり、苦笑している今日この頃です。
そんなこんなで、ここ1ヶ月ばかりは、調査してきた石碑の整理は全く出来ていなく、少しばかりあせっています。そして気がつけば、もう三月も半ばに入ろうとしています。そろそろまた、本格的に石碑調査に出かけては、その碑文の清書に取りかかりたいと思っています。当然。その前に未整理の碑文を何とかしなければなりませんが‥

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